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160211_0844_阿久遺跡(原村)

諏訪郡原村の中央自動車道原PA近くの丘陵地(地図)にある縄文時代前期の遺跡( Wikipedia )。高速道の工事に先立ち行われた発掘調査において、国内最古級の環状集石群(ストーンサークル)や多くの住居跡が見つかり注目を集めました。
現在、遺跡は盛土され中央道の下に保存されています。
(写真:諏訪郡原村の阿久遺跡=11日午前撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 原村デジタルミュージアム
  http://www.vill.hara.nagano.jp/www/photo/index.jsp
・ 縄文阿久友の会
  http://www.jomon-akuyu.com/

<参考資料> 阿久遺跡
八ヶ岳西南麓の丘陵、阿久川と大早川に挟まれた尾根上に立地する縄文時代前期を中心とした大規模な集落跡である。三期にわたり造りかえられているが、最後の時期には、中央に広場があり、その周囲に環状の集石群と土壙(どこう)がめぐり、環状の規模は径一二〇m、幅三〇mを計る。広場中央には立石、列石遺構がみられ大祭祀場と想定されている。また掘立柱施設(方形柱穴列)や住居跡も多数発見されており、従来の考古学的知見をくつがえすような新遺構の発見が相次ぎ「前期縄文時代観の転換」と評価された。
なお、本遺跡は、中央自動車道西宮線建設に先だって、昭和五〇~五三年に発掘が行われ、貴重な遺跡を後世に残すための保存運動がおこり、発見された遺構を埋めもどした上に、中央自動車道を通す方法で遺跡の保護を図った。
阿久尾根全域におよぶ五五六四〇.九七(※平方メートル)が昭和五四年七月、国史跡に指定された。
(文化庁・長野県教育委員会・原村教育委員会設置の案内板から・平成2年)

<参考資料> 阿久のムラと大祭祀場
160211_0843_阿久遺跡(原村)
阿久のムラと大祭祀場
160211_0908_w_阿久遺跡から望む八ヶ岳連峰(原村)
遺跡から望む八ヶ岳連峰
阿久遺跡は八ヶ岳西南麓遺跡群と呼ばれる遺跡の一つで、縄文時代前期を中心に、早期、中期、後期と平安時代後期にかけての複合遺跡です。
中央自動車道建設に伴い昭和50~53年にかけて行われた発掘調査により遺跡の重要性が確認され、中央道下に砂で埋めて保存されました。
阿久に縄文人が住み始めるのは約7千年前の前期の初めの頃になります。次第に住居は多くなり、中央に広場を持つ、環状に住居が廻るムラを形成しました。広場の外側には高床式の倉庫と考えられる柱の跡を発見しました。前期の中頃になると以前のムラより東側に場所を移して住居を建てるようになり、内側にはお墓と考えられる土壙が多く作られました。
約6千年前の前期後半になるとムラの中央の広場に長さ120cm、幅35cmの角柱状の石を立て、それを囲むように石を組んだ立石とそこから直線的に並ぶ列石が作られ、この施設をドーナツ状に取り巻くように土壙群と環状集石群が作られていきます。直径1~2m、深さ30cm程度の穴に石を積み上げ、そのまとまりが環状に廻る環状集石群の石の総数は10万個以上とも言われています。阿久のムラは居住の場から祭祀の場へと変遷していきました。
その後、さらに祭祀場の規模が大きく拡大し、住居は僅か2軒のみとなります。このうちの1軒は数回の建替えをした非常に大型の集会所的な住居で、阿久のムラは共同の祭祀場として使われるようになります。しかし、この時期を最後に前期の阿久のムラは役割を終え、縄文時代中期へと変わっていくのでした。
阿久遺跡はほぼ縄文時代前期を通して人々の生活の場で、居住の場から祭祀の場へと変遷していった過程と、前期の墓制や祭式など、社会の精神構造を知る事ができる遺跡として、全国的に例がなく、大変貴重な遺跡です。
(案内板から)





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160211_0806_安国寺門前の古戦場(茅野市)

160211_0933_丸井伊藤商店・宮川街歩きマップから(茅野市)
諏訪侵略図
(茅野市・丸井伊藤商店案内板)
茅野市宮川にある安国寺( Wikipedia )は、南北朝時代、足利尊氏が全国六十六ヶ国に一寺一塔を建立した寺院のひとつ。江戸時代中期の安永年間に移転し現在に至ります。その門前で、戦国時代、安国寺門前の古戦場(または宮川の戦い)とよばれる戦い(地図)が行われました。
天文11年(1542)7月、武田晴信(信玄)と高遠頼継( Wikipedia )連合軍の攻撃(参考:諏訪侵略図)を受けた諏訪惣領家の諏訪頼重( Wikipedia )は、降伏後に甲斐へ送られ、東光寺(山梨県甲府市)で自刃。諏訪惣領家の滅亡により、諏訪領は宮川を境に東が武田領、西は高遠領となります。しかし、諏訪惣領家の地位に拘る頼継は、同年9月、武田領に攻め込み諏訪を手中に入れようとします。頼継侵攻の知らせを受け出陣した武田軍との間で行われた戦闘が、この安国寺門前の戦い( Wikipedia )であり、激戦の末、頼継は敗走。諏訪領は武田家の統治下となりました。
頼継はその後も福与城の藤澤頼親や、小笠原長時の支援を受け、武田家への反抗を企てますが、天文14年(1545)4月、杖突峠を越え、高遠に押し寄せた武田軍を支えきれず城から逃走。後に武田家に従うことになりました。
(写真:安国寺門前の古戦場跡=11日午前撮影、640×480拡大可能)

<参考資料> 泰平山 安国禅寺の由来
延元三年(一三三八)に天下を平定し、征夷大将軍となった足利尊氏は当寺の名僧夢窓国師の勧めに後醍醐天皇はじめ元弘以来の戦乱によって死傷した人々の菩提を弔い、あわせて足利幕府の威信を示し民心をつかむため京都に天龍寺を建立した。その後興国六年二月(一三四五)にいたり幕府は光厳上皇に奏請して全国六十六ヶ国に一寺一塔を建立したのが安国寺である。信濃国の安国寺は、当時幕府の奉行人として活躍した諏訪円忠のはたらきによってこの地に建立された。古代から諏訪大明神の現人神として崇敬された大祝の居館の地である前宮に近く、千沢城下の門前には大町、小町が繁栄した中心地であった。然し度重なる宮川の氾濫と戦乱によってし大に衰微したが戦国時代にいたり諏訪を一時期支配した武田信玄の保護や諏訪氏中興の祖である諏訪満隣らの帰依によって寺は再建された。足利将軍家の御位牌十五体 諏訪家先祖一族の御位牌十八体、諏訪氏系図、天正の法度状、紺紙金泥の軸物などが納められており藩主代々の墓参と供養が行われた。江戸時代安永年中にいたり現在地に移転造立され、宗旨は臨済宗妙心寺派となり「こがい」といった部落もいつしか安国寺村と呼ばれるようになった。

諏訪郡百番霊場中十九番札所御詠歌
 泰平の御代ありがたき安国寺
 はこぶ歩みは後の世のため

(安国寺史友会設置の案内板から・平成3年)

<参考資料> 安国寺門前の古戦場
武田晴信(信玄)は天文十一年(一五四二)六月に諏訪を攻略し、妹むこの諏訪惣領家頼重を自刃させ滅亡させた後、宮川を境に東は武田が直轄とし、西は晴信とひそかに通じていた高遠頼継が領するところとなった。しかしあきたらない頼継は急に兵をあげて諏訪を一手におさめようとした。
晴信は直ちに五千の軍団を引きつれ、諏訪頼重の遺児虎王を擁して出動、九月二十五日に安国寺門前のこの辺一帯で両軍の大激戦があり、七百余人の戦死者を出して頼継は敗退したのである。
(安国寺史友会設置の案内板から・昭和49年)

<参考資料> 皇大神宮社
江戸時代の諏訪藩主手元絵図には、この社は「鎮守」と記されている。安国寺村の産土神であったことをうかがわせ、祭神は天照大神である。一書によれば諏訪明神、秋葉神、妙義神、三宝荒神、金比羅神、北野天満宮、愛宕神、水劔神など諸神を合祀したとあるが、境内には御鍬社と天満宮の石祠があり、元禄十六年(一七〇三年)の石燈籠二基が現存している。明治二十六年に拝殿が建設され、例祭は九月十七日であった。十月一日の甘酒祭は村中を楽しませ、子供たちによる火祭の場所でもあったが、戦後しばらくして廃絶した。
(安国寺史友会設置の案内板から・昭和54年)

<参考資料> 掘り出された石造物
昭和五十二年十一月安国寺橋の架替工事に関連して道路の中から掘り出した石塔九体である。
いつの時代に埋められたものかさだかではないが宮川の大洪水でしばしば堤防が欠壊した個所で昔から江戸道へ通ずる幹線道路がとおり石垣の根石の中に積み込まれていたものである。古いのは元禄十六年の念佛庚申供養塔 また宝永四年の伊勢講供養塔 そして享保三猿や天明元年、文化三年、文政七年のものは女講十七人で建てられている。
(安国寺史友会設置の案内板から)





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16_茅野市縄文ふるさと応援団(登録証)

16_茅野市縄文ふるさと応援団(緑)ロゴ
登録 NO. 890
縄文プロジェクト構想を策定し縄文を生かしたまちづくりを進める茅野市。 その茅野市の魅力や縄文を市内外のみなさんがブログなどで広くPRする制度が「茅野市ふるさと応援団」で、平成28年2月現在で約900人が登録されています。
今回、その「応援団」に管理人ひろさくも参加することとなりました。任期は平成28年2月1日から3年間(退会の申出がない場合は継続)です。
微力ではありますが、このブログを通じて、茅野市のPRができるように頑張りたいと思います。


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150919_1146_上原城諏訪氏館跡(茅野市)

150919_1145_上原城諏訪氏館跡・案内図(茅野市)
上原城案内図
茅野市の金毘羅山山頂と中腹にある諏訪惣領家の本拠(地図)。
天文11年(1542)、武田晴信(信玄)の信濃侵攻により上原城は落城。諏訪頼重( Wikipedia )は降伏し、後に板垣信方( Wikipedia )等が郡代として派遣され、信濃における武田氏の拠点となります。
しかし、天正10年(1582)、織田信長の甲州征伐( Wikipedia )により武田氏は滅亡し、その役割を終えました。
(写真:上原城諏訪氏居館跡=19日午前撮影、640×480拡大可能)


上原城跡
150919_1245_上原城跡(茅野市) 150919_1147_上原城跡(茅野市)
「上原城跡」の看板(左)右側ある登り口(右)
150919_1152_上原城跡(茅野市) 150919_1201_上原城跡(茅野市)
急な坂道を歩いて山頂へ
150919_1225_上原城跡(茅野市) 150919_1211_上原城跡(茅野市)
金毘羅神社 境内にある湧水
150919_1207_上原城跡(茅野市) 150919_1210_上原城跡(茅野市)
二の郭から主郭へ 振り返ると「物見岩」
150919_1208_w_上原城跡(茅野市)
主郭全景

<参考資料>
上原城諏訪氏館跡(字板垣平)の案内
このクルマ道を登れば、長野県指定諏訪氏城跡「上原城」に行きます。
右手の石碑から南方平坦地一帯は室町時代後期からの上原城諏訪氏館跡(面積約一ヘクタール)で、戦国時代の天文十一年(一五四二年)七月、武田晴信(信玄)により諏訪領主・諏訪頼重が滅ぼされて以降、武田氏の諏訪郡代(初代・板垣信方)の邸が建立された。そして天正十年(一五八二年)三月まで四〇年間、武田氏の諏訪統治の拠点となった所です。
今日でもこの地籍は字名を「板垣平」とよんでいます。
(案内板から)

<参考資料>
長野県史跡
諏訪氏城跡上原城
上原城跡は諏訪盆地を一望する金毘羅山頂(標高九七八m)にある。その遺構としては主郭・土塁・二の郭・三の郭・曲輪・空掘・物見岩等があり、上原城の中腹の小字板垣平(およそ1ha)には居館跡がある。
この城は、北は永明寺山を背に、北西に桑原城、東に鬼場城等をひかえ、前方南には上川や宮川を経て干沢城に対し、諏訪上社(本宮前宮)を見下ろした中世の典型的な山城である。築城の年代は明らかでないが、室町時代の後期、文正元年(一四六六)頃より、諏訪惣領家当主信満がこの城の中腹に館を構え、上原郷に城下町をつくった。その後、諏訪氏は信満-政満-頼満-頼隆-頼重の五代七〇余年にわたり諏訪地方を統治したが、天文十一年(一五四二)七月、甲斐の武田晴信(信玄)によって滅ぼされ、惣領家諏訪氏は滅亡した。
以後、上原城とその館は武田氏の諏訪地方統治と信濃攻略の基地として、天正十年(一五八二)武田氏の滅亡まで約四〇年間続いた。この城跡は昭和四六年五月二十七日、長野県史跡に指定された。
なお、三の郭にある金毘羅神社は、頼岳寺一八世尊応が文化二年(一八〇五)に頼岳寺の鎮守神として、四国の讃岐より金毘羅大権現を勧請してこの地に祀ったものである。
(長野県教育委員会・茅野市教育委員会設置の案内板から・昭和63年)

<参考資料> 上原城主郭跡
この主郭跡は金比羅山の最高所にあり、標高九七八mである。主郭の大きさは南北三〇m、東西二〇mほどで、三方に低い土塁跡を残し、南西隅に虎口を開いている。
物見石のある平地が二の郭で、金比羅神社のある所が三の郭となり、この城の中枢部である。
居館板垣平からの登路が大手に当り、途中所々に小郭を置いて、幾重にも防御されている。
東西は上幅三〇mにおよぶ大空堀を隔てて、はなれ山の出郭があり、その先を空堀で背後の山から切りはなしている。南面には畝形を思わせる竪堀を連続して施し、北面には幅広い曲輪が置かれ、これらの曲輪はそれぞれ二の郭、三の郭と武者走りと呼ばれる通路で連結され、全体に輪郭式の縄張りで構成されている。
水の手は背後の湧水と北西下の沢水が利用されたようであるが、城内へ引水されたことも考えられる。
理昌院平の下方にもしっかりした郭が続き、周囲の尾根上にも小郭が配されていて、小規模ながら堅固な構えで、戦国時代の山城の姿をよく残している。
(茅野市教育委員会設置の案内板から・平成元年)





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150919_1130_曹洞宗 少林山 頼岳寺(茅野市)

茅野市ちのにある曹洞宗の寺院(地図)。
江戸時代初期の寛永8年(1631)に、信州高島藩初代藩主諏訪頼水( Wikipedia )を開基として開創されました。境内には、諏訪頼水(頼岳寺殿)と父頼忠(永明寺殿)、頼忠夫人(理昌院殿)の御廟が祀られています。
(写真:頼岳寺本堂=19日午前撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 頼岳寺(らいがくじ)
  http://www.raigakuji.or.jp/

<参考資料>
開創
曹洞宗(禅宗)に属し、本山は永平寺(福井県)と総持寺(神奈川県)である。開創は江戸時代初期の寛永八年(一六三一)で開山(初代住職)は大通関徹(だいつうかんてつ・群馬県双林寺第十三世)、開基は高島藩初代藩主の諏訪頼水( Wikipedia )である。頼水は諏訪大社上社にまつられる建御名方神(たけみなかたのかみ・諏訪明神)の直系諏訪氏で、諏訪氏は古代から中世まで諏訪の盟主として君臨し、江戸時代は高島藩三万石の大名であった。

上原城周辺
寺の右側の金比羅山(九七八メートル、甲州街道からの比高はおよそ二〇〇メートル)には上原城があった。この城は諏訪信満の時代、諏訪総領家の居城として築城され、政満・頼満。頼隆・頼重が板垣平(頼岳寺の南方)に居館をおいて諏訪を統治した。
天文十一年(一五四一)武田信玄に攻略されたのちも、武田氏が城代をこの城において諏訪を治め、以後岡村(上諏訪)に政庁が移るまで諏訪の政治・経済の中心地であった。上原には城下町が経営され繁栄した。とくに城下にんは鎌倉五山にならって上原五山と呼ばれた五ヶ寺があった。永明寺(頼岳寺の前身)・極楽寺・金剛寺(廃寺)・法明寺・光明寺(この二ヶ寺はのちに合併して放光寺となり上諏訪に移る)があり、上原八幡社もこの時代に建立された。
上原五山のうち永明寺は向富山と号し、現在の頼岳寺よりおよそ五〇〇メートル南方にあった曹洞宗の寺である。開創は永正年間(一五〇四~一五一一)で、開山は慈山永訓(じさんえいくん・静岡県真珠院第二世)、開基は諏訪頼水の曽祖父にあたる頼満(永明寺殿西周宗昌大居士)である。永明寺は以後七代一三〇年間続いたが、寛永七年(一六三〇)同寺に駆け込んだ科人(とがにん)の引渡しを拒否したことから、頼水の命により炎上破却された。永明寺の頼忠夫妻(頼水の両親)の墓、本尊釈迦如来、什器などは翌年建立された頼岳寺に移された。

頼岳寺の沿革
開創以来この地方の中心的勢力を保ち、江戸時代には寺領一〇〇石を賜り、末寺は十四ヶ寺である。古くから修行寺として知られ、常に数十名の雲水が参集した。さらに第三十二世孤峰智璨(こほうちさん)は明治四十年以来五十年間にわたる在任中に、人材の育成、伽藍の整備に尽力し、のち頼岳寺の祖本寺にあたる神奈川県大雄山最乗寺の住職を経て、大本山総持寺独住第十八世円応至道禅師となった。

境内と文化財
本堂(間口十四間)とその後方の開山堂は大正六年、本堂右の庫院は明治三十五年の建立である。山門の額「鵞湖(がこ)禅林」は頼岳寺の別名で、鵞湖は諏訪湖を指す。山門と鐘楼は昭和二十七年の建立で、山門にいたる杉並木は樹齢約三〇〇年で、茅野市文化財に指定されている。開山堂後方の坐禅堂は昭和五十三年の建立で、一般にも公開されている。最近になった庫院の増築、墓地の増設などが行われた。
本堂右後方にある御廟(市指定史跡)には、開基の諏訪頼水(頼岳寺殿昊窓映林大居士)と頼水の父頼忠(永明寺殿昊山宗湖大居士)、頼水の母(理昌院殿玉英貞珠大姉)をまつる。文化財としては諏訪頼忠の念持仏(虚空蔵菩薩)、頼水が徳川家康から拝領した琥珀観音(聖観音)、吉山明兆(きちざんみんちょう)の十六羅漢が市の指定文化財である。国道わきの石柱「少林山頼岳寺」と総門額「少林山」は江戸時代の中国僧東皐心越(とうこうしんえつ)の書による。本堂正面の欄間彫刻は、天保十五年(一八四四)立川流二代和四郎冨昌の作である。境内八十二アール、山林約六ヘクタールは金比羅山一帯に拡がっている。

貞珠山 理昌院
曹洞宗に属し、頼岳寺の末寺である。頼岳寺第十八世尊応教堂が開山、開基は諏訪頼水の弟諏訪頼雄(二ノ丸家初代)で、母(理昌院玉栄貞珠大姉)のために開創した。はじめ上原城本丸下の曲輪(理昌院平)にあったが頼岳寺開創後に現在地に移る。
本尊は聖観世音菩薩、諏訪霊場百番札所の中一番。
(境内の案内から)

<参考資料>
茅野市指定文化財
頼岳寺山門前杉並木
150919_1127_曹洞宗 少林山 頼岳寺(茅野市)
頼岳寺山門前杉並木
少林山頼岳寺は、諏訪地方における曹洞宗の筆頭寺院である、高島藩初代藩主諏訪頼水は、寛永八年(一六三一)上野国最大山雙林寺(群馬県北群馬郡子持村)の大通関徹を招いて開創し、諏訪氏の菩提寺とした。
参道の杉並木は、かつて目通り幹周り三.五メートル、推定樹齢三百年の大木が立ち並んでいたが、昭和九年の室戸台風及びその後の台風によって多くの木が倒れた。現在は同樹齢の木は少ないが、境内の杉木立と合わせ頼岳寺の由緒と風致の上からも貴重なものである。
(茅野市教育委員会設置の案内板から・平成5年)

<参考資料> 梶(穀)の木
150919_1132_曹洞宗 少林山 頼岳寺(茅野市)
境内にある「梶の木」
クワ科の落葉樹、楮属(こうぞ)。本州の中部以南に分布、樹皮は紙・布を製する。梶葉・梶紋とよばれる紋章はこの若木の葉を模様化したもので昔から神木として尊ばれている。
古代から諏訪地方に政権を保持した大祝諏訪氏の衣服に、鎌倉時代には旗印として用いた。現在の図案化されたものは江戸時代以降である。
頼岳寺の開基となった高島藩初代藩主諏訪頼水公の縁により、藩主家の紋章を寺紋として用いている。(略)
(頼岳寺設置の案内板から)

<参考資料>
茅野市指定文化財
諏訪氏頼岳寺御廟所
150919_1133_曹洞宗 少林山 頼岳寺(茅野市)
諏訪氏頼岳寺御廟所
少林山頼岳寺は曹洞宗に属し、諏訪地方における名刹である。永明寺の破却後、高島藩初代藩主諏訪頼水が寛永八年(一六三一)群馬県北群馬郡子持村の最大山雙林寺十三世大通関徹を招いて、諏訪氏の菩提寺として開創した寺である。
御廟は三室に別かれ、中央が頼水の父頼忠(永明寺殿)、右が頼忠夫人(理昌院殿)で、と塔婆はともに五輪塔と訪篋印塔である。左側は頼水(頼岳寺殿)で、家形の石造一重塔が安置されている。
二代藩主忠恒が、後に城下町上諏訪にあらたに菩提寺を建立したので、以後歴代藩主の墓所は温泉寺に移った。
境内には、三代藩主忠晴の早逝した二人の子、大祝家、二の丸家および旧藩士の墓がある。
(茅野市教育委員会設置の案内板から・平成5年)





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