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160206_0939_明治維新前の諏訪大社上社と神宮寺(諏訪市)

諏訪市の諏訪大社上社本宮の東に、かつては「神宮寺(じんぐうじ)」と呼ばれる大きな寺院がありました。しかし、明治政府の神仏分離政策( Wikipedia )によりそのほとんどが取り壊されるか、周辺の寺院などに移築され、現在は地名にだけ往時を偲ぶことができる程度です。
このほど、諏訪大社上社神宮寺勉強会のみなさんが作成した、明治維新前の上社本宮周辺の様子を紹介する案内板が完成し、諏訪大社上社本宮の布橋近く(地図)に設置されました。
案内板には、神宮寺や法華寺近くにあったとされる五重塔、上りと下りに設けられた仁王門のほか、参道沿いに幾つもの宿坊が建ち並んでいたことが紹介されたおり、周辺が門前町として栄えてきた様子がわかりやすく説明されています。
(写真:諏訪大社上社本宮の布橋近くに設置された案内板=2月6日午前撮影、640×480拡大可能)





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151031_0942_地蔵院のカツラ(諏訪市)

諏訪市四賀神戸にある地蔵院(地図)の境内にあるカツラ。
諏訪市天然記念物。
(写真:地蔵院のカツラ=10月31日午前撮影、640×480拡大可能)

<参考資料> 地蔵院のカツラ
種名 カツラ
樹齢 推定三百年
大きさ 目通り幹周4m63cm(平成十年現在)

151031_0942_曹洞宗 無量山 地蔵院(諏訪市)
地蔵院
カツラはカツラ科の落葉高木で雌雄異株。葉は対生し無毛で下面粉白色。花は五月頃、葉に先だって開くが、雄しべまたは雌しべのみで花被(花弁にあたるもの)はない。材は建築・器具・彫刻その他用途が広い。葉が抹香に使われるところからオコウノキの別名があり、寺院などによく植えられている。
地蔵院は古く地蔵堂と呼ばれていたが昭和二十七年三月宗教法令により昇格して地蔵院となった。本堂の扁額の裏書によって享保十五年(一七三〇年)の創立であることがわかっている。それより前にはここに青龍寺という寺があり、いくつかの坊や十三重の塔があったと伝えられている。
このカツラの木は大きさから創立当時からあったものと考えられ、雌木で市内では最大である。
(諏訪市教育委員会設置の案内板から・昭和46年)





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151016_1352_諏訪圏工業メッセ2015(諏訪市) 151016_1420_諏訪圏工業メッセ2015(諏訪市)
151016_1358_w_諏訪圏工業メッセ2015(諏訪市)
151016_1450_w_諏訪圏工業メッセ2015(諏訪市)
諏訪圏工業メッセ2015

15日から17日までの3日間、諏訪市の諏訪湖イベントホール(旧東洋バルブ諏訪工場跡地)で、今年で14回目となる「諏訪圏工業メッセ2015」が開催されました。
今年のメッセには県内外から403企業・団体が出展。来場者は3日間の合計で27000人を超え、出展及び来場者ともに過去最大規模となりました。
(写真:諏訪圏工業メッセ2015の様子=16日午後撮影、640×480・パノラマは640×166拡大可能)

<管理人ひとこと>
工業メッセと聞けば、企業が開発した製品の展示会、を連想させるところですが、諏訪のメッセは製品に値札を付けて販売するものとは異なり、そうした製品に組み込まるパーツそのものが展示の主体となっているということです。「ものづくり」を掲げる諏訪ならではの工業専門展示会といえるでしょう。
最近は土曜日などにアトラクションの時間を設け、家族連れなどがより工業に親しんでもらえるような試みも行われていますが、「諏訪ブランド」と称される、地域の企業が独自の技術を駆使し加工した部品ひとつひとつの評価の場であることに変わりありません。
ただ、会場をめぐりながら感じたのはまだまだ控えめであったことでした。競合他社が一堂に会する展示会では、どれだけ自社のブースに来場者を引き込めるかがポイント。他社に負けない自社の”強み”を、同じ土俵のなかでどのように売り込むか、その手法や工夫がもっと必要かなぁ…と感じました。

役立つ雑誌「ひとわざ(一技)」
会場では、受付で配布されていた「ひとわざ(一技)」というPR雑誌が大変役に立ちました。就活などで配られる企業ガイドとは違い、出展企業がどんな分野に”強み”があるのかより詳しく記されており、企業ガイドよりも更に一歩踏み込んでいるのが、この雑誌の大きな特長。超精密加工の集積地といわれる諏訪の企業が、今後、どの分野に進んでいくのかを知る手掛かりにもなる一冊でした。

<参考HP>
・ 諏訪圏工業メッセ
  http://suwamesse.jp/





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151012_1421_桑原城址・本丸跡(諏訪市)

151012_1423_桑原城址・案内図(諏訪市)
桑原城址案内図
諏訪市四賀桑原(地図)にある戦国時代の山城( Wikipedia )。
天文11年(1542)7月、武田晴信(のちの信玄)の諏訪侵攻を受け、武田軍と対峙していた諏訪頼重でしたが、武田軍に呼応した高遠頼継が杖突峠を越え諏訪へ攻め込んだことから、居城の上原城を焼き、後退した桑原城にて武田・高遠連合軍を迎え撃つ( Wikipedia )ものの、多勢に無勢。味方の逃亡もあり、武田方からの和睦を受け入れ桑原城を開城、頼重は甲府へ護送されます。
しかし、幽閉されていた東光寺(山梨県甲府市)にて、弟の大祝頼高とともに自刃。頼重が最後まで抵抗したこの城は、諏訪惣領家最後の舞台となりました。
(写真:諏訪惣領家の最後の舞台となった桑原城址=12日午後撮影、640×480拡大可能)


桑原城址 
151012_1456_桑原城址・普門寺登り口(諏訪市) 151012_1410_桑原城址(諏訪市)
普門寺登り口 整備された遊歩道
151012_1413_桑原城址(諏訪市) 151012_1415_桑原城址(諏訪市)
車両はここまで 普門寺口と桑原口の分岐
151012_1417_桑原城址(諏訪市) 151012_1419_桑原城址・東曲輪跡(諏訪市)
途中にある空濠 本丸下の東曲輪
151012_1444_桑原城址・二の丸跡から本丸跡を望む(諏訪市) 151012_1423_桑原城址・井戸跡(諏訪市)
二の丸から見た本丸 本丸に残る井戸跡
151012_1429_w_桑原城址・本丸跡(諏訪市)
本丸全景
151012_1436_桑原城址・本丸跡のサクラ(諏訪市) 151012_1427_桑原城址・二の丸跡(諏訪市)
本丸にあるサクラの木 本丸から見た二の丸
151012_1426_桑原城址・本丸跡から上原城跡を望む(諏訪市) 151012_1441_桑原城址・二の丸跡から望む諏訪湖(諏訪市)
城址から望む上原城跡(左)と諏訪湖(右)

<参考資料> 武田信玄の諏訪攻めと桑原城
桑原城は、戦国時代の山城であり、諏訪惣領家の本拠である上原城(茅野市)の支城の役割を担った重要な場所でした。
天文四年(一五三五)には惣領家の諏訪頼満と甲斐国守護の武田信虎が諏訪社の宝鈴を鳴らして和睦、信虎の娘禰々が頼満の孫頼重に輿入れし、諏訪・武田両家は同盟関係を結んでいました。その関係が崩れたのは、惣領を継いだ諏訪頼重が天文一〇年(一五四一)に関東管領上杉憲政と単独で講和を結んだことに対する報復か、翌一一年(一五四二)、父信虎を追放した武田晴信(にちの信玄)が諏訪に攻め入ったことによります。
上社神長の記録「守矢頼真書留」によれば、そのころ諏訪では災害や飢饉、対小笠原氏や佐久方面での戦が続き、民衆が疲れ果てていたため、高遠頼継らと結んだ武田勢を迎え撃つ勢力には差が歴然としていたといいますが、頼重は奇襲策を嫌い、正々堂々と戦おうとしていました。
七月二日夜、劣勢のまま居城である上原に火をかけれ桑原城へ退却、三日夕方には、戦闘に備えるために検分をしようと「つるね」(足長神社へ続く尾根か)を下った頼重を見た家臣が、頼重が城を捨てたと思い逃げていってしまったため、二〇人ほどで夜を明かし、四日、甲州勢の使者を受け入れ城を明け渡すことにしました。その後、頼重は甲府へ連行され、東光寺で自刃しました。
このように桑原城は、諏訪惣領家最後の舞台となりました。
(案内板から)

<参考資料> 桑原城
桑原城は一名を高鳥屋(たかとす)城ともいい、諏訪惣領家の本拠上原城の支城として要害をほこった山城である。甲州街道から約二百メートル北に位置し、本丸は空濠より高さ六メートル、東西三十三メートル、南北二十五メートル、面積はおよそ六百平方メートルある、空濠をへだてて西側の二の丸に続く。
天文十一年(一五四二)七月四日、諏訪頼重は武田信玄に攻められて上原城からのがれ、ここで敗れた。頼重は甲府に送られ、

 おのずから 枯れ果てにけり 草の葉の
 主あらばこそ またもむすばめ

の時世を残して割腹し、諏訪惣領家は一旦滅亡したという悲史を伝えている。
いま東光寺(甲府市)に、頼重と弟の大祝頼高(おおほうりよりたか)を祀る小さな五輪塔二基が建っており、また志賀神戸の頼重院(らいじょういん)には頼重を祀る供養塔がある。
(長野県教育委員会・諏訪市教育委員会設置の案内板から・昭和58年)





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151012_1335_志賀家住宅(諏訪市)

諏訪市内で唯一残る江戸時代の武家屋敷(地図)。
(写真:志賀家住宅=12日午後撮影、640×480拡大可能)

<管理人ひとこと>
平成27年5月、市有形文化財の指定の後、所有者の許可を得て、初めて一般に公開されました。普段は非公開となっており、常時、見学することはできないようです。諏訪の武家の生活を感じられる内部の公開が進むことを期待しています。

<参考資料>
志賀家住宅は安政二年(1855)に建てられ、諏訪市内に唯一残された高島藩の武家屋敷です。長年の経過により外観に手が加えられましたが、内部はほとんど改造がなく高島藩の武士の生活を物語る貴重な建物です。
主屋は本棟造ともいえる切妻造(きりつまづくり)妻入りの主屋とその後ろに入母屋(いりもやづくり)の梁間を主屋の三分の一にした奥の間を二間付加した造りで、諏訪の武家住宅の特徴が現れています。また、道路に面して建つ長屋門、主屋、そして奥の土蔵と三棟が揃って残されている例は県内でも少なく、この点でも大変貴重な建築物です。
(諏訪市教育委員会設置の案内板から)





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