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管理人の思いつくまま、気の向くまま、長野県内の町や村の話題を取り上げています。

170811_1250_葛山山頂(長野市)
葛山山頂に残る城跡

長野市内の西側にある葛山( Wikipedia )は、裾花川を挟んで聳える旭山( Wikipedia )とともに、甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信が川中島合戦の際に覇権を争った重要な拠点でした。
葛山への登山道は幾つかあるそうですが、今回は県道長野戸隠線沿いにある長野市芋井の松静寺から登るルート(通常の登山道ではなく、近道登山道)を利用しました。
登山口を間違えて進んでしまったり、途中、倒木が4本もあったりと、頂上にたどり着くまでに思いのほか労力を要しましたが、どうにかこうにか山頂に到着。
帰りは、善光寺の参道にも利用されたという「郷路石」が切り出された郷路山(ごうろ)や源 頼朝とも縁のある頼朝山をめぐり、市内から気軽に行ける里山の自然を楽しみました。
(写真=11日午前撮影、パノラマを除き、全て640×480拡大可能)

<コースタイム>
松静寺登山口(地図)※駐車場あり(11:20)→葛山登山道分岐(11:32)→葛山山頂(11:58)(12:58)→郷路山分岐(13:18)→作業道分岐(13:26)→頼朝山分岐(13:31)→頼朝山(13:36)→松静寺登山口(14:07)
 
 
葛山 静松寺登山口~葛山山頂
170811_1407_葛山・頼朝山登山口(長野市) 170811_1330_葛山登山口(長野市)
葛山 通常登山口
170811_1119_葛山登山口(長野市) 170811_1122_葛山登山道(長野市)
170811_1132_葛山登山口分岐(長野市) 170811_1301_葛山山頂(長野市)
静松寺からの近道登山口
 
葛山山頂
170811_1256_w_葛山山頂(長野市)
葛山城 本丸跡
170811_1209_葛山山頂(長野市) 170811_1213_葛山山頂(長野市)
 
葛山 葛山山頂~郷路山・頼朝山
170811_1310_葛山山頂から郷路山へ(長野市) 170811_1318_郷路山分岐(長野市)
葛山山頂から尾根伝いに郷路山へ
170811_1336_頼朝山山頂(長野市) 170811_1400_頼朝山山頂(長野市)
頼朝山山頂と山頂からの眺め

<参考資料> 葛山城跡 標高八一〇m
葛山城主落合備中守は、村上義清に従い越後の上杉謙信に属していた。城は、上杉方の重要な前進基地であった。
一方、北信濃を掌中に収めようとする甲斐の武田信玄は、弘治三年(一五五七年)二月(今の三月)、越後はまだ雪が深く、上杉軍が出陣できない時期を見はからい、部下の馬場美濃守に命じ一万七千余人の大軍でこの城を攻撃した。
城は、高い崖の上にあり、堅固な防塁を備えており、落合備中守も勇猛にみずから進んでよく防いでいたので武田勢もやや攻めあぐむ形であった。
しかし、城は水が不自由であった。城兵は、敵の目にふれる崖から米を落し水は十分あるようみせかけた。武田方が、葛山の中腹にある静松寺の僧を責め城を攻める方法を問い、水利の不便を知ると水を絶ち、火攻めにした。春先の風にあおられた火の勢いは、山を包み、防塁は炎の中に、くずれおちた。城兵必死の抗戦もむなしく備中守は奮戦して討死し、二月十五日ついに落城した。
逃げ場を失った多くの女たちは、峰の上から身を投げて死んだ。姫谷(裏の谷)と呼ばれる谷底からは、のちの世まで女の哀しい泣き声が聞かれたと里人は語り伝えている。
本丸跡には、城主の嘆きを語る祠が安置され、今でも周囲から焼米が掘り出されるという。

春、山頂の城跡に立てば、里に遅れて散る山桜の一片に、戦国の世のならいとはいえ、滅びる者の哀れさが胸にせまってくる。
(長野市観光課設置の案内板から・平成12年)

<参考資料> 頼朝山(八幡山) 標高六四四m
この頼朝山は、八幡山ともいわれ、山頂の八幡宮(昭和十三年焼失)は、静松寺鎮守社である。弘化年間(およそ一五〇年前)の頃に、八代松代城主真田幸貫公が鬼門除(きもんよけ)の守護社として祭祀されたので、鎮護峰ともいわれているが、源 頼朝公寄進の山であり、静松寺の山号にちなみ頼朝山と呼ばれている。

<参考資料> 静松寺(じょうしょうじ)由来
静松寺は、承平二年(九三二年)智盛(ちじょう)法師が、諸国修業の旅の末、善光寺如来のおそばこそ一生身をおちつけるところときめて、葛山の中腹(今の古屋敷地籍)に庵を建てたのが寺の草創(はじめ)といわれている。
征夷大将軍源 頼朝が建久八年(一一九七年)に善光寺へ参拝した際に、以前源氏再興のため諸国遍歴の途中、この寺で没した家臣の菩提を弔うために、寺の田地山林を寄進しみずから「頼朝山法性浄院静松寺」と名づけた。
弘治三年(一五五七年)葛山城落城の兵火により、堂宇はことごとく焼失し荒廃したが、天正十五年(一五八七年)春虎和尚が現在地に堂宇を再建した。現在の本堂は、明治十四年(一八八一年)に再建に着手し、明治十六年(一八八三年)十月に完成したものである。
清浄院殿光山勇仙大居士備中守(葛山城主落合備中守)の位牌、並びに一族郎党の亡霊がこの寺に納まり、永遠に弔われることになったのである。
(長野市観光課設置の案内板から・平成12年)





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