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080820_1306_樋口次郎兼光の墓(辰野町)

樋口次郎兼光(ひぐちじろうかねみつ)は、木曽義仲に従い倶利伽羅峠の戦いなどで活躍した平安時代末期の武将。近江国粟津(滋賀県大津市)で、源範頼・義経の追討軍に敗れ、義仲とともに戦死したとも、義仲討死の報に接し、京に戻った後に捕らえられ殺されたなど、その最後をめぐっては諸説伝えられています。
辰野町樋口(地図)は、兼光が館を構えていた場所で、兼光死後、家来が遺髪を形見に戻り、真言宗香蓮寺に納め菩提を弔いました。
兼光の遺児兼重は辰野のこの地で育てられ、その子孫からは、上杉謙信・景勝の名参謀として知られる直江兼続(なおえかねつぐ)を輩出しています。 (写真=20日撮影)

<参考資料>
樋口次郎兼光は、信濃権守中原兼遠の次男で、清和源氏の子孫である。兼光は当樋口の樋前に居城したので、世に樋口次郎兼光という。彼は弟の今井四郎兼平や根井行親、楯親忠と共に、旭将軍義仲の四天王といわれた武将で、武芸力量共に抜群であった。また義仲に仕えて勇名を馳せた女丈夫巴御前は兼光の妹である。権勢を誇った平氏の勢力が漸く衰えかけたのを見ると以仁王(後白河法皇の子)は平氏追討の命を下した。諸国の源氏は之に応じ一挙に京都へ攻め入ろうとした。八百年前のことである。
義仲は威風堂々一族郎党を引き連れ、木曽を出て北陸路を一気に京へ攻め上った。途中有名な「くりから谷の合戦」で義仲軍の奇襲により平家は大敗を喫し、京へ逃げ戻った。義仲はこれを急追し京都に迫ったので、平家の一門は遂に幼帝安徳天皇を奉じて西国へ都落した。京とに天皇がなくなると、義仲は以仁王の王子北陸の宮を建てようとしたが許されず、加えて部下の粗暴な振舞いが目立ち人心が不安に陥った。そこで後白河法皇は勅使を鎌倉に送り、義仲追討の命を下した。頼朝は弟の範頼、義経を大将として京都に攻め上らせた。有名な宇治川の先陣争いはこの合戦である。ところが義仲軍利にあらず、六条河原の戦に敗れ部下武将と共に粟津ヶ原で露に消えた。
時に樋口次郎兼光は三十五歳、寿永三年正月二十五日のことであった。
現在粟津ヶ原に義仲寺と称する小寺院あり、当時の戦死者の霊を弔っている。義仲とその後に臨み巴御前に「義仲は死ぬまで婦人を伴っていたと後世の人に言われるのは甚だ口惜しい。」と言って巴御前を郷里にかえし後世を弔わせた。巴御前は信濃に帰り後、越後に行って髪を落し尼となって、義仲に遺命に従った。兼光の従臣は彼の髪を形見に郷里に帰り、当地の菩提寺真言宗香蓮寺に納め菩提を弔った。この時六歳の遺児左近兼重この地に養育された後、鎌倉幕府から領地を課証されたという。 (樋口区・八百年奉賛会建立の案内板から)





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