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管理人の思いつくまま、気の向くまま、長野県内の町や村の話題を取り上げています。
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5年前の平成26年(2014)11月、北安曇郡白馬村で発生した神城断層地震( Wikipedia )により頂上部分が崩落した虫倉山( emojiヤマレコ )。その虫倉山に、平成12年以来19年ぶりに登ってみました。
当日は開山祭(第30回虫倉山開山祭)が、午前8時から登山口の丸山公園で行われることになっていたため、混雑を避けてやや遅めに自宅を出発。太田地区から発着する無料のシャトルバスの最終便(午前9時半)に乗り丸山公園へ。
支度を整えて、いざ山頂へ。しかし、しばらく山歩きをしていなかったせいか、程なくして脚が上がらなくなってしまいました。それでも、どうにかこうにか歩いて、天城平分岐に到着したのは午前10時。空平あずまやを経て山頂に到着したのは午前10時50分と、かなりゆっくりなペースでの山歩きとなってしまいました。
山頂は、報道されていたように東半分が崩落し、立入禁止の状態となっていました。地震が原因と思われるクラック(地割れ)が所々に残っていましたので、現在は安定しているようにみえる西側についても、更なる地震や大雨などで崩れてしまうことも、もしかしたらあるかもしれません。
山頂で持参したおにぎりでお腹を満たし、開山祭に参加した大勢の登山者のみなさんが下る前に下山開始。不動滝コース登山口到着はちょうどお昼の12時。帰りはシャトルバスがありませんので、そのまま30分ほど舗装路を歩き、太田地区のシャトルバス発着場に戻りました。
(写真:信州百名山 虫倉山=令和元年5月3日午前撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 中条地区住民自治協議会
  http://mushikura.info/


信州百名山 虫倉山
不動滝コース
190503_1208_虫倉山不動滝コース 不動滝(長野市中条) 190503_1207_虫倉山不動滝コース 登山口入口(長野市中条)
不動滝 不動滝コース 登山口
190503_1004_虫倉山不動滝コース 天城平分岐(長野市) 190503_1025_虫倉山不動滝コース 空平あずまやから望む北アルプス(長野市中条)
天城平分岐 空平あずまや
190503_1053_1_虫倉山不動滝コース 虫倉山山頂(長野市中条) 190503_1053_2_虫倉山不動滝コース 虫倉山山頂(長野市中条)
虫倉山山頂 山頂崩落部分


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管理人が利用しているウォーキングアプリ「aruku&(あるくと)に紹介されているウォーキングコース・新日本歩く道から「小林一茶の故郷 散策の道」を歩いてみました。
(写真:上水内郡信濃町周辺=平成31年4月28日撮影、640×480拡大可能)

「aruku&」紹介文
(※上水内郡)信濃町出身の俳人「小林一茶」が愛した故郷柏原は北國街道の宿場町として栄え、信濃町の中でも歴史的な建設等も数多くある地域です。一茶が晩年を過ごした旧宅跡や一茶が幼いころ遊んだお寺等を巡ります。アップダウンの少ない町中を歩きます。一茶の魅力に触れながら歩かなければたどり着くことができないとっておきの柏原をご案内します。

《aruku&》新日本歩く道~小林一茶の故郷 散策の道コース
S:しなの鉄道黒姫駅→※登録有形文化財 ふじのや旅館→ターンテーブル(転車台)→一茶の句碑→諏訪神社一一茶旧宅 跡地→カトリック教会信濃村伝導所→明専寺→俳諧寺→G:一茶記念館→(しなの鉄道黒姫駅)

Screenshot_20190428-122637《aruku&》新日本歩く道~小林一茶の故郷 散策の道コース
aruku&(あるくと)
https://www.arukuto.jp/
スタート地点となる黒姫駅にはしなの鉄道で…とおススメするところですが、今回は別件で信濃町を訪れていましたので、自家用車を駅西側にある広い駐車場に停め、駅東西を繋ぐ連絡橋を渡ってスタート地点に向かいました。
駅前に立って、先ず目に入ったのは昔ながらの切妻屋根を玄関中心に設けたふじのや旅館さん。《aruku&》のコースには紹介がありませんが、信州しなの町観光協会さんのホームページによれば、明治43年(1910)に建てられた木造2階建、鉄板葺の建物で、明治末の旅館の佇まいを伝える建造物として、平成22年(2010)に国の有形文化財に登録されたということです。日本らしさを求める外国人向けの宿泊施設としておススメしてみると、もしかしたら思いのほか関心を示されるかもしれません。
駅前を右折して南に向かうと、ほどなくしてターンテーブル(転車台)のあるスポットへ。《aruku&》の紹介文には次のように表示されています。
「長野県内では、2つしか残されていない列車の転車台があります。黒姫駅は分水嶺となっているので、上越方面から来ても長野方面から来ても、上り坂となり動力機関車2台で運行されていました」
劣化が激しく、今は朽ち果てるのみという状況になっており残念なことです。何か有効な保存方法があれば、鉄道遺産として貴重な観光資源になるのではと思うのですがどうでしょうか。
信濃町商工会議所前のスポットを通過して、更に南に民家沿いに進むと諏訪神社。さらに、国道18号線を横断すれば、柏原といえば、あの小林一茶( Wikipedia )の旧宅跡地に到着します。一茶旧宅跡地では、案内人の方がいるので、小林一茶についての詳しいお話を聞くことができます。
一茶旧宅跡地からカトリック教会信濃村伝導所へは若干の勾配のある道を歩きます。この教会については詳しい案内がないため、《aruku&》の紹介文を引用しますと、
「建築家としても有名なウィリアム・メレル・ヴォーリズ氏( Wikipedia )が設計した教会です。周りの村人に威圧感を与えない工夫や雪国ならではの工夫がみられる協会です」とのこと。通りから少し奥まったところにあり、普通に歩いていると見落としてしまいそうな建物で、周りの景色とも上手く馴染んでいるように感じます。また、紹介文にもありますが、屋根の勾配が急になっており、雪国ならではの工夫のある建物という点に注目しますと、ウォーキングコースのスポットとして選ばれた理由もわかるように思いました。
明専寺と俳諧寺、ゴールの一茶記念館へは、再び国道18号線を横断し、小丸山の名称で知られる小高い丘を歩きます。一茶記念館から望む飯縄山・戸隠山・黒姫山、そして妙高山の姿は圧巻。歩いてきた疲れも忘れてしまうことでしょう。

<参考HP>
・ 信州しなの町観光協会
  http://www.shinano-machi.com/
・ 一茶記念館
  http://www.issakinenkan.com/


190428_1228_しなの鉄道黒姫駅(上水内郡信濃町) 190428_1229_しなの鉄道黒姫駅駅前・ふじのや旅館(上水内郡信濃町)
しなの鉄道黒姫駅 ふじのや旅館
190428_1235_しなの鉄道黒姫駅構内に残るターンテーブル(上水内郡信濃町) 190428_1250_諏訪神社(上水内郡信濃町)
ターンテーブル 諏訪神社
190428_1251_諏訪神社(上水内郡信濃町) 190428_1254_小林一茶旧宅跡地(上水内郡信濃町)
諏訪神社 一茶句碑 一茶旧宅 跡地

<参考資料> 諏訪神社と一茶句碑
柏原の鎮守の森、諏訪社は、嘉永十一年(一六三四年)ころには創建されていました。祭礼のときには、歌舞伎や相撲が催され、近在の人々でにぎわい、一茶も見物に訪れていました。
この一茶句碑は、文政十二年(一八二九年)一茶三回忌に、弟弥兵衛(やへえ)や門人等によって柏原宿の入口に建立された最初のものです。その後、明治十年(一八七七年)に、現在地に移転されました。
俳句は、「七番日記」文化九年(一八一二年)の作で、碑文は、柏原村などを支配していた中野代官所手付大塚庚作(おおつかこうさく)によって、書かれています。

松陰に 寝てくふ 六十よ州かな

(案内板から)

<参考資料> 史跡 小林一茶旧宅
1957(昭和32)年5月8日指定
俳人小林一茶は、1763(宝暦13)年柏原に生まれ、15歳で江戸に出て葛飾派の俳人となりました。30歳から6年余にわたり、俳諧修行のために関西・四国・九州を廻りました。その後、再び江戸にもどり、夏目成美(せいび)に師事し、房総地方などを巡回する漂泊の生活を続けました。
50歳で帰郷した一茶は、父の遺言により家屋敷や田畑を弟とわけました。屋敷の北半分が一茶、南側が弟弥兵衛のものとなり、間口9間の家を仕切って暮らしました。他に、一茶は間口3間半、奥行2間2尺の土蔵を譲り受けました。52歳でようやく結婚し、4人の子どもをもうけましたが、次々に亡くなり妻にも先立たれました。その上、宿場の大家で類焼し、1827(文政10)年11月19日、焼け残った土蔵で65歳の生涯を閉じました。一茶没後、後妻との間に女子が生まれ、一茶家を今に伝えています。晩年の一茶は、北信濃で門人の指導をあたりながら、2万句にもおよび多くの俳句を残しました。大火後、弟の屋敷には、間口4間半、奥行き4間の小さな町家が再建され、柏原宿のおもかげを見ることができます。
1957(昭和32)年国史跡に指定され、一茶が暮らしていた母屋のあとに、29歳の帰郷のときによんだ句碑が建てられました。

門の木も 先つつがなし 夕涼

(信濃町教育委員会設置の案内板から・平成14年)

190428_1302_カトリック教会信濃村伝導所(上水内郡信濃町) 190428_1307_明専寺(上水内郡信濃町)
カトリック教会 信濃村伝導所 明専寺
190428_1315_1_小丸山公園(上水内郡信濃町) 190428_1315_2_小丸山公園(上水内郡信濃町)
小丸山公園案内図 小丸山公園 一茶句碑
190428_1319_小丸山公園・俳諧寺(上水内郡信濃町) 190428_1321_小丸山公園・一茶記念館(上水内郡信濃町)
小丸山公園 俳諧寺 一茶記念館

<参考資料> 明専寺と一茶
明専寺は、浄土真宗本願寺派に属し、終北山といい、延宝元年(一六七三年)、現在地に移りました。一茶は親鸞聖人に深く帰依し、父親とともに熱心な門徒でした。
明専寺は、一茶と弟との財産争いの仲裁をするなど、一茶にとって縁の深いお寺です。明専寺でのできごとは、区文集「おらが春」などに見ることができます。
毎年十一月十九日の命日には一茶忌法要がいとなまれ、一茶をしのんで一茶忌全国俳句大会が行われます。
句碑は、「おらが春」文政二年(一八一九年)の作です。

我と来て 遊べや親の ない雀

(明専寺境内に設置されている案内板から)

<参考資料> 一茶句碑
是(これ)がまあ つひの栖(すみか)か 雪五尺
「句稿消息」真蹟拡大

15歳で江戸に出た一茶は35年間の漂泊生活に終止符をうち、文化9(一八一二)年11月24日故郷柏原に帰ってきました。その時の感慨をよんだものです。一茶50歳。つひは最後のこと。季語「雪」。
昭和26(一九五一)年、一茶百二十五回忌を記念して建てられました。
(小丸山公園に設置の案内板から)

<参考資料> 山頭火の句碑
一茶翁遺跡めぐり 柏原にて
ぐるりとまはつてきてこぼれ菜の花(土蔵)
若葉かぶさる 折からの蛙なく(墓所)
「山頭火旅日記」真蹟拡大

昭和11(一九三六)年5月29日、曇、八時の汽車で柏原へ。車中で遠足の小学生が渡しに少年の夢を味はせてくれた。山のみどりのうつくしさ、まったく日本晴の日本国だ、九時すぎにさびしい山驛柏原に着いた。
種田山頭火(一八八二~一九四〇)は、昭和11年一茶の遺跡をめぐり、徒歩で新潟県にむかいました。
平成8(一九九六)年建立。
(小丸山公園に設置の案内板から)


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管理人が利用しているウォーキングアプリ「aruku&(あるくと)」に以前掲載されていた「国盗り合戦コラボイベント」から、東京駅周辺を起点とする4コースを歩いてみました。

「国盗り合戦コラボイベント」指定コース
令和元年7月11日
 ・銀座・築地の謎
令和元年12月1日
 ・日本橋・京橋の謎
 ・人形町の謎
 ・室町の謎

位置ゲームアプリ『ケータイ国盗り合戦』コラボコースです。2017/6/25に開催されたリアルイベント日本橋・銀座クイズウォークラリー『大江戸みすてりぃ 雲隠れの謎』で出題されたクイズとスポットを掲載しています。当日参加できなかった方もぜひクイズの回答を探しながら街歩きをお楽しみください。※イベント応募期間が終了したため商品カードは「東京都カード」に変更されております。※クイズの答えは掲載していません。現地を調べて確かめてみましよう!

<参考HP>
・ aruku&(あるくと)
  https://www.arukuto.jp/




【国盗り合戦コラボイベント】日本橋・京橋の謎
①重ねた歴史
ここには日本橋の「橋」の歴史を物語る記述があり「慶長8年(1603年)
につくられ、その後、改築すること〇〇回を経て、明治44年に石橋の名橋として現在の橋となった」と書かれてるでござんす。さて、その300年ものあいだでいったい何度改築されたのか?謎を解く記念碑を探してよーく見るでござんすよ。(数字2文字)
②にぎわいの跡
一石橋のたもとにある石標は「〇〇〇」についての情報を集めるための掲示板だったようでござんす。さて、〇〇〇に入るのは何でござんしょーか?(ひらがな3文字)
③橋がたくさん
「東京証券取引所」附近は、「〇〇〇の渡し」として有名な渡船場があったんでござんす。さて、〇〇〇に入るのは何でござんしょーか?ちなみに今は橋の名前にもなっているんでござんす(ひらがな3文字)
④技術のあかし
東京駅から中央区を横切るように伸びる八重洲通りには、この土地ゆかりの人物が待っているでござんす。彼そして彼の乗り物を囲う輪は何をあらわしているでござんしょーか?当時の技術を象徴するものでござんす。(ひらがな5文字)

191201_1444_日本橋(東京都中央区) 191201_1434_鎧橋と東京証券取引所(東京都中央区)
日本橋南詰 鎧橋と東京証券取引所
191201_1452_一石橋(東京都中央区) 191201_1507_八重洲通りにあるヤン・ヨーステンレリーフ(東京都中央区)
一石橋迷子しらせ石標 ヤン・ヨーステンレリーフ

<参考資料>
東京都指定有形文化財(歴史資料)
一石橋迷子しらせ石標
江戸時代も後半に入る頃、この辺から日本橋にかけては盛り場で迷子も多かったらしい。当時は迷子が出た場合、町内が責任をもって保護することになっていた。そこで安政四年(一八五七)、西河岸町の一石橋の橋詰に、迷子探しのための告知石碑が建立された。日本橋から一石橋にかけての諸町名主などが世話人となり、迷子保護の立場から町奉行に申請したものである。
銘文は、正面「満(ま)よひ子の志(し)るべ」、右側面「志(し)らす類(る)方」、左側面「たづぬる方」、裏側面「安政四丁巳年二月 御願済建之 西河岸町」。西側面上部に長方形の窪みがあり、左側面の窪みに迷子や尋ね人の特徴を書いた紙を貼る。通行人がそれを見て心当たりがあれば、その旨を書いた紙を右側面の窪みに貼って知らせたという。いわば庶民の告知板である。このほか湯島天神境内の「月下氷人石」や浅草寺境内、両国橋橋詰など往来の多い場所に同様のものがあった。しかし震災や戦災などで破壊され、現存するのは一石橋のものだけである。
総高一七五.七cm(棹石一六三cm、台石一二.七cm)、棹石正面三六cm、同奥行二六cm、台石正面幅七〇cm、同奥行六八.五cm。作者などは不詳である。
(東京都教育委員会設置の案内板から・平成23年)

<参考資料> 鎧の渡し跡
鎧の渡しは、日本橋川に通されていた小網町を茅場町との間の船渡しです。古くは延宝七年(一六七九)の絵図にその名が見られ、その後の絵図や地誌類にも多く記されています。
伝説によると、かつてこの附近には大河があり、平安時代の永承年間(一〇四六~五三)に源義家が奥州平定の途中、ここで暴風・逆浪にあい、その船が沈まんとしたため、鎧一領を海中に投じて龍神に祈りを奉げたところ、無事に渡ることができたため、以来ここを「鎧が淵」と呼んだと言われています。また、平将門が兜と鎧を納めたところとも伝えられています。
この渡しは、明治五年(一八七三)に鎧橋が架けられたことによりなくなりますが、江戸時代に通されていた渡しの風景は「江戸名所図会」などに描かれており、また俳句や狂歌等にも詠まれています。

 縁日に 買うてぞ帰る おもだかも
 逆さにうつる 鎧のわたし
  和朝亭国盛

(中央区教育委員会設置の案内板から・平成20年)




【国盗り合戦コラボイベント】人形町の謎
①街のシンボル
江戸の火消し制度「いろは四十八組」で、この界隈を担当したのは何組?人形町の街のシンボルになっている時計をよーく見るわん。(ひらがな1文字)
②人気者
明治座と人形町を結ぶ「甘酒横丁」が「浜町縁道」を交わるところで、ある人物がみなさんを待っているわん。その人物が持つ数珠はいくつ?(数字1文字)
③先人の知恵
日本橋小学校近くの道ばたに、人形町の伝統芸能に関わりの深い生きものがいるわん。その生きものはな~に?(ひらがな3文字)
④いまはむかし
かつてここに巨大な牢屋敷があったわん。激動の時代を生きた有名な人物もここで最後をむかえたんだわん。ところであの大きなものは何かな?(ひらがな5文字)
⑤ビルのあいまに
東日本橋にある薬研堀不動院は、川崎大師の東京別院で、目黒、目白とならび江戸三大不動のひとつに数えられるお寺だわん。ずばり、この寺院の本堂の階段は全部で何段あるでしょーか?(数字2文字)

191201_1423_人形町のシンボル時計(東京都中央区) 191201_1416_人形町の武蔵坊弁慶像(東京都中央区)
人形町のシンボル時計 弁慶像
191201_1427_日本橋小学校・西郷隆盛屋敷跡(東京都中央区) 191201_1343_伝馬町牢屋敷跡(東京都中央区)
西郷隆盛屋敷跡 吉田松陰終焉の地
191201_1345_伝馬町牢屋敷跡(東京都中央区) 191201_1403_薬研堀不動院(東京都中央区)
小伝馬町牢屋敷遺構 薬研堀不動院

<参考資料> 蛎殻銀座跡
銀座とは江戸時代の銀貨の製造工場である銀座会所と、通用銀貨の検査や銀地金の購入などを扱う銀座役所を総称した組織でした、そしてその経営は幕府の直営ではなく、御用達(ごようたし)町人に委託しました。
江戸の銀座は慶長十七年(一六一二)に今の銀座二丁目の場所に置かれ、その百八十八年後の寛政十二年(一八〇〇)六月に、寛政改革の一つである銀座制度の大改正のため一旦廃止されました。
その年の十一月、改めてこの人形町の場所に幕府直営の度合いを強めた銀座が再発足しました。
当時この附近の地名が蛎殻(かきがら)町だったため、この銀座は人々から「蛎殻銀座」と呼ばれ、明治二年(一八六九)に新政府の造幣局が設置されるまでの六十九年間存続しました。
(中央区教育委員会設置の案内板から・平成5年)

<参考資料> 弁慶像について
今を遡ること三五〇年前、現在の人形町あたりに葺屋町と堺町という街があった。
当時この町では、江戸三座といわれていた芝居小屋のうちの市村座と中村座の二座が歌舞伎を上演しており芝居街と呼ばれていた。また、浄瑠璃による操り人形の芝居小屋も数軒あり、歌舞伎と合わせて庶民の人気を集めていたという。
ここで使われた人形の製作と、修理に当たった人形師達は、この周辺に住み人形細工と人形の販売をも業としていた。
以上が人形町の名のいわれとされており、ここ人形町界隈は、今日隆盛をきわめる江戸歌舞伎発祥の地と呼んでも差し仕えないといえる。
この度、縁道の改修に当たって、入口の広場に歌舞伎十八番の内でも人気のある勧進帳の武蔵坊弁慶像を設置するとともに、その背面に関所風の冠木門を設けて江戸情緒をかもしだし、往時をしのばんとするものである。
(中央区土木部公園緑地課設置の案内板から)

<参考資料> 西郷隆盛屋敷跡
明治初め、この地域には明治維新の元勲西郷隆盛(一八二七~一八七七)の屋敷がありました。
明治六年(一八七三)の「第壱大区枯券図」には、「蛎殻町一丁目壱番/二千六百三十三坪/金千五百八十六円/西郷隆盛」とあります。屋敷には長屋に一五人ほどの書生を住まわせ、下男を七人雇い、猟犬を数頭飼っていたといわれています。
維新後、西郷は郷里鹿児島にいましたが、明治四年に新政府から請われて上京し、参議に就任、同年十月に岩倉具視を特命全権大使とし、大久保利通、木戸孝允等を副使とする使節団が米欧へ派遣された後には、筆頭参議として留守政府首班となり、学制・徴兵制度・地租改正などの重要政策を実現しました。
明治六年になって、朝鮮との国交問題が緊迫し、武力出兵を主張するいわゆる征韓論が高まりを見せるなか、西郷は自らが朝鮮に渡って交渉することにより、問題の解決にあたろうとしました。閣議でもいったんは西郷の施設派遣が決定されましたが、海外の視察から帰国した大久保等の猛烈な反対により使節派遣は中止となります。この決定を受けて、西郷をはじめ、板垣退助や後藤象二郎等が参議を辞して下野しました(明治六年の政変)。
下野後、西郷はこの地にあった屋敷を引払い、鹿児島に帰郷します。鹿児島では、士族子弟のために私学校をつくり、また農耕と狩猟に悠々自適の生活を送っていましたが、明治十年に西南戦争を起こし自害しました。
(中央区教育委員会設置の案内板から・平成19年)

<参考資料> 伝馬町牢屋敷跡
江戸時代、この地には牢屋敷がありました。天正18年(1590)、江戸の地に徳川家康が入った当初は、牢屋敷は常盤橋門外、今の日本銀行あたりに置かれていました。この地に移転したのは慶長18年(1613)ころといわれ、その後は江戸時代を通じて牢屋敷がありました。明治維新後、明治8年(1875)に市ヶ谷の監獄に囚人を移し、この地の牢屋敷は取り壊されました。
平成24年、この地で中央区の施設が建設される前に、中央区教育委員会が「伝馬町牢屋敷跡遺跡(てんまちょうろうやしきあといせき)」として発掘調査を実施しました。遺跡からは、ここに移築復元した石垣をはじめとして、複数の石垣の連なりが発見されました。牢屋敷は高さ7尺8寸(約2.4m)の髙い塀で囲われていたようですが、出土した石垣は、さらにその内側でもしっかりと敷地内を仕切っていたことがわかった貴重な発見です。石垣には一部途切れる箇所があり、そこに門柱の礎石が見つかりました。これは、角度によって門が見えにくい「埋門(うずめもん)」と言われる、お城などによく用いられた施設と推測されます。
このほか、多数の上水木樋(じょうすいもくひ)が見つかっています。木で組まれた水道管が地中に埋められたもので、水は井の頭池などに水源のある神田上水から引き込まれたものと思われます。
ここに展示してあるのは、図中の石垣Aを出土時とほぼ同じ形に積み直して移築復元したものです。これ以外のものには、当時の姿ではありませんが、同じく牢屋敷跡から出土した石を使って積んだものもあります、。石は伊豆周辺で切り出された、主に安山岩が四角錐に加工されたものです。石には切り出す際についた矢穴という窪みが見られるものもあります。
(中央区教育委員会設置の案内板から・平成26年)

<参考HP>
・ 東京都中央区ホームページ
  https://www.city.chuo.lg.jp/
・ 中央区観光協会
  https://www.chuo-kanko.or.jp/
・ 人形町商店街
  http://www.ningyocho.or.jp/




【国盗り合戦コラボイベント】室町の謎
①タイムスリップ
三越前駅地下コンコースに展示されている絵巻「凞代勝覧」(きだいしょうらん)。当時の江戸の賑わいを描いた貴重な資料なのでぜひ見てほしいんじゃ。解説によれば、「魚の立売り」の隣に、「客を当て込み路上での〇〇家業」とある。さて、〇〇〇〇に入るのは何じゃろーか?当時からあったんじゃな!(ひらがな4文字)
②道のはじまり
日本橋のたもとにある日本国道路元標の石の標識には、現在地から主要都市までの距離が粁(キロメートル)でしるされているんじゃ。最も遠い1,496粁離れた都市はどうこじゃろーか?(ひらがな5文字)
③江戸の活気
江戸時代から300年以上ものあいだ、この広場には江戸の生活を支える「あるもの」があったそーじゃ。日本橋の川沿いにその謎を解く石碑があるはずじゃ。それは今で言うと何じゃろーか?(ひらがな5文字)
④伝統工芸
日本橋本町にある小津和紙は、承応2年(1653年)創業の和紙の専門店。その小津和紙本館ビルの「小津の起源」碑すぐ隣には、ある印象的な植物が植えられているじゃ。その植物は何じゃろーか?(ひらがな3文字)

191201_1323_日本橋海老屋ビル周辺(東京都中央区) 191201_1318_日本橋北詰交差点(東京都中央区)
室町三丁目付近 日本橋北詰
190305_1300_日本橋・道路元標(東京都中央区) 191201_1328_小津本館ビル(東京都中央区)
日本国道路元標 小津和紙

<参考資料> 日本橋
日本橋がはじめて架けられたのは徳川家康が幕府を開いた慶長八年(一六〇三)と伝えられています。幕府は東海道をはじめとする五街道の起点を日本橋とし、重要な水路であった日本橋川と交差する点として江戸経済の中心となっていました。橋詰には高札場があり、魚河岸があったことでも有名です。幕末の様子は、安藤広重の錦絵でも知られています。
現在の日本橋は東京市により、石造二連アーチの道路橋として明治四十四年に完成しました。橋銘は第十五代将軍徳川慶喜の筆によるもので、青銅の照明灯装飾品の麒麟は東京市の繁栄を、獅子は守護を表しています。橋の中央にある日本国道路元標は、昭和四十二年に都電の廃止に伴い道路整備が行われたのを契機に、同四十七年に柱からプレートに変更されました。プレートの文字は当時の総理大臣佐藤栄作の筆によるものです。
平成十年に照明灯装飾品の修復が行われ、同十一年五月に国の重要文化財に指定されました。装飾品の旧部品の一部は中央区が寄贈を受け、大切に保管しています。
(中央区教育員会設置の案内板から・平成12年)




【国盗り合戦コラボイベント】銀座・築地の謎
①文明開化
この柱は当時の「〇〇〇〇」の実物だっつーからおどろいたぜ。さて、かつて銀座の通りを照らした、このひかるものは何かわかるかい?〇〇〇〇に入るものを答えてみな!(ひらがな4文字)
②発祥の地
世界的な宝飾店の前にある、銀座の謎を解く石には「慶長十七年、徳川幕府がこの地に〇〇を作る役所を設置」と刻まれてんだがな、さーて、〇〇に入るの何か分かるかい?答えてみな!(ひらがな3文字)
③波をのりきる
この地には商人がたくさん集まる広大な施設があるんよ。その敷地の隅っこには「わざわいをのぞき、波をのりきる」とても縁起のいい神社があるんだが、入口でお客をむかえる、大きなものは何かわかるかい?答えてみな!大切にされているものだぜ。(ひらがな2文字)
④ゆかりの地
赤石町のあかつき公園近くには、2枚の石版がならんでてよ、こちらに背を向けた人物の傍らには、ある有名な書物の名が刻まれてんのよ。さて、何と書いてあるのか分かるかい?答えてみな!(ひらがな8文字)
⑤昭和の面影
中央区の隅っこ、銀座郵便局の裏には当時ここに鉄道があったことがわかる跡が残されてんのよ。さて、それが何かわかるかい?びっくりしちゃうぜ!(ひらがな9文字)

190711_1438_築地市場前(東京都中央区) 190711_1442_築地場外市場(東京都中央区)
築地市場前 築地場外市場
190711_1445_1_波除神社(東京都中央区) 190711_1445_2_波除神社(東京都中央区)
波除神社御本社 波除神社 お歯黒獅子

<参考資料> 波除神社
御本社
衣食住 殖産工業 商業の守り神 である「倉稲魂命 うがのみたまのみこと」をお祀りし、波除様と尊称されます。現在の社殿は昭和十二年に出来たもので、御祭神の繋がりが有る伊勢の神宮(外宮)と同じ唯一神明造で造られており、国産の檜が使用され、戦前では東日本で最後の御造営された神社の御社殿です。

摂社 弁財天社
学芸の才能と豊かな財をなす福徳の神「市杵島姫命 いちきしまひめのみこと」をお祀りこの御祭神を俗に弁財天と称することから弁財天社と呼ばれます。
江戸時代の御本社の御創建に時を同じくお祀りされた縁の有る事から摂社として大切にお祀りされています。
また水にご縁の有る御祭神に因み手水の施設を組み込んだ造りになっております。

末社
天照大神(あまてらすおおみかみ)伊勢の神宮の御祭神・日本人の大御祖神さま、大国主命(おおくにぬしのみこと)大黒天、経営・開運の守り神、少彦名命(すくなひこなのみこと)恵比寿、医薬・開運の守り神、天日鷲命(あめのひわしのみこと)お酉様、商売繁盛の守り神、以上の四神をお祀りしております。

獅子殿
江戸時代、厄除・災難除の象徴として多くの参詣者を集め又当神社祭礼「つきじ獅子祭」の名称の元をもなした「厄除天井大獅子」は江戸末期に焼失以来その復興を待たれておりましたが、平成二年に加賀鶴来の現代の名工・知田清雲氏とその工房の手により再興され、神楽殿を基礎により全面改築された獅子殿に納められました。

七福殿
毎月七日の七福神参りの際に御祭神を安置する社殿です。その月の七福神の御神像が七日に安置されます。また七日以外では祭典の際に祓所としてお祀りされます。
(波除神社に設置の案内板から)

<参考HP>
・ 築地場外市場
  http://www.tsukiji.or.jp/
・ 波除神社
  http://www.namiyoke.or.jp/


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福島県いわき市( Wikipedia )は、福島県浜通りの南部に位置する都市で、人口は約34万人。東北地方では宮城県仙台市に次ぐ人口の多い都市で、かつては常磐炭鉱の開発による石炭産業と、漁業・海運業で賑わいました。
しかし、高度経済成長期において、輸入石炭の競合や輸入自由化により石油への転換が進み、主要産業であった石炭産業が急速に衰退。全国的に炭鉱が閉山(常磐炭鉱の完全閉山は昭和51年)されるなか、常磐炭鉱では炭鉱労働者とその家族の雇用創出のために炭鉱以外の新規事業を計画し、昭和41年(1966)に同市常磐湯本にて開業したのが、あの常磐ハワイアンセンター(現・スパリゾートハワイアンズ)。平成18年(2006)には、スパリゾートハワイアンズを舞台にした映画「フラガール」が全国公開され人気を集めました。
また、関東方面へ石炭輸送の集積地として賑わっていた小名浜( Wikipedia )は、JR常磐線の開通により一時衰退しますが、国や県による漁港整備が行われ、現在は大型船舶の出入港が可能な国際港として東北地方でも有数の規模を誇るほか、近年は、いわき小名浜みなとオアシス(アクアマリンパーク:「いわき・ら・ら・ミュウ」「アクアマリンふくしま」、いわきサンマリーナ)が設けられ、福島県有数の観光スポットとして賑わっています。
(写真:いわき市周辺と磐城平城跡=令和元年12月1日撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ いわき市ホームページ
  http://www.city.iwaki.lg.jp/
・ いわき市観光サイト
  https://kankou-iwaki.or.jp/
・ スパリゾートハワイアンズ
  http://www.hawaiians.co.jp/
・ SEA WAVE FMいわき
  http://www.fm-iwaki.co.jp/
・ いわき小名浜.COM
  http://www.iwaki-onahama.com/
・ いわき・ら・ら・ミュウ(小名浜)
  http://www.lalamew.jp/
・ アクアマリンふくしま(小名浜)
  http://www.marine.fks.ed.jp/


191130_1856_「菊池章夫コンサート in いわき2019」(福島県いわき市) 191130_2102_「菊池章夫コンサート in いわき2019」(福島県いわき市)
「菊池章夫コンサート in いわき2019」チケット
菊池章夫コンサート in いわき 2019

いわき市でのウォーキングは、前日、いわき市文化センターで開催された「菊池章夫(元阿呆鳥)コンサート in いわき」に参加するため、宿泊先のルートインいわき駅前店との往復から始まります。とはいっても、コンサート終了後、阿呆鳥ファンの方の車で、宿泊先に近い市内某所の宴会場まで車で送迎していただいたため、とてもウォーキングとはいえない距離でしたが…。
本格的な歩きは翌日1日から。目的地はJRいわき駅近くにある磐城平城。いわき発午前10時の特急ひたちの指定を予約していたため、実際には城跡周辺を巡る2時間程度のウォーキングでしたが、前回気づかなかった城郭の配置や遺構を学ぶことができましたので、個人的にはとても有意義な時間を過ごせたのかなと思っています。

191201_0930_JRいわき駅前(福島県いわき市) 191201_0806_いわき市内(福島県いわき市)
JRいわき駅 いわき市内
191201_0806_FMいわき(福島県いわき市) 191201_0816_いわき市文化センター(福島県いわき市)
SEA WAVE FMいわき いわき市文化センター

磐城平城ウォーキングルート
JRいわき駅→裏外張門跡→(急坂)→(左手に)弓櫓跡→中仕切門跡→埋門跡→塗師櫓跡→磐城平城本丸(※本丸跡は私有地とのことから一般公開なく立入禁止)→中門櫓跡→大手曲輪跡→追手門及び追手櫓跡→(右手に)鐘櫓跡→城坂(下り)→(本丸跡下を歩き)→裏外張門跡→JRいわき駅

191201_0850_磐城平城跡(福島県いわき市) 191201_0842_磐城平城跡(福島県いわき市)
岩城平ノ繪圖(寛政年間)と磐城平城下之図
191201_0836_w_磐城平城跡(福島県いわき市)
JRいわき駅から望む磐城平城
191201_0848_磐城平城跡(福島県いわき市) 191201_0852_磐城平城跡(福島県いわき市)
塗師櫓下の石垣 中門櫓跡の石垣

磐城平城
磐城平城( Wikipedia )は、関ケ原の合戦の前哨戦ともなった伏見城攻防戦において討死した鳥居元忠( Wikipedia )の忠臣を称え、合戦後、徳川家康が磐城領10万石を与えられた元忠の子である鳥居忠政( Wikipedia )により元和元年(1615)に築城されました。
天守閣はなく、本丸に建てられた三層櫓がその役目を果たし、城下から望む姿は「磐城名物三階櫓、竜のお堀に浮いて立つ」ともいわれました。然しながら、明治元年(1868)の戊辰戦争において、磐城平藩は奥羽列藩同盟に与したことから明治新政府の軍に攻められ、攻防戦( Wikipedia )において城を焼失して敗走。現在、その姿を望むことはできません。

興味深いところでは、関ケ原の合戦の戦後処理に際して、磐城平の所領を没収された岩城貞隆が、大坂の陣での活躍が認められ、元和2年(1616)に信濃国中村に所領1万石が与えられたことでしょうか。中村地区は、現在の長野県下高井郡木島平村中村とのことであり、所領を与えられた貞隆は、ここに信濃中村藩を立藩。後を継いだ吉隆の二代にわたり北信濃を支配したと伝えられています。

<参考HP>
・ 磐城平城本丸跡地
  http://tairajyou.com/

<参考資料> いわきの戊辰戦争
平成30(2018)年は戊辰戦争から150年、大きな節目の年に当たります。
慶応3(1867)年10月14日、江戸幕府の15代将軍、徳川慶喜が大政奉還(政治の実権を天皇に返上すること)を行いました。それを受け、慶応3年12月9日、天皇が王政復古(天皇のものとで政治を行うこと)の大号令を出し、薩摩藩や長州藩などが主導する新しい政権が発足しました。しかし、江戸幕府の影響力を残そうとする勢力と、それを阻止しようとする勢力の対立が深まり、慶応4年(1868)1月3日、京都の鳥羽・伏見で武力衝突し、戊辰戦争が起きてしまいました。
この後、戊辰戦争は拡大し、甲州勝沼や上野、宇都宮など、関東地方各地でも戦争が起こり、慶応4年6月16日には、新政府軍(薩摩藩、佐土原藩、大村藩)が、平潟に上陸し、その後、約1ヵ月にわたって、いわきの地で戦いが繰り広げられました。6月17日には勿来の九面の戦いがあり、6月28日には泉城が落城し、新田坂の戦いが行われました。6月29日は小名浜で二ッ橋の戦いがあり、また、湯長谷城が落城しました。奥羽越列藩同盟の拠点が置かれた磐城平城は、6月29日、7月1日(※平・谷川瀬口の戦い)、13日(※六間門の戦い)の3回にわたって、新政府軍による攻撃が行われ、ついに、7月13日の夜、16時間に及ぶ激戦の末、落城しました。また、いわき市平中神谷には笠間藩の神谷陣屋があり、その陣屋を巡って、奥羽越列藩同盟軍と笠間藩との間で戦いが行われました。

平・谷川瀬口(やがわせぐち)の戦い
慶応4年7月1日 第2次磐城平城攻撃
慶応4年(1868)7月1日、新政府軍は小名浜を出発し、平の谷川瀬に到着、その後、磐城平城へ直進する部隊と、西にある長橋から攻撃する部隊の二手に分かれ、攻撃を開始しました。これに対し、奥羽越列藩同盟軍は、懸命に応戦、激しい戦いになりましたが、応援に来ていた米沢藩を含め他藩の活躍もあって、優勢となり、新政府軍は小銃や大砲の弾がなくなって、兵を引きました。

六間門(ろっけんもん)の戦い
慶応4年7月13日 第3次磐城平城攻撃
磐城平城の西にあった六間門は、城を守る上で要の場所でした。戊辰戦争では相馬藩の相馬将監の部隊が守っていました。将監は「鬼の将監」とも呼ばれ、大変勇ましい隊長で、新政府軍の激しい攻撃を受けながらも、隊員を励まし、最後まで、この門を守り抜きました。
現在、門はなく、民家が並んでいます。

訪れたい、いわきの戊辰戦争ゆかりの地
いわきの戦いの最終拠点 磐城平城本丸跡
(いわき市平字旧城跡28)
慶応4(1868)年7月13日の午前8時、新政府軍による一斉攻撃が始まりました。激戦は16時間に及び、特に、減税の銀座通りやJRいわき駅のあたりで激しい戦いが行われ、その夜12時に磐城平城は落城しました。

日本の地域医療の礎 奥羽出張病院跡
(いわき市平字長橋町23 性源寺)
戊辰戦争当時、新政府軍によって奥羽出張病院が設置され、敵味方の区別なく、傷病兵や住民の治療にあたりました。この実践はその後、日本の地域医療の礎となりました。

長瀬口の激戦地『為戦死者追福』の碑
(いわき市内郷小島町台の上2 満蔵寺)
慶応4(1868)年6月29日、湯長谷城を攻め落とした新政府軍は、磐城平城への南西の入口、長橋口に進み、磐城平城への攻撃を行いました。その時、拠点としたのは満蔵寺のあたりでした。戊辰戦争の後、石碑が建てられました。

戊辰戦死者が眠る地 平藩戦死者の墓
(いわき市平古鍛冶町107 良善寺)
戊辰戦争で寺は焼失しましたが、唯一山門が残っており、銃の弾丸跡を現代に伝えています。平藩士のほか農民や行方不明者に至るまで丁重にまつられています。
(JRいわき駅に設置された案内板から)


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勿来の関( Wikipedia )は、JR常磐線勿来駅から西に約2kmの小高い山(関山)にあり、周辺にはいわき市勿来関文学歴史館を中心とした勿来の関公園が整備されています。
しかしこのウォーキング、事前にGoogle mapやストリートビューなどで確認した上で歩いたわけですが、歩行距離約2kmの後半半分は傾斜のある道が延々と続くもので、思いのほか労力を要するルートでした。
(写真:福島県いわき市勿来地区=令和元年11月30日撮影、640×480拡大可能)


191130_1600_JR常磐線勿来駅(福島県いわき市)  191130_1550_JR常磐線勿来駅(福島県いわき市)
JR常磐線勿来駅
 191130_1528_勿来の関公園・源義家銅像(福島県いわき市) 191130_1526_勿来の関公園・弓掛の松(福島県いわき市)
源義家像 弓掛の松

<参考資料>勿来関
勿来関は もと菊多(いわき市南部の古名)剗と呼ばれ今を去る千五百有余年前に設置されたといわれ 白河関 念珠関と並んで奥羽三古関の一つとして名高い関所である
これを「勿来」 すなわち「来るなかれ」と呼んだのは平安中期ごろからであり 北方の蝦夷の南下をせきとめるためであったと言われている
又平安初期の弘仁二年 いわき地方の駅路(官道)の廃止にともなう通行止めを監視する関とする説もある
平安時代も終わりに近い後三年の役のとき陸奥守源義家( Wikipedia )が その平定のため奥州に下向する途中ここにさしかかる
折りしも盛りの山桜が春の山風に舞いながら路上に散りしいていた
行く春をおしむかのように 武将の鉄衣に舞いかかる桜の花にさすがの義家も今はただ余りの美しさに駒をとどめ

 吹く風を 勿来の関と 思えども
  道もせに散る 山桜かな

と詠したのが 直線千載和歌集に載せられ勿来関の名を今の世に伝えている
(いわき市設置の石碑から)

<参考資料> 弓掛の松の由来
源義家公がこの地で休息をとったときに一本の松に弓を掛け、隣の松に鞍を掛けたと言い伝えられ、弓掛の松、鞍掛の松と一対をなし、長い年月その威容を誇っていたが遂に枯死し、平成九年(一九九七)十二月四日下部を残し切断する。
明治四十三年当地を訪れた徳富蘆花は「八幡太郎弓かけの松、鞍かけの松、など言ふ老大な赤松黒松が十四、五本太平洋の風に吹かれて、翠の梢に颯々の音を立てている。五六百年の物では無い」と記している。(「熊の足跡」勿来より)

191130_1509_いわき市勿来関文学歴史館(福島県いわき市) 191130_1508_いわき市勿来関文学歴史館(福島県いわき市)
いわき市勿来関文学歴史館

企画展 本田忠籌と「こぞの枝折」
立ち寄ったいわき市勿来関文学歴史館では、泉藩主を引退した本田忠籌( Wikipedia )が、享和元年(1801)に、荷路夫(にちぶ)に設けた郷倉を視察した際の道中記「こその枝折(こぞのしおり)」を紹介する企画展(令和元年10月17日~12月17日)が開催されていました。
忠籌(ほんだただかず)は、江戸時代中期に磐城国泉藩主( Wikipedia )を務めた大名で、松平定信とともに寛政の改革を推進した人物として知られています。

<参考HP>
・ いわき市勿来関文学歴史館
  http://www.iwaki-ec.or.jp/bunreki/


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