管理人の思いつくまま、気の向くまま、長野県内の町や村の話題を取り上げています。
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第一次世界大戦による好景気は物価の上昇を招き、なかでも米価は買い占めなどにより高騰し、庶民の生活に影響を及ぼす事態となりました。
そうしたなか、大正7年(1914)、富山県下新川郡魚津町(現在の魚津市)で、漁師の主婦らが、北海道への米の輸送を行うため寄港した「伊吹丸」に対して米の積み出しをやめるよう要求。米の搬出は中止されましたが、この行動は富山湾沿岸地帯に広がり、やがて全国的規模に発展しました( wikipedia )。
(写真:米騒動発祥の地となった旧十二銀行米倉=平成25年8月3日撮影、640×480拡大可能)
<参考HP>
・ 魚津市観光協会 「魚津たびナビ」
http://www.uozu-kanko.jp/
・ 魚津市ホームページ
http://www.city.uozu.toyama.jp/
| 米騒動発祥の地 (平成25年8月3日) | |
| 米騒動当時の状況 | 米騒動発祥の地モニュメント |
<参考資料> 魚津の米騒動
大正三年(一九一四)に始まった第一次世界大戦は、日本に好景気をもたらしましたが、その反面、物価は急上昇し、庶民の生活は困窮した。特に、米商人の買い占めや売り惜しみなどにより米価は戦前の四倍になっていた。
このような状況下、大正七年(一九一八)七月二十三日、北海道への米の輸送船『伊吹丸』が魚津町に寄港した。おりからの米価高騰に苦しんでいた漁師の主婦ら数十人が米の積み出しをおこなっていた大町海岸の十二銀行の米倉前に集まり、米の積み出しをやめるよう要求し、このため米の搬出は中止された。
この事件は、地元紙により富山県内に大きく報道され、水橋、滑川、岩瀬、泊、生地など沿岸部で次々と米騒動がおこった。さらにこの騒動は全国に広がり、当時の内閣(※首相:寺内正毅)が総辞職に追いこまれた。その後、日本で最初の本格的な政党内閣(※首相:原敬)の誕生につながった。
(魚津市教育委員会設置の案内板から)
<参考資料> 米騒動発祥の地 旧十二銀行 米倉 (地図)
大正七(一九一八)年、全国をゆるがせた米騒動は、七月二十三日の魚津町(現・魚津市)で起こった汽船への米の積み出し阻止が発端といわれています。
ここは、旧十二銀行の米倉庫でした。当時は地元の米上人が買い付けた米(俵)は、銀行管理の倉庫に預けられ、そこから汽船に積み込んで出荷していました。現在は海辺の景観も変わってしまいましたが、この米倉が魚津の米騒動の名残りをとどめています。
(魚津市教育委員会設置の案内板から)
<参考資料> 旧十二銀行 米倉修繕
建設年代:大正三年(一九一四年)
構造形式:土蔵造り 木造瓦葺
規模:
間口四十メートル、奥行十一メートル(米倉本体は八.二メートル)、高さ六.五メートル、面積四四五平方メートル(米倉本体三一三平方メートル)
特徴:
外観は、土蔵と開放的な下屋(げや・一段下がった屋根)からなる。室内は、七室に仕切られ、その出入り口は、漆喰の鳥居枠に養生石を貼り、壁面には荷物の運搬で傷めないよう板の保護がある。
内部は、半間(約〇.九メートル)間隔に主要な柱が入る強固な構造になっている。また、壁には凝灰岩切石が積み上げられている。さらに通気性を考慮し、板を内外交互に張る大和張りが採用されている。
屋根は棟通りに地棟を入れずに、一間幅(約一.八メートル)の天秤梁(地棟を受ける梁)両端に地棟を二列に通した珍しい構造をしている。また、瓦の下には、厚さ四cmのモルタルがある。
修繕期間:平成二十一年十月~平成二十二年三月
修繕内容:
米騒動発祥の地に現存する歴史的遺産の米倉を後世に残す目的で修繕を実施した。修繕にあたっては、建設時の外観を再現するものとし、可能な限り、現在使用している部材を活用した。波打っている屋根は、米倉の構造上の特徴として、あえて現状のままに修繕をしたので、施工業者は、高い技術と数倍の労力を費やすことになった。しかしながら、建設時の外観を特定できる史料が存在しない外壁は、内部構造を保護するために下見板張りとした。また、七ヶ所ある米倉の出入口周囲は、破損が少ないことから、最小限の修繕にとどめた。
内部の見学:
原則として、内部は公開しておりません。
見学希望の方は、事前に魚津市教育委員会に申請してください。
(魚津市教育委員会設置の案内板から)
<参考資料> 魚津の米騒動はなぜ起こったのか?
大正七年(一九一八)、米価が急に上がり、半年で一.七倍になった。その理由は、年の人口増加によりコメの消費量が増大したことやシベリア出兵をきっかけとした米の買い付け、一部商人による米の買い占めだった。人々の生活は、大変苦しいものになった。そのうような状況の中、北海道に米を運ぶための蒸気船「伊吹丸」が魚津沖に停泊し、米の積込み作業を始めたことから、船への積込みを阻止するために米騒動が起こった。
七月二十三日に起こった魚津の米騒動は、公的機関の記録を基に一番早く起こっていることから、この地を「米騒動発祥の地」と呼ばれるようになった。魚津の米騒動は、暴力的ではなく、話し合いで収まったことが大きな特徴である。
(魚津市教育委員会設置の案内板から)
<参考資料> 全国に広がった米騒動
富山県は、江戸時代から、米が高くなった時に藩が米を貸し与えたり、明治時代には、町が白米を給付したりしていた。そのため、町に救済を願い出る行動が、明治時代から行われていた。大正七年(一九一八年)七月二十三日の魚津の米騒動は、すぐに『富山日報』におり県内に大きく報道された。そのため、二〇市町村で米騒動が起き、五三〇〇人が参加した。八月には、富山県内各地に広がった。米騒動が「女房連の一揆」、「女一揆」などの名で全国に報道されると、富山県外でも米騒動が起きた。全国では、青森、秋田、沖縄県を除く、一道三府四〇県、約五〇〇ヶ所で米騒動が発生し、約七〇万~一〇〇万人が参加したと言われている。 (魚津市教育委員会設置の案内板から)
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富山県魚津市にある市指定史跡(地図)。
魚津城はもともと市の南東部にある松倉城の支城として、15世紀頃に椎名氏が築城しましたが、永禄年間(1568~69)に越後の上杉謙信が攻略。以降、上杉方の越中における拠点となりました。
しかし、上杉謙信死後、景勝と景虎が争う「御館の乱」が勃発し、越後国内の情勢が乱れるなか、北陸に侵略した織田方が勢力を伸ばし、天正9年(1581)、家臣の佐々成政が越中に入り、上杉方は東部に追いやられる状況となりました。
天正10年(1582)3月、柴田勝家を総大将とする織田連合軍は、魚津城攻撃を開始。守備を固める中条景泰ら12名の城将は、4月23日、落城目前となった状況と救援を求める書状を直江兼続宛てに送るものの、南から海津城(長野県長野市)を守る森長可が、また上野(群馬県)からは滝川一益らが越後侵攻を窺う緊迫した状況下にあり、すぐには救援に向かうことができませんでした。
景勝が援軍を率いて、魚津市内の天神山(地図)に布陣したのは5月15日。しかし、この間にも森長可らが越後に侵入し、春日山城に迫る状況となったことから、5月26日、景勝はやむなく天神山城から撤退。魚津城は孤立無援となりました。
織田軍の総攻撃に、景勝は城を捨てて降伏するよう命じるものの、魚津城将たちは最後まで戦い、6月3日ついに落城。
奇しくも、2日早朝、京都では本能寺の変により、宿敵・織田信長が明智光秀の謀反により自害するという事件が勃発。
あと数日、持ちこたえていれば、落城することなく、兵を失うこともなかった…。織田軍撤退後の魚津城を奪取した上杉軍の将兵たちは、きっとそう思ったことでしょう。魚津城の悲劇の籠城戦( wikipedia )は、こうして後世に語り継がれることになりました。
(写真:大町小学校に建つ魚津城跡の碑=平成25年8月3日撮影、640×480拡大可能)
<参考HP>
・ 魚津たびナビ(魚津市観光協会)
http://www.uozu-kanko.jp/
・ 魚津市ホームページ
http://www.city.uozu.toyama.jp/
| 魚津市指定史跡 魚津城跡 (8月3日) | |
| 現在の地図 | 推定復元した魚津城 |
| ときわの松 | 上杉謙信歌碑 |
<参考資料> 史跡 魚津城跡
松倉城の麓を流れる角川の河口付近に位置し、旧北陸道に面した交通の要衝に築かれた平城です。築城年代は定かではありませんが、室町時代には松倉城の重要な支城(出城)として機能していました。
天正十年(一五八二)、越後(新潟県)を本拠地とする上杉方にとって、越中(富山県)における重要な拠点であった魚津城は、西方より勢力を拡大してきた織田方の柴田勝家・佐々成政・前田利家らの攻撃を受け、「本能寺の変」の翌日である六月三日に落城しました。その後、魚津城は佐々氏、次いで前田氏の支配下になりましたが、江戸時だの初めに廃城となり、加賀藩の米蔵や武器庫として利用されました。城の周囲には奉行所や寺院が置かれたことから新川郡の政治的・軍事的中心として栄えました。江戸時代中頃の「魚津町惣絵図」には、城の本丸とそれを囲む二の丸堀が描かれており、近年まで堀の一部が残っていました。本丸部分は現在、大町小学校となっています。
(魚津市教育委員会設置の案内板から)
<参考資料> 上杉謙信の歌碑
天正の初年(一五七三年)上杉謙信が越後の精兵を引きつれて越中へ進入し魚津城外にたむろして時の歌であり、時は初秋、過雁一声(かがんいっせい)鎧のまま野伏した謙信が思わず旅愁をそそられてこの一句を口ずさんだものと思われる句詩
武士(もののふ)の よろいの袖を かたしきて 枕に近き はつかりの声
(魚津市教育委員会設置の案内板から)
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長野市吉田のながの東急ライフ・わいわいドームで2日午後、恒例の栄ふるさと太鼓(下水内郡栄村)のみなさんによる太鼓の演奏が行われました。
(写真:栄ふるさと太鼓のみなさんの演奏=2日午後撮影)
<管理人ひとこと>
毎年、楽しみにしている栄ふるさと太鼓の演奏。
子供たちの力強い撥さばきに今年も元気
今朝の栄村は雪が降っていたそうです。
ありがとうございました。
<参考HP>
・ 北長野ショッピングセンター ながの東急ライフ
http://www.tokyulife.co.jp/
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石川県羽咋(はくい)市にある能登一ノ宮 氣多大社(地図)。
境内入口にある案内板によれば、氣多大社( wikipedia )の歴史は古く、初見は万葉集に、天平20年(748)に、越中守大伴家持が出挙(すいこ)のため能登を巡行した際に大社を参詣し、「之乎路から直超え来れば羽咋の海朝なぎしたり船楫もがも」と詠んだことが記録されているそうです。また、氣多大社を崇敬した加賀藩の前田利家公をはじめ歴代藩主により、現存する本殿(大己貴命・おおなむちのみこと)、拝殿、神門、摂社若宮神社(事代主命)、摂社白山神社(以上国指定重要文化財)、神庫、随身門(ともに県指定文化財)の造営、本殿背後に広がる原生林「人いらずの森(国指定天然記念物」の保護を受け、現在に至っています。
最近では縁結びの神社として、また「氣」の集まるパワースポットとして、多くの参拝者が訪れています。
(写真:氣多大社本殿=7月13日撮影、640×480拡大可能)
<参考HP>
・ 金沢市観光協会
http://www.kanazawa-kankoukyoukai.gr.jp/
・ 氣多大社
http://www.keta.jp/
<参考資料> 氣多大社
当社は氣多神宮とも称え奉り能登國一宮として世に知られ北陸道総鎮護のお社であります。御祭神は大國主神をまつり世に大國権と申し多くの人々に崇められております。若宮神社の御祭神は事代主命を祀りえびす様と称し親しまれている神様です。神社殿背後の杜は約三万平方米の広さを有し「いらずの森」として千古の歴史を伝え北陸地方随一の原生林であります。 (氣多大社設置の案内板から)
<参考資料> 正覚院(しょうがくいん)
当山は、氣多大社の神宮寺(別当寺)として創建され、元正(げんしょう)天皇御代養老二(七一八)年に越前の大徳泰澄大師(だいとこたいちょうだいし)が、夢想のお告げから一堂を建立したと伝えられている。
その後、文徳(もんとく)天皇斉衝(さいこう)二(八五五)年に亀鶴蓬莱山氣多太神宮寺の勅号を給い、同時に「常住の僧を置き、出家の定数三人を認めるから永久に絶やすことのないように」との指令が出される。(文徳実録)
以来、一千有余年神社に奉仕してきたが、明治維新の神仏分離令により、直接の関係を絶つ。しかし今でも神仏混淆当時の面影を残し、もと本殿奉安「八咫(やた)の神鏡」を初め、開かずの宮ともいわれる護摩堂本尊「不動明王」、重文「阿弥陀如来」(※「上品上生まれる阿弥陀如来・平安朝後期定朝様式・昭和25年8月8日指定)など多くの寺宝を秘蔵する。 (正覚院設置の案内板から)
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石川県金沢市東山の「ひがし茶屋街」とともに重要伝統的建造物群保存地区になっている主計町(かずえまち)茶屋街(
(写真:浅野川大橋沿いに連なる主計町茶屋街の町並み=7月13日撮影、640×480拡大可能)
<参考HP>
・ 金沢市観光協会
http://www.kanazawa-kankoukyoukai.gr.jp/
・ 泉鏡花記念館
http://www.kanazawa-museum.jp/kyoka/
・ 武家屋敷 寺島蔵人邸
http://www.kanazawa-museum.jp/terashima/
<参考資料>
藩政時代、金沢城下に入る浅野川大橋の畔のこの界隈は、人や物資が行き交う大変繁華な場所であった。
明治の中ほどになると、「ひがし」や「にし」と並ぶ茶屋街として大いに賑わったとされ、そのことの様子は、隣町の下新町に生まれ育った泉鏡花( wikipedia )の作品に良く描かれるところとなった。
通りの面して一階を揃いの出格子とし、背の高い二階には吹放しの縁側と座敷を備える姿は茶屋建築の特徴を良く残すとともに、その多くは明治後期以降に三階建とされた珍しい姿を見せている。
今も夕暮れ時には、軒を連ねる茶屋の明かりが川面を照らし、どこからともなく笛や三弦の音が聞こえる風情あふれる茶屋町である。
(金沢市設置の案内板から)
<参考資料> 金沢市指定史跡 金沢城惣構跡~西内惣構緑水苑内遺構~
惣構とは?
| 復元整備中時の様子 |
| 現在の惣構の様子 |
金沢城には、城下町を囲って内、外2重の惣構が造られました。
内惣構は、慶長4年(1599)二代藩主・前田利長が高山右近に命じて造らせたと言われています。さらに慶長15年(1610)には三代藩主・前田利常が篠原一孝に命じて外惣構を造らせたと言われています。
発掘調査結果
①内惣構築造当時は河川敷だった
内惣構築造当時(1600年頃)、この周辺は浅野川の河川敷だったようです。
その後17世紀前半に埋め立てられ堀が形成されたことがわかりました。
②堀が軽視えされてから幕末までの間、堀幅はほとんどかわらなかった
17世紀前半に堀が形成されてから、洪水等による堆積、堀削の繰り返しにより堀底の深さはだんだん浅くなっていったようですが、堀幅は幕末までほとんど変わりませんでした。明治に入ると大幅に埋め立てられたようです。
復元整備について
①発堀調査によって確認された地形をもとに堀の復元をしました。幅は概ね10mです。
②江戸時代の遺構を保護するために、上に30cm以上の保護層を設けました。そのため、実際の幅より少し狭くしています。
③遺構の保護とスムーズな排水確保のため、当時の堀より浅くしています。
④堀や土居の斜面の角度は、発堀調査にて明らかにされた土手面をもとに推定しています。
(金沢市歴史建造物整備課設置の案内板から)
<参考資料> こまちなき保存区域~旧彦三一番丁・母衣町区域
彦三町西内惣構堀(そうがまえぼり)と西外惣構堀の間に位置する武家地であり「旧彦三一番丁」は、その東側に位置しています。町名は地内に神屋敷を構えた不破家代々の通称名「彦三」にちなみ、その名が付けられました。堀越しに見える前庭の緑や、その奥にひかえる屋根などに、武士系住宅地の特徴が見られます。
一方、「旧母衣町(きゅうほろまち)」は、藩政時代に母衣衆の組地があったことが町名の由来となっており、往時からの小路を歩きながら、歴史を感じることができるまちなみがこの町の特徴となっています。
(金沢市設置の案内板から)
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