管理人の思いつくまま、気の向くまま、長野県内の町や村の話題を取り上げています。
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安政元年(1854)、門下の吉田松陰( Wikipedia )が来航したペリー艦隊のポーハタン号に乗り込み、米国への密航を企てた事件に連座し、伝馬町に入獄した佐久間象山( Wikipedia )が松代での蟄居を命じられ、文久2年(1862)まで住まいとした藩家老望月主水の下屋敷「聚遠楼」があった場所(地図)。その敷地内に、現在は象山神社に移築保存されている「高義亭」があったとされ、中岡慎太郎( Wikipedia )や高杉晋作( Wikipedia )など維新の志士たちと国論を論じたと伝えられています。
(写真:佐久間象山 蟄居の地=3日午前撮影、640×480拡大可能)
<参考資料> 佐久間象山 蟄居の地
維新の先駆者佐久間象山は、幕府老中海防掛となった藩主幸貫の顧問として「海防八策」を建議。公武合体、開国を主張した。安政元年(一八五四)吉田松陰密航事件に連座して、この場所にあった藩家老望月主水の下屋敷「聚遠楼」で蟄居。中岡慎太郎や高杉晋作らが訪れ、国論を闘わした。
文化八年(一八一一)~元治元年(一八六四)
(案内板から)
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長野市松代町の象山神社西側にある佐久間象山宅跡(地図)。
佐久間象山( Wikipedia )は江戸時代後期の文化8年(1811)にこの地で生まれ、天保10年(1839)にの2度目の江戸留学までここを住みかとしていました。
弘化3年(1846)、帰藩の命により江戸から松代へ戻りますが、この地にあったかつての住居が廃れていたことから、藩御使者屋(伊勢町)を借りて住みます。また、松代蟄居を命ぜられた嘉永7年(安政元年・1854)のときにもここには戻らず、藩の江戸詰家老 望月主水の下屋敷(御安町)に住みました。
象山が京都・三条木屋町で倒れた後、佐久間家の屋敷は藩により取り壊され、明治時代には他人の手に渡ります。しかし、大正2年(1913)に行われた象山先生50周年祭の際に松代象山会(明治44年設立)がこの地を買収、当時の松代町(現在の長野市)に寄付されました。
(写真:佐久間象山宅跡と象山神社境内=8日午後撮影、640×480拡大可能)
<参考HP>
・ 象山神社ホームページ
http://zouzan.net/
・ 長野市文化財データベース
http://www.bunkazai-nagano.jp/
象山神社と佐久間象山宅跡 | |
象山神社・イロハカエデ | 象山神社・桜賦の碑 |
象山神社・心の池 | 煙雨亭 |
佐久間象山宅跡 |
<参考資料> 県史跡 佐久間象山宅跡
ここは象山の曽祖父国品以来の佐久間家の宅跡で、象山は文化八年(一八一一)二月十一日この地で生まれた。天保十年(一八三九)の二度目の江戸留学まで二九年間ここに住み、藩の青年たちに学問を教えて後進の指導に努めた。
象山の父は佐久間国善(一学または神渓とも号した)といい、五両五人扶持(七〇石相当)の家だったが、剣は卜(ぼく)伝流の達人であり、また、易学をもって知られた名門であった。
屋敷の指定面積は、八七七・八平方メートルで、南方中程に表門、西方中程に裏門があった。住宅は屋敷東寄り中央に東西五間、南北三間半の茅葺平屋造りのもので、表門西脇に父神渓の槍・剣術場・学問所があり、裏門の北と南に長屋二棟があって、藩中軽輩士分の屋敷構であった。屋敷東北隅には硝石製造原土置場があった。
万治元年(一八六四)三月、徳川幕府の招きで上洛し、開国・公武合体論を主張し大いに画策したが、同年七月十一日京都三条木屋町で刺客の凶刃に倒れた。享年五四歳。佐久間家は断絶になり、屋敷は藩に取り上げられ、後に住宅も破壊された。当時をしのばせるものは、住宅の西北隅にあった井戸のみである。
(長野市教育委員会設置の案内板から)
<参考資料> 茶室 煙雨亭(えんうてい)
佐久間象山は、松代における九年の蟄居の後、元治元年(一八六四)三月幕府の招きに応じて京都に上り、しばらくして三条木屋町の鴨川べりの一戸構えに移った。その家は平屋で広く、茶室までも備わり、鴨川を隔てて東山・八坂の塔なども見える、眺めの良い家であった。象山は雨に煙る情緒豊かな風情を愛で、煙雨楼と名づけた。同年七月十一日、攘夷論者のため悲業の最後を迎える迄に僅か二ヶ月の住居であった。
この茶室は、その煙雨楼内の茶室で、昭和四十年頃解体の折、京都象山会の高岡謙次氏がその資材を譲り受け保管されていた。
昭和五十六年にこの資材をご寄贈いただき、象山の往時を偲び後世に伝えるため煙雨亭と名づけ、象山ゆかりの地に同年移築したものである。
(長野市教育委員会設置の案内板から)
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長野市松代町西条の舞鶴山にある気象庁松代地震観測所・松代地震センター(地図)。戦前掘られた松代大本営地下壕跡( Wikipedia )を利用して、昭和22年5月に開設されました。
坑道内には、南北・東西100mの長さがある円筒状巨大ひずみ地震計やSTS-2型地震計等( Wikipedia )を設置。観測所2ヶ所(短周期・長周期地震計と広帯域地震計)および観測所から10キロの範囲内に設けた6ヶ所(短周期地震計)の地震計から得られたデータを処理する群列地震観測システム(MSAS)の導入により、24時間体制で世界各地で起こる地震や地殻変動を観測しています。
(写真:舞鶴山にある気象庁地震観測室・松代地震センター=23日午前撮影、640×480拡大可能)
<参考HP>
・ 気象庁松代地震観測所
(旧松代精密地震観測室)
http://www.jma-net.go.jp/matsushiro/
<参考資料> 気象庁地震観測室(松代地下大本営跡)
第二次世界大戦の末期、軍部が本土決戦最後の拠点として、極秘のうちに、大本営軍司令部 参謀本部 政府各省等をこの地に移すという計画のもとに、昭和十九年十一月十一日午前十一時着工翌二十年八月十五日の終戦の日まで、およそ九ヶ月の間に当時の金額で二億円の巨費と延三百万人の住民及び朝鮮人の人々が労働者として( )動員され突貫工事をもって構築したもので全行程の75%完成した。
ここは地質学的にも( )堅い岩盤地帯であるばかりでなく、海岸線からも遠距離にあり、川中島合戦の古戦場としても知られているとおり要害の地である。
規模は三段階、数百米に亘る、ぺトン式の半地下建造物、舞鶴山を中心として、皆神山、象山に碁盤の目の如く縦横に掘抜きその延長は十粁余に及ぶ大地下壕である。
現在は世界屈指を誇る気象庁の地震観測所として使用され、高倍率のひずみ地震計はじめ各種高性能観測機が日夜活躍している。
この説明板の中に、「延べ三百万人の住民及び朝鮮人の人々が労働者として強制的に動員され、」と記載されていましたが、「全員が強制的ではなかった」などの見解があることから、現在、説明内容について再検討しています。
(長野市観光課設置の案内板から)
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長野市松代町西条の神田川近くにある製糸工場・六工社跡(地図)。
六工社は日本最初の民間蒸気製糸場で、地元の大里忠一郎が官営富岡製糸場を参考に明治9年(1874)に開設しました。
六工社開設には、富岡製糸場に繰糸技術を学ぶため派遣された和田英( Wikipedia )ら松代の子女たちの貢献著しく、松代における近代産業発展に大きく寄与しました。英の記した「富岡日誌」に当時の状況が詳しく描かれています。
(写真:松代町西条に残る六工社跡=23日午前撮影、640×480拡大可能)
<参考HP>
・ 富岡日記
http://cruel.org/books/tomioka/tomioka.html
・ 富岡製糸場
http://www.tomioka-silk.jp/hp/index.html
松代出身の子女が研修のため派遣された富岡製糸場 (画像提供 富岡市・富岡製糸場) |
<参考資料> 六工社(ろっこうしゃ)案内
明治維新以来、松代地域の疲弊した経済の救済と繁栄を図ろうと、大里忠一郎等は同志数名と共に謀りこの地方に適した産業として当時輸出産業第一位の製糸業に着眼し、製糸場の設置を計画した。そして国内唯一の官営富岡製糸場(群馬県)にならい、明治六年(一八七三年)二月民間蒸気製糸場の建設を始めた。
横田数馬の助力を得、同志九名が資本金二千円を拠出、約千円を他より借入、銅製蒸気釜の考案など苦心しつつ操糸場、釜場、水車、工女部屋、薪置場、用水池、帳場炊所、浴室等を備えた「六工社」をこの地(西条六工)に創設した。社長に春山喜平次、副社長に大里忠一郎が就任し、工女五十人繰りの規模であった。
明治六年三月、富岡製糸場へ伝習のため派遣された横田英他十五名が帰るのを待って、明治七年八月二五日に「大日本帝国民間蒸気器機の元祖六工社」(和田英・旧姓横田「富岡日記」)が創業を開始した。
六工社は、わが国民間フランス式改良日本型蒸気製糸場の創始であり、「六工社生糸」の名は国際的にも知れわたった。
(松代史跡文化財開発委員会設置の案内板から)
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長野市松代町の浄土宗 送経山西念寺にある花井吉成の墓。
吉成は徳川家康の六男松平忠輝の家老として松代に入り、慶長15年(1610)忠輝が越後高田藩主となった際に、領有していた北信4郡を支配するため、松代城代となりました。
吉成は、北国街道の改修や、裾花川を現在の川筋に替える「裾花川の瀬替え」を行ったほか、用水の配置するなど土木事業において功績を残し、領民からも親しまれたと伝えられています。
(写真:西念寺にある花井吉成の墓=3月21日撮影、640×480拡大可能)
<参考資料> 史跡 花井吉成の墓
花井吉成(~一六一三)は、徳川家康の六男、松平忠輝が慶長八年(一六〇三)に北信濃四郡(水内、高井、更科、埴科の各郡)を領有したときに松代城に入り、この地の行政にあたった人物である。北国街道の整備、裾花川の改修などの土木工事の実施や新田開発をおこなったとされる。同十八年(一六一三)八月二十一日に当地で没し、西念寺に葬られた。
西念寺は、吉成が松代に入封以降縁が深くなり、このため寺内に墓がある。墓石には吉成の法号「摩尼宝殿覚月正徹大禅定門」と刻まれていて、宝篋印塔(※ほうきょういんとう)という形式をとる。
二段の石壇の上に据えられていて、基壇は高さ二九・五cm、基礎は高さ二一cmで、基礎の周辺を額縁状に刻んでいる。塔身は幅二〇cm、高さ二七cmで、四面に楕円形の彫り込みがあり、その中に四方四仏(しほうしぶつ)の種字(しゅじ)が刻まれている。笠部は下二段、上四段に段をつけ隅飾りの突起の輪郭を二つの弧で巻く。最上部には露盤の上に筒状の受花(うけばな)・伏鉢(ふくばち)をおき、さらに九輪(くりん)を立てる。江戸時代初期に建立されたと考えられている。
(長野市教育委員会設置の案内板から)
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