管理人の思いつくまま、気の向くまま、長野県内の町や村の話題を取り上げています。
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愛宕社 | |
寺尾城跡 |
愛宕社は長野市松代町東寺尾(地図)の県道沿いにある神社。
寺尾城跡は愛宕社から尾根沿いに道なき斜面を進んだ場所にある戦国時代の城跡。「寺尾殿之墓」と刻まれた墓石のある場所が本郭。
(写真:愛宕社と寺尾城跡=17日午後撮影、640×480拡大可能)
<参考HP>
・ 長野市「信州 風林火山」特設サイト
川中島の戦い
http://www.furin-kazan.jp/nagano/
<参考資料> 愛宕社由緒
祭神 火之訶具津知神
往古より現在地に鎮座愛宕大権現を稱し、永禄三年(一五六〇)十月社殿創建す。
その後社殿焼失、宝永五年(一七〇八)別当職愛宕山長福寺が現在の社殿を再建した。
住民の崇敬は当然乍ら松代城の鬼門除、火の神として領主の崇敬また浅からざりしものがあった。
東寺尾村恩年貢上目録中に「壱石七斗五升愛宕免引」とあるはこれを証するに足る。
昭和六十二年(一九八七)蛭川改修と道路(県道主要地方道中野~更埴線)が改良されるに当り、中段以下の石階段を南面に移し併せて老朽著しい社殿も改修した。
愛宕社 崇敬の証として次の物件が残されている
・社殿 間口二間、奥行三間
・社号縦額 松代藩六代藩主真田幸弘 揮毫
・石燈篭一対 明暦三年(一六五七)松代初代藩主真田信之公時代奉献
・石鳥居 寛政六年(一七九四)寺尾城主寺尾傳左衛門の末裔寺尾又兵衛の寄進
・百六十段の石積階段
・石燈篭一対 文政五年(一八二二)東寺尾出身 江戸相撲 君ヶ嶽助三郎寄進
・燈篭一基 慶應二年(一八六六)東寺尾愛宕講中寄進
(案内板から)
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長野市松代町の西念寺(地図)に建てられた江戸大相撲力士・君ヶ嶽助三郎(きみがたけすけさぶろう)の供養碑。
(写真:西念寺に建てられた供養碑=3月21日午後撮影、640×480拡大可能)
<参考資料> 君ヶ嶽助三郎
江戸大相撲力士 生家 / 松代町東寺尾
文化十一年(一八一四)~嘉永七年(一八五四)
享年四十一歳 菩提寺・西念寺
東寺尾の半農半商・若林伴蔵(若松屋)の子として生まれる。稲出川市右衛門(浦風部屋)に見込まれ江戸大相撲力士となる。最高位前頭筆頭。小兵ながら大関・鏡山濱之助や小結・常山五良治を倒す活躍をする。
三代目鏡川の養子となり四代目鏡川となる。年寄と現役力士を兼ねた「二枚鑑札」力士であった。
(案内板から)
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長野市松代町下田町にある曹洞宗の寺院(地図)。
(写真:梅翁院本堂=3月21日午後撮影、640×480拡大可能)
<参考HP>
・ 曹洞宗 芳谷山 梅翁院
http://www.bio21.or.jp/
<参考資料>
本尊 釈迦牟尼仏
観音堂 魚濫観音
松代藩初代藩主真田信之の側室玉川伊豫守女右京(梅翁院)とその両親の菩提を弔うため真田家が創立。開山は長国寺六世稟室大承。
右京は、魚濫観音を篤く信仰。水と縁が深い観音様で、善男善女に多くの利益を授けるとされ、観音縁日や二年参り祈祷祈願法要などには多くの人が参集する。
現本堂は文久元年(一八六一)の再建。天蓋は真田家霊屋から移したもの。曹洞宗参禅道場も併設されている。墓地入口に右京の墓、かわいらしい一つの光背の六地蔵、童謡「見てござる」の歌碑がある。
(案内板から)
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恒例イベント「信州松代ウォーキング」に、今年初めて参加しました。
日本市民スポーツ連盟認定大会のこのウォーキングは、松代町内の文化財をめぐる6キロコース(城下町の歴史と景観コース・2時間)、健脚向けの18キロコース(水の流れと歌碑めぐりコース・4時間)、東条・豊栄の自然を訪ねる12キロコース(あんずの花と山里コース・3時間)の3コースがあり、何れも松代城址が発着地となっています。
(写真:信州・松代ウォーキング12キロコース=4月12日撮影、640×480拡大可能)
<12キロ・あんずの花と山里コース>
今回、管理人ひろさくが参加したのは、自然を訪ねる12キロコース。
満開となった東条のあんずをゆっくり観賞できるのがこのコースの楽しみで、同じコースを選択したみなさんも同じだったようです。
松代城址→長国寺(1.1km)→長野市立東条小学校(2.2km)→あんずまつり休憩所(3.5km)→中澤建設(4.0km)→牧内公民館(5.0km)→明徳寺(6.6km)→大日池(10.0km)→旧前島家住宅(11.0km)→まち歩きセンター(11.5km)→松代城址(12.5km)
長国寺から東条小学校まではほぼ平坦。そこから、あんずまつり休憩所まではやや急な坂を進むことになります。
折り返し地点の明徳寺へは、日本のピラミッドとも伝わる皆神山(みなかみやま)の東側を、明徳寺から大日池までは皆神山の西側をまわる下り坂のルート。山の東側を歩いている時が、個人的には最も堪えたでしょうか。
松代藩の重臣宅の旧前島家住宅や、町屋や商家のあったまち歩きセンターを通り、真田公園を抜ければ、目指すゴールの松代城址となります。
第11回信州・松代ウォーキング (4月12日) | |
ゆるきゃら「六モンキー」に見送られて出発 | |
長国寺周辺 | |
東条小学校からあんずまつり会場へ | |
玉依比賣命神社周辺 | |
東条のあんずまつり休憩所 | |
皆神山の東側をめぐり、折り返しの明徳寺へ | |
皆神山の西側をめぐり、大日池へ | |
旧前島家住宅と街道沿いにあった「鏝絵」 | |
真田公園を通り抜ければゴール |
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長野市松代町の長国寺にある松代藩家老・恩田木工(杢)民親( Wikipedia )の墓。
藩政改革と財政建て直しに取り組む恩田木工民親の事績は、松代藩士馬場正方(杉羽)が記したとされる「日暮硯(ひぐらしすずり)」に紹介されています。
(写真:長国寺にある恩田木工民親の墓=3月21日午後撮影、640×480拡大可能)
<参考資料> 恩田木工民親の墓
恩田木工民親(一七一七~一七六二)の墓は、高さ二百四十センチメートルの宝篋印塔(※ほうきょういんとう)で、正面に「玄照院鐵翁道關居士」、左の側面に「宝暦十二壬午戴正月上六日」、右の側面には「俗名恩田氏民親墓」と刻まれている。
民親は、松代藩家老職恩田木工民清の子に生まれ、始め左吉のち靭負(ゆきえ)と称した。
当時の藩財政は非常に苦しく、領民もまた困窮して百姓一揆が起こる状態であった。家督を継いだ若き六代藩主幸弘は、こうした状況を打破するため宝暦五年(一七五五)民親を家老職勝手係に抜擢した。民親の施政方針は「うそを言わないこと」「倹約すること」「贈収賄をしないこと」「賭博行為も営利が目的でなく、ただ一時の娯楽としてならよい」などであった。
改革の主なものは、年に一度の納税法を月割納に改めて納税しやすくするとともに滞納を整理し、さらに領民の収入を増やすため山野荒地の開墾、養蚕の奨励など殖産興業にも力を注いだ。また、神仏崇敬思想の普及にも努力した。
民親の業績については「日暮硯」(ひぐらしすずり)に詳しく書かれている。
宝暦十二年病気のため四十六歳で死去した。
(長野市教育委員会・長国寺が設置した案内板から)
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