管理人の思いつくまま、気の向くまま、長野県内の町や村の話題を取り上げています。
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富山県滑川市の中川河口周辺(地図)は、北陸道(北国街道)の宿場町として賑わいました。通りには、今も当時の面影を偲ばせる佇まいが数多く残り、宿場町をめぐる散策路は「なめりかわ宿場回廊」と呼ばれ親しまれています。
滑川市が作成した「なめりかわ 宿場回廊めぐり案内マップ」によれば、周辺の見どころは、滑川駅を起点に、西ルート8ヶ所(約2.3km)、東ルートが5ヶ所(約2.7km)の全13ヶ所。
海沿いに広がる宿場町の風情を楽しみながら歩いてみましょう。
(写真:中川河口から上流の町並みを撮影、正面は国登録有形文化財の廣野家住宅=18日午後撮影、640×480拡大可能)
<参考HP>
・ 滑川市観光協会
http://namerikawa-kankou.jp/
<参考資料> 芭蕉「奥の細道」と川瀬屋
旅籠・川瀬屋跡 |
【荒町の成立】
新町は、大町、瀬羽町に次いで、慶長年間に新しくできた町であったと伝えられる。海岸線に平行して東西に北国(北陸)街道が走り、その両側に家並みが連なり、浜に抜ける小路が発達した。
(滑川市設置の案内板から)
<参考資料> 滑川本陣跡
滑川本陣跡 |
寛永二年(一六二五)桐沢家二代九郎兵衛は、加賀藩から御旅屋を命ぜられ、およそ六千平方メートルの敷地内に、格式ある屋敷をかまえ本陣とした。
桐沢家は歴代綿屋(わたや)と称し、火災により一時的な変更もあったが、天保九年まで約二百年余りの間本陣を勤めた。
この地が、その跡である。
(滑川市教育委員会設置の案内板から)
<参考資料> 桐沢本陣と大町
大町は、滑川発祥の町で、文治二年(一一八六)京都八坂神社の荘園である堀江荘にあった「滑河村」は、ここに成立した村落であったと考えられる。南北朝時代には、「高月滑川の要害」と見え、また、「滑川城主府久呂兼久(ふくろかねひさ)」という記録もあり、海辺に城が築かれていた戦国時代には、狭(せわ)町(現瀬羽町)も成立し、町並みもできていた。
慶長二十年(一六一五)、加賀藩によって北国街道(北陸道)の宿場町として再編され、大町には御旅屋(おたや)や問屋場(といやば)が設置された。由緒町人の住む所で、また町の運営の中心地であった。
御旅屋守(もり)は、綿屋九郎兵衛(わたやくろべえ)(桐沢氏)で、加賀藩主の参勤交代などに際し、お宿をつとめた。
(滑川市設置の案内板から)
<参考資料> 橋場
滑川旧町部を貫いて、海岸線に沿って南西から北東に延びる北国街道の中心部を流れる中川河口で町の東西を結ぶ橋の左岸を橋場という。
藩政時代、河口は船着き場で加賀藩の年貢米が積み出しされ、中新川郡の物資の集散地として賑わった。周辺は、藩の高札場、旅籠、商家が軒を並べ、荷車や旅人、日用品を買い求める人で往来が絶えなかった。
明治期には、中新川郡役所、警察などが置かれ行政の中心として、また周辺は中新川郡随一の繁華街として賑わった。
橋場に残る旅籠「嶋屋(しまや)」は、安政六年(一八五九)ごろは売薬商売や紅粉商売を営んでいた。建物は当時の面影を今に留めている。
中川右岸には、堂宮大工の岩城庄之丈(いわきしょうのじょう)が建てた廣野家(国登録建造物)が数奇屋(すきや)造りの優美な姿を川面に映している。
(滑川市設置の案内板から)
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