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七尾海員学校(地図)は、戦前、船員養成のため全国に設置された海員養成所のひとつで、昭和17年(1942)に石川県七尾市に設置されました。
戦後、海員養成所は海員学校に名称が変更され、高度成長下の日本の海運業界を支える優秀な船員を多数輩出しましたが、惜しまれつつ、平成4年(1992)に閉校。星野哲郎( Wikipedia )さんに依頼した校歌は昭和44年(1969)に作詞され、碑は昭和47年(1972)8月に建立されました。
(写真:七尾海員学校跡地に建立されている碑=11月2日撮影、640×480拡大可能)
<管理人ひとこと>
観光地でもない海員学校跡地を訪ねたのは、我が家のオヤジさまがここの卒業生だということでした。信州の山奥で細々と農業を営む家の次男に育ったオヤジさまは、神奈川県横須賀市で終戦を迎え、高校卒業と同時に七尾の海員学校に入学。海員学校を卒業した後は、国内の海運会社に就職し、以来、35年間の定年になるまで、タンカーやコンテナ船などの機関士として世界各地の海を巡っていました。
残念ながら学校が閉校となってしまったため、当時の面影を残すものはなかったわけですが、このHPに掲載した写真や、七尾の町並みを撮影した写真数枚をプリントしプレゼントしてみました。青春時代を過ごした七尾には愛着があるのでしょうかね。今もたびたび引き出しから取り出しては、じっと写真を眺めている、我が家のオヤジさまです。
<参考HP>
・ 星野哲郎記念館 (山口県大島郡周防大島町)
http://www.hoshino-museum.jp/
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源平砺波山合戦絵図 (石川県津幡町・竹橋・倶利伽羅神社所蔵 案内板から) |
平安時代末期の寿永2年(1183)5月に、越中・加賀国の国境にある砺波山の倶利伽羅峠(現在の富山県小矢部市と石川県河北郡津幡町境)で、木曽義仲が平維盛率いる平家の大軍を「火牛の計」で夜襲し破った戦さ。この戦いで勝利した義仲は北陸道を進み、寿永2年7月、京への上洛を果たすことになります。
治承4年(1180)
以仁王の平家追討の令旨に応じて義仲挙兵
治承5年(1181)
横田河原(長野市)の戦い
寿永2年(1183)4月
義仲討伐のため平維盛を総大将とする平家軍が北陸道へ
平家軍、火打城の戦いで勝利
寿永2年(1183)5月9日
般若野(はんにゃの=富山県高岡市南部)の戦い
義仲方の今井兼平に奇襲され、平盛俊退却
寿永2年(1183)5月11日夜半
倶利伽羅峠の戦い
寿永2年(1183)5月12日未明
平為盛が手兵50騎にて源氏に逆襲
<参考HP>
・ 小矢部市 歴史と文化が薫るまちづくり 義仲と巴
http://www.yoshinaka.info/
・ いこまいけ高岡
http://takaoka.zening.info/Oyabe/Kurikara_Park/
・ 福井県文書館
http://www.archives.pref.fukui.jp/
木曽義仲は、県歌「信濃の国」にも登場する、長野県でもよく知られた武将。
その長野県民にも馴染みが深い義仲が、「火牛の計」で平維盛率いる平家の大軍を破ったという倶利伽羅峠の古戦場を今回訪ねてみました。
倶利伽羅峠へは、長野市内から小矢部IC(富山県小矢部市)まで上信越自動車道・北陸自動車道利用でおよそ2時間。接続する県道47号線を石動(いするぎ)町方面に向かい、途中、道標に従って左折して、西に連なる山並みの麓まで走ると、やがて倶利伽羅峠の古戦場に続く「源平ライン」の入口に到着します。
ここでは、「源平ライン」最初の見どころでもある、義仲に従い、幾多の戦を共にした葵御前・巴御前に纏わる「葵塚と巴塚」から、石川県河北郡津幡町にある「道の駅 倶利伽羅源平の郷」までの間に残る、義仲と維盛の戦さに関連する旧跡を順に紹介します。
(写真:倶利伽羅峠 歴史国道に点在する合戦ゆかりの旧跡=平成25年7月18日撮影、640×480拡大可能)
埋蔵文化財 葵塚・巴塚 | |
葵塚 | 巴塚 |
<参考資料> 埋蔵文化財 葵塚・巴塚
葵塚・巴塚古墳群は、標高約85mの丘陵先端部に立地し、円墳と方墳の5基の古墳から成る。
古墳の詳細
1号墳:円墳 直径25m 高さ約7.5m
2号墳:方墳 東西約13m 南北約11m 高さ1~2m
3~5号墳:直径約5m前後の円墳と考えられる
古墳群は形態や立地条件から、約1,400m前の古墳時代の終わり頃に築造されたと考えられる。この古墳群に、いつ頃からか「葵塚」と「巴塚」の伝承を重ねて、現在の石碑が建てられたものと見られる。
古墳が立地する丘陵では、今から約800m前の平安時代末に、源平合戦が繰り広げられた。この戦いは「倶利伽羅の戦い」と呼ばれ、源義仲(木曽義仲)と平雅盛の対戦であった。義仲軍は燃えさかる松明を角につけた牛500頭を敵陣に突入させる。世に名高い「火牛の計」を用いて、人数では劣勢であったが勝利を納めた。葵と巴はともに義仲の愛妾であり、武将であった。葵は倶利伽羅の戦いで討死し、巴は義仲が討たれる日まで戦い、後に尼になり91歳の生涯を過ごした。 (富山県教育委員会・小矢部市教育委員会設置の案内板から)
<参考資料> 葵塚
碑文:葵は寿永二年五月砺波山の戦いに討死す 屍を此の地に埋め墳を築かしむ
由来:葵は義仲の部将となり 倶利伽羅の戦に討死したので屍をこの地に埋め 弔ったと伝えられている (小矢部市)
<参考資料> 巴塚
碑文:巴は義仲に従ひ源平砺波山の戦の部将となる 晩年尼となり越中に来り九十一歳にて死す
由来:源平合戦の後 和田義盛と再婚した巴御前は豪勇を誇った朝日奈三郎義秀を生んだが その後の未亡人となり 後生を福光城主の石黒氏に託した
石黒氏とは共に倶利伽羅合戦において平家を攻めた親しい間柄であった
尼となり兼生と称し宝治元年十月二十二日没し石黒氏(注:石黒光弘)が此の地に巴葵寺を建立したと伝えられている。 (小矢部市)
<参考資料> 萬葉公園
わが国最古の歌集「萬葉集」の代表的歌人である大伴家持は、天平十八年(七四六)七月より、天平勝宝三年(七五一)八月まで越中の国守として在任した。
天さかる越の国は、春夏秋冬ゆたかにうつりゆき、自然・風土・その中で生育する草花の数々が、万葉の人びととともに華を咲かせ、露をやどし、多くの名歌として詠みのこされた。
ここに、千二百年前の上代のままに咲き匂う草木のかずかずを寄せ、家持在任中の万葉びとの植物詠歌を石に刻し萬葉公園とした。 (小矢部市)
倶利伽羅峠 源平合戦地 | |
倶利伽羅峠・塔の橋 | 倶利伽羅峠・砂坂 |
倶利伽羅峠・地獄谷 | 倶利伽羅峠・地獄谷 |
<参考資料> 塔の橋
源平合戦の時、平家の将「平行盛」この地に陣を布き源氏方と対峙した
<参考資料> 砂坂登り口 (火牛突入の地)
義仲四天王の一人兼平軍、火牛を四、五百頭をもって、平家軍地へ突入させたと言われるところです
<参考資料> 地獄谷
寿永二年夏のころ、この山頂に陣を取った平家軍を義仲軍が「火牛」とともに夜討をかけ、この谷へ落す。「親が落ちれば子もおちる、馬が落ちれば人もおちる、さばかり深き谷一つ、平家の軍もて埋にけり」 (源平盛衰記より)
<参考資料>
あかあかと 日は難面も あきの風 芭蕉
奥の細道
卯の花山・くりからが谷をこえて、金沢は七月中の五日也・爰に大坂よりかよふ商人何処(かしょ)と云者有。それが旅宿をともにす。
一笑(いつせう)と云うものは、此道にすける奈のほのぼの聞えて、世に知人も侍しに、去年(こぞ)の冬早世したりとて、其兄追善を催すに、
塚も動け 我泣(わがなく)声は 秋の風
ある草庵にいざなはれて
秋涼し 手毎(てごと)にむけや 瓜茄子
途中唫(きん)
あかあかと 日は難面(つれなく)も あきの風
奥の細道 芭蕉
元禄二年(一六八九)旧暦三月上旬に江戸を立ち、奥羽・北陸をめぐり、八発下旬に大垣につく迄、約五か月、道程六百里に近い旅行の紀行である。
この句は、越後路から越中・金沢にいたる旅の途中で得た旅情を、金沢で一句に結晶させた七月十七日、北枝亭で発表されたものという
(小矢部市教育委員会設置の案内板から)
<参考資料> 砺波山 木下順庵
聞くならく 昔 源と平氏
雄を角(くら)べ 各 屈(※)強
白旗(はっき)は鷲が瀬に翻り
赤幟(し)は猿が場(ばば)に立つ
水兕(じ)甲兵勇なるも
火牛策最も良し
越山の一奇捷
宇内(うだい)に芬芳(ふんぽう)を播(し)く
砺波山有詩併付 富田景周
火牛の余焰嶽楓丹く、積骨の旧渓胆をして寒から使(し)む。
一宇宙間神策を問はば、古今唯是れ両田単(でんたん)。
漢学者、木下順庵は京都に生まれ、長じて藤原惺窩の門、松永尺五に学び、識見該博、節義の人にして、万治三年(一六六〇)加賀藩前田綱紀に聘され侍講となる。
天和二年(一六八二)五代将軍綱吉に召されて幕府の儒官となる。特に子弟の教育につとめ、中でも新井白石・室鳩巣等の人材を輩出した。その教育は、孝悌を根本とする儒教道徳の実践であったという。表記の詩は加賀藩の文学史・学者文人の伝をまとめた書「燕台風雅」富田景周著によるものである。
今茲に先覚の詩を刻し、所懐を賦して副え後世に伝えるものである。
(小矢部市教育委員会設置の案内板から)
<参考資料> 万葉集 巻十九 砺波山 ほととぎす(霍公鳥)の詩
天平勝宝二年(七五〇)四月三日 越中守大伴家持が越前国の掾大伴池主に贈った歌である。
家持が天平一八年(七四六)越中の国守として赴任したとき、池主は既に越中の掾(判官)として任にあり、新任の家持を補佐し親交があつかった。
その後、池主は越前の掾に転任となる。家茂は、池主が越中の掾であったときに、ともに、ほととぎすを愛でた懐旧の情に堪えず長歌一首と短歌二首に思いを述べた。
二上山をはじめ、峰々には霞がたなびき、谷辺には椿の花が咲きものがなしい春がづぎると、ほととぎすがしきりになく。
ひとりだけで聞くのも淋しいので、ほととぎすよ、砺波山をとびこえて池主のいる丹生(にう)の山辺にとんでいって鳴いてくて、と。
昭和五十六年七月六日、津幡町長、小矢部市長の揮毫により由緒の地に建立された。
(小矢部市教育委員会設置の案内板から)
倶利伽羅峠 平家本陣跡 | |
倶利伽羅峠・猿ヶ馬場 | 倶利伽羅峠・猿ヶ馬場 |
倶利伽羅峠・芭蕉塚 | 倶利伽羅峠・猿ヶ堂 |
<参考資料> 猿ヶ馬場
ここは、源平砺波山の合戦のとき、平家の総帥平維盛(これもり)が本陣を布いた跡で、今、ここに猿ヶ堂という小さな石の堂があります。それは古伝によると、天正年間、悪猿が出でて民家に災害を加えるため、これを退治し、紙に祀りその祈祷のためお堂を建てたのが猿ヶ堂です。むかし、峠へ登った馬がたくさんつながれていたところから猿ヶ馬場と名づけるようになりました。
(小矢部市・小矢部市観光協会設置の案内板から)
その昔、原というところにかしこい猿がいて、人間の真似をして幼児を熱い湯に入れ死なせた。猿は追れこの土地に住み旅人などに悪さを重ね殺されました。元の飼い主が弔いのお堂を建てたと云う。
<参考資料> 芭蕉塚(ばせをつか)
俳聖松尾芭蕉がはるばる奥の細道を弟子の曽良(そら)と共にこの地を通ったのは元禄二年七月十五日の朝でした。
芭蕉翁
義仲の 寝覚めの山か 月かなし
擬見風所造碑
金城馬佛謹建之
この句は芭蕉が朝日将軍とうたわれた木曽義仲の末路を涙して詠んだ句で津幡の俳人河合見風が宝暦時代に義仲ゆかりの地、ここ猿ヶ馬場に往時を偲んで建立したものを後に至り金城馬佛が再建したものであります。
この句は越前燧ヶ城跡で詠んだものであり、又、諸国翁墳記には、この句碑を寝覚塚と記されております。
源平砺波山合戦 源氏軍配置図 (案内板から) |
<参考資料> 砺波山源平古戦場
角に松明を付けた火牛 |
埴生護国八幡宮に戦勝祈願の願文を捧げ、火牛の奇計を練り、五月十一日夜半、四万余騎にて一斉攻撃を開始。根井・巴両党は松永より、今井党は平家の本陣猿ヶ馬場正面の日の宮林より、余田等は天田峠より、樋口党は北黒坂から迂回して竹橋より、法螺貝を吹き、太鼓を鳴らし、闇の声を挙げながら、角に松明を燃やした四、五百頭の「火牛」を放って突撃。
長途の行軍にまどろんでいた平家は、あわてふためき右往左往。将兵は軍馬もとろもに地獄谷に馳せこみ落ちて、相重なって谷を埋め、その数一万八千騎、と源平盛衰記は伝えている。(案内板から)
<参考資料> 倶利伽羅古道(こどう)とは
倶利伽羅古道案内図 |
そのひとつである倶利伽羅越えのみちの支線「倶利伽羅古道」は、古くから開かれていたと考えられる旧北陸道に通じる間道であり、地元では「穴田道(あなだみち)」とも呼ばれている。この古道は昭和初期まで富山県~石川県往来の道として利用されてきたが、交通手段の発展にともない利用されることはなくなった。
平安時代末期の寿永2年(1183)の倶利伽羅峠の合戦当時、木曾義仲軍は攻め手を6隊に分けて戦ったが、その一隊である義仲四天王の一人 根井小弥太(ねのいのこやた)の軍路が当古道であったと考えられている。古道からは倶利伽羅合戦における「火牛の計」により、1万8千余騎が追い落とされた地獄谷が見渡せる、そのほか、古道に至る道沿いにも巴塚・葵塚、道祖神などの見どころが多く、歴史ロマンに触れながら散策を楽しむことができる。
(中部北陸自然歩道 小矢部市設置の案内板から)
倶利伽羅峠 周辺旧跡 | |
倶利伽羅峠・源平供養塔 | 倶利伽羅峠・為盛塚 |
倶利伽羅峠・飯尾宗祇碑 | 倶利伽羅峠・蟹谷次郎由来之地碑 |
<参考資料> 為盛塚
為盛は、池の大納言平頼盛の子として生まれ、寿永2年(1183)砺波山の源平合戦に平家の総帥平維盛の部将として出陣、5月11日源氏の夜襲に敗れ、加賀国に逃れ翌12日未明、手兵50騎をひきいて源氏に逆襲したが義仲の部将樋口兼光に首をはねられた。この塚が、勇敢な部将為盛を弔うたもので墓は地、水、火、風、空、を表す五輪の塔で高さ1.6m鎌倉時代の建設である。市は昭和44年9月20日この史跡を文化財に指定した。
(小矢部市教育委員会設置の案内板から)
<参考資料> 源氏太鼓由来記
寿永二年(一一八三)信州の国、木曾山中で兵を挙げた源義仲は、北陸道を経て京都へ進軍、これを阻止しようと十万の兵を率いて京都から進攻した平維盛の軍と、倶利伽羅山で対戦をした。越中国武士団の宮崎・入善の両氏をはじめ強党の石黒氏・野尻氏・河上氏等々の武士団は馳せ参じた。民情地状に明るい蟹谷次郎、その他の武士の先導により夜戦の展開となり義仲軍は大勝利を得た。
「源平盛衰記」
一手は、根井小矢弥太を大将として二千余騎、越中国住人、蟹谷次郎を案内者に付けられて、鷲島を打廻り、松永の西のはづれ、小耳入を通って鷲尾へ打上り、弥勒山を引廻す。
尚、この天下分け目の倶利伽羅合戦に、越中の郷将、石黒太郎光弘・福満五郎・千石太郎真高・向田二郎村高・水巻四郎安高・同小太郎安経・加茂島七郎・池田次郎忠康等々は、義仲軍に従って大活躍したという。ここに源軍は未曽有の大勝を博し、先陣を承った郷土の蟹谷次郎は、酒宴を張って戦勝を祝った。兵士たちは、歓喜勇躍、乱舞しながら競って太鼓を打ち鳴らした。合戦が終って蟹谷次郎は郷土の地、下後丞に定着して地方の開拓に従事し、八講布の晒し技術等を農民に伝えたという。
その後、この勝鬨太鼓は、源氏太鼓として伝承され、毎年氏神の神明宮に奉納し、祖先に感謝を捧げ、五穀豊穣、順風慈雨を祈った。
(小矢部市教育委員会設置の案内板から)
<参考資料>
もる月にあくるや関のとなみ山 宗祇
飯尾宗祇
庵号、種玉庵・自然斎・見外斎
分亀二年(一五〇二)七月三十日没、八十二歳
宗祇は、年若くして状況、僧坊で仏道修行を続け、三十歳をすぎて、和歌・連歌の道に入り刻苦勉励、人に倍する努力をつづけ、室町時代最大の連歌の巨匠として上下の人びとから尊敬された。
越後の上杉氏とは、夙に懇意で九度にも及ぶ訪問を行い、その途次、数回にわたり蓮沼城に遊佐加賀守長滋(ながしげ)をたずね、連歌の会をもよおした。
宗祇連歌集
老葉(わくらば) 第十発句
遊佐新右衛門許にて長月ばかり千句侍りしに月を
もる月にあくるや関のとなみ山
当時は、岩瀬・放生津・蓮沼へと、そこで小矢部川を渡り、倶利伽羅峠へでたという。
(小矢部市教育委員会設置の案内板から)
<参考資料> 倶利伽羅山の花咲かじいさん
石川富山県境の倶利伽羅山に、十九年間にわたって八重桜の苗木約七千本を植え続け今では桜の名所”加越の吉野山”と言われる観光地とした”昭和の花咲かじいさん”高木勝巳翁(平成二年七月二十三日没八十五歳)の功績をたたえ、ここに感謝をこめ由来板を建てる
富山県大島町に在住していた翁は、昭和九年トラックを運転して倶利伽羅山の天田峠の谷底に車もろとも転落し奇跡的に一命を取り留めた。不動明王が枕元に現れ「倶利伽羅山が荒れ果てている」とのお告げを受け、ご加護で命拾いをしたとして、昭和三十四年から毎年五百本の桜を自費で妻と共に植え続けた。
その後は小矢部市と津幡町に引き継がれ、毎年商工会主催の”八重桜まつり”が催され不動寺、倶利伽羅古戦場、源平ラインにかけて咲き誇り、大勢の観光客を楽しませている。
高木翁の遺句
若桜 来る年ごとに 背をくらべ 勝巳
(津幡・小矢部ライオンズクラブ、両商工会設置の案内板から)
道の駅倶利伽羅 源平の郷(石川県河北郡津幡町) | |
道の駅では津幡町大河ドラマ誘致推進キャラクターがお出迎え |
倶利伽羅峠を越え、途中にある倶利伽羅不動尊を左手に見ながら坂を下ると、竹橋方面と天田峠方面との分岐に到着。何れも源平合戦の際には、源氏軍が峠上に布陣する平家軍目指して押し寄せたルートですが、今回は竹橋方面へ左折。合流する県道286号線を通り「道の駅倶利伽羅 源平の郷」へと向かいました。
「道の駅倶利伽羅 源平の郷」は、津幡町が整備した地域振興施設・休憩広場と、国土交通省が整備した情報棟・休憩棟からなり、情報棟には倶利伽羅の戦さに関わる資料なども展示されています。富山県側からは倶利伽羅越え いにしえの街道めぐりの終点とし、また石川県側からは峠越えの始点として、利用してみてはいかがでしょうか。
<参考資料>道の駅倶利伽羅 源平の郷
道の駅:道の駅「倶利伽羅 源平の郷」は津幡町の申請に基づき、国土交通省道路局長により「道の駅」に登録されたものです(平成16年8月9日)。<以下略>
津幡町の紹介:津幡町は、石川県のほぼ中央に位置し、面積約110平方キロメートル、人口約3万6千人の町です。町の中央には本州一広い石川県森林公園、西南部には日本海側最大級の規模を誇る石川県津幡漕艇競技場や、毎年7月下旬から8月中旬にかけて約22000本、一面のヒマワリで埋め尽くされるひまわり村で有名な河北潟が広がっています。
歴史国道とは:「歴史国道」整備事業とは、歴史上重要な幹線道路として利用され、国として特に重要な歴史的・文化的価値を有する道路を大将に、保存、復元、活用を図り、あわせて地域からの情報発信を行うことにより、地域づくりと活性化、ふれあいの魅力的な空間づくり、歴史・文化の継承などを目的に実施される事業です。
「北陸道 倶利伽羅峠」は、源平合戦の「火牛の計」に関わる史跡や加賀藩の参勤交代のための往還道など、歴史的・文化的価値が評価され、富山県小矢部市桜町~石川県河北郡津幡町竹橋までの延長12.8キロメートルが平成7年6月に歴史国道として認定されました。 (案内板から)
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石川県七尾市にある七尾フィッシャーマンズ・ワーフ 能登食祭市場(地図)。
平成3年(1991)にオープンした施設は、平成25年4月にリニューアルオープン。新鮮な海産物を販売する生鮮市場や、能登の伝統文化を紹介する祭歳時館、能登の味を楽しむグルメ館などがあり、能登観光の情報拠点として多くの観光客が訪れています。
写真は能登食祭市場の2階にある味処 漁師屋で提供されている海鮮丼(日替りB:1580円)。海鮮丼のほか、ダシに甘エビを使った特大お椀のお味噌汁も登場。掘りごたつでくつろげる店内からは、夕闇迫る七尾港も。
(写真:能登食祭市場=17日午後撮影、640×480拡大可能)
<参考HP>
・ 七尾市観光協会
http://www.nanaoh.net/
・ 能登 食祭市場
http://www.shokusai.co.jp/
<参考資料> 火になる土(の産地)
食祭市場に展示されている丸越工業株式会社さん提供の日本一大きな七輪。高さ1.5m、直径1.75m、重さ約1トンもある七輪は、普通の七輪の100個分とか。以下はその説明文から。
遠赤外線と熱を出す珪藻土
昔、むかし、大昔、和倉温泉が深い海の底にあった頃、珪藻(けいそう)と云う水藻が群生しておりました。長い間に堆積して珪藻土の地層(厚み30m~50m)が出来ました。現在の能登半島が出来る時、一緒に隆起して山や田んぼの中に顔を出しています。珪藻土は水に浮く軽い土で、炭等を燃やすと土も一緒に赤くなり良く燃える不思議な土です。七輪はこの珪藻土で造られています。
北陸広域観光チャンネルネットさんのYouTube映像 http://www.hokuriku-kanko.ch |
<参考資料> でか山の紹介
施設内に展示車輪でも紹介した国指定重要無形文化財の青柏祭でか山に関わる案内がありました。
青柏祭
七尾市山王町にある大地主神社で五月三日・四日・五日に行われる祭礼で、神饌(しんせい)を葵柏の葉に盛って供えることから「青柏祭」と呼ばれています。特に「でか山」と呼ばれる壮大な曳山が市内を練る能登でも代表的な曳山祭りです。
でか山
昔は、曳山の上に三十本ほどのほこ飾りが立てられ「ホコ山」とか、正面から見ると船の形をしているので「船山」とか言われていましたが、能登の方言で、この「でっかい山車」のことを「でか山」と呼んでいます。
高さ約十二メートル、扇を広げた形から「ヒラキ山」とも呼ばれ、三方をムシロで包み幕を張って、横正面に天守閣を造り舞台を設けて、歌舞伎の時代人形などを飾った豪華な曳山です。
文化財として
青柏祭の曳山行事は、文化財保護のため昭和五十八年一月十八日文部大臣より、国の重要無形文化財として指定をうけています。
でか山の通り道 (注:地図)
地図の赤線(注:案内板の地図にある赤線)で示した道を、三台の「でか山」が練りまわり、大地主神社の境内と仙対橋詰において勢揃い、ご披露が行われます。
神事
山王町の大地主神社では神饌を供え、三台の曳山を神社の境内にそろえて奉納されます。また五歳の子供の「はかまあげ」も伝統行事として行われます。
人形見
祭りの前日、「でか山」に飾られている歌舞伎人形をその年に慶事や新改築のあった家を人形宿とし、三方に供え物をして一晩飾っておく習わしで、「人形見」といわれています。
電線のない街並み
二階建の家屋を越える程の「でか山」、その通り道にはいろいろな工夫がしてあります。電線も道路も横切らず道路と並行に、街路灯や標識も、祭りの期間は首を振って道路と並行になるように工夫されています。
<参考資料> 展示車輪
石川県七尾市に伝わる伝統文化・青柏祭に使われた山車の車輪部分を展示。
展示されている車輪の山車は、高さ14m、上ひらき16m、車直径2m10cm、重量23.2tという大規模なもので、施設前に展示されている車輪は約170年(展示当時は160年)の歴史をもつものです。以下は国指定重要無形文化財 青柏祭でか山に使われた山車の車輪について、説明文から。
青柏祭でか山は500年の伝統と家紋で素朴さ重量感に満ちた日本一の大規模な山車です。展示車輪は約160年の歴史をもち中駒外駒は昭和元年の高上げ(外周部の部杭を交換し本来の大きさに戻す作業)時に交換されています。長期間の使用により平成9年には摩耗した車輪部も交換されています(展示車輪は摩耗の為、上記の寸法より小さくなっています)
その構造は当時の造船技術の粋を極め、ほぞ、地獄たたら、あり、契り、船釘、などを利用し性質大きさの異なる部材を一つの車輪として組み合わせています。現在の技術をもってしても同じものを作るには相当の年月が必要とされます。(平成16年10月)
<参考HP>
・ 七尾市観光協会
http://www.nanaoh.net
・ 青柏祭でか山保存会
http://www.nanao-cci.or.jp/dekayama/
・ 鍛冶町でか山
http://www10.ocn.ne.jp/~miyakoya/
・ 府中町でか山ファンサイト
http://www.dekayama.com/
・ 一本杉通り振興会
http://ipponsugi.org/
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日本最古の漁法ともいわれるぼら(wikipedia)待ち網漁に使われた櫓で、石川県鳳珠郡穴水町の国道246号線にある中居湾ふれあいパーク(地図)から見学することができます。
かつては七尾湾に多数あった、というぼら待ちやぐらですが、次第に衰退し、平成8年(1996)を最後にこの漁法による漁は行われていないということです。
(写真:中居湾ふれあいパークにあるぼら待ちやぐら=17日午後撮影、640×480拡大可能)
<参考HP>
・ 穴水町ホームページ
http://www.town.anamizu.ishikawa.jp/
<参考資料> 日本最古の漁法ぼら待ちやぐら
ぼら待ち網漁は、江戸時代から伝わる原始的な漁法で、七、八メートルの丸太ヤグラを組み、その上から海底に張ったフクロ網を見張る、ボラの群れが網に入ると網口の網をたぐり上げて獲るというのんっびりした手法です。
ボラは音に敏感で、静かに待たなければならず、光の反射する海面を通して魚影を見つけなければなりません。
藩政時代から続いた穴水湾の伝統漁法で明治二十二年(1889)に当町に訪れた外国人天文学者のハーシヴァル・ローエル(1855~1916)が「創世記に出てくるノアの大洪水以前に在った掘っ立て小屋の骨組みを、これも有史以前の伝説による怪鳥ロックが巣に選んだ場所」と形容しています。 (案内板から)
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恋路(こいじ)海岸は、石川県鳳珠郡能登町にある海岸。見附島(珠洲市)まで続く約3キロの海岸線は「えんむすびビーチ」と呼ばれ、夏は海水浴に訪れる人たちで賑わいます。
(写真:恋路海岸と弁天島=17日午後撮影、640×480拡大可能)
奥のとトロッコ鉄道 のトロ乗車口 |
この恋路海岸にホットな観光スポットが誕生。
海岸近くには、かつてのと鉄道能登線の恋路駅(地図)が設けられていましたが、平成17年(2005)の廃線に伴い廃止。しかし、地元のみなさんの鉄道への思いは強く、平成25年4月から旧恋路駅から旧宗玄トンネルまでの区間で、電動補助付き足こぎ式のトロッコ(奥のとトロッコ鉄道:愛称のトロ)の運行を始めました。
のんびり走るトロッコの旅。「のトロファンクラブ」については、宗玄酒造株式会社のホームページをご覧ください。
<参考HP>
・ 宗玄酒造株式会社
http://sougen-shuzou.com/
<参考資料> 国定公園能登半島 恋路海岸
約700年の昔、木郎の里の助三郎と、多田の里の鍋乃は、人目を忍んでこの浜で逢瀬を重ねていた。暗い夜、鍋乃のともす灯は助三郎の唯一の目標であり、愛する二人を結ぶ希望の灯でもあった。
鍋乃に想いを寄せるもう一人の男源次は、二人の仲をねたみ、灯を崖のはずれに移してだまし、助三郎は深い海から帰らぬ人となり、鍋乃も源次の求愛をしりぞけ、海に身を投げ、助三郎のあとを追った。
この悲しい恋の物語を秘めた浜は、いつの頃からか「恋路」と呼ばれる様になったと伝えられる。 (案内板から)
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