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130803_1358_1_帆船日本丸(新潟県糸魚川市)

開港40周年を迎えた新潟県糸魚川市の姫川港(地図)に、国内最大級の帆船・日本丸が2日入港し、3日にセイルドリル(帆を張る訓練)、4日に船内一般公開が行われました。
写真は、3日に行われたセイルドリルの様子。訓練は通常海上で行われますが、今回は接岸した状態で帆を広げた様子が見られるとあって、会場周辺にはカメラを手にした大勢の人たちが、貴重な帆船の姿を収めていました。
日本丸は6日午後2時に姫川港を出港。乗員全員がマストに整列し、三度「ごきげんよう」と歓呼して、見送る人にあいさつをする登檣礼(どうしょうれい)が行われる予定です。
(写真:新潟県糸魚川市の姫川港に寄港した日本丸=3日撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 糸魚川市ホームページ
  http://www.city.itoigawa.lg.jp
・ 独立行政法人 航海訓練所
  http://www.kohkun.go.jp/


姫川港開港40周年記念 帆船日本丸寄港 (8月3日)
130803_1404_帆船日本丸(新潟県糸魚川市) 130803_1358_2_帆船日本丸(新潟県糸魚川市)
13_新潟県糸魚川市・帆船日本丸寄港(表) 13_新潟県糸魚川市・帆船日本丸寄港(裏)





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130727_1314_第34回上越はすまつり(新潟県上越市)

新潟県上越市の高田公園(地図)に咲くハスの様子。
高田公園では、7月26日から8月18日まで、第34回上越はすまつりが開催されており、期間中、観賞会や茶会、「はす麺」の販売など、ハスにちなんださまざまなイベントが企画されています。
(写真:高田公園西堀に咲くハスの様子=7月27日午後撮影)

<参考HP>
・ 上越観光コンベンション協会
  http://www.joetsu-kanko.net

<参考資料> 高田城跡

130727_1318_第34回上越はすまつり(新潟県上越市)
高田城跡要図
高田城は慶長19年(1614)の越後太守松平忠輝の居城として築城されたもので、石垣や天守閣はなく、御殿を中心に広大な城郭で構成されている平城です。築城は、幕府の命により国役普請で、仙台藩主伊達正宗ら13大名によって行われ、関川・青田川・儀明川の流路を変え、天然の地形を効果的に利用しました。外堀は関川の蛇行部を利用し、現野球場はかって瓢箪曲輪(ひょうたんくるわ)といい、川の中州でした。城の防衛は堅固で、背後は関川、前面は青田川を以て防衛線としました。平成5年に復元した三重櫓は御三階櫓と呼ばれ城のシンボルでした。城の広さは、本丸・二の丸・三の丸とあわせて約19万坪(約58ha)に達しています。本丸を囲む内堀は薬研掘(やげんぼり)で、現在も満々と水をたたえ、昔日の面影を残しています。築城後は、歴代藩主も変わり、更に寛文・宝暦・弘化の三大地震と度重なる大火によって被害を受け、明治3年(1870)には御殿が焼失しました。やがて明治41年(1908)には陸軍第十三師団司令部が設置され、城郭は一変しましたが、城跡の大半は残されました。現在東洋一と呼ばれる外堀のハスは、明治初年に農業用に植えられたものであり、日本三大夜桜に挙げられている桜は、陸軍第十三師団の入城を記念して明治42年(1909)に在郷軍人会によって植えられたものです。なお、高田城は別名を鮫が城・関城・螺城とも呼び、雅名を高陽城といいました。 (案内板から)

<参考資料> 西堀のハス Lotus Blossom in Nishi-bori
明治元年(1868)戊辰戦争当時、高田は新政府軍の基地となったことや、凶作の影響で藩の財政が困窮していました。高田公園のハスは、明治4年(1871)、戸野目村の大地主、保阪貞吉が高田城外堀にハスを植え、レンコンを売って藩の窮状を救おうとしたのが始まりです。その後、レンコン掘りは昭和37年(1962)まで続けられました。高田公園の外堀は周囲約4km、面積は19haに及びますが、そのうち約16ヘクタールにハスが咲き誇ります。ハスの種類はほとんどが紅蓮(こうれん)で、部分的に白蓮(はくれん)もまじります。昭和28年(1953)ハス博士として有名な、故大賀一郎氏が来高(当時の高田市)した際、「ハス池で、このような規模のものは世界でもまれだ、特に赤い花と白い花が入り混じっているところが珍しい」と激賞されました。それを聞いた市民は、まさに東洋一だと誇り伝えきました。緑の葉と紅の花との対比が清涼感あふれる美しさでその規模の大きさとともに訪れる人を魅了しています。このハスは昭和54年(1979)の異常気象、その他の影響で全滅に近い被害を受けましたが徐々に回復し、現在ではそれまで以上の美しい景観を誇っています。
外堀に架けられている西堀橋(通称:蓮見橋)からハスの鑑賞ができます。また、東京農業大学の北村文雄教授から贈られた14種類の珍しいハスのうち、一部が順調に育ち、目をひいています。 (案内板から)

<参考資料> 高田公園の蓮について
由来…明治4(1871)年、戸野目村の大地主・保阪貞吉(初代津有村長=上越市)が高田藩の窮乏を救うため、大金を投じて「レンコン」を植えたのが始まりで、昭和37年まで採取が行われていました。
東洋一の蓮…昭和28年、蓮の研究で有名な大賀一郎博士が訪れた際に、「蓮池でこのような規模のものが世界でも珍しい」と激賞されました。
それを聞いた市民はまさに「東洋一の蓮」だと誇り、語り伝えてきました。
開花時期になると外堀(19ha)に花が咲き誇り、その美しさ風情は、上越市を代表する夏の風物詩となっています。 (上越はすまつり実行委員会設置の案内板から)





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130309_1239_うみてらす名立レストラン 海のdaidokoya (新潟県上越市)

新潟県上越市名立の国道8号線沿いにある道の駅うみてらす名立。写真は施設の二階にある海鮮レストラン「海のdaidokoya」さんが提供する日本海の海の幸をふんだんに使った、豪華な~海鮮丼(1680円)。もずく入りのお味噌汁も美味。
(写真:海のdaidokoyaの海鮮丼=9日、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ うみてらす名立(なだち)
  http://www.umiterasu.co.jp/


上信越自動車道 新井PA付近の様子 (3月9日)
130309_1156_上信越道新井PA(新潟県新井市) 130309_1155_上信越道新井PA(新潟県新井市)
周辺にはまだまだ雪の壁が…


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120816_1547_あまえびのお味噌汁付きのねぎとろ丼(新潟県長岡市)

新鮮な日本海の海の幸がずら~り並ぶ新潟県長岡市寺泊下荒町(地図)の魚の市場通り(通称:魚のアメ横)を訪問。長野市内でもお馴染みの角上魚類㈱さんが運営する海鮮茶屋・汐の華にて「ねぎとろ丼」を頂きました。お値段はあまえびのお味噌汁が付いて1365円。今夏最大の贅沢をしちゃいました。
(写真:海鮮茶屋・汐の華のねぎとろ丼=16日撮影、640×480拡大可能)

120816_1605_寺泊魚市場通り(新潟県長岡市寺泊)
寺泊魚市場通り
<参考HP>
・ 角上魚類株式会社
  http://www.kakujoe.co.jp/
・ 寺泊観光案内所・寺泊観光協会
  http://www.niigata-inet.or.jp/teradomari/


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120816_1338_椎谷陣屋跡(新潟県柏崎市)

新潟県柏崎市椎谷(地図)にある椎谷藩1万石の陣屋跡。
藩祖は堀直政の四男直之で、江戸時代は越後の沼垂・三島・蒲原を領有していましたが、天明義民事件が発端で幕府より知行替えを命じられ、信州高井郡六川村(現在の上高井郡小布施町)にも陣屋が設けられました。
(写真:柏崎市椎谷に残る椎谷陣屋跡=16日撮影、640×480拡大可能)

<管理人ひとこと>
以前、小布施町に残る六川陣屋(  記事 )を訪ねた際、設けられていた案内板に、この陣屋は越後椎谷(しいや)藩のもの、との記述がありました。以来、椎谷藩の名称が記憶に残り機会があれば訪ねてみたいと思っていたところ、長岡に向かう途中、偶々見ていた地図に「椎谷陣屋跡」とご丁寧に赤字で記されているのを発見 。北陸道西山ICをおり、国道経由で海岸沿いに佇む椎谷の集落へと向かったのでありました。
陣屋は国道352号線に設けられた案内に従って入った小路の先にありました。陣屋入口(表門)手前には小さなクランクがあり、普通乗用車でもやっとという幅。躊躇してしまいそうですが、その先に三差路(陣屋案内図では「役所」と記されたところ)があるためUターン可能。陣屋周辺に駐車スペースがなく、車の場合には路肩へ停めての見学となります。ご近所の方々の往来もありますので、通行の配慮をお忘れなく。

<参考資料> 新潟県指定文化財・史跡 椎谷陣屋跡

120816_1339_椎谷陣屋跡(新潟県柏崎市)
椎谷陣屋案内図 (拡大可能)
椎谷陣屋跡は、柏崎市大字椎谷字打越(うちこし)に所在する。江戸時代に椎谷地区ほか刈羽郡の一部などを領した椎谷藩(一六一六~一八七一年)が設けた陣屋跡である。藩祖の堀直之は、草創期に幕閣に参画し、江戸町奉行や寺社奉行などの重要な要職に就いた。歴代の藩主たちも若年寄や大番頭、奏者番などの要職を勤めている。石高は五千五百石であったが、のちに一万石となった。藩主は江戸定府であったため、領内の統治は陣屋で行った。当初、椎谷藩は西山町妙法寺の超願寺を仮陣屋としていたが、元和五年(一六一九)には椎谷に陣屋を設けた。その後、元禄年間には椎谷字「唐見の前(さき)」に移されたという。現在の字「打越」に構えたのは、正徳五年(一七一五)、五代直央(なおなか)の時代である。
陣屋は、日本海を望む独立丘陵上にあり、麓には北国街道(現国道)に沿って展開した椎谷の町屋が広がっている。丘陵は約一五〇m×約三〇〇mの大きさで、内部には郭状の平坦地が造成されている。約三千坪の範囲に、かつては陣屋を構成する各施設が築かれていた。
陣屋の中心となるのは、丘陵頂部の平坦部である。平坦部は五三m×七〇mと広く、現在石碑のある付近に藩邸が構えられ、その左手に砲術稽古場、正面に馬場などが設けられた。海側は、長さ九〇m、高さ四mを測るL字状の土塁によって囲まれている。敵襲や浜風に備えたものであろう。また、中心部に隣接して階段状の郭が設けられている。上から武器庫・籾蔵・役所・長屋などが続いていた。長屋は藩士等の居住地であり、上級藩士の屋敷などとともに陣屋の中心を取り巻いている。そのほか、陣屋には表門・裏門があったとされる。表門は、砲術稽古場の近くにあり、石段を下ってクランク状の通路を経ると街道へ至る(大手)。裏門は、武器庫の海側にあり、斜面を下ると同じく街道へ至る(搦手)。
慶応四年(一八六八)、陣屋は戊辰戦争のよって全焼したため、当時の建物などは残されていない。しかし、現在も地元では「お屋敷」と呼ばれている。また、土塁や郭といった遺構が良好に保存されており、江戸時代の面影をみることができる。
(柏崎市教育委員会、椎谷掘家二十二代・柏崎市尾崎家十八代当主の方々寄贈の案内板から)


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