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蕨城( Wikipedia )は、南北朝時代に起きた関東地方の騒乱を鎮めるため渋川氏により築城されました(地図)。その後、扇谷上杉氏の属城となり、大永4年(1524)、北条氏綱の攻撃を受け落城。大永6年(1526)、上杉朝興が北条氏を破りこれを奪回するも、天文15年(1546)、河越城の戦いで上杉朝定が北条氏康に敗れると、再び北条氏の属城となりました。
(写真:埼玉県蕨市にある蕨城跡=9日午前撮影、640×480拡大可能)
<参考HP>
・ 蕨市ホームページ
http://www.city.warabi.saitama.jp/
<参考資料> 蕨城跡
築城は、南北朝時代に渋川氏が館を構え、大永四年(一五二四)に北条氏綱による攻撃され、破壊されたと言われています。
江戸時代の始めには、徳川家の鷹狩用の「御殿」(休憩地)として城跡が利用されました。
江戸時代に記された絵図面によると、東西が沼、深田で囲まれた微高地上に、幅一一.八mの囲堀(かまえぼり)と、幅約八.二mの土塁をめぐらし、堀の内側面積は約一二二〇〇㎡となっています。
南側には、堀と土塁の構えが見られますが、現在ではわずかに堀跡と要害、高山などの俗名を残すのみとなっています。
また、昭和三六年(一九六一)一一月、本丸跡に文学博士 諸橋轍次(もろはしてつじ)撰書の「蕨城址碑」が建立され、現在は「蕨城址公園」として整備されています。
「蕨市教育委員会設置の案内板から・平成26年)
<参考資料> 和楽備神社 水盤
和楽備神社 水盤 |
四隅を入隅式(いりすみしき)とし、水穴(現在は埋められて浅くなっている)も外形に合わせて成形しており、その縁に三段の段形を設けている。現正面下部は花頭曲線をえがいて加工し、他の三面下部は繰形うぃ入れて、全体を四脚としている。現背面に四行にわたって銘文が陰刻されていたが、二次的に削られており、一部が判読されるに過ぎない。
この水盤の特徴は、非常に大形で四隅を入隅式とするところにあり、大形水盤は江戸時代初期にほぼ限られ、大名家墓所や格式のある社寺にみられる程度で、しかも入隅式の作例は、徳川家縁(ゆかり)の場合が多いようである。
造立の時期は、様式手法などから江戸時代初期と考えられ、同時代の石造遺物として貴重な作例であると思われる。
(蕨市教育委員会設置の案内板から・昭和61年)
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