[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
約5000株のつつじが満開の台城公園(大島城跡)で3日、恒例のつつじまつりが開催され賑わいました。(写真=3日午前10時撮影)
<参考HP>
・ くだものの里 松川 (下伊那郡松川町ホームページ)
http://www.matsukawa-town.jp/
<参考資料> 大島城跡(松川町指定文化財)
平安時代の末、南信濃源氏片桐氏は片桐郷の南に続く大島郷に分知しました。それは片切兵庫助為行の八男の片桐八郎宗綱で、在名をもって大島八郎宗綱を名のったのが大島氏のはじめです。大島氏は鎌倉幕府に仕え、以後中世w通じてこの一帯を領有・統治し、大島城・北の城・沼の城などを築きました。
南信濃攻略をうかがっていた甲斐の武田氏は天文二三年(一五五四)一挙に伊那郡に侵入し、ここを手中にした晴信(信玄)は秋山信友を飯田城におき伊那谷を統治しました。
元亀二年(一五七一)、武田氏は大島城を東海地方攻略、ならびに京へ上がるための拠点とするため、伊那郡代秋山信友に命じて大島城の大修築を行いました。この時、下伊那一九の郷民と二衆を城普請の人足として強制的に動員した事を記す武田氏の朱印状が残っています。現在の大島城はこの時に構築されたもので、武田流築城法による馬出や三日月堀、三つの曲輪とそれを取り巻く迷路のような空堀が当時のままに残されています。
信玄亡き後の勝頼の代、天正十年(一五八二)織田氏が伊那郡に侵入した時、大島城は信玄の弟の信廉が守っていましたが、信廉ら有力な武将は織田氏の進撃に驚き、夜中に逃亡したことが『信長記』に記されています。
城内jからは建物の礎石や雨落溝の石列、陶磁器や古銭、焼米などが発見され、井戸跡には落城の際お姫様が金の鶏を抱いて身を投げたという悲しい伝説も伝えられています。 (松川町教育委員会設置の案内板から)
ランキングに参加しました。
Click >>> にほんブログ村 長野情報
Click >>> 人気ブログランキングへ
管理人ホームページ Click >>> 日本列島夢紀行 信州からあなたへ
12 | 2025/01 | 02 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | |||
5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 |
12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 |
19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 |
26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 |