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明治時代に伊那谷を中心に放浪生活をおくり、後の芥川龍之介や種田山頭火にも影響を与えた俳人。越後長岡藩出身という説があるものの、詳細は不明。平成23年には、井月の生涯を追ったドキュメンタリー映画・ほかいびと(監督:北村皆雄)が公開されました。井上井月の墓は、市内美篶(地図)に残されています。
(写真:井上井月の墓=7月21日撮影、640×480拡大可能)
<参考記事>
安政5年(1858)ごろ、さすらいの俳人と言われた「井月(せいげつ)」がふらりと伊那の現れました。本名を井上克三(いのうえかつぞう・説)、越後(新潟県)長岡の武家の生まれらしい(俗説もあり)というほか素生はわかりません。伊那に現われたころは36歳前後、定住することをきらい俳諧に志ある人々の家を二泊三泊、あるときは野宿をしながら上伊那各地を渡り歩き約1700の俳句などを残しました。
年を経るに従って風体も乞食同然となり「乞食井月」と呼ばれました。
こんな話があります。「ある冬のこと、井月があまりにも寒そうな格好をしているので古い綿入れ羽織をあげた。二、三日して井月を見るとその羽織を着ていない。わけを尋ねると井月曰く、…乞食があまりにも寒そうなので着せてやった…」残された多くの逸話がその人柄を偲ばせてくれます。
明治20年(1887)ここ美篶大田久保に没しこの地に葬られるまで彼のさすらいの旅は続きました。後年、芥川龍之介は井月の書を「入神と称するをも妨げない」と評していますが、俳人・書家としてその才能の高さは今もなお多くの井月ファンがここを訪れることがそれを物語っています。
伊那市内各所に残る井月の句碑
旅人の我も数なり花ざかり (手良中坪区 清水庵)
落栗(おちぐり)の座を定めるや窪溜(くぼだ)まり (美篶大田久保 農道沿い)
何處(どこ)やらに鶴(たづ)の聲(こえ)聞く霞かな (美篶 六道の堤)
墓石には「降るとまで人には見せて花曇」と刻してありましたが、今は摩耗して確認できません。 (以上案内板から)
<参考HP>
・ 井上井月顕彰会
http://www.seigetsu.org/
・ 井上井月顕彰会公式ブログ
http://blog.livedoor.jp/inoueseigetsu/
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