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千曲市屋代の長野県立歴史館(地図)では、5月28日から7月3日まで、越前福井藩の家老職にあった芦田氏が、明治初期に故郷・信州(佐久)に戻ってきた際に運んだとされる品々(依田家史料)が展示されています。 (写真:長野県立歴史館=12日撮影、640×480拡大可能)
<管理人ひとこと>
企画展に展示されている品々について、先ずはその時代背景を。
依田信蕃は、戦国時代に武田家の武将として活躍し、本能寺の変の後、徳川家の武将として真田昌幸とともに、信州における北条家の勢力と対抗してきました。しかし、天正11年に行われた岩尾城攻撃に際して敵方より銃撃を受け死亡し、その後、信蕃の子である松平(依田)康国は小諸城主となります。
ところが、天正18年に行われた石倉城攻めでその康国が戦死。弟の康真が相続し藤岡城主となるものの、慶長5年1月に改易され、結城秀康預けとなってしまいます。秀康が越前国に封じられると越前国大野郡に5000石が与えられ、以降、康真の子孫は芦田性を名乗り、越前福井藩では重臣として家老を輩出する高知席17家になり明治維新を迎えます。今回展示されている品々は、その芦田氏が明治初期に、福井から中山道を経由して信州に戻る際に運んできたものということです。
展示されていた品々のなかで、印象深かったものに「徳川家康判物」という、依田信蕃が徳川家康から拝領した知行宛行状がありました。この書状、家康が記したもので、日付が「天正十年七月廿六日」となっています。織田信長が本能寺の変で倒れたのは「天正十年六月二日」。事変後、空白となった信濃国は、上杉・北条・徳川の領地争いに巻き込まれることになるわけですが、この書状は、徳川の支配権が及んでいたかどうかはともかく、依田氏に対していち早く知行を保証し、味方に引き入れようとしていた家康の強かな策略と、当時の緊迫した状況をうかがわせるものでした。
このほかにも、企画展では豊臣秀吉や徳川秀忠自筆の書状が展示されているほか、7月3日までの毎週日曜日(午後1時30分から2時まで)には、企画展にあわせたテーマにそって、県立歴史館職員によるギャラリートークなども行われる予定となっています。歴史ファン必見の企画展。ぜひお出かけを。
<参考HP>
・ 長野県立歴史館
http://www.npmh.net/
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