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「御神渡り(おみわたり)」は、全面結氷した諏訪湖が、日々の寒暖による収縮と膨張の繰り返しにより、湖面に入った割れ目がせり上がって起きる現象のこと。諏訪地方では、諏訪大社上社の男神が下社の女神のもとへ出かけた跡と伝えられています( The God's Crossing )。
平成25年(2013)以降、なかなか出現しなかった諏訪湖の「御神渡り(みわたり)」でしたが、今冬の寒さで、2月5日に行われた「御渡り拝観式(諏訪市指定無形民俗文化財)」で、正式に「御神渡り」と認定されました。
作品では、中央自動車道諏訪湖SA上り線から結氷した諏訪湖の様子を、また、岡谷市湊から諏訪郡下諏訪町に続く「御神渡り」の様子を取り上げてみました。
<参考HP>
・ 諏訪市博物館
https://www.city.suwa.lg.jp/scm/index.htm
・ 岡谷市観光協会
http://www.kanko-okaya.jp/
・ 諏訪市観光ガイド
http://suwakanko.jp/
・ 下諏訪町観光協会
https://shimosuwaonsen.jp/
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13日と14日の2日間、岡谷市で「第47回岡谷太鼓まつり」が開催されました。
イルフプラザ駐車場(地図)の祭典会場には、長さが60mもあるステージが設置され、13日には岡谷太鼓 300人揃い打ちや、長野県太鼓連盟・御諏訪太鼓保存会・岡谷太鼓保存会のみなさんによる500人の揃い打ち(和太鼓BIGステージ)などが披露されました。
(動画:「第47回岡谷太鼓まつり」から=13日撮影)
13日(宵祭り)
開幕太鼓 市民鼓曲「永遠」
市長砂切太鼓
岡谷太鼓 ~300人揃い打ち~
「風林火山」「天竜暴れ太鼓」
岡谷太鼓 子どもオンステージ「おかめ」
和太鼓BIGステージ ~500人の揃い打ち~
「諏訪雷」「勇駒田楽」
太鼓と踊りのコラボレーション ~「総踊り」~
「GOTTA☆みなこい!!~夏歌」
世界和太鼓打ち比べコンテストオンステージ
(一人打ちの部優勝者)
岡谷太鼓保存会 御柱ステージ ~劦~
「劦」「おんべ」「建」
岡谷太鼓 ~300人揃い打ち~
「陣風」「御神渡」「金剛力」「まつり」
14日(本祭り)
太鼓と神輿の響演「まつり」
開幕太鼓「暁」
岡谷太鼓 ~300人揃い打ち~
「颪」(岡谷市制施行70周年記念曲)
「金剛力」「紲」
2016 MINAKOI わっさか受賞チームオンステージ
太鼓と踊りのコラボレーション ~「総踊り」~
「GOTTA☆みなこい!岡谷よさこい スペシャルバージョン」
世界和太鼓打ち比べコンテスト文部大臣賞受賞者オンステージ
一人打ちの部最優秀賞受賞者
団体の部最優秀賞受賞団体
岡谷太鼓保存会 御柱ステージ ~劦~
「劦」「おんべ」「おかめ」「建」
岡谷太鼓 ~300人揃い打ち~
「御神渡」「華やぎ」
<参考HP>
・ 岡谷太鼓まつり
http://okaya-taiko.jp/
<使用音源HP>
・ 音楽素材:おとわび和風音楽素材
「おまつりまつり」
http://otowabi.com/
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諏訪湖と周遊道路 (岡谷市湊) |
南信八名所、諏訪八景に数えられており、境内には正徳5年(1715)4月、諏訪高島藩四代藩主・諏訪安芸守忠虎により造営された観音堂があります。
小説「風林火山」(井上 靖著)に、武田勝頼の母・由布姫(諏訪御料人・湖衣姫)療養の地として描かれたことから、昭和38年(1963)には供養塔が建立され、毎年5月3日の八十八夜祭護摩法要に併せ、由布姫供養祭が行われています。
(写真:小坂観音院=6日午前撮影、640×480拡大可能)
<参考HP>
・ 龍光山 観音院
http://www.kannonin.or.jp
<参考資料> 真言宗智山派 龍光院 観音院
1.概要
観音院のご本尊:十一面観世音は、伝承によるとその昔。、諏訪湖から漁夫の網にかかって引き上げられ「ビク」の上に安置して持ち帰ったといわれており、湖岸の景勝地を選んで仮宇を建立し尊像をお祀りしたことが起源といわれています。
2.ご本尊
十一面観世音
(脇立:右・不動明王、左・毘沙門天)
3.開山・開基
開山:別当 宥清
開基:諏訪出雲守源忠澄(後の二代:諏訪忠恒)
4.宗旨等
古昔は諏訪大社上社の社坊であり、その後諏訪藩の祈願所となっていました。明治4年(1871)新義真言宗醍醐派から昌福寺の末寺として観音院の院号が与えられ、明治44年(1911)新義真言宗智山派の公称寺院となり現在に至っています。
5.文化財等
十一面観世音
岡谷市指定文化財(昭和51年3月15日指定)
諏訪湖から漁夫の網にかかって引き上げられ「ビク」の上に安置して持ち帰ったといわれており、今もその姿を残し霊験あらたかな為、多くの人々の篤い信仰の対象になっています。体内銘から永正3年(1506)の作で、中世(室町時代)の仏像であることがわかっており、諏訪頼満が大檀那である記録があります。
賓頭廬尊者
岡谷市指定文化財(昭和60年6月4日指定)
観音堂(本堂)の外陣に安置されており、室町時代(1500年代)の作と推定されています。この像をなでると万病が治るという信仰があり、「なでぼとけ」とも言われています。
観音堂(本堂)
岡谷市指定文化財(平成16年3月30日指定)
詳細な資料は残っていませんが、嘉禎4年(1238)の古文書には名前が記録されているので、それ以前の古くから堂宇の建立は行われていたと思われます。
江戸時代・寛永21年(1644)には諏訪出雲守源忠澄(後の二代:諏訪忠恒)により修造され、正徳5年(1715)諏訪安藝守忠虎(四代)により造営された記録(棟札)があります。
鐘楼
鐘楼堂は元禄15年(1702)に建立され、梵鐘も同年に造られましたが戦争の際に供出してしまった為、現在の梵鐘は昭和24年(1949)に再鋳造されたものです。
柏槇の大樹
岡谷市天然記念物(昭和42年3月6日指定)
弘法大師・空海が衆生澄済度のために当院を訪れ、その際にお手植えされたと伝えられています、樹齢は1200年以上と推定されています。
寺叢
岡谷市天然記念物(昭和59年12月6日指定)
寺叢(じそう)とは、樹木・草木などが群がって茂っている境内地全体のことで、多くのカエデ、ナラ類が自生しており、スギ・サワラ等が植栽されています。特にサワラの大木の並木はめずらしく、樹齢400~700年以上と言われています。
由布姫の供養塔
由布姫は、小説「風林火山」(井上 靖著)の中での呼称であり、実名・本名はわかりません。(諏訪御寮人・湖衣姫などとも呼称されています。)
この姫は、諏訪頼重の娘で、武田勝頼の母にあたり、当院で療養していたと描かれているため、昭和38年(1963)に供養塔を建立し毎月5月3日に供養祭を厳修しています。
また、諏訪頼満が大檀那であるご本尊もあわせてご開帳しております。
その他の石仏・石碑
三十三観音の石仏、屋外に立つ像としては数少ない釈迦三尊像、祈願がたえない子育観音など多くの石仏・石碑が存在しています。
(案内板から)
<参考資料>
岡谷市指定文化財 観音堂(本堂)
観音院の本堂である観音堂は間口・奥付とも五間(九・一m)の入母屋造の建物で、現在は鉄板葺であるが、元は柿葺であった。仏堂としては三間四間堂で前面二間を吹放ちとしている。棟札によると、大工は内山善助、花岡磯右衛門、建立は一七一五年(正徳五)である。建物は時代とともに若干の改造があるが、江戸時代中期の特徴をよく示した名建築であり、(※□□)的にも技術的にも優秀である。また、当時の諏訪工匠に共通する特色も顕著に認められる。
<参考資料>
岡谷市指定文化財 木造十一面観音坐像
岡谷市指定文化財 木造賓頭廬尊者坐像
本尊の十一面観音座像は、伝承のいわれにより、今もなおビクの上に安置され、観音堂内陣の厨子の中に、秘仏として人々の信仰の対象となっている。胎内銘によると永正三年(一五〇六)の作とある。
賓頭廬尊者坐像は、観音堂の外陣に安置されており、彫り口も鋭い。本尊と同じく室町時代の作である。
<参考資料> 由布姫由来記
由布姫の供養塔 |
勝頼は父信玄没(天正元年 一五七三年)のあとを受けたが、三河の長篠での一戦で破れたのち新府城を築いて新興をはかったが、一族 家臣が寝返りをうち勝頼にそむいたので その攻撃に耐えられず 父信玄以来の本拠甲府を捨て 天正十年(一五八三)三月十一日天目山の麓の田野にて我が子信勝をはじめ 一族五十一人と共に自刃をし ここに中部地方の大半を領してその盛強を天下にうたわれた武田氏は滅亡しました。
此の武将の母「由布姫」は十五歳にして 信玄の側室となり 勝頼を生んだのちは諏訪にかえり 病の身となり此の観音の森で静かな日々を送り 弘治四年(一五五五)齢二十五歳にして 当時十歳の愛児勝頼を残して早逝されたと 井上 靖先生の「風林火山」に著されており また地元のお年寄りも子供の頃此の墓のまわりを お姫様 お姫様 と口ずさみながら遊んだといわれております。
この観音堂に「由布姫」が毎日ながめたであろう高島城(※2)に対面し はるか甲州を望み また信玄の石棺が沈められたといわれる湖底を眼前にしていて「由布姫」にはまことにゆかりが深く、ここにある姫の墓も戦国の世の一つの悲哀を物語っています。
※1:正しくは1583年→1582年
※2:現在の高島城は文禄元年・1592年の築城。諏訪氏が拠点とした旧高島城(茶臼山城)を指すのか不明。
<参考資料> 古道跡
古道跡 |
この標柱は、小坂区住民の生活に必要不可欠であったこの古道が、この地にあったことを後世に伝えるため、ここに設置するものである。
(平成23年5月に建立された標柱の案内から)
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ものづくりフェア2016パンフ |
「すわ湖太郎」も登場 |
ララオカヤでは、プラズマボールや今年3月20日に打ち上げが予定されている小型ロケット(SUWA小型ロケットプロジェクト)の模型が展示されたほか、岡谷市の特産品を販売するコーナーも設けられ、会場は大勢の家族連れで賑わいました。
<参考HP>
・ 岡谷市ホームページ
http://www.city.okaya.lg.jp/
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岡谷市長池(地図)にある縄文時代中期の遺跡。国指定史跡。
(写真:梨久保遺跡=11日午前撮影、640×480拡大可能)
<参考HP>
・ 市立岡谷美術考古館
http://www.okaya-museum.jp/
・ 文化遺産オンライン
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/172085
<参考資料> 梨久保遺跡
梨久保遺跡は、長野県の中央部、諏訪湖の西北の山麓に位置し、常現寺沢によって形成された標高八三〇メートル~八六〇メートルの小扇状地の上に立地する縄文時代を主とした集落址であり、縄文時代中期初頭を代表する「梨久保式土器」の標式遺跡として有名である。
これまでの調査で、遺跡は、扇状地の谷口から扇央部一体に、ほぼ等高線に沿う形で、上・中・下の三群の縄文時代中期を中心とする住居址郡が展開し、住居址群の間に甕被り土拡墓を含む小堅穴群が存在していることが確認され、出土遺物は、繊細華麗な籠目文の梨久保式土器のほか、石器、ヒスイ、コハクの玉等多数が発見されており、中部山岳地方における東西文化の交流や縄文中期文化の成立と、その展開をとらえる上に欠くことのできない重要な意味をもつ遺跡である。
(岡谷市教育委員会設置の案内板から・昭和59年)
<参考資料> 梨久保遺跡
梨久保遺跡は、長野県岡谷市長池中村区にあり、諏訪湖への流れ込む常現寺沢によって形成された標高830m~860mほどの南向きの扇状地上に位置する縄文時代中期を代表する遺跡である。また、古墳時代には、山裾の地形を利用した円墳が築かれ、塚屋古墳、火燈古墳、清水田古墳などがあり、かつてこの地域を治めていた豪族の存在を今に伝えている。
<参考資料>
岡谷市指定文化財
梨久保遺跡3・4号住居址出土土器
梨久保遺跡3・4号住居址出土土器は、昭和44年の発掘調査により梨久保B地点と呼称された調査区において、重複した状態で発見された3・4号住居址より出土した土器群で、縄文時代中期後半に、はしご状の文様を特徴とする点で諏訪盆地の独自形式として提唱された。現在は諏訪湖周辺や天竜川上流域、松本平などに広がりを持つ土器形式として知られており、縄文時代中期中葉から後葉への時代の移り変わりと、文化の交流を示す土器形式として特徴的な資料である。
(掲示板から)
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