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諏訪湖と周遊道路 (岡谷市湊) |
南信八名所、諏訪八景に数えられており、境内には正徳5年(1715)4月、諏訪高島藩四代藩主・諏訪安芸守忠虎により造営された観音堂があります。
小説「風林火山」(井上 靖著)に、武田勝頼の母・由布姫(諏訪御料人・湖衣姫)療養の地として描かれたことから、昭和38年(1963)には供養塔が建立され、毎年5月3日の八十八夜祭護摩法要に併せ、由布姫供養祭が行われています。
(写真:小坂観音院=6日午前撮影、640×480拡大可能)
<参考HP>
・ 龍光山 観音院
http://www.kannonin.or.jp
<参考資料> 真言宗智山派 龍光院 観音院
1.概要
観音院のご本尊:十一面観世音は、伝承によるとその昔。、諏訪湖から漁夫の網にかかって引き上げられ「ビク」の上に安置して持ち帰ったといわれており、湖岸の景勝地を選んで仮宇を建立し尊像をお祀りしたことが起源といわれています。
2.ご本尊
十一面観世音
(脇立:右・不動明王、左・毘沙門天)
3.開山・開基
開山:別当 宥清
開基:諏訪出雲守源忠澄(後の二代:諏訪忠恒)
4.宗旨等
古昔は諏訪大社上社の社坊であり、その後諏訪藩の祈願所となっていました。明治4年(1871)新義真言宗醍醐派から昌福寺の末寺として観音院の院号が与えられ、明治44年(1911)新義真言宗智山派の公称寺院となり現在に至っています。
5.文化財等
十一面観世音
岡谷市指定文化財(昭和51年3月15日指定)
諏訪湖から漁夫の網にかかって引き上げられ「ビク」の上に安置して持ち帰ったといわれており、今もその姿を残し霊験あらたかな為、多くの人々の篤い信仰の対象になっています。体内銘から永正3年(1506)の作で、中世(室町時代)の仏像であることがわかっており、諏訪頼満が大檀那である記録があります。
賓頭廬尊者
岡谷市指定文化財(昭和60年6月4日指定)
観音堂(本堂)の外陣に安置されており、室町時代(1500年代)の作と推定されています。この像をなでると万病が治るという信仰があり、「なでぼとけ」とも言われています。
観音堂(本堂)
岡谷市指定文化財(平成16年3月30日指定)
詳細な資料は残っていませんが、嘉禎4年(1238)の古文書には名前が記録されているので、それ以前の古くから堂宇の建立は行われていたと思われます。
江戸時代・寛永21年(1644)には諏訪出雲守源忠澄(後の二代:諏訪忠恒)により修造され、正徳5年(1715)諏訪安藝守忠虎(四代)により造営された記録(棟札)があります。
鐘楼
鐘楼堂は元禄15年(1702)に建立され、梵鐘も同年に造られましたが戦争の際に供出してしまった為、現在の梵鐘は昭和24年(1949)に再鋳造されたものです。
柏槇の大樹
岡谷市天然記念物(昭和42年3月6日指定)
弘法大師・空海が衆生澄済度のために当院を訪れ、その際にお手植えされたと伝えられています、樹齢は1200年以上と推定されています。
寺叢
岡谷市天然記念物(昭和59年12月6日指定)
寺叢(じそう)とは、樹木・草木などが群がって茂っている境内地全体のことで、多くのカエデ、ナラ類が自生しており、スギ・サワラ等が植栽されています。特にサワラの大木の並木はめずらしく、樹齢400~700年以上と言われています。
由布姫の供養塔
由布姫は、小説「風林火山」(井上 靖著)の中での呼称であり、実名・本名はわかりません。(諏訪御寮人・湖衣姫などとも呼称されています。)
この姫は、諏訪頼重の娘で、武田勝頼の母にあたり、当院で療養していたと描かれているため、昭和38年(1963)に供養塔を建立し毎月5月3日に供養祭を厳修しています。
また、諏訪頼満が大檀那であるご本尊もあわせてご開帳しております。
その他の石仏・石碑
三十三観音の石仏、屋外に立つ像としては数少ない釈迦三尊像、祈願がたえない子育観音など多くの石仏・石碑が存在しています。
(案内板から)
<参考資料>
岡谷市指定文化財 観音堂(本堂)
観音院の本堂である観音堂は間口・奥付とも五間(九・一m)の入母屋造の建物で、現在は鉄板葺であるが、元は柿葺であった。仏堂としては三間四間堂で前面二間を吹放ちとしている。棟札によると、大工は内山善助、花岡磯右衛門、建立は一七一五年(正徳五)である。建物は時代とともに若干の改造があるが、江戸時代中期の特徴をよく示した名建築であり、(※□□)的にも技術的にも優秀である。また、当時の諏訪工匠に共通する特色も顕著に認められる。
<参考資料>
岡谷市指定文化財 木造十一面観音坐像
岡谷市指定文化財 木造賓頭廬尊者坐像
本尊の十一面観音座像は、伝承のいわれにより、今もなおビクの上に安置され、観音堂内陣の厨子の中に、秘仏として人々の信仰の対象となっている。胎内銘によると永正三年(一五〇六)の作とある。
賓頭廬尊者坐像は、観音堂の外陣に安置されており、彫り口も鋭い。本尊と同じく室町時代の作である。
<参考資料> 由布姫由来記
由布姫の供養塔 |
勝頼は父信玄没(天正元年 一五七三年)のあとを受けたが、三河の長篠での一戦で破れたのち新府城を築いて新興をはかったが、一族 家臣が寝返りをうち勝頼にそむいたので その攻撃に耐えられず 父信玄以来の本拠甲府を捨て 天正十年(一五八三)三月十一日天目山の麓の田野にて我が子信勝をはじめ 一族五十一人と共に自刃をし ここに中部地方の大半を領してその盛強を天下にうたわれた武田氏は滅亡しました。
此の武将の母「由布姫」は十五歳にして 信玄の側室となり 勝頼を生んだのちは諏訪にかえり 病の身となり此の観音の森で静かな日々を送り 弘治四年(一五五五)齢二十五歳にして 当時十歳の愛児勝頼を残して早逝されたと 井上 靖先生の「風林火山」に著されており また地元のお年寄りも子供の頃此の墓のまわりを お姫様 お姫様 と口ずさみながら遊んだといわれております。
この観音堂に「由布姫」が毎日ながめたであろう高島城(※2)に対面し はるか甲州を望み また信玄の石棺が沈められたといわれる湖底を眼前にしていて「由布姫」にはまことにゆかりが深く、ここにある姫の墓も戦国の世の一つの悲哀を物語っています。
※1:正しくは1583年→1582年
※2:現在の高島城は文禄元年・1592年の築城。諏訪氏が拠点とした旧高島城(茶臼山城)を指すのか不明。
<参考資料> 古道跡
古道跡 |
この標柱は、小坂区住民の生活に必要不可欠であったこの古道が、この地にあったことを後世に伝えるため、ここに設置するものである。
(平成23年5月に建立された標柱の案内から)
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