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乙事陣場跡 |
天正10年(1582)、本能寺の変の後、武田家の領地であった信濃・上野・甲斐の支配をめぐり、北条・徳川・上杉家が争った天正壬午の乱において、甲斐を拠点に諏訪攻略を行っていた徳川軍が、上杉景勝との争いを断念し、南下した北条軍の動きを知り、甲斐へ撤退する途中、対峙した場所がこの地だったと伝えられています。
(写真:徳川軍が布陣した乙事陣場跡=2月28日午後撮影、640×480拡大可能)
<参考資料>
富士見町指定史跡 乙事陣場
いまに陣場(じんじょう)の小字名を伝える足場溜池の南側一帯は、徳川軍が布陣したところである。
元はなだらかな尾根をなしていたが、昭和二十八~二十九年の土地改良区画整理事業によって切り取られ、一部を留めるのみとなっている。
天正十年(一五八二)六月、織田信長が本能寺で滅亡するや、諏訪頼忠はいちはやく諏訪の旧領を回復して自立した。
徳川家康は諏訪氏を服属させようと、乙事(おっこと)村名主の五味太郎左衛門を使者に立てたが、頼忠は服さない。そこで七月下旬、大久保忠世・酒井忠次ら七将に命じて諏訪を攻略した。
いっぽう北条氏直も信州を支配しようとして、四万三千の大軍を率いて佐久方面から進軍してきた。これを察知した徳川方三千は乙事まで退いたが、北条軍が一里近くまで迫り、両軍はまさに乙事原で衝突しようとする寸前であった。
このとき太郎左衛門は具(つぶ)さに北条軍の動静を探り、適切な進言をしたので、徳川軍は一兵も損なうことなく新府に退くことができた。
こうして北条軍は甲斐に入り、再び対陣すること八十余日に及んだが、両軍の間に漸(ようや)く和議が成立して十一月に陣が解かれ、北条氏は上州を、徳川氏は甲斐・信濃を得ることになり、諏訪氏も徳川に服属した。
太郎左衛門は、この間の功績によって甲州に拾貫文の知行を拝領し、後になって家康に召し出されて性を乙骨(おっこつ)と改め、その旗本に取り立てられた。
(富士見町教育委員会設置の案内板から・平成13年)
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