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諏訪郡富士見町先達(地図)にある武田信虎の諏訪攻略拠点となった城址。
信虎は享禄元年(1528)、諏訪攻略のため、ここにあった「小東ノ新五郎」の屋敷を城とし、上原城主・諏訪頼満と対陣。富士見町御射山神戸及び堺川(現在の立場川)で戦い(享禄の戦い)を挑みますが、武田方は大敗し、信虎は敗走したと伝えられています(参考:長野日報)。
(写真:武田信玄の家臣多田淡路守常昌の居館があったとされる常昌寺=13日午前撮影、640×480拡大可能)
<参考資料> 先達城址
享禄元年(一五二八)八月、武田信虎は諏訪攻略の兵を甲信国境付近に進めてきた。『神使御頭(しんしおとう)之日記』に「此年甲州武田方ト執合に付テ、八月廿二日二武田信虎堺ヘ出張候テ、蔦木ノ郷ノ内小東ノ新五郎屋敷ヲ城に取立候、同廿六日青柳ノ下ノシラサレ山ヲ陣場トシテ、安芸守頼満・嫡子頼隆対陣ヲ御取候テ」とあり、続いて同晦日に神戸・堺川で合戦になったことが記されている。
地元の伝承によれば、ここ鳳凰山常昌寺の敷地には武田信玄の家臣、多田淡路守常昌の居館があった。その常昌は、天正三年(一五七五)の長篠の合戦で討ち死にしたという。境内の墓地には、天保年間ころ長篠の戦場跡より写し取ってきたという墓碑があって、表に「知海常通居士位」裏に「三州長篠戦合天正三年五月四日夜 陣中右淡地三八郎常政苑」と刻まれている。ただし、常昌その人について文献の上では見極められがたい。
館跡は鹿之沢(かのさわ)左岸の尾根筋上に立地し、西北側(諏訪側)が急俊な谷で画される一方、東南側は緩傾斜となっている。げんざい城跡としての遺構は特に認められないが、北に広見(ひろみ)木戸、南に南木戸の名を残し、それぞれに沿って二軒の「広見の家」と「南の家」がある。また、寺をとり巻くように「城(じょう)の家」という呼び名の家が四軒かぞえられる。明治七年の先達村絵地図には字城と示されている。先達城址が「城」であったことは、これらの呼称からも確かといえる。
こんにち「小東村の新五郎屋敷」はその場所を特定することができない。
(富士見町教育委員会設置の案内板から・平成11年)
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