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100501_0802_大倉城跡(長野市)

長野市豊野町大倉地区(地図)にある山城跡。築城は戦国時代の永正10年(1513)頃で、川中島合戦が行われた頃には、長沼城主であった島津氏に属していました。
川中島合戦の後は廃城となっていましたが、天正10年(1582)、武田氏滅亡後北信州を支配した織田方の森長可(もりながよし)に、上杉方の芋川親正が反発し、約8000人を率いてこの城に立てこもったことから、再び歴史に登場します。
しかし、激戦の後、城は織田方に攻め落とされ、城内に残っていた多くの女性や子供が打ち取られる舞台になりました。
(写真=1日撮影、640×480拡大可能)

<管理人ひとこと>
織田信長について記した「信長公記」(しんちょうこうき)には、天正10年(1582)の悲劇を「荒薙 信州川中島表、森勝蔵働きの事」のなかに記されています。
森長可は、大倉城で多くの人々を殺傷しただけでなく、本能寺の変で織田信長が滅ぼされ、北信州から引き上げる際に、猿ヶ馬場峠(千曲市と東筑摩郡麻績村境)で人質全員を殺したと伝えられる人物。2年後の小牧・長久手合戦で討死しますが、その後、森家を継いだ森忠政が因縁ある川中島藩初代藩主として入封することとなり、領民感情を益々刺激。結局、領内の経営が思うように進まず(とされている)、美作国津山藩に転封しています。当時の人たちにとって、森家の行なった行為を許すはずもなく、反感が渦巻いていたのではないでしょうか。
大倉城跡は、長野市豊野大倉の国道18号線沿いにあり、ちょっとした里山めぐりを楽しむ散策路が設けられています。麓から頂上まで、ゆっくり歩いて約20分。郭の間にある掘割は深く刻まれ、上り下りに危険な場所にはロープが備え付けらています。途中には小さな石仏も数体あり、おそらく犠牲となった人々の供養をしたものなのでしょう。山頂からは、国道18号線と鳥居川、遠くに小布施・須坂の街並みを望むことができます。

<参考資料> 大倉(蔵)城跡
鎌倉時代の寛元年間(一二四三~四六)に小笠原信濃守長清が築城、九男与市長澄が大倉氏を名乗って居住したと伝えられるが、文献史料によるえお戦国時代の永正十年(一五一三)頃には築城されていたと考えられる。
川中島合戦の頃には上杉氏勢力下にあった長沼島津氏が領有し、長沼館の詰めの城として、また武田氏の北信濃侵攻に対する備えとして機能していた。戦後は廃城となったが、天正十年(一五八二)に武田氏を滅ぼして川中島四郡を支配した織田信長の家臣森長可に対して、上杉景勝と手を結んだ芋川荘(案内板設置当時は現上水内郡三水村、現在は上水内郡飯綱町芋川)の芋川親正を大将とする八〇〇〇の一揆が蜂起し大倉古城を修築してたてこもった。「信長公記」によると四月七日、激戦の末に一二五〇余人が城外で討ち取られ、大倉城は攻め落とされ、城内に残っていた女性や子ども一千余人が切り捨てられるという悲劇の舞台となった。
(平成十三年長野市教育委員会設置の案内板から)

<参考資料> 大倉城跡
鎌倉時代、信濃国守護小笠原長清が築城し、その子大倉与一長澄が居住したと伝えられる。
戦国時代は、島津氏の領有となり、その本拠である長沼城(館・南方約五km、長野市穂保)の出城としての役割を担っていた。その後廃城となったが、天正十年(一五八二)四月、織田信長の武将森長可の北信濃侵攻に対して一揆が蜂起し、古城を修築してたてこもった。激戦の末落城し、女、子ども一二〇〇余名が虐殺されるという悲劇の舞台となった。
山頂の主郭(東西36m×南北17m、612平方メートル・184坪、標高461.3m、国道18号線との比高差92m)を中心に、井戸郭、二の郭(上段:東西6m×南北6m、36平方メートル・11坪、下段:東西16m×南北10m、160平方メートル・53坪)、三の郭(東西35m×南北16m、560平方メートル、168坪)などの平地と、V字型に尾根を寸断する大規模な堀切が現存している。
(平成元年長野市教育委員会設置の案内板から)


大倉城跡
100501_0745_大倉城跡(長野市) 100501_0750_大倉城跡(長野市)
大倉城跡登り口 散策路中間にある用水と案内板
100501_0751_大倉城跡(長野市) 100501_0755_大倉城跡(長野市)
整備された散策路 三の郭への登り口
100501_0809_大倉城跡(長野市) 100501_0758_大倉城跡(長野市)
主郭とニの郭の間にある堀切 大倉城主郭
100501_0759_大倉城跡(長野市) 100501_0800_大倉城跡(長野市)
主郭にある祠と案内板 井戸郭(右下に井戸跡)





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091118_1240_井上城址(須坂市

上信越自動車道須坂長野東ICの南東にある信濃源氏(または高井源氏)井上氏の城跡。「ふるさと須坂」(発行:須坂市教育委員会)によれば、城主井上氏は経基王を祖先とする清和源氏の流れをくみ、井上氏の氏祖となる源頼季の子満実がにわかに北信濃に雄飛し、以降、村山、高梨、須田などの氏族を形成したと記しています。鎌倉・室町・戦国時代を井上氏は当地を治めていましたが、慶長3年(1598)、豊臣秀吉の命により上杉景勝が会津へ国替えになると、その家臣として仕えていた井上氏もこれに従い会津に移りました。
城跡は、麓に居館を設け、南方に大城・小城を配置したもの。枕状溶岩跡が近くにある登山口から25分ほどで小城に、さらに10分ほど鞍部を東に歩くと大城にたどり着きます。下りは北側にある浄運寺へ。登山道はよく整備されており、約1時間程度の里山歩きを楽しむことができるようになっています。 (写真:大城=18日撮影)

<参考HP>
・ 信州山歩き地図
  http://w1.avis.ne.jp/~nakajima/
※ 「井上山」の項目をご参照ください。

<参考資料> 井上城跡
この史跡 居館大城 は、信濃源氏井上氏が中世を通じ、同族村山、高梨、須田、楡井氏等とともにこの地方を中心に活動し、鎌倉、京都方面にも進出し、多くの武将、名僧を出した根拠地でもある。居館は、100アールばかり、南は大城、小城、東は竹ノ城の山城にかこまれ、四周堀をめぐらした中世の古い形式を遺し、「お堀」とよばれている。大城は大洞山に連なる尾根に構築され前後数条の空堀をもち、二段の曲輪と幾多の遺構が見られ、北麓の浄運寺からは緩やかな道が通じている。一たびこの要害に立てば、本城に属する数多の城砦に臨みかつ川中島平を一望に指呼することができる。なお土栗には井上氏の墳墓がある。

<参考資料>
 絹本著色釈迦三尊像(けんほんちゃくちょくしゃかさんぞんぞう)

浄運寺は鎌倉時代初期に開基された浄土宗の寺で、当時この井上を本拠としていた信濃源氏として名高い井上氏の祈願所となっていました。
この掛軸は京都嵯峨野の二尊院にあったもので、井上氏が寄進したものと伝えられています。南北朝時代(一三三五~一三九二)の仏画で、釈迦、文殊、普賢の三人の仏さまが別々の掛軸に描かれています。(須坂市指定有形文化財・須坂市教育委員会設置の案内板から)

井上城址
091118_1321_井上城址登山口(須坂市) 091118_1223_井上城址(須坂市)
井上城址への登山道入口 歩きやすい尾根伝いの道
091118_1228_井上城址(須坂市) 091118_1231_井上城址(須坂市)
小城跡下の階段 小城跡
091118_1232_井上城址(須坂市) 091118_1237_井上城址(須坂市)
小城跡についての説明板 大城は小城の東200m先
091118_1240_井上城址(須坂市) 091118_1246_井上城址(須坂市)
大城からの眺望(手前は上信越道須坂長野東IC)
091118_1250_井上城址(須坂市) 091118_1304_井上城址(須坂市)
大城・小城の配置図 井上山浄運寺




<参考記事>
・ 井上氏墳墓
  http://wingclub.blog.shinobi.jp/Entry/1179/
・ 角張屋敷跡
  http://wingclub.blog.shinobi.jp/Entry/1167/
・ 井上氏居館跡
  http://wingclub.blog.shinobi.jp/Entry/934/


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emoji 信州百名山( Wikipedia

090725_1007_飯綱山・登山道に咲くシモツケソウ(長野市)
飯縄山・登山道に咲くシモツケソウ

長野市の北西にデン!と聳える双耳の山が「飯縄山」(1917m)。戸隠・黒姫・妙高・斑尾とともに、北信五岳のひとつに数えられているこの山は、春夏秋冬、季節の訪れを伝えてくれる山として、地元の人々に親しまれており、夏には、地元の小学生たちがこの山にチャレンジする行事(高原学校)もあり、老若男女、誰でも登れる初心者向けの登山コース(山頂まで2:00~3:00)としても知られています。

<コースタイム>
登山口(8:40)→1番石仏・不動明王(9:00)→駒つなぎ場(9:47)→ここから急登→最初の湧水(10:14)→鎖場(10:17)→2つめの湧水(10:20)→天狗の硯石(10:33)→中社登山道との分岐(11:06)→南峰山頂(11:15)→北峰山頂(11:36)

※ 駐車場はトイレのあるバートライン沿いの一の鳥居駐車場(地図)を利用
※ 湧水場所は以前1つでしたが、現在は2つ

<参考HP>
・ 信州山歩きマップ
  http://w1.avis.ne.jp/~nakajima/
・ 長野県山岳ガイド&信州百名山
  http://www.naganoken.jp/mount/


信州百名山 飯縄山(南登山ルート)
090725_0839_飯綱山一の鳥居登山口(長野市) 090725_0859_飯綱山・1番石仏の不動明王(長野市)
一の鳥居登山口 1番石仏の不動明王
090725_0947_飯綱山・駒つなぎの場(長野市) 090725_1014_飯綱山・登山道にある湧水(長野市)
駒つなぎの場 登山道にある湧水
090725_1017_飯綱山・登山道にある鎖場(長野市) 090725_1020_飯綱山・登山道にある2つめの湧水(長野市)
鎖場 2つめの湧水
090725_1033_飯綱山・登山道にある天狗の硯石(長野市) 090725_1106_飯綱山・戸隠中社からの登山道との分岐(長野市)
登山道にある天狗の硯石 戸隠中社からの登山道との分岐
090725_1203_飯綱山・南峰に残る石仏(長野市) 4676b70b.jpg
南峰に残る石仏 北峰山頂
090725_1040_飯綱山・クルマユリ(長野市) 090725_1210_飯綱山・南峰山頂に咲くヤナギラン(長野市)
クルマユリ 南峰山頂に咲くヤナギラン





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emoji 信州百名山( Wikipedia

090711_0904_古峠付近から望む姨捨SA(筑北村)
古峠付近から望む長野自動車道姨捨SAと善光寺平

冠着山(姨捨山)は、東筑摩郡筑北村と千曲市との境界にある標高1252mの里山(地図)。平安時代から月の名所として知られ、東山道・善光寺街道を通過した多くの旅人がその光景を詠んでいるほか、母子の愛情を語る「姨捨伝説」でも馴染みのある山でもあります。
この山の魅力は、何といってもその展望の良さでしょう。麓から眺めるとそれほど感じませんが、実際には善光寺平の南端に半ば突き出た格好となっていることから、まさに自然が創り出した展望台といっても過言ではありません。また、標高1000メートルという高さが幸いして、霞などに遮られることもなく、まずまずの天気であれば高速道路(長野道)を行き交う車も、それに平行して走る篠ノ井線の電車もはっきりとわかるほどです。
冠着山へのルートには、県道聖高原戸倉線沿いの登山道から山頂を目指すものと、更科小学校から「坊城平いこいの森」経由で山頂に辿り着くものの2つがあります。「信州百名山」を紹介する山岳ガイドなどには、いわゆる登山の醍醐味を味わうには、急坂の多い後者が一般的のように記されていますが、ハイキング感覚で気楽にこの山の頂きを目指したいというのであれば、登山道入口から僅か30分ほどで辿り着くことのできる筑北村からのルートがおススメです。

県道沿いに設けられた駐車場はかなり広く、自家用車なら10台くらい駐車ができます。軽自動車であれば、登山口からさらに500mほど奥まで進むことができます(Uターン可能)。ただ、かなり路面が荒れているので注意が必要。
正式な登山口から冠着山山頂までは約800メートル、所要時間は約30分。整備された登山道は、初心者でも安心して歩くことができます。登山口から約10分ほど歩くと「久露滝登山口」との分岐点。これを右に進むと展望台があります。案内板が設置されていて、晴れていれば北アルプスの山並みを望むこともできます。
登山口から30分で山頂に到着。多少の窪みがあるものの、ほぼ平らな山頂はとても広く、団体で上がってきても十分な広さになっていました。山頂のほぼ中央には「冠着神社」が祭られ、次いで高浜虚子の碑、方位盤、東側隅に鳥居、さらにその向こうには千曲市側からの登山道が伸びています。
避難小屋にもなる頑丈な造りの社殿に入ってみると、登山者の名前や住所を記した記録帳が置かれていました。その記録帳を見ると、ほぼ毎日、それも多い時には1日に2回も山頂を訪れ、気温や天気を記されている方がいたこと。これにはほんとうに驚きました。

<参考資料> 冠着山(標高1252m)
姨捨山、更科山ともよばれる複輝石安山岩よりなる溶岩円頂丘である。「姨捨の伝説」と「月の名所」として名高く、奈良平安の昔から都に知られ詩歌によまれ語られた「文学のふるさと」でもある。付近には古道も多く、善光寺街道(北国西街道)が知られる。

これは、案内板に記された冠着山についての紹介。以前は外に立っていたようだが、壊れてそのまま社殿に置かれているようでした。山頂中央にある方位盤には、さらに詳しい記述があるので、こちらを参考にしたほうがよいでしょう。

<参考資料> 冠着山
冠形の峰を大空にそびえ立たせた美しい展望の山であり、別名姨捨山ともいう。山体は古い溶岩(第三紀の安山岩)が侵食し残された山、すなわち残丘である。山の形が端正であり、月のてる美しい山として古くから文学の山であった。神代の昔、「天の岩戸」を背負って天翔けてきた手力男命が、この美しい峰にひかれてここでひと休みして冠を付け直したという伝説のある山、また「わが心なぐさめかねつさらしなやをばすて山にてる月を見て」の孝子伝説の山でもある。

<参考HP>
・ 信州山歩き地図
  http://w1.avis.ne.jp/~nakajima/


信州百名山 冠着山
090711_0913_冠着山トレッキング案内図(筑北村)
冠着山トレッキングコース案内図
090711_0914_冠着山・登山口(筑北村) 090711_0919_冠着山・しばらく車道(筑北村)
 筑北村側の登山道 しばらく車道を歩く
090711_0922_冠着山・正式な登山口(筑北村) 090711_0926_冠着山・登山道(筑北村)
 登山口 整備された登山道 
090711_1006_冠着山・ホタルブクロ(筑北村) 090711_0928_冠着山・登山道(筑北村)
ホタルブクロ あと少し…。
090711_0939_冠着山・山頂(筑北村) 090711_0956_冠着山・高浜虚子の碑(筑北村)
 冠着山山頂 高浜虚子の碑 
090711_0957_冠着山・お宮と方位盤(筑北村) 090711_1001_冠着山・ノアザミ(筑北村)
 方向盤とお宮  ノアザミ





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