管理人の思いつくまま、気の向くまま、長野県内の町や村の話題を取り上げています。
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髻山は、長野市と上水内郡飯綱町の境にある標高744mの山(地図)で、戦国時代には山頂に築かれた砦をめぐり、上杉・武田の両軍の攻防戦が行われました。
山頂へは飯綱町平出にある登山道からゆっくり歩いて30分ほど。途中には、上杉謙信が馬を洗ったという馬洗いの池や馬をかくしたと伝わる空堀などがあるほか、春にはカタクリの群生を鑑賞することができます。
山頂からの眺めは絶景。東は上高井郡小布施町から須坂市方面を、南は甲越両軍の激戦が行われた長野市南部の川中島・松代方面を望むことができます。
(写真:上水内郡飯綱町平出の登山道から望む髻山=15日撮影、640×480拡大可能)
<参考資料> 髻山は火山です
髻山から産出される岩石は、安山岩とよばれ墓石や建設用の石材として利用されてきました。この安山岩を、カリウム‐アルゴン法で放射年代を測定したところ18~22万年前の溶岩であることがわかりました。
また、安山岩が噴出するときに取り込まれた岩石のなかに、エジリン輝石という鉱物が含まれていて、墓石などに加工されたときに、墨流しのように見える特徴があります。エジリン輝石は北海道や九州の火山ではみられますが、長野県では初めての発見で、岩石的にも有名にしている山です。
(髻山の自然と里山を守る会設置の案内板から)
<参考資料> 泥の木古墳
髻山の東にのびた尾根上(標高約六七〇メートル)に古墳がある。直径十五メートルほどの円墳で、このあたりの地名をとって泥の木古墳と呼ばれる。天井石が失われ、石室が一部露出しており、その構造から五世紀後半ごろの築造と考えられている。
(髻山の自然と里山を守る会設置の案内板から)
<参考資料> 謙信馬洗いの池
この三〇〇坪ほどのくぼ地を「池平(いけびら)」といい、かつては池があった。池の底には切石が敷いてあると伝え、上杉謙信が軍馬の足を冷やすのに使ったので「謙信馬洗いの池」と呼ばれたという。
(髻山の自然と里山を守る会設置の案内板から)
<参考資料> 馬かくし
山頂の城を守るために、髻山の北山腹に深い堀切(ほりきり)がめぐらされている。掘った土を山ろく側へ盛り上げて土塁(どるい)にしているため一段と深くなっている。掘にさえぎられた軍勢は登山道に集まるため、山城の軍勢は登山道の守りに集中できる工夫である。上杉謙信はこの堀に軍馬を隠しておいたといわれ「馬かくし」とも呼ばれている。
(髻山の自然と里山を守る会設置の案内板から)
<参考資料> 髻山(もとどりやま)城跡
髻山城は長野市と上水内郡飯綱町の境界に位置する山城。城跡東側には近世北国街道と中世の主要道路(神代坂・かみしろざか)が通っており、越後と信濃を結ぶ重要な場所であった。
髻山城は、永禄七年(一五六四)九月上杉謙信家臣の直江実綱(なおえさねつな)が、堀江宗親(ほりえなおちか)岩船長忠(いわふねながただ)両氏に武田軍の状況を通報させたとする古文書に「敵もと々り山江、小旗四・五本にて、毎日武具致すよし候」と見られ、武田・上杉氏の川中島の戦いに際し、武田氏の利用が確認される。
髻山城は、長沼城が築城された永禄六年(一五六三)頃以降、特に重要視され、その構造から武田氏滅亡後、川中島四郡を支配した上杉景勝とも深くかかわったことが想定される。
髻山登山口には「宇佐美沢」、山頂北側の横堀には「馬かくし」、そのほか「ぬけ穴」、「観音清水」等の地名が今でも残り、往時をしのぶことができる。
(長野市観光課設置の案内板から)
髻山城跡 | |
謙信馬洗いの池 | 花を楽しみながら山頂へ |
「馬かくし」と呼ばれる空掘 | 山頂近くに残る石垣 |
髻山山頂 | 水準点 |
山頂から小布施・高山方面を望む | 山頂から長野市方面を望む |
丹霞郷(飯綱町)付近の様子 | 若槻大通り(手前)と長野市内 |
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「ブランド薬師」は、長野市浅川の浅川ループ橋右手に見える薬山に建てられたお堂(地図)のこと。かつては、岩場に開けられた穴に丸太を差し込み、その上に板を通して建てられていたそうで、お堂に入るとぶらぶら揺れたことからこの名が付けられたとか。
参道入口からお堂まではゆっくり歩いて約20分。お堂からの景色は絶景…です。
(写真=14日撮影、640×480拡大可能)
<参考資料> ブランド薬師公園
この公園のシンボルである八櫛神社は大同二年(八〇七年)創建と伝えられ「信濃奇勝録」や「善光寺名所図会」等で案内されているように、古くからこの地域の名所である。
祭神は少彦名命(すくなひこのみこと)で、「日本三代実録」によると、貞観五年(八六三年)信濃国八櫛神に従五位の上を授けるとあり、当社をさすものといわれている。
天明六年(一七八六年)伊勢神宮の神官で国学者の荒木田久老(あらきだひさゆ)が参詣し、本尊は神像の少彦名神であるとされてからは神社とされた(「薬山の歌並序」)。
しかし、当時も本尊(薬師如来)を善光寺光明院に預け、縁日に堂に上げて信者に礼拝させるなど、明治まで神仏混在が続いた。
弘化四年(一八四七年)の善光寺地震の際、薬師堂は本尊とともに、下の浅川に崩落し壊滅したが、文久元年(一八六一年)、北郷村民の尽力により現在の堂が再建された。再建の費用は合計で三十二両二分、人夫二百十四人とされる。
明治八年(一八七五年)、八櫛神社として県へ届書が出された。この時、堂は真言宗雲叡山北郷寺龍王院だったと書かれている。その後、大正四年、昭和六年と改修が行われたが、築後、百年を経て傷みが酷く、昭和三十六年浄財を募り大改修が行われ、現在の姿となった。
ブランド薬師の語源は、垂直の岩に穴を開け、三本の材木を打ち込み、そこに懸崖(けんがい)造りの社殿を建てたため、堂が揺れやすいことからブラン堂の名が生まれたといわれる。
昭和二十九年四月、旧浅川村と長野市との合併を機に、旧北郷地区より薬山約七町歩が市に寄付され、松などが凝灰岩に這う奇景をそのままに、公園として整備されてきた。
昭和六十二年に四阿の建設や裏小道の整備が行われ、昭和六十三年には岩場の十三仏を現在地に移転し、鳥居も度々新築された。現在は市内の小学生の遠足や、市民のウォーキングコースとして名実とも身近な市民の公園として親しまれている。
(長野市設置の案内板から)
ブランド薬師 | |
お堂に架けられた木橋 | お堂からの眺め |
小布施町・高山村方面の眺め | 公園に設けられた四阿 |
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上田市上野(地図)にある山城跡。
もともとは真田氏に属する城でしたが、天文10年(1541)の海野平の戦い( Wikipedia )で真田氏が拠点を追われた後、村上義清( Wikipedia )が上小地方の備えとしたと伝えられています。
武田信玄による北信濃攻略に際しては、激しい攻防が繰り広げられ、天文19年(1549)の武田軍による攻撃では、武田方の横田備中守が戦死をするなど「砥石(戸石)崩れ」といわれる敗北を喫しました。
しかし、村上方の反抗もここまでで、真田幸隆( Wikipedia )の謀略により翌20年(1551)5月に難攻不落の城も敢えなく落城。村上氏が越後へ落ちるきっかけとなりました。
城跡は、本城を中心に、北に桝形城、南に砥石城、南西に米山城の4つが一体となった複合城郭で、昭和44年5月、長野県史跡に指定されました。それぞれの城を結ぶ散策路が尾根沿いに設けられています。
(写真:砥石城跡から望む上田市内=8月29日、640×480拡大可能)
<参考HP>
・ 信州うえだ観光NAVI
http://www.ueda-trenavi.jp/
・ 上田情報蔵
http://db.umic.ueda.nagano.jp/johogura/
<参考資料> 長野県史跡 戸石城跡
この城は東太郎山の一支脈が、神川に沿って南方に突出している高い尾根に構築され、本城を中心に北に桝形城・南に砥石城・西南に米山城を配した堅固な連郭式山城で、総称して砥石城と呼ぶ。
<本城>
砥石城全域で最も広大で、最上段の本郭から南へ二の郭・三の郭と続き、その東下または東南方に四の郭・三日月形郭・帯部等郭群の遺構をよくとどめている。本城の東南は小さな谷間で、これを登る西側には小段郭が麓まで、幾重にも続いており、登城口(大手)と見られる。
<桝形城>
北方最高所標高八〇〇mにあって、自然の山頂を利用している。郭の西方入口に四平方メートルの桝形があるのでこの名がついた。郭は長方形で、手前に半月形の段郭が二つある。
<砥石城>
本城の南に連絡しており、北下りの鞍部に幅九mの深い堀切がある。本郭は方二〇mの削平方形郭で、周囲の展望は実によい。
砥石城は村上・真田氏が戦略上重要視し、また重要な役割を果たした城である。規模が大きく、四要害を一体として構築し、しかも居館としても用いられた極めて特色ある貴重な史跡である。
(「砥石城跡」にある長野県教育委員会・上田市教育委員会設置の案内板から)
<参考資料> 長野県史跡 砥石城 米山城
砥石城は本城を中心に北に桝形城・南に砥石城・西南に米山城の四要害から後世されている堅固な連郭式の山城である。築城年代は明らかでないが、室町時代後期 坂城の村上氏が、小県方面へ進出する拠点としていた。
天文十九年村上義清が、武田晴信の軍を大敗させ、世に「武田の砥石崩れ」と称されたが、翌二十年真田幸隆は調略を用い、独力で攻略した。やがて幸隆の子昌幸はこの城を居城としたが、天正十一年上田城に移った。それ以後も上田城外護の要害として重要視された。
米山城は、砥石城の西南方の峰続きにあって、本郭の南下に二の郭、三の郭を配置し、その下に腰郭も築かれている。また白米を馬の背に流して、水が余るほどあることを敵にみせかけたという、白米城伝説も残されている。
(「米山城」にある長野県教育委員会・上田市教育委員会設置の案内板から)
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上田市真田町長(地図)の小高い山上に築かれた城跡で、真田氏が上田城へ拠点を移すまで居城していたと伝えられています。
(写真:本郭跡から西方を望む=8月29日撮影、640×480拡大可能)
<参考HP>
・ 信州うえだ観光NAVI
http://www.ueda-trenavi.jp/
真田氏本城跡 | |
真田氏本城跡入口 | 本郭南側の土塁 |
本郭に建てられた案内 | 二の郭と三の郭 |
<参考資料> 史跡 真田氏本城跡
この城跡は、天白城と共に馬蹄形状に構築され、南西面に広がる緩斜面には、真田氏館跡や原の郷があり、さらに指呼の間に戸石城・矢沢城を望むことができる。
本郭は東西八・六m、南北三七mの広さで、南側に高さ二mの土塁を築き、北方へ二の郭三の郭と段差を設けながら延び出し、その北側は急崖となって厳重に防備している。
規模は大きく水利もあり、周辺城跡群等の関係からみて、上田築城以前の真田氏本城であったと推定される。
(案内板から)
<参考資料> 史跡 真田氏本城(真田山城)跡
この城は、松尾新城、住連寺城、十林寺の城山などとも呼ばれています。
真田氏館跡や原の郷(本原一帯)へと続くなだらかな南斜面には何段もの広い段郭を連ね、ほかの三方は急斜面ですが、要所に細長い段郭を配置して厳重な備えとなっています。
この山城は、真田町内(現:上田市真田町)の他の山城に比べて規模が大きく防備も複雑で、上田盆地への眺望が開け、眼下には小県と北上州を結ぶ上州道を押さえ、熊久保集落の上方の沢から山腹を回して城内近くまで水をひいていることなどの特徴があります。
こうしたことから、町文化財名は、真田氏の本拠にふさわしい真田氏本城跡としました。
(案内板から)
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茶臼山(地図)は川中島平の西方に位置する標高730mの山で、川中島合戦第4戦の際に、妻女山に布陣する上杉謙信の退路を断つため武田信玄が本陣を構えた場所ととして伝えられています。ただ、本陣は山頂に構えたようでなく、長野市篠ノ井有旅(うたび)の信里(のぶさと)合同庁舎脇の散策路をしばらく歩いた場所に、旗塚と茶臼山本陣跡の石碑があることから、山頂には上杉方を監視する砦が築かれた、という考えが一般的のようです。
茶臼山には、かつて南峰と北峰の2つの頂きがあったようですが、地滑りのため南峰が崩壊してしまい、現在、一般的に茶臼山の山頂といえば北峰(以下山頂)を指すようです。旗塚のある部分はかつての南峰の部分。切り立った崖がすぐ近くにまで迫っています。ここから山頂まではさらに1キロ程度アップダウンを繰り返しながら歩くことになります。明治時代から始まった「茶臼山地滑り」の跡地、その地滑りにより姿を現した地層の路頭などを見ながら散策路を歩くと、およそ15分ほどで山頂にたどり着くことができました。
山頂は、おまんじゅうのような人工的な土盛りが施されたもので、土塁のような防御施設はなく、唯一その北側に掘割と思われるV字型の窪みがある程度。明らかに何らかの手が加えられたことはわかりますが、地形的に見ても武田軍の本陣をここに構えたとは思われず、実際に歩いてみても、やはり旗塚の周辺に構えたとする通説のとおりかなぁ…と思いました。
(写真:茶臼山トレッキングコースから望む信里の風景=1日撮影)
<参考HP>
・ 長野市立博物館
http://www.city.nagano.nagano.jp/museum/index.html
※TOPから「茶臼山自然史館」、さらに「茶臼山地滑り」へ
・ 長野市立博物館分館 戸隠地質化石博物館
http://www.avis.ne.jp/~kaseki/
・ 長野市ホームページ ( トレッキングコース案内 )
<参考資料> 茶臼山
戦国時代、ここ信濃(長野県)の川中島の地をめぐり、甲斐(山梨県)の武田信玄と越後(新潟県)の上杉謙信が幾度か激突した。その中で最も激しい戦いとなったのが、永禄四年(一五六一)の「川中島の戦い」である。
ここ茶臼山は、武田信玄が甲斐から出陣し一時本陣を置いていたと江戸時代後期に書かれた「甲越信戦録」に見える。
それのよると、永禄四年八月十四日、上杉謙信は一万三千の兵を率いて春日山城を出発し、武田方の居城である海津城(松代城)の南を通り妻女山へ陣を置いた。
上杉軍出陣の知らせは直ちに甲斐の武田信玄の元へ伝えられ、八月十八日、急報を受けた信玄は一万の兵とともに躑躅ヶ崎館を出発。途中、信濃の兵と合流し総勢一万八千となった。八月二十四日、川中島に到着した信玄はすぐに海津城には入らず、ここ茶臼山に陣を置き雨宮の渡しを中心に軍を配置し、妻女山にいる謙信の動きをうかがった。
謙信が動かないのを見た信玄は、八月二十九日、ここから海津城へ入り、九月十日、あの両雄一騎討ちで有名な川中島合戦の戦いが繰り広げられた。
(「川中島の戦い」ゆかりの地整備保存会設置の案内板から)
長野市トレッキングコース 茶臼山信玄本陣 | |
散策路入口 | 武田信玄茶臼山本陣跡 |
地滑りにより現れた地層を示すプレートと、地滑り最上部付近の様子 | |
山頂まで540m | 茶臼山山頂 |
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