管理人の思いつくまま、気の向くまま、長野県内の町や村の話題を取り上げています。
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
旭山山頂に残る城跡 |
旭山( Wikipedia )は、長野市街地の西側の聳えるおむすびのようなカタチをした里山で、中腹に建つ朝日山観音堂は、受験シーズンともなると合格祈願に訪れる受験生が大勢訪れることで知られています。
この山は、戦国時代の弘治元年(1555)、武田信玄は味方となった栗田氏( Wikipedia )を旭山城に入れ、出陣した上杉軍を牽制。武田軍は大塚館に陣を張り、200日間対峙しましたが、膠着状態が続き、今川義元の仲裁により和睦。上杉軍は旭山城の破壊を行いましたが、弘治3年(1557)にこれを再興し、北信濃における武田軍への備えとしました。
旭山への登山道は、中部電力里島発電所からのものがありましたが、土砂崩落が著しく、また訪れる人たちの事故が相次いだことから、現在は立入禁止となっており、平柴の朝日山観音堂から登るルートが一般的になっています。このルートは、旭山城に続く登城ルートとも重なっており、当時の名残りを留める石積みや堀切(空掘)、上杉軍が破却した際に捨てられた石が散乱するなど、貴重な遺構を見ることができます。
(写真:旭山周辺=22日撮影、パノラマを除き、全て640×480拡大可能)
<コースタイム>
朝日山観音堂(11:38)→登山口(11:48)→旭山山頂(12:05)(12:15)→旭山展望台(12:19)(12:24)→※下山中・ヘビの遭遇→朝日山観音堂(13:01)
旭山 朝日山観音堂~旭山山頂 | |
朝日山観音堂 | |
朝日山観音堂からの登山道 | |
旭山山頂 | |
旭山(葛山山頂から撮影) | |
旭山城 主郭跡 | |
朝日山城跡案内 | 立入禁止 里島発電所ルート |
旭山 旭山山頂~展望台 | |
旭山展望台と展望台からの眺望 |
<参考資料> 朝日山城
旭山(古くは朝日山)は標高785メートルその昔戦国時代には武田方の居城であったが上杉方によっていったん破壊され弘治4年(1558年)謙信公によって再興されたといわれる。本丸跡は東西約36メートル南北約30メートルである。
(案内板から)
ランキングに参加しました。
Click >>> にほんブログ村 長野情報
Click >>> 人気ブログランキングへ
管理人ホームページ Click >>> 日本列島夢紀行 信州からあなたへ
PR
地附山山頂 |
昭和60年(1985)7月26日に大規模な地滑りを起こした地附山( Wikipedia )。現在は地滑り被害への対策が進み、防災メモリアル地附山公園として整備され、長野市民の憩いの場として親しまれています。
その地附山も、地滑り災害により崩落した旧戸隠バードラインが開通するまで観光開発が行われた場所で、雲上殿から山頂までロープウェイが運行し、山頂周辺には動物園やスキー場もある、広大なアミューズメントパークでした。
ここでは、地附山山頂および周辺に残る当時の施設の今を取り上げてみます。
(写真:地附山周辺=20日撮影、パノラマを除き、全て640×480拡大可能)
<コースタイム>
雲上殿下展望道路沿いにある駐車場(地図)→霊山寺(10:53)→大峰山遊歩道入口(11:02)→岩井観音堂(11:13)→上杉謙信の物見の岩(11:24)(11:39)→大峰山遊歩道との分岐(11:49)→地附山スキー場跡(11:57)→地附山山頂(12:09)→旧戸隠バードライン経由で桝形城跡主郭(12:28)(12:50)→上池ノ平古墳群 第六号古墳(12:55)→地附山前方後円墳(13:03)→地附山釣り堀跡(13:07)→地附山動物園跡(13:19)→観光リフト跡(13:24)→地附山ロープウェイ跡(13:27)→パワーポイント(13:43)→跳駒・つづらトレイル分岐(14:00)→金毘羅宮(14:12)→駒弓神社(14:19)→雲上殿下の駐車場
地附山山頂へは、健脚コースとして知られる駒弓神社からの「跳駒トレイル」、地附山メモリアル公園から続く「つづらトレイル」などがよく知られていまが、今回は大峰山へ続く遊歩道(霊山寺~岩井観音堂~物見の岩経由)を利用して山頂に向かいました。
ただ、今回利用したルートは、長野市で配布している「地附山トレッキングガイド」によると「地附山」のトレッキングコースではないので、初めて地附山に登られる方はわかりやすい「跳駒トレイル」または「つづらトレイル」の利用をおススメします。
地附山 霊山寺~大峰山遊歩道分岐 | |
登山口となる霊山寺 | |
物見の岩への登山道 | 歌ヶ丘との分岐 |
物見の岩直下の 岩井堂観世音 | 雲上殿からの道と合流 |
上杉謙信ゆかりの 物見の岩からの展望 | |
物見の岩休憩所 | 大峰山・地附山分岐 |
<参考資料> 花岡平
大峰山の中腹に位置し、眺めが良いところから桜坂、雲上台、歌ヶ丘、しぐれ沢、白雲台、往生寺、夕陽ヶ丘と共に展望道路八景と称されています。
草創時代長い間善光寺があった地とも伝えられ、また数多くの五輪塔が発掘されたところから五輪平とも呼ばれています。
附近には、霊山寺(真言宗)、弘法大師の遺蹟岩井堂、並びに県内殉職警察官の慰霊碑、消防関係者顕彰の碑などがあります。また、裏手には川中島古戦場の謙信物見の岩が頭上に望まれます。
一帯は自然休養林として一般に開放され、幾つかの遊歩道が整備されており、物見の岩歩道の登り口にもなっています。
<参考資料> 七清水の紹介 一盃清水
霊山寺より約三百米奥に謙信物見の岩の下に岩井堂あり弘法大師が修行中杖で地面をついたら清水が湧き出たといい、弘法大師が好んで硯の水に用いられました。のちの上杉謙信が大峰山布陣の際に飲み水にしたとも伝えられ別名上杉の御膳水とも呼ばれていました。
(長野市水道工事協同組合設置の案内板から・平成11年)
<参考資料> 川中島合戦勇士の首塚
霊山寺中興の祖義吽和尚の代(※大正時代、この地に霊山寺を復興させた原田義吽和尚)にこの地を整地したところ首だけの白骨の化石がたくさん発掘され鑑定した結果、この大峯山一帯は川中島合戦の時、上杉方陣地であり合戦で討ち取った武田方の武将の首を検分し、論功定めを行なった処であることがわかり、戦士等の勇魂を慰める為にここに塚を築いて白骨を納めたものです。
(霊山寺設置の案内板から)
地附山 山頂周辺 | |
地附山スキー場跡 | |
地附山山頂 |
<参考資料> 地附山スキー場跡
ここは地附山第一スキー場跡です。
第二スキー場は「物見の岩場」付近にありました。
ここにはTバーリフト一基が備えられ、地元の小学生のスキー教室に使われていました。大衆向けで手軽に楽しめるスキー場で、家族連れのスキーヤーが連日詰めかけ、日曜日には1500人ものスキーヤーで賑わいました。今はリフトのモーターの跡が残されています。
(地附山トレッキングコース愛護会設置の案内板から)
地附山 山頂~ 旧戸隠バードライン経由 桝形城跡 | |
地附山山頂から旧戸隠バードラインを長野方面へ | |
桝形城跡 | |
<参考資料> 桝形(ますがた)城跡
地附山の山頂から北東に伸びる尾根の頂部に立地している、中世の山城跡である。尾根の頂部に主郭があり、主郭の南西側に虎口(こぐち)が残っている。斜面には曲輪(くるわ)がなく、尾根上を主体的に利用しているが、主郭の西側直下には土塁をともなう横堀と、それにつながる竪掘が複雑に入り組んでいる。主郭背後は大規模な堀切と土塁をともなう橫堀で、地附山方向へ続く尾根を遮断し、堀の間には広大な曲輪が存在する。最南端には馬出し状の曲輪がある。主郭において防御的な施設が希薄な一方で、周辺は虎口や橫堀・縦堀の多用と橫堀の複雑な構成、さらに馬出し状の曲輪の存在など、防御機能がきわめて発達した山城と考えられる。
古文書などの文献資料には、現在までのところ本城跡の名を見ないが、遺構の構造などから戦国時代である十六世紀後半の年代が想定される。周囲の山には、旭山城跡、葛山城跡、大峰城跡、若槻山城跡などがあり、本城跡も武田・上杉両氏の攻防にかかわった城跡の一つと推定される。
(長野市教育委員会・地附山トレッキングコース愛護会設置の案内板から・平成21年)
<参考資料> 桝形城跡
◎謎につつまれた山城
桝形城跡については、古文書などの文献資料にはいっさい記述がありませんので、詳しいことはまったくわかりません。堀切の構造が複雑であることや、たくさんの曲輪があることなどから、守りをかためた城であると考えられます。
◎守りをかためた桝形城跡
長野盆地は、甲斐国(今の山梨県)の武田信玄と、越後国(今の新潟県)の上杉謙信が戦った「川中島の戦い」の主戦場であり、旭山城跡・葛山城跡・大峰城跡・若槻山城跡など多くの山城が作られています。また、近くには「謙信の物見岩」と呼ばれている場所もありますので、「川中島の戦い」に関係する山城の一つかもしれません。
山城ってなんだろう?
戦争のために山頂や尾根の上に作られた城のことです。長野市内には約80箇所以上の山城があり、その多くが今からおよそ500年前の戦国時代に作られたものです。
山城には、土塁(土を盛り上げて作った土手)と堀切(水のない溝状の堀)に囲まれた曲輪(平らに整地した場所)がいくつかあります。おそらく、掘っ立て小屋や柵などの簡単な建物や防護施設だけで、国宝の松本城や姫路城のように立派な天守閣のんかる江戸時代のお城とは異なります。
(長野市教育委員会・長野市立博物館・地附山トレッキングコース愛護会設置の案内板から・平成22年)
地附山 桝形城跡~動物園・ロープウェイ跡 | |
上池ノ平古墳群 第6号古墳 | |
地附山 前方後円墳 | |
地附山釣り堀跡 | 旗立岩 |
地附山動物園跡 | 観光リフト跡 |
地附山ロープウェイ跡地 |
<参考資料>
上池ノ平古墳群 第6号古墳
地附山の山頂から北この古墳は、地附山前方後円墳直下の平坦面に立地する上池ノ平古墳群のうち、もっとも東側に位置している。直径二〇メートルほどの大型円墳であるが、発掘調査は実施されておらず、埋葬施設や築造年代などの詳細はいっさい不明である。上池ノ平古墳群は、昭和六〇年に発生した地附山地すべり災害に対する防火弘治のため、第六号古墳以外は緊急発掘調査の後やむなく破壊された。
第一号古墳んは直径一八メートルの円墳で、埋葬施設は組み合わせ式の箱形石棺が三基並列し、中央の一号石棺は合掌形石室であった。また、直径九メートルの円墳である第五号古墳の埋葬施設も合掌形石室で、鉄剣・鉄鏃(てつぞく)・刀子(とうす)などのほか、馬具の轡(くつわ)が副葬されていた。特に轡は、東北アジアに系譜が求められるもので、朝鮮半島からの渡来品と考えられる。五世紀中期から後半にかけて地附山前方後円墳が築造され、その後上池ノ平古墳群の三号古墳群から二号、一号、(六号)、五号、四号の順に築造され、六世紀中頃に終焉したものと考えられる。
(長野市教育委員会・地附山トレッキングコース愛護会設置の案内板から・平成21年)
<参考資料> 地附山 前方後円墳
地附山の山頂から北東に伸びる尾根の頂部に立地し、眼下には善光寺平全域が広がっている。南東側の墳丘裾部が崖となり、盗掘坑らしき痕跡が各所に残るなど、形状はかなり変化しているが、前方部が南西側となる前方後円墳である。全長は三六・一メートルで、前方部の長さ十六・一メートル、幅一四・五メートル、後円部の直径二〇メートルを測る。前方部の全面から北側にかけて、幅三~四メートル、深さ八〇センチメートルほどの周溝がめぐらされている。
昭和六一年、筑波大学の測量調査によって、前方後円墳である可能性が指摘された。正式な発掘調査はされていないため、墳丘形態や埋葬施設、築造年代も明らかではないが、本古墳直下の平坦地に存在した上池ノ平古墳群との位置関係などから、五世紀中頃から後半にかけての築造と推定されている。
詳細は不明な部分が多いが、長野市北部において盟主墳的な存在であり、きわめて貴重な古墳である。
(長野市教育委員会・地附山トレッキングコース愛護会設置の案内板から・平成21年)
<参考資料> 地附山 前方後円墳
◎地附山に作られた古墳
平地からの高さが約300mもある地附山の山頂に、全長36.1mの地附山前方後円墳が作られています。崖くずれや盗掘などによって形が変わっており、前方後円墳であった可能性も考えられます。また、山頂から少し下った平らな場所には、上池ノ平1~6号墳という円墳が作られていました。1985(昭和60)年に発生した地すべり災害によって1~5号墳は消滅してしまい、6号墳だけが今も残っています。
◎いつ作られたのか、だれの古墳なのか?
正式な発掘調査をおこなっていないため、誰が埋葬されているのかなど詳しいことはわかりませんが、だいたい5世紀中頃から後半にかけて作られたのではないかと推定されています。古墳が作られた当時は、人びとが生活している長野盆地全体を見おろすことができたことから、ある程度の権力を持った人のお墓と考えられます。
古墳ってなんだろう?
古墳とは、土や石を使って、地面よりも高く盛り上げて作った、昔の人のお墓のことです。日本全国で15~20万基ものたくさんの古墳が作られた、3世紀後半から8世紀初めごろまでのおよそ450年間(約1700~1300年前)を、「古墳時代」と呼んでいます。
古墳の形には、基本的に前方後円墳・前方後方墳・円墳・方墳の4つがありますが、長野市内にある約870基の古墳のうち、前方後円墳または前方後方墳は16基だけで、残りはほぼ直径10mくらいの小さな円墳です。
(長野市教育委員会・長野市立博物館・地附山トレッキングコース愛護会設置の案内板から・平成22年)
<参考資料> 善光寺ロープウェイ
善光寺ロープウェイは、地附山の山麓駅「雲上台駅」と山頂駅「地附山頂駅」間の水平長570mを約8分で結んでいました。長野国際観光が1961年3月に開業した民営の索道です。「とがくし」「いいずな」の名がつけられた二台のゴンドラは、初年度は50万人を超えるレジャー客が訪れました。
1964年にバードラインが開通し、地附山一帯は通過地点になり衰退の一途をたどり、1985年の地滑り災害により、バードラインも寸断され、人の訪れない場所になってしまいました。
(地附山トレッキングコース愛護会設置の案内板から)
地附山 パワーポイント~ 跳駒トレイル経由 駒弓神社 | |
展望抜群! 地附山 パワーポイント | |
跳駒トレイル案内 | 金毘羅宮 |
駒弓神社へ | 駒形嶽駒弓神社 |
<参考資料> 金毘羅宮(金刀比羅宮)
祭神
大物主神
崇徳天皇
由緒
讃岐(香川県)の金刀比羅宮は金刀比羅本教総本部で「こんぴらさん」と呼ばれ全国的に知られ、現在でも多くの人たちが参詣に訪れている。
この滝区の金毘羅宮は江戸時代、滝に住んでいた「石坂善兵衛」が飛脚していた頃、讃岐の金毘羅宮に七回も参拝し御神徳を深く感じ、文化元年(一八〇四年)から文政五年(一八二二年)頃、ここに小さな祠を建て金毘羅宮を祀ったのが初めと言われている。
明治六年(一八七三年)社殿が回収されたが、現在の社殿は昭和十年(一九三五年)法泉院不動堂(滝の不動さん)内に安置されていた金毘羅社殿をここに遷されたものである。さらに平成十三年(二〇〇一年)には滝地区有志四十八名のご厚志により屋根の修理、鳥居の再建が行われた。
また、昭和六年(一九三一年)には御神水場(ごしんすいば)が設けられ、水波能賣神(みずほのめのかみ)(水神)が祀られた。
なお、社殿前には小県郡武石村(現在上田市)に生まれ裁判官を務めた後、当地の梨を始めとする果樹栽培に従事し全国に名を為し大正十一年(一九二二年)亡くなった塩入り武雄翁之碑が建てられている。
行事
例祭 四月二十三日
(滝区・地附山トレッキングコース愛護会設置の案内板から)
<参考資料> 駒形嶽駒弓神社
御祭神 健御名方富命彦神別神
相殿神 大宜都姫命
由緒
創立年月は不明であるが、文政十一年(一八二八年)には現在の社号となっており、本殿は文久三年(一八六三年)に再建されたものである。
古くから式内名神大・水内神社の奥社と伝えられている。水内神社は神仏習合時代、善光寺「奥の院」と称され参拝者が多かった。
当神社は善光寺との関連が深く、社紋は卍(まんじ)であり、本殿は善光寺と同じ「撞木(しゅもく)造り」である。二月一日には、境内にある善光寺堂童子斎場にて正月行事で用いられた注連等の祭具を焼却する「お駒送り」の行事が行われる。
本殿には木馬四頭が神馬として祀られている。中央祭壇の黒駒の鞍には卍の印があり、乗っている人物は聖徳太子と言われている。その昔、聖徳太子の馬は甲斐の国の黒駒で、その駒が当社の高嶺にとまり、善光寺如来の鎮座を待ちこがれ仏法を守護した。そして、善光寺如来が当社の駒に乗り年越しの夜、市中を巡行したと言う伝説がある。
昭和以前の例祭日には遠くからも飼養馬(しようば)を曳き参詣する人が多く、全山馬で埋もれたという。また、養蚕の守護神として篤く崇敬された。
昭和六〇年(一九八五年)に発生した地附山大地滑りにも強固な岩盤上に鎮座している本殿は被災を免れ、以来「滑らない神社」「落ちない神社」として受験生の信仰を集めている。なお、明治四十二年(一九〇九年)には上松の八幡社、滝の諏訪社、湯谷の飯縄社が合祀された。
行事
歳旦祭 一月一日
元始祭 一月三日
お駒祭り 二月一日
春季例祭 四月第一日曜日
風鎮祭 八月三十一日
秋季例大祭 九月二十二日~二十三日
新嘗祭 十一月二十三日
(上松五区氏子総代・地附山トレッキングコース愛護会設置の案内板から)
ランキングに参加しました。
Click >>> にほんブログ村 長野情報
Click >>> 人気ブログランキングへ
管理人ホームページ Click >>> 日本列島夢紀行 信州からあなたへ
葛山山頂に残る城跡 |
長野市内の西側にある葛山( Wikipedia )は、裾花川を挟んで聳える旭山( Wikipedia )とともに、甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信が川中島合戦の際に覇権を争った重要な拠点でした。
葛山への登山道は幾つかあるそうですが、今回は県道長野戸隠線沿いにある長野市芋井の松静寺から登るルート(通常の登山道ではなく、近道登山道)を利用しました。
登山口を間違えて進んでしまったり、途中、倒木が4本もあったりと、頂上にたどり着くまでに思いのほか労力を要しましたが、どうにかこうにか山頂に到着。
帰りは、善光寺の参道にも利用されたという「郷路石」が切り出された郷路山(ごうろ)や源 頼朝とも縁のある頼朝山をめぐり、市内から気軽に行ける里山の自然を楽しみました。
(写真=11日午前撮影、パノラマを除き、全て640×480拡大可能)
<コースタイム>
松静寺登山口(地図)※駐車場あり(11:20)→葛山登山道分岐(11:32)→葛山山頂(11:58)(12:58)→郷路山分岐(13:18)→作業道分岐(13:26)→頼朝山分岐(13:31)→頼朝山(13:36)→松静寺登山口(14:07)
葛山 静松寺登山口~葛山山頂 | |
葛山 通常登山口 | |
静松寺からの近道登山口 | |
葛山山頂 | |
葛山城 本丸跡 | |
葛山 葛山山頂~郷路山・頼朝山 | |
葛山山頂から尾根伝いに郷路山へ | |
頼朝山山頂と山頂からの眺め |
<参考資料> 葛山城跡 標高八一〇m
葛山城主落合備中守は、村上義清に従い越後の上杉謙信に属していた。城は、上杉方の重要な前進基地であった。
一方、北信濃を掌中に収めようとする甲斐の武田信玄は、弘治三年(一五五七年)二月(今の三月)、越後はまだ雪が深く、上杉軍が出陣できない時期を見はからい、部下の馬場美濃守に命じ一万七千余人の大軍でこの城を攻撃した。
城は、高い崖の上にあり、堅固な防塁を備えており、落合備中守も勇猛にみずから進んでよく防いでいたので武田勢もやや攻めあぐむ形であった。
しかし、城は水が不自由であった。城兵は、敵の目にふれる崖から米を落し水は十分あるようみせかけた。武田方が、葛山の中腹にある静松寺の僧を責め城を攻める方法を問い、水利の不便を知ると水を絶ち、火攻めにした。春先の風にあおられた火の勢いは、山を包み、防塁は炎の中に、くずれおちた。城兵必死の抗戦もむなしく備中守は奮戦して討死し、二月十五日ついに落城した。
逃げ場を失った多くの女たちは、峰の上から身を投げて死んだ。姫谷(裏の谷)と呼ばれる谷底からは、のちの世まで女の哀しい泣き声が聞かれたと里人は語り伝えている。
本丸跡には、城主の嘆きを語る祠が安置され、今でも周囲から焼米が掘り出されるという。
春、山頂の城跡に立てば、里に遅れて散る山桜の一片に、戦国の世のならいとはいえ、滅びる者の哀れさが胸にせまってくる。
(長野市観光課設置の案内板から・平成12年)
<参考資料> 頼朝山(八幡山) 標高六四四m
この頼朝山は、八幡山ともいわれ、山頂の八幡宮(昭和十三年焼失)は、静松寺鎮守社である。弘化年間(およそ一五〇年前)の頃に、八代松代城主真田幸貫公が鬼門除(きもんよけ)の守護社として祭祀されたので、鎮護峰ともいわれているが、源 頼朝公寄進の山であり、静松寺の山号にちなみ頼朝山と呼ばれている。
<参考資料> 静松寺(じょうしょうじ)由来
静松寺は、承平二年(九三二年)智盛(ちじょう)法師が、諸国修業の旅の末、善光寺如来のおそばこそ一生身をおちつけるところときめて、葛山の中腹(今の古屋敷地籍)に庵を建てたのが寺の草創(はじめ)といわれている。
征夷大将軍源 頼朝が建久八年(一一九七年)に善光寺へ参拝した際に、以前源氏再興のため諸国遍歴の途中、この寺で没した家臣の菩提を弔うために、寺の田地山林を寄進しみずから「頼朝山法性浄院静松寺」と名づけた。
弘治三年(一五五七年)葛山城落城の兵火により、堂宇はことごとく焼失し荒廃したが、天正十五年(一五八七年)春虎和尚が現在地に堂宇を再建した。現在の本堂は、明治十四年(一八八一年)に再建に着手し、明治十六年(一八八三年)十月に完成したものである。
清浄院殿光山勇仙大居士備中守(葛山城主落合備中守)の位牌、並びに一族郎党の亡霊がこの寺に納まり、永遠に弔われることになったのである。
(長野市観光課設置の案内板から・平成12年)
ランキングに参加しました。
Click >>> にほんブログ村 長野情報
Click >>> 人気ブログランキングへ
管理人ホームページ Click >>> 日本列島夢紀行 信州からあなたへ
守屋山 西峰 |
諏訪市と伊那市の境にある守屋山( Wikipedia )。
国道152号線の杖突峠から登るのが一般的なルートと聞き訪ねてみました。
諏訪の仮住まいから毎日眺める山容から、それほど難しくもないだろう…と気軽に出かけてはみたものの、登山口からキャンプ場まで続く長い坂にほぼ労力を使い、頂上近くの胸突坂では完全に息切れ状態に…。昔はこのくらいどってことなかったのになぁ…とボヤキながら、どうにかこうにか東峰と西峰に登りました。
(写真=25日午前撮影、パノラマを除き、全て640×480拡大可能)
<コースタイム>
杖突峠登山口(地図)※駐車場あり(7:50)→キャンプ場(8:18)→胸突坂(8:53)→守屋山・東峰(9:06)→休憩→東峰出発(9:18)→西峰(9:39)→休憩→東峰経由・杖突峠(11:00)
<参考HP>
・ 守屋山ドットコム
http://homepage2.nifty.com/allsuwa/moriya.htm
・ 信州山歩きマップ
http://w1.avis.ne.jp/~nakajima/
・ 諏訪大社と諏訪神社
http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/index.htm
守屋山 杖突峠登山口~キャンプ場 | |
杖突峠登山口 | |
守屋山 キャンプ場~ 胸突坂・守屋山東峰 | |
胸突坂には鎖場も | |
胸突坂を登りきると平坦となりそのまま東峰へ | |
東峰から撮影 (左:北アルプス 右:八ヶ岳連峰) |
|
守屋山 守屋山東峰~守屋神社奥宮・西峰 | |
東峰から西峰へ(右:守屋神社奥宮) | |
西峰の避難小屋(左)と山頂の一等三角点(右) | |
西峰から望む諏訪湖(左)と御嶽山(右) |
ランキングに参加しました。
Click >>> にほんブログ村 長野情報
Click >>> 人気ブログランキングへ
管理人ホームページ Click >>> 日本列島夢紀行 信州からあなたへ
雁田山・展望園地から望む小布施町の眺め |
上高井郡小布施町の東に連なる雁田山(786m)。
標高もそれほどではなく、どうやら頂上付近には東屋もあってのんびりできそう…と気軽に出かけてはみたものの、思いのほか長く続く急坂と真夏の暑さで、反射板跡にたどり着く頃には完全に息切れ状態に。視界が狭くなって、目に残像が残るという恐ろしい経験をしながら、どうにかこうにか登ることができました。
ところが、山を下り始めてまもなく、後ろから軽快な足取りで追いかけてくるご婦人がひとり。お聞きすれば、なんと毎日、岩松院から山頂を巡って帰ってくるとのこと。何も持たずに、まさにランニング状態。
いやはや、なんとも、世の中にはスゴい人がいるもんだと、深く感じたのでありました。
(写真=平成24年8月17日撮影、パノラマを除き、全て640×480拡大可能)
<コースタイム>
すべり山登山口(地図) ※出発から道に迷い、全く関係ない場所から入山(9:38)→道に迷いつつ、一の岩(9:53)→二の岩(9:57)→休憩→案内板「反射板跡0.35km・すべり山入口」(10:45)→案内板「鬼のつぼや0.10km」(10:51)→反射板跡(10:57)→物見岩(11:18)→展望園地(11:41)→すべり山入口(12:30)
<参考HP>
・ 信州山歩きマップ
http://w1.avis.ne.jp/~nakajima/
<参考資料> 反射板跡
昭和37年10月に完成した国鉄の無線電波反射板。通信回線は1200回線あり、長野市の鉄道管理局(14.5km)と信濃町の柏原無線中継所(19.5km)を継いで、東京~門司、東京~札幌間の幹線第2ルートとして常時使われていました。
<参考資料> 国蝶オオムラサキの育成
雁田山の、エノキやコナラ・クヌギが混生する雑木林はオオムラサキの生息地です。
食木のエノキを育成しつつ、雑木林の保護育成活動を進めています。
おぶせの里山には、オオムラサキの他に、アゲハ・ヒメギフチョウ等のたくさんの蝶が生息しています。
オオムラサキの一生は、盛夏に始まります。卵から孵化した幼虫はエノキの葉を食べ成長・脱皮をし、初秋には体色を枯葉色に変えます。
エノキの葉が散ると幹を伝い下り、根元の落ち葉の中で冬を越します。
春には再び木に登り、脱皮して緑色の幼虫になり、葉を食べて成長します。さらに脱皮をしてさなぎとなり、夏の訪れとともに羽化します。
成虫は、エノキの葉や先端の枝に卵を産みつけ、産卵後は初秋まで生き延び、一生を終えます。
成長は樹液を吸うため、コナラやクヌギに飛来し、我々に姿を見せます。里山に舞い踊る、きらめく宝石たちの姿を観察しましよう。
(雁田癒しの里つくり会設置の案内板から)
雁田山 | |
すべり山(登山道)入口 | 一の岩 |
二の岩と岩上から望む小布施町の様子 | |
登山道にある案内板 | |
反射板跡 | 岩と岩の間を抜けて、物見岩へ |
物見岩 | 展望園地の東屋 |
展望園地からの眺め |
ランキングに参加しました。
Click >>> にほんブログ村 長野情報
Click >>> 人気ブログランキングへ
管理人ホームページ Click >>> 日本列島夢紀行 信州からあなたへ
カレンダー
01 | 2025/02 | 03 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | ||||||
2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 |
9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 |
16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 |
23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 |
ブログ内検索
リンク
プロフィール
HN:
管理人ひろさく
性別:
男性
趣味:
里山めぐり
自己紹介:
長野県長野市在住。
最新記事
(12/04)
(01/02)
(01/02)
(12/06)
(11/26)
カテゴリー
最新コメント
[11/23 たっきー]
[11/22 管理人ひろさく]
[11/22 管理人ひろさく]
[11/21 ロクエフ]
[11/21 たっきー]
カウンター
アクセス解析
忍者アナライズ