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管理人の思いつくまま、気の向くまま、長野県内の町や村の話題を取り上げています。
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160129_1145_浪人塚・水戸浪士の墓(下諏訪町)
浪人塚(諏訪郡下諏訪町樋橋)

今週の諏訪地域は寒かった…。
25日の最低気温は氷点下13.0度。翌日26日は氷点下12.3度と、さすが諏訪だなぁ…と実感する気温に。このくらいの気温になると、寒いというより、もう痛い…という感覚でしょうか。
この寒さにより、諏訪湖もほぼ全面結氷となりました。29日の雨と気温で、湖面の氷は幾らか小さくなってしまったようですが、来週からまた氷点下10度以下になるという予報もでていますので、氷の厚さも増して、「御柱祭が行われる年は御神渡(みわた)りが見られることが多い」と伝わるように、もしかしたら御神渡りが見られるかもしれません。期待していましょう。

写真は諏訪郡下諏訪町樋橋集落にある「浪人塚」です。ここは、江戸時代末期、京都に向かう水戸藩の武田耕雲斎( Wikipedia )率いる浪士(天狗党)1000人と、これを阻止する諏訪高島藩・松本藩の藩士1000人が戦った和田嶺合戦(詳細:車山高原のリゾートイン レア・メモリー「歴史散歩」)が行われたところで、「浪人塚」は合戦で亡くなった戦死者を葬った地と伝えられています。
国道142号線を樋橋集落に向かって車を走らせていたところ、ついつい通り過ぎてしまい、Uターンするため待避所に立ち寄ると、そこに「水戸浪士の墓」と記された看板があり、偶然、この「浪人塚」を見つけることができました。
中山道といえば皇女・和宮のイメージが強いのですが、幕末にはこうしたできごともあったですね。
(写真:諏訪郡下諏訪町樋橋の国道142号線沿いにある「浪人塚」=29日午前撮影、640×480拡大可能)

今週のできごと
※ここでは先週の金曜日から今週木曜日までの諏訪周辺のできごとを掲載
22日(金)
・諏訪市内の最低気温氷点下7.7度
・物産展「よいてこしょ!すわいち」(長野市)
・諏訪湖にコハクチョウ今季最多の29羽
 (岡谷市・横河川河口周辺、長野日報)
23日(土)
<御柱祭>湖東地区抽籖総代選出式
諏訪大社上社御柱祭では、担当する御柱(本宮1~4、前宮1~4)を決める「抽籖式」(2月15日)が行われます。地区により「抽籖式」に参加する代表の決め方が異なるようですが、茅野市の米沢・湖東・北山地区では、各地区内で先ず予選を行い、続いて3地区の代表から1名(抽籖総代)を選び、諏訪大社上社の「抽籖式」に臨む習わしになっているそうです。
24日付長野日報記事によれば、23日は湖東地区で地区代表を決める予選が行われ、大総代・副大総代・9地区3自治役員の計38人がくじを引いたということです。
・おひぎりさま初縁日
 (岡谷市長地・日限地蔵尊 平福寺)
・茅野市が地域DMO設立へ(茅野市)
・JA信州諏訪のシンボルキャラクター
 「しゃすまる」宣伝部長を披露(茅野市)
・八ヶ岳連峰・大同心で遭難
・富士見パノラマスキー場でリフト停止
 (富士見町)
24日(日)
<御柱祭>第11回木やり日本一コンクール
 (下諏訪町・下諏訪総合文化センター)
<御柱祭>
 「古御柱祭」の由来を学ぶ学習会(諏訪市)
「古御柱祭」とは御柱を普通の木に戻す神事で、中金子区では山出し後に諏訪大社上社本宮の境内にある御柱を曳き倒し(御柱倒し)、本宮の4本を区内の八立神社境内に曳行し安置(御柱休め)、新御柱の穴埋めなどの奉仕をされているそうです。
<御柱祭>米沢地区抽籖総代選出式
23日の湖東地区の抽籖総代選出式に続き、米沢地区でも24日に抽籖総代を決める選出式がコミュニティセンターで行われました。25日付長野日報によれば、米沢地区では地区大総代と副総代2名、5地区の代表の計8名が参加してくじが引かれたそうです。
<御柱祭>
 茅野市玉川地区でメドデコ乗りの練習
 (茅野市・菊沢公園グランド)
<御柱祭>
 茅野市泉野地区でメドデコ乗りの練習
 (茅野市・小屋場区民広場)
<御柱祭>北部地区で練習木を使った木作り
 (原村・JA信州諏訪北部支所駐車場)
<御柱祭>富士見地区御柱祭典委員会
25日(月)
・諏訪市の最低気温氷点下13.0度
最強寒波襲来と放射冷却現象により、25日の諏訪市内は氷点下13.0度を記録。諏訪郡原村では1月の観測としては史上最低となる氷点下16.9度となりました。ここまで寒いと、寒いっ…というよりも、顔が痛い状態で、さすがに諏訪だなぁ…と管理人も改めて感じたのでありました。
またこの寒さにより諏訪湖もほぼ全面結氷。3季ぶりとなる「御神渡り」への期待が高まっています。
・国公立大学2次試験願書受付開始
・東海大三高校推薦入試(茅野市)
<管理人>長野にて会議
26日(火)
<御柱祭>
 諏訪大社下社御柱祭観覧チケット申込状況
・文化財防火デー
・諏訪市の最低気温氷点下12.3度
「御神渡り」の判定を行う八剱神社関係者のよる結氷状況の確認が諏訪市の舟渡川河口で行われました。現在の氷の厚さは5センチほどで、今後、寒さが続けば更に氷の厚みが増すそうです。寒さが苦手な管理人ですが、なかなか見ることのできない「御神渡り」に期待して、この寒さ、もうちょっと我慢しようと思います。
27日(水)
<御柱祭>茅野署が放置車両対策訓練
<御柱祭>下諏訪駅前に「御柱祭」看板設置
・インフルエンザ注意報発令
・諏訪市の最低気温氷点下9.3度
・中央道諏訪湖SA(上り線)でトラック火災
・特産セロリの種まき(原村・長野日報)
・第47回信州フラワーショーウィンターセレクション
 (伊那市狐島・JA南信会館)
・第31回県伝統工芸品展
 (松本市・井上百貨店、2月2日まで)
28日(木)
<御柱祭>北山地区抽籖総代選出式
 湖東・米沢地区に続き、3地区最後となる北山地区の抽籖総代を決める選出式が28日、地区コミュニティセンターで行われました。29日付長野日報によれば、北山地区では地区大総代と地区代表の6名、計7名が参加してくじが引かれたそうです。
・諏訪市内の最低気温氷点下7.4度
・福升と福豆の準備(岡谷市・成田山蓮華不動院)
・湖面に「御渡り候補」氷の隆起確認(諏訪市)
29日付長野日報記事に「28日朝、同市渋崎の沖合から下諏訪町赤砂方面にかけて湖面に筋が伸び、所々で氷が隆起しているのを確認した」とこの日の様子が掲載されていました。御神渡り、見られるかな。
・第47回信州フラワーショーウィンターセレクション
 (伊那市狐島・JA南信会館)

来週以降のできごと
30日(土)
・映画「俳優亀岡拓次」公開
31日(日)
・節分祭
 (岡谷市成田町・成田山蓮華不動院)
・毘沙門天節節分会
 (岡谷市湊・霊湊山久保寺)
2月1日(月)
・下諏訪町商工会議所会員大会・新春講演会
 (下諏訪町・下諏訪商工会議所3階)
2日(火)
・観音節分祭(諏訪市小和田・甲立寺)
3日(水)
・厄除節分祭
 (岡谷市長地・日限地蔵尊 平福寺)
6日(土)
・アイスキャンドル2016
 (諏訪地域6市町村15ヶ所)
7日(日)
・第10回信州農村歌舞伎祭
 (伊那市・県伊那文化会館)
 神霊矢口渡 頓兵住家の段
 (下伊那郡大鹿村・大鹿歌舞伎保存会)
 菅原伝授手習鑑 寺子屋の段
 (下伊那郡下條村・下條歌舞伎保存会)
 奥州安達ヶ原三段目 袖萩祭文の段
 (伊那市長谷・中尾歌舞伎保存会)
13日(土)
・寒天の日PRイベント
 (茅野市・茅野市民館イベントスペース)
14日(日)
・下諏訪町スキー大会
 (諏訪市・霧ヶ峰スキー場)
20日(土)
・富士見の日イベント(富士見町・町民センター)
 井戸尻考古館・歴史民俗資料館(入館無料)
 午前10時:オープニングセレモニー
 午前8時:キッズスポーツ祭
 午前9時:町役場庁舎屋上ガイド
 午前10時:移動カフェ&特産品フェア
 午前11時30分:ルバーブカレー振る舞い
21日(日)
・富士見の日イベント(富士見町)
 井戸尻考古館・歴史民俗資料館(入館無料)
 午前9時:ミニアドベンチャー in 入笠山
 (富士見パノラマリゾート)
 午前9時30分:冬の八ヶ岳ガイドツアー
 (富士見高原リゾート)
28日(日)
・伊那部宿~雅楽演奏会
 (伊那市・旧伊沢家住宅)

我が家のできごと
23日(土)
オヤジが入所するショートスティへ
26日(火)
母親が定期診断

2月28日(日)に、管理人・ひろさくが勤務する営業所の地区(諏訪市四賀)で御柱を曳くための引き綱を作る「綱打ち」が行われるそうです。時間や場所など、詳しいことはまだわかりませんが、折角の機会ですので、会場を訪ね、あの太い綱がどのようにしてできあがるのか、しっかり見学してこようと思っています。


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140720_0954_春日山城跡・上杉謙信銅像(新潟県上越市)
上杉謙信公銅像

新潟県上越市春日山(地図)に、南北朝時代、越後国守護の上杉氏が築いたとされる山城( Wikipedia )。国指定史跡・日本百名城。
永正4年(1507)に起きた永正の乱で越後守護だった上杉房能( Wikipedia )を追放した後は、守護代の長尾為景が城主となりました。
永正の乱の後、関東管領であった上杉顕定が越後へ入り、長尾為景と上杉定実を追放させ国内の安定を図りますが、勢いを盛り返した為景・定実の軍により永正7年(1510)、長森原の戦い( Wikipedia )で敗死。戦後、為景と不和となった定実は春日山城を占拠し抵抗を続け守護としての権威維持を目指すものの失敗し、後は為景隠居後に跡を継いだ長尾晴景の弟・景虎(上杉謙信)に協力することになります。
天文17年(1548)、長尾景虎が兄の長尾晴景から家督を継いだ入城。天正6年に謙信が急死した後に発生した御館の乱( Wikipedia )において、上杉景虎( Wikipedia )を制した上杉景勝( Wikipedia )が入城し、群雄割拠する戦国時代を乗り切りますが、慶長3年(1598)、豊臣秀吉の命により会津へ転封。春日山城には越前北ノ庄から移ってきた堀秀治( Wikipedia )が入城します。
秀治は城内の普請や領地経営に努めますが、山城であった春日山城では不便であったことから新たに福嶋城の築城を計画。慶長12年(1607)、秀治の跡を継いだ忠俊( Wikipedia )が居城を福嶋城に移し、春日山城は廃城となりました。
(写真:新潟県上越市の春日山城跡=平成26年7月20日午前撮影、640×480拡大可能)

<管理人ひとこと>
140720_0957_春日山城跡・案内図(新潟県上越市)
春日山城 案内図
春日山城の見学は謙信公銅像前または春日山神社から本丸(天守台・大井戸)を巡り、二の丸・三の丸(米蔵・三郎景虎屋敷)を経て、出発地点の謙信公銅像に戻るコースが標準のようです。(参考:上越市HP
それぞれの郭をめぐる遊歩道が整備されていますが、山城特有の勾配もあり、夏ならば汗をかきかき、ぐるり歩いて所要時間は2~3時間程度といったところでしょうか。
春日山神社前の駐車場に車を停め、境内に続く石段を上がっても見学コースと合流しますので、春日山城へのお出かけにはこちらの利用をおススメします。

<参考HP>
・ 上越市ホームページ
  http://www.city.joetsu.niigata.jp/
・ 越後上越 上杉おもてなし武将隊
  http://www.uesugi-busyotai.com/


春日山城跡
140720_0858_春日山神社(新潟県上越市) 140720_0909_春日山城跡・お屋敷跡(新潟県上越市)
春日山神社 お屋敷址
140720_0911_春日山城跡(新潟県上越市) 140720_0914_春日山城跡・千貫門跡(新潟県上越市)
遊歩道 千貫門址
140720_0914_春日山城跡・上杉少弼入道宅址(新潟県上越市) 140720_0917_春日山城跡・虎口跡(新潟県上越市)
上杉少弼入道宅址 春日山城 虎口跡
140720_0919_春日山城跡・直江山城守宅址(新潟県上越市) 140720_0922_春日山城跡・毘沙門堂(新潟県上越市)
直江山城守宅址 毘沙門堂
140720_0932_春日山城跡・本丸跡(新潟県上越市) 140720_0933_春日山城跡・天守閣跡(新潟県上越市)
春日山城 本丸跡 天守閣址
140720_0941_春日山城跡・井戸曲輪跡(新潟県上越市) 140720_0940_春日山城跡・井戸曲輪にある「油流し」跡(新潟県上越市)
井戸曲輪跡 井戸曲輪の「油流し」
140720_0944_春日山城跡・二ノ丸跡(新潟県上越市) 140720_0932_春日山城跡・本丸跡から二ノ丸跡を望む(新潟県上越市)
春日山城 二の丸跡 本丸から二の丸を望む
140720_0946_春日山城跡・米蔵跡(新潟県上越市) 140720_0948_春日山城跡・上杉三郎宅址(新潟県上越市)
米蔵跡に残る土塁 上杉三郎宅址

<参考資料> 春日山城
上杉謙信公の居城として知られる春日山城は、今から約六百年程前の南北朝時代に築かれ、越後府中を守る拠点であった。
その後、謙信公の父為景公・謙信公・景勝公の三代にわたり普請に努め、現在見られるような大城郭になったと考えられている。
春日山城の特徴は、山頂の本丸跡から山裾まで連続する屋敷跡群と、裾野に巡らされた総延長千二百メートルの総構え(通称監物堀)である。
関東管領として、関東・北陸に覇を唱えた戦国大名の居城にふさわしい大城郭といえる。なお、この辺り(※上杉謙信公銅像周辺)は、かつて空堀が掘られていた。

<参考資料> 千貫門(せんかんもん)跡
春日山城の古地図に必ず描かれている門が千貫門である。それは、この門が古くから知られていたことを物語っている。
今でも門が建っていたと考えられる部分のみ、土塁が分断されていて、春日神社側からクランク状の道がここに通じている。
三方が土塁と土手に囲まれ、左に二本、一見道と思われる切通しがある。じつは、これは空掘の底で、侵入者を空掘から急峻な崖下に落そうとしたものであろう。
周到に計画された普請は、本丸と千貫門の外とを区画する重要な拠点であったことをうかがわせる。

<参考資料> 空掘
ここは通称搦手(からめて)、あるいは附内口で、春日山神社の郭をへて謙信の銅像の裏から登る道がここに通じています。それをたち切るのがこの空掘で、平素は橋がかかっていました。

<参考資料> 虎口(こぐち)
城に入る玄関にあたる所を「虎口」といいます。この虎口は、敵が城内に直進できなくするため、食違いになるよう工夫されています。春日山城は、謙信の頃に拡大され、壮大な城郭になったと考えられていますが、かつてここまでが城の範囲であったと推測されます。

<参考資料> 直江屋敷
上杉家の重臣直江家の屋敷跡と伝えられ、お花畑から千貫門までの間に上下三段の郭が造られています。現在は遊歩道があって使われなくなっていますが、郭と郭をつなぐ古道も残っています。
直江家は上杉謙信の父為景の代から重臣として仕え、山城守兼続は謙信の跡目を継いだ景勝の家老として活躍したことがよく知られています。景勝が会津へ国替えになったときに同行し、米沢藩三〇万石の城主となったことでもその活躍がしのばれます。

<参考資料> 毘沙門堂
この御堂には謙信公の信仰された毘沙門天の尊像(青銅製、約五〇センチ)が安置されています。尊像は景勝公のとき会津を経て米沢に移りましたが、嘉永二年の火災で傷みました。昭和三年に第十五代上杉憲章氏が東京美術学校に修理を依頼され、名匠高村光雲先生が一年余を費して修理いたしました。
そのさい先生は御分身をつくり、尊像の欠け損じたのをおなかに入れて同五年三月に完成し、当市(当時春日村)に寄進されました。
翌六年十一月んい、昔の堂跡にこの祠堂を建て奉安したのであります。
毘沙門天は悪魔を降ろす神です。謙信公は自らの軍を降魔の軍とみなし、毘の字の旗を陣頭にかざし、また事あるときはこの堂前で諸将に誓を立てさせました。毘沙門天は四天王のうち、北方を守る多聞天でもありました。
この尊像は多聞天のお姿です。公は王城の北方を守る意気をもっていたものと思われます。

<参考資料> 護摩堂
謙信が出陣前に毘沙門堂に籠ったことはよく知られていますが、戦勝や息災を祈祷したのが護摩堂です。護摩の修法(すほう)は、毘沙門天の信仰とともに謙信が真言密教を深く信仰していたことを如実に物語っています。

<参考資料> 本丸
南隣の天守台とともに春日山城の「お天上」と呼ばれた所です。標高一八〇mの本丸からは、かつて越後府中(直江津)と周辺の山々の支城跡や日本海が一望できます。
関川右岸に広がる、林に囲まれた村落が点在する風景は、慶長二年(一五九七)の「越後国絵図」に描かれた中世の景観とほとんど変わりません。関川の手前を手でかくして見てください。

<参考資料> 井戸曲輪
廃城後四百年の星霜を経て、今なお満々と水をたたえる大井戸は、春日山城が山城として最適の地に造られていることを教えてくれる。城の古地図にもここだけが井(※○に井)と、井戸があることを示しており、古くから注目されていたことがわかる。
どのようにして、水が湧く地点を調べたか定かではないが、地質学的には、西方の山々と礫層でつながっていて、サイフォンの原理が仂いて、水が湧くとのことである。
なお、数十年前に井戸さらいが行われ、滑車や杓などがみつかっている。

<参考資料> 油流し
本丸の西斜面は人の侵入を拒んでいるような急斜面となっていて「油流し」と呼ばれています。あまりの急斜面で滑ってしまうことから、油を流した時のように滑りやすい斜面の意味で名付けられたのかもしれません。

<参考資料> 二の丸屋敷
本丸から毘沙門堂を経てお花畑に至る実城と呼ばれる郭群の東裾を取り巻くように造られた郭で、実城とともに春日山城の中心地区を成しています。本丸の直下にあって、本丸を帯状に囲っている様子は、まさに本丸の警護として造作されたことを示すものと考えられます。
古地図には、「御二階」「台所」と記されたものもあり、現在も笹井戸といわれる井戸跡が残っていることも、当時の二の丸における生活を知る手掛かりとなっています。

<参考資料> 土塁
春日山城内で最も良好に残っている土塁跡です。郭を普請する際、削平したときに出た土を盛り堅め、防御の役割を果たしました。当時は、各郭にこのような土塁が築かれ、春日山城の守備をいっそう強固にしていたと想像されます。(米蔵址)

<参考資料> 三の丸屋敷跡
春日山では最も良好な状態で土塁が残る「米蔵跡」、謙信公が自らの名を与え住まわせた養子「三郎景虎屋敷跡」などを総称して「三の丸屋敷跡」と呼ぶ。それぞれの屋敷は段違いに造られて区分され、「景虎屋敷跡」の東端に入口が設けられ、今も道が残っている。
「米蔵跡」の名が示すように、城機能の中核施設が置かれた場所と考えられている。
三郎景虎公は、謙信公の死後に起こった「御館の乱」で敗れ、悲運の死を遂げた。公を慕って屋敷跡を訪れる人も多く、今、春日山城の中で最も注目を集めている所である。

<参考資料> 上杉三郎景虎屋敷
上杉謙信の死後、跡目を争った「御館の乱」で破れた悲劇の武将三郎景虎。小田原城主北条氏康の子で、人質として春日山城に来ました。謙信から景虎の名を与えられたことでも、人質としては破格の待遇であったことがわかります。また、美男として伝えられています。
跡目争いでは越後国外からの人質であったためか次第に援助の武将も離れ、最後は自害して一生を終えました。小説「炎の蜃気楼」で現代に蘇った景虎が美しい男性として描かれ人気を博しています。近年、春日山城で最も賑わいを見せている郭の一つです。





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160121_1003_上川の堤防道路(諏訪市)

今週の諏訪地域は大雪に。
降雪量は約12センチで、富士見町や原村では30センチを超えたとも。
こちらで降る雪は「カミ雪」型で、水気も多く、とにかく重たいのが特徴。
サクサク雪かきができる北信地方と違い、一気に雪かきができず、先ずは出来るところを削り、少しずつ範囲を拡げて地面を出すことがコツ。地面が出てきたら、塩カルを投入し、併せて日中の地熱で少しずつ解かしていく。
地道な努力を続けることが重要なのですが、これをサボってしまうと、日々続く氷点下10度以下の気温で更に雪が締まり、どうにも手が付けられない状況となってしまいます。
来週は数十年に一度という寒波が襲来し、本降りになるとの予報。
お手柔らかにお願いしたいものです。
(写真:上川の堤防道路の様子=21日午前撮影、640×480拡大可能)

今週のできごと
※ここでは先週の金曜日から今週木曜日までの諏訪周辺のできごとを掲載
15日(金)
<御柱祭>
 岡谷市御柱祭典委員会曳行長会議(岡谷市)
・スキーバス転落14名死亡(北佐久郡軽井沢町)
・諏訪大社上社本宮で田遊神事(諏訪市)
・コンビニで各種証明書発行(諏訪市)
・新春の街をノルディックウォーキング
 (茅野市・市運動公園総合体育館前)
・諏訪大社下社春宮で筒粥神事(下諏訪町)
 今年一年の世相と農作物の豊凶を占う神事
 占いの結果は「三分六厘」
・旧富士見高原療養所史料館オープン
 (富士見町・富士見高原病院東病棟)
16日(土)
・大学入試センター試験
<御柱祭>
 湖南・中州合同祭典委員会(諏訪市)
<御柱祭>
 上諏訪地区奉賛会(諏訪市)
・ダルマ浄焼~昇天供養祭(諏訪市)
・万巻講(諏訪市豊田・小川下組集会所)
18日付長野日報によれば、「万巻講」(まんがんこう)は、かまどの神様と呼ばれる「荒神」をまつり、1年間の無病息災や家内安全を祈願する行事。祭壇には長さ約25センチの細長い俵に3本の御幣を立てた「荒神」のご神体が並べられ、祈願の後はご神体を家庭に持ち帰り、家の守り神として、台所などに安置するそうです。
・伝統行事・きんちゃく落とし(原村中新田区)
17日(日)
・大学入入試センター試験
<御柱祭>岡谷市・長地御柱祭典委員会
 諏訪大社下社山出しの曳行路を下見
<御柱祭>岡谷市・川岸地区御柱祭典委員会
 追い掛け綱・斧(よき)係が練習会
<御柱祭>諏訪市・豊田御頭郷総代会
 梃子(てこ)・斧(よき)係が「てこ棒」作り
<御柱祭>米沢・湖東・北山地区の「三友会」
 おぎのや諏訪インター店駐車場でメデドコ乗り練習
<御柱祭>下諏訪町木遣保存会 勢揃い式
 (下諏訪町・諏訪大社下社秋宮)
・角間天神社 合格祈願祭(諏訪市)
・山の神祭(諏訪市双葉ヶ丘・山之神社)
・山の神祭(下諏訪町・津島神社)
<管理人>
160117_2244_中央道諏訪湖SA(諏訪市)
突然の雪降り
(中央道諏訪湖SA=17日撮影)
NHKの「真田丸」を視聴した後、午後9時半過ぎに長野市の自宅を出発。上信越道・長野道では降雪もなく順調だったものの、午後10時半過ぎに諏訪湖SAまで来たところで突然の大降りに…。天気予報でもこの日は晩から降る見込みとありましたが、まさかこれほどいきなり天気が変わるとは想像外。おそるおそる諏訪ICまでを走り、どうにか仮住まいに到着したのでありました。
18日(月)
県内全域で大雪に
降雪量は松本で33センチ、軽井沢で31センチ、諏訪で12センチとなり、諏訪郡富士見町・原村では30センチ以上の降雪とも。
・東京株式市場16955円に
・FDA 雪のため全6便運休(松本市)
<御柱祭>
 諏訪大社下社「木落とし」観覧席 申込開始
<管理人>朝から会社の駐車場の雪かき
19日(火)
<管理人>晴れ間を見て駐車場の雪かき
20日(水) 寒の土用丑の日
・東京株式市場16416円に
<御柱祭>
・岡谷市御柱祭典委員会第2回常任委員会
 諏訪大社下社御柱祭の木落とし作業書作成へ
・国道152号線杖突峠で大型トラックがスリップ
 午前11時から4時間ほど通行止めに(茅野市)
・FDA 雪のため全6便運休(松本市)
21日(木) 大寒
・諏訪市内の最低気温氷点下10.6度
<管理人>仮住まいの駐車場の雪かき

来週以降のできごと
23日(土)
・おひぎりさま初縁日
 (岡谷市長地・日限地蔵尊 平福寺)
30日(土)
・映画「俳優亀岡拓次」公開
31日(日)
・節分祭
 (岡谷市成田町・成田山蓮華不動院)
・毘沙門天節節分会
 (岡谷市湊・霊湊山久保寺)
2月2日(火)
・観音節分祭(諏訪市小和田・甲立寺)
3日(水)
・厄除節分祭
 (岡谷市長地・日限地蔵尊 平福寺)
7日(日)
・第10回信州農村歌舞伎祭
 (伊那市・県伊那文化会館)
 神霊矢口渡 頓兵住家の段
 (下伊那郡大鹿村・大鹿歌舞伎保存会)
 菅原伝授手習鑑 寺子屋の段
 (下伊那郡下條村・下條歌舞伎保存会)
 奥州安達ヶ原三段目 袖萩祭文の段
 (伊那市長谷・中尾歌舞伎保存会)
14日
・下諏訪町スキー大会
 (諏訪市・霧ヶ峰スキー場)
28日(日)
・伊那部宿~雅楽演奏会
 (伊那市・旧伊沢家住宅)

我が家のできごと
15日(金)
オヤジがショートスティへ
16日(土)
穂高神社(安曇野市)に参詣
17日(日)
伯父が入所する介護施設を訪問
20日(水)
長野市内に15cmほどの降雪

長野市内にも雪が降ったと家人より電話あり。
ところが、なかなか雪かきする人がいないので大変とのこと。
我が家は昭和40年代に分譲された団地内にあり、今もそこそこ家が建っているのですが、どこの家庭も高齢化が進み、昔のようにみんなで雪かきすることができなくなっています。息子や娘が同居していればよいのですが、同居しているのは我が家も含め3軒程度で、若手の助っ人がいないことも深刻な問題となっています。
週末は20年に1度というくらいの大寒波が日本列島に襲来するとの予報。諏訪の仮住まいを早々に出発し、長野の自宅に戻りましたので、大雪になるようであれば、団地の雪かき要員の一人として、できることは精一杯したいなぁ…と思っています。


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10日午前1時55分頃、北佐久郡軽井沢町の国道18号線入山(いりやま)峠付近で、東京から長野県内のスキー場へ向かう途中だったスキーツアーのバスが道路右側に転落しました。バスには乗客39人と乗員2人が乗車していて、そのうち14人が死亡、27人が重軽傷を負う事故となりました。
当日事故現場周辺の道路状況は雪や凍結がなく問題がなかったとのことですので、今後は、企画されたスキーツアーの内容や、スキーバスの運行管理と、事故との関係が調査の対象になるものと思われます。
長野県では、昭和60年1月に犀川へスキーバスが転落する「犀川スキーバス転落事故」( emoji 関連記事 )が起きています。亡くなった大学生の方々は、管理人ひろさくと同世代の人たちであったこともあり、とても切ない気持ちがその後も、まるで十字架を背負うが如く、今に至るまで記憶として残ることとなりました。
そして今回は次の世代。私たちからすると、子供のような人たちが事故に遭い、尊い命を落とすこととなりました。犠牲となったお子さんのご家族のことを思うと、かける言葉が見つかりません。
これまでバスの運行については、過去の事故の経験から、相応の対策が講じられてきたことと思います。しかし、なかには乗客の安全をないがしろにし、収益のみを追求する業者が跋扈(ばっこ)しているのも事実でしょう。
事故調査を慎重に行い、二度とこうした事故が起きない対策を検討してほしいと感じたのでありました。

今週のできごと
※ここでは先週の金曜日から今週木曜日までの諏訪周辺のできごとを掲載
8日(金)
長野日報特集 <平成二十八年 迫る御柱祭>
 第1部にぎわい(5)寒天を売り込め 
<御柱祭>
 米沢・湖東・北山地区代表頭郷総代会(茅野市)
・真田宝物館特別企画展「戦国の絆」
 貞松院から松平忠輝ゆかりの4点を出品(諏訪市)
9日(土)
<御柱祭>
 玉川・豊平地区頭郷総代・正副係長合同会議
・3月打ち上げ~「SUWA小型ロケットプロジェクト」
 2回目の全体会議(岡谷市・ララオカヤ)
・くらすわ新春餅つき大会(諏訪市)
・厄投げ(諏訪市・先宮神社)
・箕輪南宮神社例大祭(上伊那郡箕輪町)
・古田人形芝居公演(松本市)
10日(日)
長野日報特集 <平成二十八年 迫る御柱祭>
 第1部にぎわい(6)おんばしら館よいさ 
<御柱祭>
 豊田四賀御頭郷総代会(諏訪市)
・諏訪地域成人式
・諏訪地域消防団出初式
・高島公園でどんど焼き(諏訪市)
・諏訪市内の貴金属店に強盗(諏訪市)
・箕輪南宮神社例大祭(上伊那郡箕輪町)
11日(月)
12日(火)
<御柱祭>
 湖南地区御柱祭典委員会(諏訪市)
13日(水)
長野日報特集 <平成二十八年 迫る御柱祭>
 第1部にぎわい(8)広域観光 
・諏訪市の最低気温氷点下6.8度
・2015年国勢調査速報値公表
 諏訪地方は20万人割れ
・第36回全国中学校スケート大会
 諏訪地方選手団の結団式(茅野市)
14日(木)
<御柱祭>風樹文庫で御柱特別展(諏訪市)

来週以降のできごと
15日(金)
・コンビニで各種証明書発行(諏訪市)
・新春の街をノルディックウォーキング
 (茅野市・市運動公園総合体育館前)
16日(土)
<御柱祭>
 湖南・中州合同祭典委員会(諏訪市)
17日(日)
・角間天神社 合格祈願祭(諏訪市)
30日(土)
・映画「俳優亀岡拓次」公開

我が家のできごと
10日(日)
千曲市の武水別神社へ参詣
12日(火)
オヤジがショートスティより帰宅
<管理人>打ち合わせのため諏訪→長野へ
13日(水)
定期診断のためオヤジを病院へ
<管理人>長野で打ち合わせ→諏訪へ

最近、自分のカラダを動かすことが億劫になったのか、ほぼ終日寝てばかりいるとの報告が施設からありました。我が家に戻ってきてからも同じで、オムツ替えなどは、管理人が後ろから両脇を抱え上げ、オフクロが一気に取り替えるという状況。体重は50キロほどとのことで、大したことないかな…などと思っていたのですが、いざ持ち上げてみると、これがまた重たいこと。
介護施設の職員さんの持病のなかで最も多いのは「腰痛」と聞いたことがあります。なるほどなぁ…とその時は思ったのですが、実際にオヤジの面倒を見るようになって、こうしたお年寄りの扱いを毎日、何人と続けていれば、腰痛になるのも無理はありません。仕事とはいえ、本当にご苦労なことだと感じました。


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150530_1155_曹洞宗 天童山 景徳院(山梨県甲州市)

山梨県甲州市大和町田野(地図)にある曹洞宗の寺院。
天正10年(1582)3月、織田信長の甲州征伐( Wikipedia )により、新府城( Wikipedia )を追われた武田勝頼は、岩殿城主・小山田信茂( Wikipedia )のもとに落ち延びます。しかし、その途中信茂の離反に遭い、遂に進退窮まり、追撃してきた滝川一益ら織田軍を家臣らが迎え撃つ(四郎作・鳥居畑古戦場)なか、北条夫人・嫡子信勝とともに自害したのがこの地と伝えられています。
甲州征伐の後、甲斐を領した徳川家康は、家臣の尾畑勘兵衛に命じて田野寺(現在の景徳院)を建立し、勝頼と家臣の菩提を弔いました。
(写真:武田氏最後の激戦地となった景徳院=平成27年5月30日撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 甲州市観光協会
  http://www.koshu-kankou.jp/


曹洞宗 天童山 景徳院
150530_1210_曹洞宗 天童山 景徳院(山梨県甲州市) 150530_1211_曹洞宗 天童山 景徳院(山梨県甲州市)
曹洞宗 天童山 景徳院
150530_1207_曹洞宗 天童山 景徳院(山梨県甲州市) 150530_1158_曹洞宗 天童山 景徳院(山梨県甲州市)
没頭地蔵 旗竪松
150530_1202_曹洞宗 天童山 景徳院(山梨県甲州市) 150530_1205_曹洞宗 天童山 景徳院(山梨県甲州市)
甲将殿 武田勝頼と一族の墓

<参考資料>
山梨県指定史跡 景徳院境内
本史跡は武田家最後の武将勝頼公及び同夫人、子信勝並びに将卒ら約五十名が自害した地である。
勝頼は武田信玄の第四子として天文十五年(一五四六)に生まれた。母は諏訪頼重( Wikipedia )の女である。天正元年二十八歳で甲斐国守となった。父信玄の志を継ぎ天下統一の業を進めたが、天正三年織田信長・徳川家康の軍と長篠に戦い( Wikipedia )大敗した。以来勢力回復のための進攻作戦で、数年の間敵を国内に入れなかったが、ついに天正十年(一五八二)織田、徳川連合軍の国内侵略を許した。

150616_1049_JR大月駅・岩殿山(山梨県大月市) 150616_1041_JR大月駅(山梨県大月市)
岩殿城(山梨県大月市)

勝頼は新府で前後策を講じ、小山田信茂の意見をもちい、同年三月三日居城を自らの手で焼き軍内の岩殿城( Wikipedia )に向かったが、信茂の叛にあい、やむなく駒飼から天目山に入ろうとしてならず、力つき主従田野において最後をとげた。時に天正十年三月十一日であった。
その後家康は甲斐に入国、勝頼ら将仕の菩提をとむらうため、勝頼の忠臣小宮山内膳友晴( Wikipedia )の弟、広厳院第七世拈橋(ねんきょう)を開山として田野寺を建立した。それが今の景徳院である。現甲将殿(影殿)の裏に墓地を設け、勝頼主従を手厚く葬った。
境内には世子信勝に「擐甲」(かんこう)の礼を行った場所といわれる「旗竪ての松」、勝頼親子が自害された所と伝えられる「生害石」などがあり、甲将殿には主従の牌子が祀られている。
(山梨県教育委員会・大和村教育委員会設置の案内板から・平成17年)

<参考資料> 
山梨県指定史跡 武田勝頼の墓
武田勝頼は武田信玄の第四子である。天文十五年(一五四六)、諏訪頼重の娘を母として諏訪に生まれ、諏訪四郎勝頼と名乗る。信玄没後天正元年(一五七三)に家督を継いだ。
天正三年(一五七五)五月、武田軍は長篠合戦で大敗し、以後勝頼は領土の拡大より領地の支配といった内政に力を入れるようになる。また、信州・駿府からの敵軍侵攻に備え、天正九年(一五八一)新府築城に着手、九月には落成し、十一月から十二月頃に躑躅ヶ崎の館から新府城に移ったようである。
天正十年(一五八二)二月二十五日、親族衆で富士川沿いの河内領を支配していた穴山信君が織田側に寝返り、三月三日に徳川家康とともに北上、さらに信州の高遠城を落とした織田信忠が南下し、親族をはじめ味方の多くが勝頼の元を離れていった。勝頼は小山田信茂の岩殿城へ向かうべく、住み始めたばかりの新府城に火をつけた。一行が勝沼を過ぎたところ小山田信茂も入城を拒否し、勝頼の進退は窮まった。新府を出たときには五~六〇〇人ほどいたとされる従者は、このときには四~五〇人しかいなかったといわれる。
田野の地で一行は、平屋敷に柵を設け陣所とした。三月十一日、滝川一益が情報を聞きつけ、滝川益重・篠岡右衛門に命じて包囲させた。逃れがたいことを悟った勝頼は自刃して果てた。勝頼三十七歳、北条夫人十九歳、嫡男信勝十六歳であった。
甲斐国曹洞宗総本山・中山広厳院の住職拈橋(ねんきょう)の兄は、謹慎の身にも関わらず武田家に殉じた小宮山内膳友晴といわれている。拈橋は田野に入り、敵味方の死体が累々としているなか、刀の中子に姓名を朱書きしている武田の家臣に戒名をつけていった。勝頼親子の遺骸は、陣を張った高台の中腹に埋葬し、後に地元の人々が首のない三体の地蔵尊を安置した。「没頭地蔵」と呼ばれ、境内の一画に祀られている。
織田信長が没すると、甲斐国は北条氏直と徳川家康が領地を争ったが、家康が甲斐国主に納まった。家康は国内安定化のため武田遺臣の懐柔策をとり、武田遺臣の優遇、兵火に焼かれた恵林寺等の復興を指示するとともに、武田遺臣・尾幡勘兵衛に命じ、勝頼の菩提寺を田野に建立させた。建立にあたり田野郷一円を茶湯料として、一山を寺領として寄進した。当初「田野寺」と称したが、後に勝頼の戒名である「景徳院」となった。天正十六年(一五八八)に伽藍がほぼ完成したというが、本堂・庫裡・御霊屋・山門などが建ち並ぶ、壮大なものであったと伝えられている。第一世には、広厳院住職であった拈橋が入ることとなった。
武田勝頼の墓は、甲将殿の背後に建立されている。中央に勝頼の宝篋印塔、向かって右手に北条夫人の五輪塔、左手に信勝の五輪塔の三基が長方形の基壇に据えられ、その両脇には正方形の基壇上に殉難者供養塔が二基据えられている。勝頼宝篋印塔の塔身側面に「相値二百年遠忌造立 當山十一世要導叟」「維時 安永四乙未歳 三月十一日」と刻まれており、勝頼の命日である安永四年(一七七五)三月十一日に、当時の第十一世住職の要導が二百年遠忌で建立したとある。
景徳院では平成十八年度に県費補助事業として、武田勝頼の墓の保存修理事業を計画し、十二月に工事着手したが、その最中基壇内部から五千点を越える経石が出土した。
そのため甲州市では、平成十九・二十年度に出土した経石の整理と分析を、二十年度には甲将殿周辺の発掘調査を行い、寺伝にはない勝頼没後から二百年遠忌までの経過を辿った。
整理作業の結果、経石は中央基壇から四七一〇点、左右基壇から五四五点、その他としてニ〇点の、計五ニ七五点あること、中央基壇の経石は法華経を、左右基壇の経石は金剛般若波羅蜜経・宝篋印陀羅尼経・首楞厳神呪(しゅりょうごんしんじゅ)など、複数の経典を写経していることなどが判った。特筆は、右基壇から出土した「戒名文字史料」裏面に「安永九年」(一七八〇)の銘があるのに対し、中央基壇からは「安永三年」(一七七四)銘の経石が三点出土していることである。
また、文献によると勝頼二百年遠忌は、先述の「安永四年」ではなく、安永八年(一七七九)に執行されたことが明らかで、三月十五日から二十一日までの七日間に及ぶ厳粛なものであった。
発掘調査の成果では、甲将殿の正面・背面側に近くの沢から土砂を運び入れ、大造成の結果現在のような平坦面が形成されたことが判った。なお、武具や人骨など、古戦場に結びつく直接的な遺物は出土していない。
二百年遠忌による墓が建立されるまで、甲将殿とその中に安置された勝頼・北条夫人・信勝の坐像と、殉難諸士の位牌が「墓」であった。つまり、甲将殿が建つこの一帯が「墓域」であり、聖域として勝頼公の慰霊に供されている。
勝頼没後一二四年を経過した宝永三猿(一七〇六)、甲州城主柳澤吉保の招きに応じて来甲した荻生徂徠が記した紀行文『峡中紀行』に戦没者の供養の様子が書かれている。
住持の僧余に語る。遺墳の所在を問えば、すなわち云う。(中略)既に七日を過ぎ、屍に血淋漓す。君臣わきまえず、すなわち同じく一壙に葬る。即ち今の廟の建つる処。故をもって別に窀穸の所なし。
「住持の僧が私に語る。遺墳(=墓)の所在を聞いたところ、こう答えた。(中略)すでに七日を過ぎ、したいには血が滴り落ちていた。主君も家臣も入り乱れており、そのため同じく一つの壙(=穴)に葬った。それは今の廟(=甲将殿)が建っているところである。そのため別に手厚く葬っているところはない。」
(文化庁・山梨県教育委員会・甲州市・甲州市教育委員会設置の案内板から・平成22年)

勝頼公辞世
 おぼろなる 月もほのかに 雲かすみ
  はれてゆくえの 西の山の端
北条夫人辞世
 黒髪の 乱れたる世ぞ はてしなき
  思ひに消ゆる 露の玉の緒
信勝公辞世
 あだに見よ 誰も嵐の さくら花
  咲き散るほどの 春の夜の夢

<参考資料> 四郎作古戦場の由来
150530_1218_天目山の戦い・四郎作古戦場(山梨県甲州市)
四郎作古戦場
小宮山内膳友晴(友信)は武田の重臣小宮山丹後守昌友の長男として武田家に仕え諸国への使い番十二人衆の一人に数えられ武田軍政に重きをなしていた。天正三年の長篠合戦以後武田軍の中枢は重臣たちによって司られていたが、小宮山内膳はその折々軍のための率直な意見を述べた。重臣たちはこれを快しとせず理非をわきまえずにこれを否定し遂にざん言により主君の勘気を被り蟄居を命ぜられ幽閉の身となった。
しかし天正十年三月十一日(一五八二年)に武田勝頼は多くの重臣たちに離反され一族と共にこの付近に於て最後の決戦をする運命に陥ったのである。小宮山内膳は朱君の危急を知り決戦の前夜一行に追い付き「友晴が譜代の臣でありながら武田家最後の戦いに臨のなかったなら小宮山家末代までの恥辱であり、武士道にも背くゆえ蟄居の許しを請い最後の戦いに御盾となり高思の万分の一にも報いたい」と言上した。勝頼は「あっぱれな武士の鑑よな余の不徳の致す処であった」と直ちにこれを許した。小宮山内膳は勇躍戦いの最前線であるこの地に仁を敷き寄せ来る的と奮戦数刻の末從容として主君に殉じたのである。戦いの直後奇しくも内膳の弟僧の拈矯がこの地を訪れ殉死した一族の霊を弔い内膳には、忠叟道節居士」の法名を贈った。後に水戸藩の儒者藤田東湖は文天祥の正気の歌に和して「或殉天目山 幽囚不忘君」と詠み崇高な至誠を貫いた内膳の忠節義烈を称えている。

この碑は内膳友晴の末裔一族と共に竜王町の小宮山清茂氏が資材を提供し敷地は地主の平山勝広氏の提供によるものである。
(大和村教育委員会設置の石碑より・昭和54年)

<参考資料> 鳥居畑古戦場
150530_1215_天目山の戦い・鳥居畑古戦場(山梨県甲州市)
鳥居畑古戦場
時、天正十年三月十日孤影消然僅かな家臣を従えて敗走つづける勝頼公の一行が、ようやく笹子峠の麓駒飼についた時、岩殿城に連絡に行った土屋昌恒が急ぎ帰り、城主小山田信茂が謀判を計っている事を言上し、勝頼公は止むなく天目山に籠り防戦する事に決め、付き従ふ者は、秋山紀伊守光継、阿部加賀守、土屋昌恒等四十三人、初鹿野から日川の渓谷づたいに田野の里に入った。其時かねて侫人の讒言により、主君勝頼公の勘気にふれて幽閉されていた小宮山内膳正友信は今こそ最後の御供をと田野の本陣に馳せ勝頼の許しを乞うたのである。
その夜天目山の頂きは残雪を残して寒気きびしく疲れはてた主従は明日の運命を悟りきってか深い眠りにおちていた。
明くれば三月十一日谷底の里、田野の夜がすっかり明けやらぬ払晩、忽然山麓より一隊の人馬が土煙を山霧にかくして押しよせて来た。織田信長の先鋒滝川一益、河尻鎮吉らの軍勢約四千である。勝頼公は己の命運がつきたことを知ると、十六才の嫡子信勝を招き、新羅三郎以来武田家に相伝された小櫻韋威楯無の鎧を着せて擐甲の式を挙げた(現在景徳院内に有り)。
秋山紀伊守光継、阿部加賀守、小宮山内膳正友信、土屋昌恒等百人に満たさる小勢を以て駒場口より攻め寄せる織田軍と戦い撃退する事数度以て勝頼公をして從容死を決するを得せしむ。生害石、甲将殿直前に三枚の扁平なる石有り、勝頼公、夫人北條氏、世子信勝公の生害せし処 現在景徳院内に有り
「山雲月を憂いて掩ふて夜色自ら惨め足たり」と史書はこの時の様子を伝える。武田家滅亡最後の激戦地なり。
(案内板より)





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