管理人の思いつくまま、気の向くまま、長野県内の町や村の話題を取り上げています。
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京都市上京区の堀川通から今出川通へ、一条通を歩いた松之下町付近(地図)は、平安時代の応仁元年(1467)から文明9年(1477)まで続く応仁の乱( Wikipedia )の洛中における最初の合戦・上京の戦い( Wikipedia )が行われました。
この向かいには、薩摩藩家老・小松帯刀( Wikipedia )の寓居があったとされ、慶応2年(1866)1月、薩摩藩邸(現在の同志社大学キャンパス)で始まった薩長同盟( Wikipedia )の会談は、後でこの寓居に移り締結されたと伝えられています。
(写真:此付近 応仁の乱 洛中最初合戦地の石碑=平成25年9月14日午後撮影、640×480拡大可能)
<参考資料>
当地は平安京の左京北辺二坊五町にあたる。「蜻蛉日記」の著者藤原道綱母が住まいし、のち武将源頼光や道綱が引き継いだ平安時代の一条邸跡とされる。
付近一帯は、応仁の乱の洛中での最初の合戦地でもある。応仁元年(1467)5月26日、東軍細川勝元方の京極持清は、この前を通って一条戻橋から西軍に攻め入り、一条大宮で戦った。そのため、当時この北方にあった革堂(行願寺)・百万遍(知恩寺)・誓願寺などが焼亡した。以後洛中の寺社、貴族、武家邸がまたたくまに被災し、古代・中世都市平安京は壊滅する。
江戸時代には、筑前福岡黒田家邸となった。同家御用達商人だった古高俊太郎(桝屋貴右衛門)も出入りしたと推定される。元治元年(1864)6月5日、古高の政治活動をキャッチした新選組は彼を逮捕、池田屋事件の導火線となった。
なお当地の向かいは、五摂家筆頭の近衛家の堀川邸で、内部に「御花畑」があった。薩摩島津家の家老小松帯刀は「御花畑」のある近衛家を寓居としたとされるため、当邸は有力候補地といえる。慶応2年(1866)1月、小松寓居には長州藩毛利家の桂小五郎(木戸孝允)が入り、その地で薩長同盟が締結された可能性がある。
当地付近は千年におよぶ、たえまない重要な歴史の舞台地であった。
(歴史地理研究者 中村武生氏による案内板から)
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京都市上京区清明町にある陰陽師・安倍清明を祀る神社(地図)。
安倍清明( Wikipedia )は、賀茂忠行・賀茂保憲父子から陰陽道( Wikipedia )と天文学を学び、星や雲の動きを見て、さまざまな異変の予知を行いました。
清明神社は清明の偉業を讃え、寛文4年(1007)、一条天皇の命によりかつての屋敷跡に建立され現在に至っています。
境内には、清明が念力により湧出させた「清明井」があり、流れ出る水は、かつて屋敷を構えていた千利休も使ったと伝えられています。
(写真:清明神社本殿と安倍清明公像=平成25年9月14日午後撮影、640×480拡大可能)
<参考HP>
・ 清明神社
http://www.seimeijinja.jp/
・ 京都観光オフィシャルサイト 京都 Navi
http://kanko.city.kyoto.lg.jp/
| 清明神社 (平成25年9月14日) |
|
| 厄除桃 | 復元された一条戻橋 |
<参考資料> 清明神社由緒
御祭神 安倍清明御霊神
沿革
安倍清明公は孝元帝の御後胤で幼時より御聡明で陰陽の道を極められ長じて陰陽寮天文博士として朱雀 村上 冷泉 円融 花山 一条の六代の天皇に仕え幾多の御功績をたてられた。朝廷の祭政 生活の規範を陰陽の理を以て定められ今日の我々の年中行事 占法等々に多くの影響を与えられている。
一条帝の御代 寛弘二年(一〇〇五年)九月二十六日音とし八十五にてお亡くなりになると 帝の御鎮霊の勅旨をもって清明公邸跡に寛弘四年(一〇〇七年)に神社としてまつられ現在に至る
御神徳
清明公は稲荷神の御分霊との信仰もあり魔除け 厄除け 病気平癒又は火除け 方除けの崇敬を集めている
清明桔梗印
当神社御神紋☆は桔梗印もしくは五芒星と呼ばれ 清明公の創められた祈祷呪符の一で魔除けの印である 天地五行(木・火・土・金・水)を象とり西洋諸国でも用いられる
主な年中祭事
歳旦祭 元旦
節分祭 二月節分日
清明祭 九月秋分日とその前日
御火焚祭 十一月二十三日
(清明神社に設置されている案内板から)
<参考資料> 桔梗苑 顕彰板
(清明神社御鎮座壱千年記念奉納 剱鉾会設置の案内板から)
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京都市上京区頭町の油小路通にあったとされる慶長天守堂跡(地図)。
日本におけるキリスト教の歴史は、戦国時代の天文19年(1549)、イエズス会のフランシスコ・ザビエルにより始まり、織田信長の庇護を受け、京都市内に南蛮寺(天正4年・1576)を建立するなどして勢力を拡大しましたが、豊臣秀吉のバテレン追放令( Wikipedia )により衰退。江戸時代には一時的にキリスト教が容認されるものの、慶長17年(1612)に禁教令が発布され、以降、明治6年(1873)まで日本におけるキリスト教の布教は禁止されました。
慶長天守堂は、関ヶ原の合戦後、徳川政権が一時的にキリスト教を容認した際に建設された教会でしたが、その後の禁教令により破壊されたと伝えられています。
(写真:「此付近 慶長天守堂跡」の石碑=平成25年9月14日午後撮影、640×480拡大可能)
<参考HP>
・ 京都観光 Navi
http://kanko.city.kyoto.lg.jp/
<参考資料> 此付近 慶長天守堂跡
この付近に、慶長九年(一六〇四)頃に復興されたヤソ会の天守堂教会があった。京都でのキリスト教布教は、織田信長の保護のもとに本格化し、南蛮寺も建てられたが、天正十五年(一五八七)豊臣秀吉が宣教師追放令をし、弾圧した。秀吉の死後、宣教師らは布教の許可を得ることと寺の再建に努力した。
関ヶ原合戦で徳川政権が確立すると、再びキリスト教布教が自由となり、この地に、新しい天守堂が復興された。旧南蛮寺よりはるかに美しい建物といわれ、宣教師が常駐し、荘厳なミサが行われた。付近には学校も設けられた。
しかし慶長十七年(一六一二)、徳川幕府はキリシタンの大弾圧の開始、天守堂も焼き払われてしまった。慶長天守堂が立ったのは、十年に足りない期間であった。
(京都市設置の案内板から)
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京都市上京区の賀茂川と高野川との合流地近くにある京都七福神のひとつ(地図)。
本尊は青龍妙音弁財天画像。
(写真:出町妙音堂=平成25年9月14日午後撮影、640×480拡大可能)
<参考HP>
・ 京都観光情報 KYOTOdesign
http://kyoto-design.jp/
<参考資料> 辨戝天 出町妙音堂
本殿の本尊は青龍妙音辨戝天画像で西園寺公衝(きみひら・一二六四~一三一五)の長女西園寺寧子(やすこ・大光明院殿・広儀門院)が、第九十三代後伏見天皇の女后に輿入れされた折に、西園寺家第二伝の念持仏として持参されて以来、伏見離宮に祀られ、光巌、光明、祟光天皇と伝承されて来た霊像である。その後享保年間、伏見宮家第十四代貞建親王に至って伏見邸が河原町今出川下がる出町北鴨口に移転され、同時に本尊も奉遷されたのであるが、更に明治初年東京へ遷座の後、京洛の旧信徒再三の請願に依って、再び現在の地に堂宇を建て奉安せられた。世に伏見御所の辨戝天と称され、京都七福神の一つとして特に技芸上達、福徳円満の勝益をもたらすものである。
(出町妙音堂に設置されている案内板から)
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山行を終えてたどり着いたのは貴布禰総本宮 貴船神社。
貴船神社( Wikipedia )は、貴船川の下流から石段の両側に整然と本宮、天の磐船や和泉式部の歌碑のある結社、船形石のある奥宮で構成されており、今回のように鞍馬山を巡って西門から本宮境内に向かうか、叡山電車貴船口駅間を往復するバスで貴船まで行き、バス停から歩いて参拝する二つの方法があります。道路と並行して流れる川の上では、有名な「川床」( Wikipedia )も設けられ(季節営業)、京料理に舌鼓を打つのも貴船詣での楽しみかもしれません。
この日の京都は残暑厳しく、鞍馬山の山行とで管理人ひろさくは既に疲労困憊。頑張れば奥宮へも行けたかもしれませんが、無理をすることを止め、途中にある結社まで歩き、そこで貴船神社の参拝を終えることとしました。来た道を引き返し、貴船のバス停にたどり着くと、駅に向かうバスはナント!満員御礼状態。突入する元気もなく、やむなく汗をかきかき、貴船口駅への道を歩いたのでした。
(写真:貴船神社本宮境内=平成25年9月14日午前撮影、640×480拡大可能)
<参考HP>
・ 貴船神社ホームページ
http://kifunejinja.jp/
・ 京都観光オフィシャルサイト 京都 Navi
http://kanko.city.kyoto.lg.jp/
・ 京都観光サイト KYOTOdesign
http://kyoto-design.jp/
・ 京都・貴船(貴船観光会と貴船神社)
http://kibune.jp/
| 天狗伝説の鞍馬から京の奥座敷貴船へ 貴船神社周辺 (平成25年9月14日) |
|
| 和泉式部歌碑 | 天乃磐船 |
| 貴船川の「川床」 | 叡山電鉄貴船口駅 |
<参考資料> 貴船神社 本宮
水徳神高龗神(たかおかみのかみ)を祀る旧官幣(かんぺい)中社で、社名は古くは木船、貴布称とも書かれたが、明治四年(一八七一)以降「貴船」と改められた。
平安時代縁起の制には、名神(みょうじん)大社という最も高い格式に列し、日照りや長雨が続いたとき、また国家有事の際には必ず勅使が差し向けられ、祈念がこめられた。弘仁九年(八一八)以来の歴朝の奉幣、祈願では、もっぱら祈雨、止雨の神として崇められ、祈雨には黒馬、祈晴には白馬又は赤馬が献ぜられるのが例であった。平安時代末期には賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ・上賀茂神社)の摂社とされたが、明治以後独立した。
かつて社殿は貴船川に沿って上がった処にある現在の奥宮の地にあったが、天喜三年(一〇五五)、現在地に移転された。本殿、拝殿、権殿等から成り、本殿は文久三年(一八六三)及び平成十七年(二〇〇五)に改修された。また、境内には祈雨の行事を行った雨乞の滝、奥宮本殿の西には船形石と呼ばれる船の形に積んだ石塁がある。和泉式部がお詣りし、不和となっていた夫との願いがかなって復縁した話しはよく知られている。
(京都市設置の案内板から)
御祭神は高龗神(たかおかみのかみ)、水の供給を司る神。
創建年代は明らかでないが、第十八代反正天皇の御世に奥宮の水の湧き出すところに社殿を建てたという御鎮座伝説がある古社。対岸鞍馬山の鞍馬寺は、平安初期の延暦十五年(七九六)藤原伊勢人が貴船明神の夢のお告げで建立したと諸書に出ているので、その当時すでに貴船の神は大きな力を具えていたことがうかがえる。永承元年(一〇四六)七月の水害で奥宮が被災、天喜三年(一〇五五)四月この地の本社を移築した。
京都に都が開かれて当社は国の重要な神社となり、事ある毎に勅使(天皇のお遣い)が差し向けられた。特に当社には、日照りの時には黒馬を、長雨の時には白馬を献じて「雨乞い」「雨止み」の祈願がこめられた。「その数数百度に及ぶ」とある。平安時代の勅願社二十二社の一社で、延喜式名神大社。庶民の崇敬も篤く全国に二千社を数える分社がある。
古くは「貴布※禰」と記したが「黄船」「木船」「木生嶺」「氣生根」などの表記も見られる。明治四年官幣中社となり、以後「貴船」の表記で統一された。
例祭 六月一日
(境内に設置されている案内板から)
<参考資料> 貴船神社本宮 絵馬発祥の杜
先人にならい絵馬を奉納してご祈願下さい
古来より雨乞いの杜として名高い当社には、おそく畏くも歴代天皇様より旱天(ひでり)には黒馬・霖雨には白馬又は赤馬を、その都度献げて御祈願される例になっていました。
しかし、時には生馬に換えて『板立馬』を奉納したと、平安時代の文献である「類聚符宣抄」に伝えています。この「板立馬」こそは今日の絵馬の原形と言われています。塔宮では、此の故事に倣らい、かつて和泉式部が復縁を、平寶重が蔵人昇任を、大宮人が加茂競馬の必勝を、そして源義経が源氏再興を、それぞれ大神様に祈ったように、皆様方の心の願いを、一枚の絵馬に託して御祈願なさいますよう、お勧め致します。
三社順拝のおすすめ
本宮 諸願成就
結社 えんむすび
奥宮 心願成就
(本宮境内に設置されている案内板から)
<参考資料>貴船神社中宮 結社
御祭神 磐長姫命(いわながひめのみこと)
神武天皇(初代の天皇)の曽祖父にあたられる瓊々杵命(ににぎのみこと)が、木花咲耶姫命(このはんさくやひめのみこと)を娶らんとする時、父の大山衹命(おおやまつみのみこと)が姉の磐長姫命も共におすすめしたが、瓊々杵命は木花咲耶姫命だけを望まれたため、磐長姫命は大いに恥じ、「吾ここに留まりて人々に良縁を授けよう」といわれ、御鎮座したと伝えられています。
古くより縁結びの神、「恋を祈る神」としての信仰が篤く、平安時代の女流歌人・和泉式部が切ない心情を歌に託して祈願したという話は有名です。
(和泉式部の歌碑がこの上の境内に建っています)
昔はススキ等の細長い草を、今は「結び文」を神前に結びつけて祈願する習わしがあります。男女間の縁だけでなく、人と人、会社と会社、就職、進学などあらゆる縁を結んで下さる神様です。
(中宮境内に設置されている案内板から)
<参考資料> 桂(御神木)
この桂は、樹齢およそ四百年。
神道では体内の気が衰える事を「気枯(けが)れ」といい、古来当社に参拝する人は皆御神気に触れ、気力の再生・充実する事から、運気発祥(開運)の信仰が篤い。
いくつもの枝が天に向かって伸び、上の方で八方に広がる。これは御神気が龍の如く大地から勢いよく立ち昇る姿に似て、当社の御神徳を象徴し、まさに御神木と仰がれる由縁である。本社と奥宮にも大きな桂がある。
※結び文は社殿脇の結び所に結んで下さい、樹木に結ぶと枝が枯れ、貴方の「気」も枯れてしまいます。
(中宮境内に設置されている案内板から)
<参考資料> 和泉式部 歌碑
貴船神社は、古来、恋を祈る社でもありました。
平安時代の有名な女流歌人・和泉式部( Wikipedia )は、夫との仲がうまくいかなくなって当社に御参りし、貴船川に飛ぶ蛍を見て、切ない心情を歌に託して祈願しました。すると、社殿の中から慰めの返歌が聞こえてきて、ほどなく願いが叶えられ、夫婦仲がもとのように円満になったということです。「後拾遺和歌集」には次のように記されています。
男に忘れられて 侍りけるころ 貴布※禰に参りて
みたらし川に蛍の飛び侍りけるを見てよめる
ものおもへば 沢の蛍も わが身より
あくがれいづる 魂かとぞみる
(※あれこれ思い悩んでここまで来ますと、蛍が貴船川一面に飛んでいます。そのはかない光は、まるで自分の魂が体からぬけ出て飛んでいるようでございます。)
御返し
おく山に たぎりて落つる 滝つ瀬の
玉ちるばかり ものな思ひそ
(※しぶきをあげて飛び散る奥山の滝の水玉のように<魂がぬけ出て散り消えていく=死ぬかと思うほど>そんなに深く考えなさるなよ。)
この歌は貴布※禰の明神の御返しなり、男の声にて和泉式部が耳に聞こえけるとなむいひ伝へたる。
(中宮境内に設置された案内板から)
<参考資料> 天乃磐船(あまのいわふね)
この船形の自然石は、貴船の山奥より出土し、平成8年三月、市内の造園業・久保篤三氏より奉納された。重さ六トン。
船は、古くから唯一の交通機関であり、人と人、文化と文化の交流(結ぶ)ということから、縁結び信仰と関わりがある。また、奥宮の「船形石」伝説に見られるように、神様の乗り物としれ神聖視され、当社と船との関わりも深い。
縁結びの神で知られる結社の御祭神・磐長姫命の御料としてここに納めた。
(中宮境内に設置されている案内板から)
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