管理人の思いつくまま、気の向くまま、長野県内の町や村の話題を取り上げています。
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JR京都駅から地下鉄・叡山電車を乗り換えおよそ1時間ちょっとの場所に、牛若丸が天狗と修行したという伝説が残る鞍馬寺と、京都の奥座敷として知られる貴船神社があります。
鞍馬寺( Wikipedia )は、宝亀元年(770)、鑑真和上の高弟・鑑禎(がんちょう)上人が毘沙門天を祀ったのがはじまりとされ、その後、造東寺長官・藤原伊勢人が堂塔伽藍を建立し、以降、皇室・幕府から庶民に至るまで幅広い信仰を集めてきました。
鞍馬山の西側にある貴船神社( Wikipedia )は、京都の水源を守る神様として古くから信仰され、最近では平安時代の歌人・和泉式部の夫婦復縁を叶えた逸話から「縁結び」の神様として、女性参拝者の人気を集めています。神社前を流れる鴨川の清らかな流れの上で涼みながら旬の味を堪能する「川床(ゆか)」もグルメファンとしては押さえておきたいポイントかもしれません。
今回の旅は、叡山電車鞍馬駅から、急峻な坂を一歩一歩踏みしめ鞍馬寺を参詣し、さらに急勾配の「木の根道」を通り、貴船神社の至るルートを辿ってみました。9月とはいえ、残暑厳しい京都のこの日の最高気温はナント!35度。望むつもりもなかった修行を強いられる、それはそれは厳しい山行となりました。
(写真:総本山鞍馬寺 本殿金堂=平成25年9月14日午前撮影、640×480拡大可能)
<参考HP>
・ 京都観光オフィシャルサイト 京都 Navi
http://kanko.city.kyoto.lg.jp/
・ 京都観光サイト KYOTOdesign
http://kyoto-design.jp/
・ 鞍馬山・鞍馬寺 休日の癒し
http://www.kuramayama.net/
・ 叡山電車
http://eizandensha.co.jp/
| 天狗伝説の鞍馬から京の奥座敷貴船へ 叡山電鉄鞍馬駅周辺 (平成25年9月14日) |
|
| 叡山電鉄鞍馬駅 | 京都電燈デナ21形電車 |
| 鞍馬といえば天狗 | 鞍馬寺の門前町 |
<参考資料> 京都電燈デナ21形電車
この電車( Wikipedia )は当社の前身京都電灯と鞍馬電鉄の両社が、昭和三年鞍馬線の開通に備えて共通設計した車両で、昭和四年八月に就役しました。
以来平成六年十一月に引退する迄の六五年間に二一七万粁余を走行し、沿線の皆様をはじめ多くの鉄道ファンに親しまれて来ました。
最盛期には一〇両の仲間がいましたが、この車両を最後に姿を消しました。
ここに、この車両の一部を保存展示し、当社の歴史にその名を留めたいと思います。
(叡山電車鞍馬駅横に設置されている案内板から)
<参考資料> 鞍馬山・僧正が谷の天狗
| 精進料理専門店 雍州路 http://www.yoshuji.com/ |
天狗は古くから山岳信仰とかかわりがあり、修験者が守護神として祀っていたが、中世以降山伏の堕落もあり天狗や妖怪や「魔」とみなす風潮も生まれるなど、時代とともに姿やイメージも変遷していった。本来の天狗とは、山に宿ると考えられる「精霊」で、姿をみせない神秘的存在であろう。
鞍馬・比叡・愛宕・飯綱・白峯・大峯・大山・彦山など全国各地の霊山には天狗伝承があり、また大天狗・小天狗・鳥天狗・木の葉天狗などの階層もつけられているが、なかでもここ鞍馬山の大天狗は「僧正坊」と呼ばれ日本各地の天狗たちの総元締めとして、また僧正が谷は総本山ともいえる場所の一つとして語り継がれている。
(叡山電車鞍馬駅前の設置されている案内板から)
| 天狗伝説の鞍馬から京の奥座敷貴船へ 総本山鞍馬寺 (平成25年9月14日) |
|
| 鞍馬寺 | 仁王門 |
| 鞍馬山ケーブルカー | 多宝塔 |
| 本殿金堂(パワースポット) | 奥の院へ |
| 冬柏亭 | 義経公息つぎの水 |
| 大杉権現へ | 義経公背比べの石 |
| 僧正ガ谷不動堂 | 義経堂 |
| 木の根道 | 奥の院魔王殿 |
<参考資料> 鞍馬寺
奈良・唐招提寺の開山鑑真和上の高弟、鑑禎上人が、宝亀元年(七七〇)、鞍を負った白馬の導きで当山に至り、毘沙門天を感得して草庵を結んだのが始まりである。
延暦十五年(七九六)には、藤原伊勢人(いせんど)が王城鎮護の道場として伽藍を造営し、爾来(しらい)、衆庶の信仰を集めてきた。
現在は鞍馬弘教(くらまこうきょう)の総本山であり、宇宙の大霊・尊天を本尊とする信仰の浄域である。
山の政令である天狗が住む山としても有名で、貴船に続く参道には、豊かな自然の中に、牛若丸(源義経)ゆかりの「息次ぎの水」や「背比べ石」、枕草子に記された「九十九折(つづらお)り」などの名所古跡が散在し、多くの文学作品にも登場する。
「初寅大祭」や「竹伐り会式」など由緒ある年中行事も多く、春の花に始まり、夏は全山緑に包まれ、秋は紅葉の彩り、冬は雪景色と四季折々の風情ある佇まいは、訪れる人々の心の安らぎを与えている。
(京都市設置の案内板から)
<参考資料>
鞍馬寺 仁王門
寿永年間(一一八二~一一八四)に建立されたが、明治二十四年に炎上したので、明治四十四年に再建され、更に昭和三十五年に移築修理が加えられた。向かって右側の扉一枚は寿永の頃のものである。仁王像は湛慶作と伝えられ、明治の再建時に丹波よりお移しされたという。
鞍馬寺 寝殿
この寝殿は、大正十三年に木曽の御料林の檜杙の御下賜を得て、平安時代の寝殿造を忠実に型どって建立され、同年貞明皇后さまが行啓された折、ご休息された建物である。
昭和四十一年に一部増改築され、今は毎年八月一日より三日間奉修される「如法写経会」の道場となっている。
冬柏亭(とうはくてい・与謝野晶子先生書斎)
与謝野家は、昭和二年に、当寺の東京市荻窪村(杉並区荻窪二ノ一一九)へその居を移した。広い屋敷の中には、「采花荘」と呼ぶ日本屋と、「遥青書屋」という大きな洋館があった。
この二つの建物の間に、「冬柏亭」と呼ばれる書斎が、晶子先生の五十の賀のお祝い(昭和四年十二月)に、お弟子さんたちから贈られた。それが完成したのは昭和五年三月である。
晶子先生の没後、昭和十八年十月に、冬柏亭は、門下生の岩野喜久代氏によって、大磯にある氏の住居へ移された。
それが岩野氏のご好意から、さらに鞍馬山に移築されたのは昭和五十一年四月のことで、同門の信楽香雲先代管長とのご縁によるものである。
(寄贈された関係資料は、霊宝殿に収納展示されています)
何となく 君にまたるる ここちして
いでし花野の 夕月夜かな 晶子
遮那王が 背くらべ石を 山に見て
わがこころなほ 明日を待つかな 寛
義経公息次ぎの水
牛若丸が、毎夜奥の院増正が谷へ剣術の修行に通ったとき、この清水を汲んで喉をうるおしたといわれる。八百四年後の今も湧きつづけている。
義経公背比べ石
遮那王と名のって十年あまり鞍馬山で修業をしていた牛若丸が山をあとに奥州平泉の藤原秀衝の許に下るときなごりを惜しんで背を比べた石といわれる。波乱に富んだ義経公の生涯は、この石に始まるといえよう。
遮那王が 背くらべ石を 山に見て
わがこころなほ 明日を待つかな 与謝野 寛
謡曲「鞍馬天狗」と僧正ヶ谷
謡曲「鞍馬天狗」は、源義経幼時の武勇説話を現代物に脚色した曲である。
鞍馬山の東谷の僧が、西谷の花見の招きを受けて修行中の稚児平家の公達や牛若丸を連れて出かけたが、見知らぬ山伏が来たので気を悪くして帰ってしまった。ただ一人残っている牛若丸の素性を知り憐んだ山伏は諸所の花の名所を案内し「自分は大天狗である。平家討滅の望みの達せられるように兵法の秘伝を授けよう」といい、翌日からのはげしい修業の末、約束の如く兵法を授け再会を約し大天狗は立ち去ったという豪壮な物語である。
僧正ヶ谷は牛若丸が天狗僧正坊から武芸を習った処で、老杉高く聳え、巨根地を這って昼なお闇く神秘感をただよわせている。
(謡曲史跡保存会設置の案内板から)
極相林
裸地や、山火事・伐採などで樹木を失った土地には、はじめに光を好む草が生え、ついでマツやナラのような陽樹が入りこむ。その日陰にはシイやカシなどの陰樹が生え、陰樹が成長して陽樹を追いやる。すると最後に陰樹だけの林となり永く安定する。これを極相林という。
鞍馬山では、このあたり一帯が極相に達した森である。ウラジコロカシ・ツクバネガシ・シラカシ・アラカシ・カゴノキ・サカキ・ツバキなど暖地性の照葉樹やツガ・モミなどの針葉樹が中心となり、林内にはそれらの若木が育っている。このような森ができるまでには少なくとも二百年から三百年の歳月が必要だと考えられている。
(鞍馬山自然科学博物苑設置の案内板から)
義経堂
歴史には文治五年(一一八九)四月、奥州衣川の合戦にて自害したと伝えるが、義経公の御魂はこの山におわし遮那王尊として護法魔王尊の破邪顕正のお働きを助けておられるという。
この義経堂には遮那王尊をおまつりする。
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19日は全国的に寒さが厳しく、長野県では南佐久郡南牧村の野辺山で氷点下20.8度、北佐久郡立科町と木曽郡木曽町の開田高原で氷点下15.6度と今季の最低気温を記録しました。
長野市では午前7時過ぎに氷点下6.1度を記録。市内幹線道路では、凍結によるスリップ事故で渋滞が発生し、通勤通学の足に影響がでました。
管理人は渋滞を避けるため、朝6時過ぎに自宅を出発。
最低気温を記録した午前7時頃は、鼻をすすりながら、塩カル播きをしていました。
ホントに寒い朝でした。
(写真:須坂市内のライブカメラから長野市方向を撮影した画像=19日午前7時30分撮影、320×240)
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京都・奈良・大阪方面へのお出かけに、長野県民(特に北信地域の在住者)が使う交通手段といえば、長野駅から中央線を走る特急「しなの」に乗り、名古屋で新幹線に乗り換える方法が一般的。
ところが伊那谷(南信地域)に住む人たちは、名古屋までであれば頻繁に運行される高速バスを、それより以西(いせい)であれば、場合によってはJR東海道新幹線 岐阜羽島駅(地図)まで自家用車を運転して出かけるよ、と聞き、もうびっくり。
会社の同僚に、なぜ岐阜羽島なの?と聞くと…
(1)京都や奈良、大阪まで車で行くにはちょいと遠いし渋滞が心配
※午前7時に到着できれば始発の「こだま」に乗車が可能
(2)名神道・岐阜羽島ICから近く、低価格の大きな駐車場が多数ある
※岐阜羽島駅は中京地域におけるパークアンドライド( Wikipedia )の拠点
(3)多人数であれば高速道路を使っても費用面において節約が可能
以上(1)~(3)が岐阜羽島駅を利用する理由とのこと。
ひろさくさんも一度使ってみたら…ということで早速今回の京都の旅でチャレンジ。
先ずは伊那の仮住まいを午前5時に出発。中央道恵那峡SAで休憩しながら、のんびり小牧JCTを東名・名神へ。渋滞が心配された一宮JCTもゆるゆる通過し、新幹線と並走する木曽川橋((愛知・岐阜県境)を渡るとやがて岐阜羽島IC。岐阜羽島駅南口への到着は、伊那の仮住まいを出発して2時間後の午前7時のことでした。
岐阜羽島駅前はウワサどおりに、それはそれは多くの貸駐車場があり、料金もさまざま。ぐるっと周辺をまわってみましたが、概ね1日(24時間)300円~400円というのが平均的な値段で、長野市内にある駐車場などと比較すると、まさに雲泥の差、激安という言葉がぴったりの印象を受けたのでありました。
岐阜羽島から京都までは、各駅停車の「こだま」で約40分。
始発ということもあり、席に座ってゆっくりと京都までの列車の旅を楽しみました。
開通する北陸新幹線。
長野駅周辺にも駐車場は多数ありますが、地価も高いのでなかなか料金を引き下げることは難しいかもしれません。飯山駅周辺の土地事情や、潜在的な需要がどれほどあるのかわかりませんが、高速道路のIC(豊田飯山IC)から近いという条件は岐阜羽島駅とよく似ており、ある程度の遊休地が確保できるのであれば、こうした利用方法も検討する価値はあるのかも…しれません。
(写真:JR東海道新幹線岐阜羽島駅=平成25年9月15日撮影、640×480拡大可能)
<参考HP>
・ 株式会社スペース24
(今回利用した駐車場の運営会社)
http://www.space24.co.jp
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11月22日午後10時8分に北安曇郡白馬村で発生した神城断層地震については、その後も各地で被害状況が報告されていますが、10日、長野市中条と鬼無里との境にある信州百名山として人気のある虫倉山(地図)でも、山頂部分が崩落するなどの被害があることがわかりました。
写真は、管理人が平成12年8月に登った際に撮影したものです。写真にある標柱(虫倉山 1378m)は別の場所に移動され新たに石柱が建てられていましたが、今回の地震により、その石柱と近くにあった三角点を含む、双眼鏡の東側(写真では左側)部分の大半が崩落したということです。
現在、虫倉山への登山は当面の間禁止されていますのでご注意ください。
(写真:虫倉山山頂=平成12年8月13日撮影、640×480拡大可能)
<参考HP>
・ 長野市ホームページ
虫倉山の被害状況( PDF )
・ ヒロちゃんのブログ
長野県北部地震に伴う虫倉山崩落調査
http://ameblo.jp/yamajin-28/entry-11958334252.html
| 信州百名山 虫倉山登山 不動滝コース (平成12年8月13日) |
|
| 登山道入口 | 不動滝 |
| 金倉坂 | 分岐 |
| 登山道 | 山頂直下 |
| 虫倉山山頂 | 山頂の三角点 |
<参考資料> 虫倉山登山記
虫倉山は、上水内郡小川村・※中条村・※鬼無里村(※何れも登山当時の村名・以下同じ)に跨る標高1378mの山で、長野市と北安曇郡白馬村を結ぶ「オリンピック道路(県道長野白馬線)」からも望むことができる。6本ある登山道のうち5本は中条村に登山口が設けられており、毎年5月3日に行われる開山式には、県内外から400人近い登山者が、「星のきらめく公園」近くの不動滝コースを使って記念登頂を果たしている。
虫倉山の登山口は、村の最も北側を走る県道401号線(小川長野線)沿いに設けられている。長野方面からは、鬼無里村に続く国道406号線の「地蔵平入口」交差点を左に折れ、県道を経由するか、国道19号線の長野市信更町安庭地籍から県道白馬長野道路(オリンピック道路)に入ろ中条村を抜けるか、国道19号線の「笹平北」交差点でバイパストンネルに入らず、笹平地籍を経て県道31号線(長野大町線・旧道)・県道452号線(古屋敷境ノ沢線)を経て県道 401号線に入ることとなる。どのルートを辿っても、県道401号線には出なくてはならず、どれも道路幅が狭いので運転には十分注意が必要。
登山口は、中条村内に5本あり、先輩諸氏の話では、何れも独特な持ち味があるという。一般的なものとしては、梅木鉱泉に近い「岩井堂ルート」、子育ての神様として信仰を集める虫倉神社からの「さるすべりルート」、星のきらめく公園に行く途中の不動滝から登る「不動滝ルート」がよく利用されている。「さるすべりルート」は尾根伝いに急登が続き、最短ルートではあるが難儀とのことなので、ここでは、ファミリー向けの登山道として使われる「不動滝ルート」を中心に紹介する。
「不動滝コース」からの所要時間は、およそ一時間半。稜線までは若干の急坂があるものの、以降は比較的なだらかで、それほど難儀なコースではない。途中には東屋もある。
登山口は、昔の水車小屋を再現した「太田の水車小屋」の西側にある三差路を山側に進む。幅約1.5車線ほどの舗装道路を進むと駐車場。約3~4台の駐車ができ、転回も可能だ。ただ、この道は土砂崩落に伴なう工事が時々行われているようなので、通行の可否を確認しておいたほうがよいだろう。
登山口に車を停め、脇から続く砂利道を進む。ほどなく、不動滝が左に現れ、眩しいほどの緑のなかで清涼な音を立てている。登山道は、滝の上流を沢沿いに進んだ後、これを渡って稜線に向かうこととなる。
しばらく歩くと正式な登山口がある。入口には、登山計画書に代えて、登山者の名前・住所・連絡先・入山時刻・下山時刻・感想を自由に書き込めるノートが置かれている。しかし、最近は慣れや面倒と言った理由で「登山計画書」を提出しない登山者が多いという。山の大小を問わず、自分の所在を明らかにしておくことは重要なのことかと思うが、如何なのものだろうか。
ノートには、県内外から訪れた登山者らが、思い思いの言葉を書き綴っていた。「信州百名山」制覇を目指す単独者や、夫婦や子連れで山登りを楽しむファミリー、会社の登山同好会など、年齢層も幅広く、虫倉山が誰からも親しまれていることがわかる。
ところが、ぱらぱらと捲るうちに、やや心配な記述があらわれた。それは、おととい(8月11日 )山頂まで行った登山者が残したもので、「山頂直下に熊発見!登山者の方はご注意を!」と記されていたのだ。その後、このコースから登った人はいなかったようで、ノートにはその後の記述がなかった。山菜取りが好きな叔父は、よくザックに熊除けと称して「爆竹」を忍ばせていたが、そのようなものなど当然持ち合わせていないし、しかも単独行、さてどうするか迷ってしまった。ザックをかき回すと、偶々お守りに付いている小さな鈴が二つでてきた。どの程度の効果があるのかわからないが、熊除けには「鈴」を鳴らしながら行くと良い、という話をたびたび聞く。これをザックに取り付けると、ほどよく「チリン、チリン」と音を立てた。「こんなんでいいのかな?」などと、少々不安ではあったが、他に方法が無かったので、この音だけを頼りに登ってみることとした。
辺りを警戒しつつ、ゆっくり沢沿いの道を進む。そこそこに整備はされているが、沢を渡る手前の一ヶ所のみ、崩落(雨で登山道が流されてしまった)場所があった。それほど危険といったものではないが、少々足場が悪いので注意したほうがよいだろう。
沢を渡ると、幾分急坂が続く。いかにも「熊」が現れそうな笹薮の中のジグザグを淡々と登るわけだが、早くこの場を離脱したいことばかり考えているせいか、いつもよりペースが速いように感じる。「ぜえぜえ」いいながら30分ほどで「金倉坂」に到着。大小の石が上部からごろごろと転がりだして堆積しているだけのものなのだが、コース中ここだけに見られる面白い現象だ。「金倉坂」と名を付けたことには、どんな意味があるのだろう。
「金倉坂」を過ぎ、幾度かジグザグを繰り返すと、「天神城コース」との分岐となる。このコースは、信濃三十三番札所の第三十一番目、乳出し観音の伝説が伝わる「廣福寺」が登山口となるもので、途中、柏鉢城跡を経由してここに至っている。利用する登山者もあるようだが、道の状況からすると、「不動滝コース」からのもののほうが明らかに踏み固められている様であった。
「天神城コース」との分岐を過ぎると、次ぎの分岐までは傾斜も緩やかになり、息が切れることも無くなる…、はずだったが、ここで思わぬ「落し物」を発見してしまう。それは、人間さまと変わらぬ大きな糞が、登山道の中央に落ちていたのである。それも、ハエが止まっているというのだから、かなり鮮度の高そうな「ブツ」。「熊の話はほんとうかもしれない…」。そう考えたら、やはり恐くなって、再びここでペースを上げ、「ぜえぜえ」いいながら笹薮を抜けることとなった。(写真を撮っておけばよかった、と今になって思うのだが、なにしろこの場を離脱することばかり考えていたので、残念ながらお見せできる資料はない)
次の分岐は、小川村日本記からの登山道と山頂へ続く道との三差路。「不動滝」からは、ここを直角に曲がり、右側の稜線を歩くことになる。少々急坂ではあるが、ほどなく東屋に到着するのでがんばりたい。ここでようやく展望が開け、眼下には県道白馬長野道路(オリンピック道路)に沿って中条村、小川村、美麻村、その右側には雄大な北アルプスの山並みを望むことができるようになる。
ここから山頂までは、稜線沿いを歩くことになる。多少のアップダウンがあるものの、ゆっくり歩けばそれほど気になるものではない。ただし、両側は崖になっているので注意すること。
しばらく歩くと「シラカンバ」の木があった。公園の街路樹としておなじみの「白樺」のことだが、山登りをしていて出会うのは、親戚の「ダケカンバ」の方が多いらしい。いずれにせよ、「シラカンバ」がここにあっても別に珍しいことではないわけだが、たまたまこの日は、仏(ほとけ)様をお迎えする「お盆の入り」。各家庭では、玄関前(お墓)で「シラカンバ」の樹皮(カンバ)を炊いて亡くなった親族をお迎えすることになっている。ところが、この時期になると、何処かから訪れた業者が勝手に林に入り込み、この「シラカンバ」の樹皮を剥いでいくのだという。販売価格などしれたものだが、アルバイト気分ででもやっているのだろう。仏(ほとけ)様をお迎えするものが「盗品」だった…、と知ったら購買者もなんだか心苦しい。
などなど、考えながら歩くと、やがて登山道の中央に大きな切り株。「おっと危ない!」と思いながら坂を上がると、いきなり頂上にでる。(大きな切り株があったら山頂も近い、と覚えておこう)
山頂は南斜面にいくらかの余裕があり、その向こうは崖(さるすべりコース)。そのためか、立ち木がないので眺望は抜群だ。ただ、ひとりだけだとかなり広く感じる山頂も、多人数ならちょっと狭いかも…。「400人近い登山者が訪れる開山祭の時などは、ゆっくり昼食を取るところまではいかないだろうな」と要らぬ心配をしながら、とりあえずお決まりの写真撮影を始める。この日はあいにくの曇り空で、爺ヶ岳や鹿島槍ヶ岳などの北アルプスは望めなかったが、南から東(長野市方面)にかけてはそこそこの眺望が得られた。
虫倉山から続く山襞が途切れたところに土尻川、その向こうに中条村の町並みが点在しているのがわかる。左右に横切る白い線は「長野白馬オリンピック道路」だ。この道路沿いにある「道の駅 パークライン中条」の建物も肉眼で確認できるので、これを目印にお目当ての景色を楽しんでみよう。
山頂には、標高1378mを示す標示柱、その向こうにはお決まりの方位盤があるが、変わったところでは、望遠鏡メーカーからの寄付という説のある「望遠鏡」が備えつけられていた。何故かレンズにキャップがはめられており片方側しか覗くことができなかったが、「パークライン中条」に出入りする車がはっきり確認できるほどの精度。ぜひお試しあれ。
山頂では「不動滝コース」以外からの登山道すべてが一堂に会する。つまり、来たルートを戻るもよし、登ってきたルートとは別のルートを辿るもよし、楽しみかたに尽きるところはない。
なかでもベテランの方々が好んで利用するのが、すでに「虫倉山へのアクセス」の欄で紹介した「さるすべりコース」だ。麓の虫倉神社脇から続くこの登山道は、ナイフの刃先を辿るかのように切り立った崖上を頂上に向けて一気に登るもの。虫倉山への最短コースとして知られている。「お~っ」と思わず声が出てしまうほどの急な坂が、林の中に続いているのがわかる。もし興味があるようならチャレンジしてほしい。(保証しないけど…)
最後に余談ではあるが、管理人がこの山の存在を知ったのは、長野市内の土砂崩落について調べている中で、資料として提供された「むしくら日記」からだった。これは、御開帳で賑わう善光寺を襲った「善光寺大地震」(弘化4年)について記したもので、長野市周辺や上水内郡内の被害状況を松代藩がまとめたものだ。
なかでも、西山地区の被害は甚大だったらしく記述も多い。とりわけ長野市信更町と上水内郡信州新町(※現長野市信州新町)との境で起きた虚空蔵山の崩落については、堰き止められた犀川が地震発生から数日後に決壊し、怒涛の如く川中島平を襲った報告については、決壊に至るまでの経過がことこまかく記しており、今日の治水工事や災害防止等の対策においても参考となる貴重な資料として扱われている。隣村にあたる中条村でも地震による土砂流失があり、その痕跡は現在も所々に見られるという。
このようなことから、松代藩がまとめた報告書に「むしくら」という名称が使われたのは、おそらくこの辺りの被害が他地域に比べ際立っていたからと推測される。「虫倉山」の歴史は、「信州百名山」として知られる以前から注目されていた山なのである。
(掲載の画像は「 MINOLTA Dimage V 」35万画素デジタルカメラで撮影しました)
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豊川稲荷( Wikipedia )は愛知県豊川市(地図)にある日本三大稲荷のひとつ。
室町時代前期の嘉吉元年(1441)、永平寺開山の道元禅師の法嗣である寒巌義尹禅師( Wikipedia )から六代目の法孫、東海義易禅師により、曹洞宗の寺として開創され、今川義元・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康などの戦国大名のほか、江戸時代には名奉行で知られる大岡忠相、渡辺崋山などの信仰を集めてきました。
「稲荷」と呼ばれるため神社と思われがちですが、実は円福山 豊川閣 妙厳寺という曹洞宗の寺院であり、お祀りされている「豊川吨枳尼眞天(とよかわだきにしんてん)」が稲穂を荷(にな)い、白い狐に跨っていることから「稲荷」と呼ばれるようになったようです。
(写真:豊川稲荷・大本殿=平成23年11月23日午後撮影、640×480拡大可能)
<参考HP>
・ 豊川稲荷公式ホームページ
http://toyokawainari.jp/
・ 豊川市観光協会
http://www.toyokawa-map.net/
<参考資料> 総門
この総門は当寺の創立から二百十四年後の明暦二年(一六五六年)に一度改築された。
現在の門は明治十七年(一八八四年)四月十八日当寺第二十九世黙堂(もくどう)禅師によって上棟改築されたものである。
門扉及び両袖の扉は一千有余年の樹齢を重ねた高さ四、五メートル・巾一、八メートル・厚さ十五センチの欅の一枚板で欅独特の如鱗(うろこ)のような木目は類い稀な木材として専門家に知られている。
屋根は銅板鱗葺きで又諸処に使用されている唐金手彫の金具は優れた技法を示している。
頭上に祀られている十六羅漢は名匠で諏訪ノ和四郎その他名工の合作といわれ参詣の諸人はこの仏様に見守れながら、この門をくぐるのである。
<参考資料> 法堂 通称 本堂
| 豊川稲荷秋季大祭 11月22日と23日に開催 「提灯祭り」とも呼ばれる |
建物は総桧二重屋根瓦葺で重厚な外観を示す。
内部は禅宗寺院特有の簡素な構造で朝、昼、晩の勤行、仏事、法要、説教が随時行われる。
内部正面には浄聖台(じょうしょうだい)の額が、外部正面には大本山総持寺独住第一世奕堂(えきとう)禅師が揮毫した「妙巌禅寺」の扁額が掲げられている。
現在の建物は、天保時代二十四世の住職によって新築されたものである。
この建物に続いて開山堂があり宗祖道元禅師をはじめ、寒巌禅師、当寺の開祖、東海義易禅師、歴代住職、諸大和尚の尊像霊牌並びに開基の(今川義元公)位牌がお祀りされている。
尚釋尊のご分骨を奉安した舎利塔は国宝級の宝物で毎年十二月初旬舎利供養が営まれている。
<参考資料> 豊川いなり大本殿
寒巌義尹(かんがんぎいん)禅師がご感得、ご自作の端巌妙相をそなえられる豊川吨枳尼眞天通称「豊川いなり」のご本体が祀られており、全国幾千万のご信者の信仰の中心でありご祈祷の根本道場である。
御真言は「オン シラバッタ ニリウン ソワカ」と申しご参詣の人々は、このご眞言を唱えて拝礼しご加護を受けられたい。
当時二十九、三十、三十一世の三代にわたる大本殿新築の大願は明治、大正、昭和の三世代に跨って信者の信心を凝集して昭和五年春竣工し落慶大開帳が行われた。
建物は総欅造、妻入二重屋根三方向拝の型をとり間口十間七分五厘(十九、三五メートル)高さ百二尺(三十、六メートル)奥行二十一間四分三厘(三十八、五九メートル)丸柱直径八寸(二十四センチ)のもの、直径三尺(九十センチ)のもの計七十二本が使われ内部は内陣般若殿、施主殿に区画され内陣は本尊「豊川吨枳尼眞天」が奉祀してありその厨子は、諏訪ノ和四郎の作で尾根の瓦に至るまで朱漆塗りで精巧に彫刻を配し稀に見る巧緻精麗(こうちせいれい)な出来栄えは拝観者の讃嘆するところである。
更に両脇祭壇には伏見宮家より贈られた毘沙門天、有栖川宮家から贈られた聖観世音菩薩、その他貴重な諸仏、諸菩薩の像及び諸仏具等が安置されている。
明治時代に至り有栖川宮家より「豊川閣」の大額が下賜され大本殿内に掲揚されている。
当時を「豊川閣」と呼ぶのは、この因縁によるものである。
(豊川稲荷境内に設置されている案内板から)
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