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管理人の思いつくまま、気の向くまま、長野県内の町や村の話題を取り上げています。
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130601_1545_安曇野市豊科近代美術館に咲くバラ(安曇野市) 130601_1542_安曇野市豊科近代美術館に咲くバラ(安曇野市)
130601_1549_1_安曇野市豊科近代美術館に咲くバラ(安曇野市) 130601_1549_2_安曇野市豊科近代美術館に咲くバラ(安曇野市)
安曇野市豊科近代美術館に咲くバラ

安曇野市豊科の安曇野市豊科近代美術館(地図)に咲くバラの様子。
第13回バラ祭りは6月2日までですが、美術館周辺のバラはまだまだ見ごろ。
(写真:安曇野市近代美術館に咲くバラ=1日撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 安曇野市豊科近代美術館
  http://www.azumino-museum.com/





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130503_1511_岩村城跡(岐阜県恵那市)

岐阜県恵那市岩村町(地図)にある鎌倉時代初期に遠山景朝により築城された山城。
戦国時代は武田方の秋山信友、織田方の川尻秀隆、団忠正、森長可・忠政、田丸直昌が城主。江戸時代は、松平家乗、丹羽氏信、松平乗紀が入城し、以後明治維新まで大給松平氏の居城。日本三大山城。岐阜県指定史跡。
(写真:岩村城とその周辺の様子=5月3日撮影、640×480拡大可能)

女城主・おつやの方
戦国時代、岩村城は武田信玄の武将秋山信友に攻められますが、織田方の援軍によりこれを退けます。翌年、城主遠山景任が病没。織田信長の叔母にあたるおつやの方が景任に嫁いでいた縁で、信長は五男の勝長を遠山氏の養子としました。
元亀3年(1572)、信玄は再び秋山信友に命じ岩村城攻めを行います。しかし、城は落ちず、信友はおつやの方を夫人にすることを条件に開城させ、城は武田方に属することになりました。
信玄死後の天正3年(1575)、長篠の合戦で敗北した武田方の劣勢に乗じ、信長は岩村城奪還のため、長男の信忠を総大将に兵を送ります。五ヶ月間の攻防戦の末に城は落城。信友とおつやの方は長良川で磔にされました。

<管理人ひとこと>

130503_1504_岩村城絵図(岐阜県恵那市)
岩村城絵図
愛知県豊田市稲武から岐阜県恵那市に向かう国道257号線(中津川街道)沿い、新木の実トンネルの出口を過ぎたあたりにこの岩村城跡がありました。国道から急坂の小道を車で駆け上がると、やがて帯曲輪の平坦地。そのまま車を進めると、本丸直下の出丸に設けられた駐車場に到着します。見学するには幾つかルートがあるようですが、車で訪れるのであれば、本丸に近い出丸駐車場を利用するのが便利かもしれません。
立派な石垣を右に見ながら埋門(うずみもん)跡を抜け、本丸へ。享保3年に描かれた岩村城絵図をもとにした案内によれば、埋門には両側と奥の石垣の上に櫓が載せられ、クランクした通路には3カ所に門扉が設けられていたとのこと。また、門の右側には納戸櫓(二重櫓)が建てられていたということです。
本丸は広い公園のようになっていて、周囲には石垣が廻らされていました。案内によれば、本丸には納戸櫓など二重櫓2棟、多門櫓2棟が設けられていましたが、当時も施設はなく、広場になっていたようです。こうしたところが典型的な山城の趣きといったところかもしれません。

<参考HP>
・ 恵那市観光協会
  http://www.kankou-ena.jp/


岐阜県指定史跡 岩村城址 (5月3日)
130503_1505_岩村城跡(岐阜県恵那市) 130503_1507_岩村城跡(岐阜県恵那市)
本丸石垣下を歩き二の丸へ 埋門
130503_1506_岩村城跡(岐阜県恵那市) 130503_1512_岩村城跡(岐阜県恵那市)
本丸から東曲輪を望む 岩村城本丸跡


<参考資料> 岐阜県指定史跡 岩村城址
岩村城は別名霧ヶ城といい、天然の峻険な地形を活用した要害堅固な山城で、海抜七一七メートルに位置し、全国の山城の中で最も高地にあり、日本三大城の一つである。
岩村城の創築は鎌倉幕府初代将軍、源頼朝の重臣加藤景廉が、文治元年(一一八五年)に遠山荘地頭に補せられたのに始まる。景廉の長男景朝が岩村に移り、加藤の姓を地名の遠山に改め、以後遠山氏が代々居城した。
戦国動乱の時代に入り、武田信玄の臣秋山信友が天正元年(一五七三年)に岩村城を奪取して入城したが、同三年に織田軍に敗れ、以後城主は川尻鎮吉と森蘭丸、森長一、森忠政の森三代、田丸具忠と二八年間に目まぐるしく交替した。
慶長五年(一六〇〇年)関ヶ原合戦後、姓郡に属した田丸氏に変わって松平家乗(大給松平家)が城主になった。江戸時代の城主は松平氏二代、丹羽氏五代のあと大給松平分家の松平氏七代を経て明治維新を迎えた。
城郭は中世城郭を近世城郭へと修築し、本丸、二の丸、出丸、帯曲輪、東曲輪、八幡曲輪等々が設けられ、丸と曲輪は石塁や自然の断崖をもって区画され、要所に櫓、塀、城門が構えられた。
建物は明治維新により廃城され、後明治六年(一八七三年)に取壊された。
(岐阜県教育委員会・岩村町教育委員会設置の案内板から)

<参考資料> 岩村城のあらまし
岩村町は木曽山脈のふところに抱かれた高原盆地にあります。岩村城は別名霧ヶ城と呼ばれ、峻険な地形を利用した要害堅固な山城で、海抜717メートルに位置し全国の山城の中で最も高地にあるのが岩村城である。現在も栄華と悲劇を秘めた石垣が残り、広大な岩村城の規模、形状を偲ぶことが出来ます。
岩村城の創築は鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の重臣「加藤景廉」が文治元年(一一八五)に遠山庄地頭に補されたのに始まる。岩村城は加藤景廉創築後、森、松平氏等によって修築拡張され、本丸・二の丸・出丸・帯曲輪・東曲輪・八幡曲輪等が設けられ要所に櫓・塀・城門が構えられました。岩村城は文治元年(一一八五)から慶応四年(一八六六)まで六八三年間、全期にわたって城が巌(現)存したことは日本の城史にも例を見ず、長い歴史にも名城たる理由があります。女城主と呼ばれた時代は城主・遠山景任(とおやまかげとう)が武田信玄の将秋山信友が侵入の時に、東美濃遠山一族と出陣、暮れに没した。その妻が織田信長の叔母で女城主とよばれています。





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130526_1141_アスパラまつり(飯山市) 130526_1143_アスパラまつり(飯山市)
130526_1133_アスパラまつり(飯山市) 130526_1135_アスパラまつりに駆け付けたアルクマ(飯山市)
2015年春 北陸新幹線飯山駅開業イベント
信越自然郷 いいやまマルシェ アスパラまつり

北陸新幹線飯山駅開業イベント いいやまアスパラまつりが26日、JR飯山駅前の雪と寺の町シンボル広場で開催され、大勢の家族連れで賑わいました。
飯山市のイベントニュース(  http://www.city.iiyama.nagano.jp/ )によれば、当日は2500束のアスパラを用意したそうですが1時間ほどで売り切れとなり、追加した4000束も完売になった、ということです。
(写真:いいやまアスパラまつり会場=5月26日撮影、640×480拡大可能)

<管理人ひとこと>
イベント会場(寺と雪のシンボル広場)の入り口に立派な仁王像が安置されていました。この漆黒の仁王像、案内によれば、明治45年に催された善光寺(長野市)の御開帳にあわせ製作されたもので、平成23年に飯山市に里帰りしたものということです。

<参考資料> 雪と寺の町シンボル広場 善光寺 旧仁王像
130526_1132_善光寺旧仁王像(飯山市)
善光寺旧仁王像
この仁王像は善光寺の旧仁王像で、明治四十五年の御開帳の時に安置されていた像です。
当時、善光寺の仁王像は焼失したままとなっていました。
善光寺では、近づく御開帳までに仁王像を設置したいと仏壇製作で有名な飯山仏師に依頼し、約一カ月という極めて短時間で製作、無事にご開帳に間に合わせたといいます。
木造は、ご開帳の後、解体され近隣の寺院に引き取られましたが、大きすぎて建物内に入らずに軒下に置かれていました。
これを見かねた長野市安庭の眞龍寺一峰不白大和尚が昭和十一年に引き取り本堂に安置されました。
平成二十三年、眞龍寺古澤昭平ご住職のご好意により飯山市で譲り受け、「寺のまち飯山」のシンボルとして展示することといたしました。
設置に際しては、飯山仏壇事業協同組合による修復を行い、漆黒の仁王像を再現いたしました。
平成二十四年、昭和四十五年からちょうど百年目となります。善光寺で参拝者をお迎えしてから一世紀を経て、再び製作された地飯山で大勢の方々をお迎えする事となりました。 (飯山市が設置した案内板から)


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130522_1032_養命酒駒ヶ根工場の芍薬(駒ヶ根市)

今週から各種団体の総会が目白押し。
楽しみにしている養命酒駒ヶ根工場さんの芍薬ですが、大きな蕾(つぼみ)になってきました。この四季咲きの丘に咲く芍薬は3000株。開花を楽しみに訪れる県内外からの観光客で賑わう、この時期ならではの観光スポットとして知られています。
案内によれば、5月25日から6月2日まで「芍薬フェスタ」(午前9時30分から午後4時30分まで)が開催されるそうで、6月1日には工場内見学施設にて「森のオカリナ樹音(じゅね)コンサート」(無料)、2日は「森のポストカードづくり」(500円)などのイベントのほか、くらすわパンの出張販売や生活菜園の新鮮野菜の販売なども行われるそうです。「芍薬フェスタ」について詳しくは養命酒ホームページ(  http://www.yomeishu.co.jp/ )をご覧ください。
(写真:養命酒駒ヶ根工場の芍薬=22日撮影、640×480拡大可能)

 2013バラまちフェスタ開催

13_2013バラまちフェスタ(伊那市)
 
伊那市西町から山寺までの中心街で、平成25年6月1日から30日まで、恒例のバラまちフェスタ(主催:バラまちフェスタ実行委員会・伊那まちバラ咲く街角連絡協議会)が開催されます。
6月1日は、午前10時からセントラルパーク会場でオープニングセレモニーを開催。午後1時からふかせひとひろさんによるコンサート、午後6時からバラまちキャンドルナイトが行われるほか、会場(セントラルパーク・伊那北にんべん酒店前の2会場)ではバラ苗や関連商品の販売される予定です。
また、9日午前10時30分からは、セントラルパーク会場でシャンソン歌手の浜砂伴海(はますなともみ)さんによる「バラまち野外コンサート」を開催。現在、「花は咲く」の合唱参加募集中。
このほか期間中にはたくさんのイベントも。詳しくはタウンステーションまでお問い合わせください。

テレビCM 薬用養命酒「ふるさと春篇」放映中
駒ヶ根の春とともに薬用養命酒を紹介する養命酒製造株式会社のテレビCM(60秒バージョン: http://www.yomeishu.co.jp/yomeishu/tvcm/tvcm26.html )が放映されました。残雪の中央アルプスを背景に咲く桜並木、豊かな自然のなかにある駒ヶ根工場の様子などが、コンパクトに収められており、とても印象深い仕上がりになっていました。
「春篇」の続編は何時から放映されるのか。因みに、夏らしい風景のものもありましたが、新しいバージョンのものが登場するのではないかと、期待しているのですが、さて。詳しくは「テレビCMスペシャルサイト」( http://www.yomeishu.co.jp/furusato_2012/index.html )をご覧ください。


今週のできごと
18日(土)
・しげちゃん絵本&トーク&音楽のファミリーコンサート (駒ヶ根市)
・豊南短大30周年記念式典 (辰野町)

19日(日)
・イーナちゃんウォーキングカーニバル (伊那市・鳩吹公園)
・みはらし五月まつり (伊那市・みはらしファーム)

20日(月)
・ネパール交流市民の会第15回総会 (駒ヶ根市)
21日(火)
<花便り>山あいに現るツツジの城 長谷市野瀬のツツジ (伊那市長谷・長野日報)
・ハッチョウトンボの羽化始まる (駒ヶ根市南割公園・長野日報)

22日(水)
<花便り>大輪ボタン咲き競う 遠照寺 (伊那市高遠町・長野日報)
<ご当地キャラ大集合>
ふてぶてしくも憎めず ヒッヒー (駒ヶ根市・長野日報)
・伊那市新規採用職員を対象にした「伊那節」研修 (伊那市)
・田んぼで泥んこバレー (伊那市)
・第61回地区対抗経ヶ岳競歩大会 (南箕輪村)

23日(木)
24日(金)
・第11回伊那街道12蔵初夏の呑みあるき (伊那市・通り町商店街特設会場)
・JA上伊那第17回通常総代会 (伊那市)


来週のできごと
25日(土)
・天竜川バス釣り大会 (箕輪町)
・鼓龍第3回公演・大地から響き渡る鼓動2013 (南箕輪村)

26日(日)
・天竜川漁協第2区支部マス釣り大会 (箕輪町)


 中央自動道恵那山トンネル(下り)天井板撤去工事
中央自動車道恵那山トンネル(下り)天井板撤去工事が平成25年6月20日から平成25年7月10日まで実施されます。詳しくは恵那山トンネル工事専用サイト(  http://enasan-info.com/ )をご覧ください。
<工事の予定>
(1)恵那山トンネル上り線通行止(中津川→飯田山本)
   期間:時間:6月20日午後6時から翌21日午前6時まで
   理由:昼夜連続対面通行の準備工事
   規制:上り(中津川→飯田山本)通行止
       下り(飯田山本→中津川)追越車線規制
(2)恵那山トンネル下り線通行止(飯田山本→中津川)
   期間:時間:6月21日午前6時から7月9日午後1時まで
   理由:下り線の天井版撤去工事・ジェットファン設置工事
   規制:恵那山トンネル上り線を昼夜連続対面通行
(3)恵那山トンネル上り線通行止(中津川→飯田山本)
   期間:時間:7月9日から翌10日午前6時まで
   理由:昼夜連続対面通行の撤去工事
   規制:上り(中津川→飯田山本)通行止
       下り(飯田山本→中津川)通常運用

 中央自動車道伊北IC~岡谷JCT間 昼夜連続対面通行
中央自動車道伊北IC~岡谷JCT間で橋梁補修工事が実施されることに伴い、平成25年6月4日(火)午前9時から平成25年7月10日(水)午後7時まで昼夜連続対面通行が実施されます。




 アルプスがふたつ映えるまち 駒ヶ根市
YouTube に公開されている長野県駒ケ根市を紹介する映像(企画:駒ヶ根市総務部秘書広報課)。管理人が現在勤務する、中央アルプスと南アルプスを望む、風光明美な素敵な街の魅力がたっぷり詰まった作品です。
「今週のいなだに」では、この映像を毎回ブログに掲載し、駒ヶ根市を紹介したいと思います。ぜひ遊びに来てくださいね。


 伊那の今はライブカメラで
伊那ケーブルテレビのホームページ( http://www.inacatv.co.jp/index.html )に、市内8カ所に設置したライブカメラの映像が提供されています。

 駒ヶ根の今はライブカメラで
ケーブルテレビ「エコシティー・駒ケ岳」のホームページ( http://www.cek.co.jp/ )に、市内2カ所に設置したライブカメラの映像が提供されています。


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伊那街道 (山寺→高尾公園)
130518_1126_伊那街道・山寺から伊那部宿へ(伊那市) 130518_0929_伊那街道・山寺から伊那部宿へ(伊那市・昌玄坂と芭蕉秋風塚)
伊那街道(山寺) 昌玄(拍先)坂と芭蕉秋風塚
130518_0933_伊那街道・山寺から伊那部宿へ(伊那市・JR飯田線伊那北駅前) 130518_0934_伊那街道・山寺から伊那部宿へ(伊那市)
JR飯田線伊那北駅前周辺 街道沿いに残る土蔵

伊那市山寺から伊那部宿(地図)まで、起伏のある旧街道をのんびり歩いてみました。
(写真:伊那街道と町並み=18日午前、640×480拡大可能)

<参考資料> 昌玄(伯先)坂と芭蕉秋風塚
伊那部の医師吉川養玄の子として宝暦五年(一七五六)六月長男元茂(俳号伯先)が生まれた。江戸と京都で医学を学び勉学に勤しんで帰郷、山寺に定住中村を姓とした。
医名を昌玄と名乗り名声は遠近に響き医生・寄宿生は数十名を下らなかった。
ここ昌玄坂は彼の医名から名付けられた。坂頭には坎水園(かんすいえん)と呼び治療や家塾を兼ね後には寺子屋を併設し子等の教育にあたった。俳句儒学漢詩にも志を懐した。伊那部宿にある伯先桜は伯先が幼少の頃に植樹した枝垂桜である。

身にしみて 大根からし 秋の風  芭蕉
三尺の 雪のうへ照る 月夜哉   伯先

(案内板から)

伊那街道 (高尾公園→坂下の辻)
130518_0939_高尾神社に咲くツツジ(伊那市) 130518_0946_高尾神社に咲くツツジ(伊那市)
高尾公園に咲くツツジ
130518_1005_伊那街道・山寺から伊那部宿へ(伊那市・伊那小学校) 130518_1007_伊那街道・山寺から伊那部宿へ(伊那市・常圓禅寺)
伊那小学校 曹洞宗 常圓禅寺

<参考資料> 高尾神社
高尾神社(地図)はご祭神を保食大神 和久産巣日神 宇迦御魂神と申し古来より五穀豊穣 養蚕守護 商工業繁盛 授福の神として崇敬篤く 当山寺区にも古くから高尾講として信仰が続けられていた。昭和八年五月山寺商工会は地域の開発発展を願い、高尾講本社である山梨県中巨摩郡櫛形町穂見神社より神璽を迎えて新たに高尾神社を創建した。そもそも此の台地は戦国の頃 林式部の居館址と伝えられ、東に仙丈岳 西に駒ケ岳を望む景勝の地であり狐林と称せられていた。昭和四年山寺商工会はこの台上に公園をひらくことを計画。地元諸氏の協力を得て高尾神社の創建とともに高尾公園をして整備に着手。樹林の植栽 参宮道路の開設などに努めてきた。以来 高尾神社の祭典は全山ツツジの花に飾られる陽春五月 近郷近在の人々で溢れて興盛を重ね 昭和六十年五月 新しく社殿 拝幣殿を整えて更に神威を加え社運益々盛んである。
本年 創建六拾周年を迎えるに当り、諸先人の功労を偲び些か社略を誌して碑を建立する。 (山寺商工会が建立した石碑から)





伊那街道 (坂下の辻→荒井大芦)
130518_1009_1_伊那街道・山寺から伊那部宿へ(伊那市・坂下の辻) 130518_1009_2_伊那街道・山寺から伊那部宿へ(伊那市・坂下の辻)
伊那街道と権兵衛峠・羽広観音道が交差する坂下の辻
130518_1013_伊那街道・山寺から伊那部宿へ(伊那市・小沢川) 130518_1014_伊那街道・山寺から伊那部宿へ(伊那市・蔵元宮嶋酒店)
小沢川 蔵元宮嶋酒店

<参考資料> 伊那市史跡 坂下の辻
江戸時代伊那谷を南北に走る伊那街道は、南方より小黒川を渡り伊那部宿に入る。やがて荒井の大芦を経て、小沢川を往来橋(現代明十橋)で渡り、ここ「坂下の辻」(地図)に出た。ここから御馬寄(現代伊那小学校)の台地を東面中段を北に向かい、山寺段丘下を北進して御園に至り、現代の国道一五三号線と重複し御子柴境に達している。
これに対し東西に伸びる古道がこの辻で交差していた。ここにある供養塔のなかには左記の道標と丁石がある。

一 右ぜんごうじ  道
   左はび路
二 右善光寺道   享保二十一 丙辰天彼岸日
   左木曽路
三 羽広山マデ五十四丁 嘉永五子年三月吉日
   第一番

これらの道標によれば、ここから右に向かえば善光寺方面、左は仲仙寺た羽広観音様への案内である。また左木曾路は、途中羽広道とわかれて直進すれば権兵衛峠を越え木曾への案内である。木曾路については、寛文十年 飯田領と高遠領の境界争いの江戸評定所裁許絵図に、伊那部山道と記されている。
次に「羽広山マデ五十四丁第一番」の丁石は、この辻を起点として羽広の仲仙寺迄、一丁(約一〇九m)毎に建てたもので、十丁目で分岐し羽広に向かっている。かつて羽広観音は、上戸の第六天と共に馬の守護神や農耕神として崇敬厚く、庶民信仰の道でもあった。またこの辻より南方小沢川左岸明十橋のたもとに辻があり、碑に右江戸みの婦道・左ぜんこう寺とある。右は坂下の入舟で天竜川を渡り、高遠城下、更に甲州街道へ通じていた。
このように坂下は四方に通じる交通の要衝だったので、江戸時代近在の村々の寄り合い所である坂下会所があった。明治初期この地に戸長役場が置かれ、仲町入舟町界隈は天竜川通船と共に、急速な発展を遂げた。江戸時代中馬道として活気を呈した伊那街道や、それに交差した羽広道などは、庶民信仰の道であり、また木曾へ米の附送りや助郷の道でもあった。多くの人々が往還し東西文化の交流をもたらしたこの辻も、明治二十七年下段に三州街道が開通したことでその役割は終わったが今も多くの石佛により往時を偲ぶことができる。

通船とは
天竜川に舟運は慶長十二年(一六〇七)角倉了以の天竜川船路の見立てにより、まず下流域静岡方面で始まった。上伊那地方では文政十三年(一八一六)神子柴村(南箕輪)の加藤孫市が中馬業者や川沿いの農民を説得して本格的に遠州掛塚まで五十里半の通船を始めたが、経営困難で長く続かなかった。明治を迎え交易が自由になり、四年(一八七一)高遠県は大橋西詰へ船会所を建造した。当時の大橋は現在地より約百メートル上流に架かり、入船から中央区北の旧道へ接続していた。舟会所を拠点にやはり松島(箕輪)より遠州掛塚まで通船が行われたが、これも経営意の如くならず間もなく中絶した。明治初期、上下伊那郡の舟数は四年伊那県調で五十艘、入舟は北の拠点であった。この頃 沢渡帰帆を詠んだ井上井月の「春風に待つ間程なみ白帆哉」の句からも賑やかに行き交う舟運の情景が想起されるのである。
明治二十七年(一八九四)天竜川の沖積地へ幅九尺の三州街道(塩尻-伊那-飯田-三州)が南北に貫通し、入舟町、旭町等の家並みが順次でき坂下の辻の賑いは入舟町四つ角へと移った。その結果、人力車、中馬の時代から馬車交通の幕開けとなり、大量の物資がその頃開通した信越線、篠ノ井線を経て松本、塩尻、諏訪方面から三州街道を南下し伊那谷へながれこんで来た。しかし下伊那郡竜東の田村・伴野(現豊丘村)・阿島・伊久間の川幅も広く橋も架かっておらず、物資の供給が困難であった。この不便さに目をつけたのが南箕輪の加藤亮敬、伊那の松崎竜之助、中村奥次郎等で明治二十~三十年代相ついでこの地へ天竜川通船組合を設立したのである。三州街道と天竜川が僅か五十~六十メートルで最も接近している坂下入舟の好立地を生かして、陸上を運ばれて来た品物をこの地で舟に積みかえ下伊那郡竜東の村々へ大量の物資を運搬・供給した。扱った品物はランプ用の石油、米穀、砂糖、塩、肥料等で舟は米なら五十俵積める鵜飼い船であった。
通船業は一時期隆盛を極めたが、明治三十七年の洪水による河床の変化、橋梁の架設、運送馬車の発達、中央本線、伊那電鉄等の諸事情によりこの地の舟運は明治四十年前後に全く終焉をみた。
(伊那市教育委員会設置の案内板から)





伊那街道 (荒井大芦→伊那部宿)
130518_1020_伊那街道・山寺から伊那部宿へ(伊那市・寶樹山圓福寺) 130518_1022_伊那街道・山寺から伊那部宿へ(伊那市)
寶樹山 圓福寺 街道沿いに残る土蔵
130518_1023_1_伊那街道・山寺から伊那部宿へ(伊那市・伊那部宿) 130518_1023_2_伊那街道・山寺から伊那部宿へ(伊那市・伊那部宿)
伊那街道 伊那部宿 伊那部宿の町並み
130518_1028_伊那街道・山寺から伊那部宿へ(伊那市・伊那部宿) 130518_1030_伊那街道・山寺から伊那部宿へ(伊那市・旧井澤家住宅)
伊那郵便局発祥之地 旧井澤家住宅

<参考資料> 伊那部宿の由来
伊那部宿(地図)は伊那街道の中で飯田城下と塩尻宿の中間に位置し、ここから高遠城下を経て甲州街道へ、また権兵衛峠を越え中仙道へ通じる交通の要衝であった。街並の初見は、天正十九年の太閤検地帳に長桂寺を含め十六軒の記載があり、また天文・弘治の頃、武田信玄が南信攻略のとき伊那郡を前進基地にしたと伝えられることからその歴史は古い。
その後江戸時代には中馬の中継地として活気を呈し、また菅江真澄・幕府天文方伊能忠敬・老中堀大和守・幕府巡見使土屋一左衛門など多くの要人がこの地に足を留め、元治元年(一八六四年)には水戸浪士八百余勢もこの宿で昼食をとり、旅篭の嫁娘らの接待により無事通過した。中村伯先・須田経徳・経哲父子などの名医・文人もまたこの宿場の出身である。
宿場の概要は南北の延長三三〇米、南北夫々のでいる愚痴は枡型構築がなされて外敵の侵入に備え、北に十王堂を建てて魔除とした。町の中央に長桂寺が位置し、門前に高札場があった。本陣と問屋は東側に配置され、街路の中央に角川があった。
旅篭や店は道に接し、奥に土蔵を配置した。また宿場に隣接の春日神社や春日城は伊那部宿と密接な関係があり築城は室町時代の陶器出土により、この時代またはそれ以前と思われる。更に東方眼下に広がる水田は、古くから拓けて「竜中耕地は七百俵取り」と豪語され、伊那部宿は、江戸時代の形態を今に伝えるものとして貴重なものである。 (案内板から)




伊那谷段丘に残る古城
130518_1129_山寺・古城(伊那市)
古城跡(南側から撮影)
「区誌山寺続編」によれば、伊那市山寺前橋町の伊那街道沿いに「古城」とよばれる地名が残り、かつての城跡の名残りではないか、という記述がありました。
伊那電気鉄道や水神道路、三条通りの工事に伴う埋め土用に切り取られたこともあり、現在は城跡と思われる場所は南北に分断された丘陵となっています。南側の丘には墓地が、北側の丘には祠が残り、高尾神社周辺に居館をおいた林式部(戦国時代)に関係すると伝えられています。

山寺地区の新道(御園境から坂下境まで)の工事は村は請け負った。仕事は村人足で施工し、埋め立ての土は今の古城を削り使ったり、古屋の東の崖を崩して使った。古城の地形は、当時は北にあるお稲荷様のある丘と南の丘は続いていたが、現在は二つの間はなくなり道路と同じ高さまで削り取られてしまった。 
(区誌山寺続編 第2章山寺の発展から抜粋)

古城は地名からも古くは城があったと思われる。古城には明治七年から一八年まで学校があり、明治九年生まれの古老の話では、古城の学校に通ったとのことであった。学校は山園(さんえん)学校で、文献によると、その学校は御園南端にあったと記されている。御園と山寺前橋町との境界については、小字名「こぶけ」に遊水地(現在五味鉄構西側)があり、その池から流れ出る、こぶけ川が、御園と山寺の境界である。こぶけ池は南北に流れていて、川の西岸が山寺で東側は御園であり、山園学校は川の東側にあったが、以前は川の東側の境界は定かではなかった。現在は山寺区前橋町地籍である。 (区誌山寺続編 第3章町内のあゆみ・特徴から抜粋)

伊那電気鉄道 旧入舟停車場跡
130518_1110_伊那電気鉄道・旧入舟停車場跡(伊那市)
伊那電気鉄道・旧入舟停車場跡
(線路右側の石段とホーム)
JR飯田線伊那北駅と伊那市駅のほぼ中間にある入舟踏切北側には、伊那電気鉄道時代に大勢の乗降客で賑わった入舟停車場の跡が今も残されています。

<参考資料> 伊那電気鉄道の開通まで
明治二五年(一八九二)政府において「中央鉄道敷設」の計画が出された。これに対して、伊那谷側と木曾谷側の双方は、鉄道誘致運動を繰り返したが、最終的には木曾谷通過と決定し伊那の敗北に終わった。
そこで、伊那谷側では、明治二八年(一八九五)辰野より飯田までの電車鉄道敷く設の請願を内務大臣に提出、明治三二年(一九〇〇)に許可が下りた。しかしこの当時は、経済状態が芳しくなく、しばらく時期をみることになってしまい中断の状態が続いた。
中央線鉄道は、当初下諏訪からトンネルを掘って塩尻に通す予定であった。しかし、誘致に敗れた伊那谷側は、少しでも伊那の入口近くを通そうと、当時政友会の有力な代議士であり、かつ鉄道局長である下伊那郡上殿岡村(現飯田市伊賀良)出身の伊藤大八氏を先頭にして、下諏訪から川岸・辰野・小野経由塩尻の運動を展開した。その結果、ようやく辰野回りが認められ、実現の運びとなった。
中央線鉄道の岡谷・辰野・塩尻間の開通は、明治三九年六月一一日であった。
中央線鉄道辰野駅の開通をうけて、明治三九年(一九〇六)になり、伊那谷では、本格的な鉄道会社の設立をはかった。
明治四〇年(一九〇七)より伊那電気鉄道の線路の敷設工事が始まった。その後、伊那町までの工事の進行は次のようである。

明治四二年一二月二八日 辰野より松島 まで開通
明治四四年二月一七日 松島より木ノ下 まで開通
明治四四年一一月三日 木ノ下より御園 まで開通
明治四五年一月四日 御園より伊那北 まで開通
明治四五年五月一一日 伊那北より伊那町 まで開通

以後大正三年一〇月三一日に赤穂まで開通し、飯田までの開通は大正一二年八月三日であった。
当時村や町から資金の提供を受けるとその地域に駅を設けた。そのため駅の数は大変多かった。伊那町の中には駅は北から

御園駅 今の御園ニシザワショッパーズ近く(無人駅)
山寺駅 今の前橋町の踏切の北になった(無人駅)
伊那北駅 現在の場所
入舟駅 現在の入舟踏切のすぐ北 線路の東側にホームのあとがある
伊那町駅 現在の場所
小黒駅 (無人駅)

の六つがあった。開通当時は、ほとんど各部落ごとに駅があった。しかし飯田まで開通した大正一二年頃から駅の整理があり、山寺駅・小黒駅はなくなり、しばらくして御園駅も整理された。それでも当時、辰野駅から伊那町の駅までに二二箇所の駅があった。昭和一八年に国有鉄道に移管されると入舟駅は廃止されている。
(区誌山寺続編 第2章山寺の発展から抜粋)

<参考資料> 伊那電気鉄道(私鉄)から飯田線(国鉄)へ
伊那電気鉄道は明治一八年(一九四三)八月一日、太平洋戦争の最中の第八一帝国議会で国有鉄道に移管を決定した。
伊那で近畿鉄道・三信鉄道・鳳来寺鉄道・豊川鉄道の四会社が、政府に買収されて、国有鉄道の飯田線として引き継がれた。
引き継ぎ当時は、いずれも貧弱な地方社線であったため、国鉄施設基準に適合するものは少なく、輸送関係は社線時代を踏襲しなければならなかった。
この時、伊那町で一番賑わっていた入舟駅が交通上の関係で廃止された。(略)
(区誌山寺続編 第2章山寺の発展から抜粋)


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