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国道403号線(谷街道)荒神町交差点から西へ入ったところにある松代藩の御船屋跡(地図)。江戸時代中期の古地図には「御舟小屋」と記された場所があり、御船屋を西から北を巡る水路は、現在、千曲川通船船付場跡碑のある荒神町に至り、大英寺付近で鮒沢川と分かれた関谷川と合流。その流れは千曲川に続いていました。
「戌の満水」の後、御船屋は廃止され、道橋方(土木関係)の役所が設けられ、鎮守として稲荷が祀られ、現在に至っています。
(写真:御船屋稲荷=平成26年4月12日午前撮影、640×480拡大可能)
<参考資料> 御船屋稲荷の由来
千曲川が松代城の北裏から、この稲荷社の北を流れていたころ、藩の御船屋(御船蔵・おふなぐら)がこの地(不二越工場跡)にあって領内七ヵ所の渡船場(矢代・赤坂・寺尾・関崎・小市・市村・布野)支配の役所が置かれていました。
寛保二年(一七四二)の「戌の満水」と呼ばれる記録的な大水害後、千曲川を北方の現在地に移したので、御船屋は廃止になって、その跡に藩の道橋方(土木関係)の役所が設けられて、鎮守として稲荷大明神をまつったので「御船屋稲荷」とよばれました。
享和元年(一八〇一)二月、道橋奉行の金井縫殿丞・石黒和左衛門・矢野源八らが、京都の神祇(※)官に願って、六代藩主真田幸広公の筆になる「御神号」を御神体として祭りました。
以来城下の竹山稲荷など数か所の稲荷社と共に二月の初午祭が盛大に行われました。
明治四年(一八七一)廃藩によって道橋方は廃されたので、稲荷社は御厩(※)町の町内持ちとなって祭典が引きつがれ、今日に至っております。
(案内板から)
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