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御館跡平面図 (上越市史より) |
この御館の乱は、上杉家の国力を失う結果にもなりましたが、一方で、北条家に代わり和平交渉を行った武田家の滅亡に繋がる戦いであったともいわれています。当初、北条家出身の景虎を支援していた武田勝頼でしたが、景勝との甲越同盟( Wikipedia )を進めたことで、北条家との甲相同盟( Wikipedia )が破綻。夫人を北条家から迎えていた勝頼でしたが、天正10年(1582)の織田信長による甲州征伐では、同盟破綻により北条家とも敵対する状況となり、また、同時期に北陸地方において織田軍の攻勢を受けていた景勝からの援軍も受けられず、孤立無援のまま戦いに挑まざるを得なくなったのでした。
内乱の舞台となった御館の跡は、現在は公園として整備され、発掘調査では実戦に使われたと思われる銃弾などが見つかっています。
(写真:景虎方の本拠のあった御館公園=平成27年5月23日午後撮影、640×480拡大可能)
<参考資料> 御館(おたて)
御館は、小田原城主北条氏康に敗れ、越後に逃れた関東管領上杉憲政のために上杉謙信公が造営した館で、後に憲政から関東管領職を継いだ謙信公が政庁としても使用したといわれています。
御館は、古い地籍図から二重の堀に囲まれた東西二五〇メートル・南北三〇〇メートルの大規模な館であったと考えられています。東京ドームの一・六倍の大きさでした。中心の郭は、四方を堀で囲まれた東西一二〇メートル・南北一五〇メートルの規模で、ここ御館公園の六倍の大きさであったとされています。発掘調査が行われた四十数年前に、越後の中世史を語る貴重な遺跡であることから、中心部分が「御館」の名を冠した公園として残されました。
少し足を伸ばしてJR線路まで出てみてください。右手の独立した山が春日山城です。
<参考資料> 御館の乱
天正六年(一五七八)に上杉謙信公が没した後、二人の養子景勝公と景虎公が跡目を争った「御館の乱」が起こりました。
景勝公は、謙信公の軍事拠点の春日山城を、一方景虎公は政治拠点の御館を占拠して戦ったのでしょう。
翌七年三月、景虎公のたてこもる、ここ御館が景勝公の総攻撃を受けて落城。景虎公は妙高市の鮫ヶ尾城で自害。二年にわたり越後の国を二分した争いは、御館の落城と景虎公の自害により幕を閉じました。この時、至徳寺などの名刹や府中の六千軒が焼けたと伝えられています。
この争いの中でめざましい働きを見せたのが景勝公の重臣、樋口与六(ひぐちよろく)、後の直江兼続公です。この戦功により兼続公は奉行に取り立てられ、上杉家の中で重要な地位を占めるようになりました。
御館跡の発掘調査では、鉛や青銅製の銃弾のほか、武具や刀剣等が見つかりました。ゆがんだ銃弾は、御館の乱で実際に発射されたものといわれ、攻防の様子を今に伝えています。
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