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伊那市伊那部(地図)に残る旧三州街道(伊那街道)の宿場町。
太平洋沿岸部から信州へ運ばれる「塩の道」として知られ、多くの旅人が行き交いました。
(写真:宿場南枡形に建つ伊那部宿の案内=16日撮影、640×480拡大可能)
<参考資料> 伊那部宿の由来
伊那部宿は伊那街道の中で飯田城下と塩尻の中間に位置し東は高遠城下、西は権兵衛峠を越え木曽へ通じる交通の要衝であった。天竜川右岸の第一段丘に位置し、南北三三〇mの直線の町並みである。その初見は天正十九年(一五九一)太閤検地帳に十六軒の町並みが記されている。
この宿場の特徴は春日城・春日神社などが宿場と接続していることからその一画と見なすことができる。春日城の築城は発掘調査などから、室町前期から南北朝時代にさかのぼるといわれ、同宿はこの城及び神社と常に深くかかわってきたものと思われる。
また宿場の南端にある尾花ヶ崎は、南北朝時代宗良親王が遠征の途次この地に立ち寄られ、桜花に感嘆し次の歌を詠まれたと伝承されている。「散らぬまま 立ち帰るべき道ならば 都のつとに 花も折らまじ」。また戦国時代武家屋敷の伝承があり、更に天明四年(一七八四)伊那部宿に逗留した菅江真澄は「尾花ヶ崎は桜の名所であり県の御司が毎年訪れた所」の一語を残している。なお宿場の背後の台地には伊勢並古墳群があり、一帯は古代遺跡の宝庫でもある。
江戸時代中期頃には宿場も整備され、本陣・問屋は勿論のこと街路の中央に角川が流れ、柳や樫などが植えられ、旅籠の他に酒屋・薬屋・荒物屋などがあり、中央に髪結いと銭湯があった。明治時代に入り最初に郵便局が置かれたのもこの地である。また明治二十四年八月登山家ウェストンは木曽から西駒ケ岳を一日で踏破して伊那部宿に泊っている。
明治二十七年に開かれた三州街道が下段に開通したため、当宿場町は完全な形でのこった。宿場機能を果たす多くの遺構が残る「伊那部宿」は江戸時代の形態を今に伝えるものとして県下でも貴重なものである。 (伊那部宿の案内板から)
旧三州街道 伊那部宿 (7月16日) | |
伊那部(いなべ)宿の配置図 | 宿場町の面影を残す町並み |
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