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121103_1128_高遠大橋から撮影した高遠城址公園の紅葉(伊那市)

写真は、伊那市高遠町の国道152号線・高遠大橋(地図)から撮影した高遠城址公園の紅葉の様子。春の迫力ある桜の風景も素晴らしいですが、秋の紅葉も見事な限り。
高遠城址公園では11月1日から高遠城址の秋まつり(11日まで)が開催されており、3日と4日には国道361(山麓一)号線に伝わる麺文化の味を体験する「山麓一の麺街道フェスタ2012 in 伊那」が行われました。
周辺の紅葉情報については、伊那市観光協会のホームページをご覧ください。
(写真:高遠大橋から望む紅葉の高遠城址公園=3日撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 伊那市観光協会
  http://inashi-kankoukyoukai.jp/
・ 山麓一の麺街道フェスタ2012 in 伊那
  http://inashi-kankoukyoukai.jp/361menkaidou/


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120721_1223_六道地蔵尊(伊那市)

伊那市美篶の六道原(地図)にある地蔵尊。小野篁が造った六地蔵を、平清盛が全国六ヶ所に祀ったもののひとつが安置されたものと伝えられています。現在は毎年8月6日に地元の人々がここに祀り例祭が営まれています。
(写真:六道原にある六道地蔵尊を祀る堂宇=7月22日撮影、640×480拡大可能)

<参考資料> 六道地蔵尊由来
人皇七十七代後白河天皇保元元年(一一五六)山城大善寺成り、京都五条建仁寺の傍らなり診篁寺(案内)に詣で昔小野篁(たかむら)が此所より「冥土に行きて帰えれり」と伝えられ、六道の辻と称せり。篁が造りし六地蔵を大善寺の本尊となす。保元二年、平清盛この信仰により之を六ヶ所に分置してまつりしを六道地蔵の創めなりと伝えらる。内一カ所は信濃国伊那笠原の庄安達篠原笠原の牧に堂宇を建て是に一体を安置し給うと。境内には大樹古木繁栄し、四方に高き土堤を築き古塔古碑多き中に四方開放の堂宇なれば平常は上川手下川手両村に於いて隔年地蔵尊を宇衛し奉り、旧暦七月六日の祭日に及んでこの堂宇を遷し奉り仏祭を厳修す。明治維新前においては、旧高遠藩より各年御出役も有え、両区長役場、老年会、青年会参加の上、爾来永くこの仏祭を厳修す。 (案内板から)


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120721_1213_漂白の俳人・井上井月の墓(伊那市)

明治時代に伊那谷を中心に放浪生活をおくり、後の芥川龍之介や種田山頭火にも影響を与えた俳人。越後長岡藩出身という説があるものの、詳細は不明。平成23年には、井月の生涯を追ったドキュメンタリー映画・ほかいびと(監督:北村皆雄)が公開されました。井上井月の墓は、市内美篶(地図)に残されています。
(写真:井上井月の墓=7月21日撮影、640×480拡大可能)

<参考記事>
安政5年(1858)ごろ、さすらいの俳人と言われた「井月(せいげつ)」がふらりと伊那の現れました。本名を井上克三(いのうえかつぞう・説)、越後(新潟県)長岡の武家の生まれらしい(俗説もあり)というほか素生はわかりません。伊那に現われたころは36歳前後、定住することをきらい俳諧に志ある人々の家を二泊三泊、あるときは野宿をしながら上伊那各地を渡り歩き約1700の俳句などを残しました。
年を経るに従って風体も乞食同然となり「乞食井月」と呼ばれました。
こんな話があります。「ある冬のこと、井月があまりにも寒そうな格好をしているので古い綿入れ羽織をあげた。二、三日して井月を見るとその羽織を着ていない。わけを尋ねると井月曰く、…乞食があまりにも寒そうなので着せてやった…」残された多くの逸話がその人柄を偲ばせてくれます。
明治20年(1887)ここ美篶大田久保に没しこの地に葬られるまで彼のさすらいの旅は続きました。後年、芥川龍之介は井月の書を「入神と称するをも妨げない」と評していますが、俳人・書家としてその才能の高さは今もなお多くの井月ファンがここを訪れることがそれを物語っています。

伊那市内各所に残る井月の句碑
旅人の我も数なり花ざかり (手良中坪区 清水庵)
落栗(おちぐり)の座を定めるや窪溜(くぼだ)まり (美篶大田久保 農道沿い)
何處(どこ)やらに鶴(たづ)の聲(こえ)聞く霞かな (美篶 六道の堤)

墓石には「降るとまで人には見せて花曇」と刻してありましたが、今は摩耗して確認できません。 (以上案内板から)

<参考HP>
・ 井上井月顕彰会
  http://www.seigetsu.org/
・ 井上井月顕彰会公式ブログ
  http://blog.livedoor.jp/inoueseigetsu/


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120721_1255_犬房丸の墓(伊那市)

伊那市西春近の常輪寺境内(地図)にある犬房丸(工藤大和守祐時)の墓。
歴史に残る曽我兄弟の仇討ちのため討たれた工藤左衛門尉祐時(くどうすけつね)の嫡男が犬房丸で、仇討後の対応に不備があったことを源頼朝に咎められ、信州伊那へ流罪となりました。伊那では善政に務め、四十八歳でこの地に葬られました。 (写真:常輪寺にある犬房丸のお墓=21日撮影、640×480拡大可能)

<参考資料> 犬房丸公の墓~工藤大和守祐時公~
鎌倉時代、右大将源頼朝公の幕下、建久四年(一一九三年)五月二十八日、富士の裾野において曽我十郎(※祐成)・五郎(※時致)の兄弟の為に討たれた工藤左衛門尉祐経公の嫡男が犬房丸公である。
源頼朝が富士の裾野で巻狩りをおこなった折、父の仇工藤祐経を討つことができた曽我兄弟だったが、兄十郎はその場で討たれ、弟五郎は捕らえられて頼朝の面前に引き出された。その時居合わせた祐経の子犬房丸(その時は九才)は父が殺された悲しみのあまり、五郎のみけんを扇で打ち付けた。
ところが、頼朝は武士として捕らわれの身にある者を討つことを強く咎め、この信州の伊那の地に流罪とした。
しかし、犬房丸は幼少だったので、養育のため少数のお伴の家臣を遣わされ、狐島・殿島・福島・青島・小出島・大島の七島の地を与えられた。当初は狐島に住み政治に努めたが、度重なる三峰川の氾濫のため、持参したお守りの三宝荒神の彫像をこの地に納め、小出の東方へ館を造って移った。
そして十八才の年、家臣たちの勤めにより元服し名実ともに家臣や地域の住民たちの主となった。名前も幼名犬房丸から工藤祐時と改めた。
その後は近郷の田畑を開き、農業の振興に尽くした。又、深く仏門に帰依し、東方に大通寺という古寺を再建して大通寺常輪寺と名づけた。さらに華厳釈迦牟尼仏を安置し、建仁二年(一二〇二年)鎌倉から弁宗禅師を招いて開山すると、これが幕府にも知れ、時の執権北条泰時より流罪を許されて従五位大和守に任ぜられた。それからは工藤大和守祐時と名乗り、民政に励み人々の信頼を集めたが、貞永二年(一二三二年)六月二十六日四十八才で卒去るした。
大通院殿覚翁常輪大居士といん(※環境依存文字)号を受け、遺命によりこの地に葬り塚を築き塔を建てた。 (轉法山 常綸寺設置の案内板から)


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120512_0722_伊那小沢のシバザクラ(伊那市)

伊那市小沢の広域農道沿いにある花公園に咲くシバザクラの様子。
(写真=12日午前撮影、640×480拡大可能)


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