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松本市上波田(地図)にある慈眼山若澤寺の遺構。
昭和28年8月29日指定。
(写真=16日撮影、640×480拡大可能)
<参考資料>重要文化財 田村堂
この田村堂は、今は廃寺となってしまった若澤寺の一宇であった。建築年代は明らかでないが、元来、厨子として作られたものと見られ、形式手法から室町時代末期と推定される。
完成当時は総金箔塗であり、斗きょう・軒廻りの構造や扉両小脇板・蹴込などの花狭間・輪違紋などから華麗な厨子であったと想像される。江戸時代末期に発刊された「若澤寺一山之略絵図」には境内の最奥部に田村麻呂を祀る神祠(しんし)として描かれており現在も堂内には、田村将軍の座像が収められている。若澤寺が明治初年に取り毀された際、現地へ移され、昭和十二年重要美術品に認定され。昭和二十八年重要文化財の指定をうけた。その後屋根などの破損が進んだため、昭和四十年解体修理を行い建築当初の形式に復元された。
慈眼山若澤寺は現地より二キロメートル程山へ入った水沢山の地にあり、寺伝によれば天平勝宝年間僧行基の創建になり、大同年中、田村将軍によって再建されたと伝えられる真言宗の古刹であった。江戸時代末期には、末寺四ケ寺、寺域周囲三里半、金堂・中堂救世殿など七堂伽藍が建ちならび、その荘厳さは信濃日光と称され、本尊千手観世音は信濃二十五番の札所でもあった。さしものの大寺も廃仏毀釈(※)の政令に取り毀しの運命となり、仏像・伽藍はあとかたもなく近郷へ四散し、今、広大な寺域にはこけむした石垣・石仏などが残されて、往時の面影を忍ばせている。
(旧波田町教育委員会設置の案内板から)
※明治初年、当時の松本藩主戸田光則が明治新政府から謹慎処分を受けたことから、明治4年、信頼回復のため藩内にあった寺院の多くを廃寺(廃仏毀釈)にしました。若澤寺もそのひとつ。
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