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須坂市日滝の県道須坂高山線と広域農道との交差点北側(地図)にある古墳。昭和56年に発掘調査が行われ、多くの副葬品が発掘されました。
駐車場はなく、僅かに古墳北側に駐車できるスペースがあります。 (写真=22日撮影)
<参考資料> 本郷大塚古墳
この古墳は昔からこの地方の人々に畏敬の念をこめて護られて来た日滝原では唯一つの土を盛った大切な古墳であります。
日滝原一円の開拓が進んだ江戸時代にも膨大、数知れない日滝原古墳群の中で石積みの境塚古墳とともに須坂藩から公認されて課税をまぬがれ、明治時代に至っては日滝村に継承され、さらに戦後は社団法人日滝史蹟保存会を設立して先人の遺訓に応えるとともに将来、学術研究の資料として郷土の古代史解明に役立てるよう保存、保護になみなみならぬ力をそそいで来ました。
然るに須坂市は、広域農道の開設に当りこの古墳を破壊して道路にしようとしたのでありますが日滝史跡保存会はこの行政の仕打に反対し、奈良県立橿原考古学研究所、同県元興寺文化財研究所並びに県内外の機関、識者の深いご理解と指導によってこの古墳を後世に伝えることが出来るようになったのであります。
先人の熱意はもとより、本会の設立趣旨にも反し心苦しいことではありますがこのたび、古墳の東側五メートル余を道路敷に割譲しましたが玄室と周囲二メートルの配石遺構は原形を保守、築造当時周溝であったと考えられる周辺石積を修復して歩道としました。
昭和五十六年九月の発掘調査時には、墳丘は崩れ、天井石も中半失われ、奥壁も破壊されておりましたが基底部は原形を存し、大量の太刀、鉄鏃(=やじり)、馬具、玉類、鏡等が出土し副葬品の多いことは全国的にも珍しいと云われ、ことに圭頭太刀、三輪玉の出土は県下に類を見ないものとして学界の注目を集めております。
また人骨、馬の臼歯などの出土は今日まで全く解明されていない地方古代史の研究に重要な資料を提供することになりました。
人骨等は信大医学部解剖学教室の鑑定を経て再び玄室に埋葬し、その他の金属製品はX線写真撮影とアクリル樹脂含浸を施して永久保存に万全を期し、一括して須坂市立博物館に展示して学術研究に資するとともに広く一般市民の学習に供しております。 (社団法人日滝史蹟保存会設置の案内板より)
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須坂市坂田(地図)の鎌田山に弘化2年(1845)に築窯された須坂藩直営の吉向焼の窯跡。須坂藩第11代藩主堀直格(「ふるさと須坂」によれば第12代堀直武)により招聘された吉向行阿と一朗父子がここで9年間作品を創作しました。しかしながら、須坂藩の藩財政はさらに逼迫し、借金6000両(「ふるさと須坂」より)の赤字を出して嘉永6年(1853)に廃窯となりました。
窯跡前に駐車場あり。ただ、周辺にマムシが出るとの看板がありましたので注意のこと。 (写真=21日撮影)
<参考資料> 史跡 吉向焼窯跡
須坂藩第十一代藩主堀直格は、多くの藩主のお庭焼を指導した陶工吉向行阿(ぎょうあ)父子を招聘し、弘化二年(一八四五)九月、お庭焼としてこの窯を開窯(かいよう)させた。
窯は、紅翠軒窯(こうようけんよう)と名づけられ、嘉永六年(一八五三)までの約九年間吉向によって、陶器から磁器まで茶陶を中心とした多彩な作品が製作された。
吉向焼廃窯(はいよう)の後、後窯を利用して弟子の手で日用雑器の「須坂焼」が焼かれ、また現高山村には、「藤沢焼」が開窯された。さらに「松代焼」にも、大きな影響を与え、北信濃の陶業に新たな息吹が吹き込まれた。 (須坂市教育委員会設置の案内板から)
<参考資料> 吉向焼窯跡
須坂藩主第十一代直格が藩の財政再建のため、吉向行阿・一朗父子を招いて、弘化二年(一八四五)から九年間お庭焼きをした窯跡。
窯の形式は山の傾斜面を利用して、窯室を連続させた「登り窯」で一部を発掘して復元されている。
吉向は地元の土、陶石も探索して、茶道具など楽焼から陶器・磁器に至るまで創作した。芸術性が高く庶民には販路が広まらず藩財政再建にならないまま終わった。
窯跡発掘後、坂田山麓に遊歩道が開かれ、桜が見事に咲く。
<参考資料> 吉向本焼窯跡
須坂藩主第十一代藩主堀直格公は著名な「扶桑名画傳」の著者であると共に諸芸に通じ、石州流家片桐石見守貞信公と親交があった。当時片桐公に仕えていた初代吉向行阿は仁清以来まれに見る陶匠であった。直格公は貞信公に請いこの吉向を須坂に招いて製陶にあたらせた。
吉向は初め弘化元年(一八四四年)六十一歳の時須坂へ来て築窯の地を選び、一旦江戸に帰り、翌弘化二年(一八四五年)二代一郎と共に十一人の弟子を連れて再び来須し、約三カ月を費やして窯を築き紅翠軒と号した。窯の構造は登り窯で、間数は拾間あり全長四十米外側八米に及ぶ県下随一の大窯であってこの開窯にあたっては盛大な窯祭が行われた。
吉向は此処で嘉永六年(一八五三年)まで九年間製陶に従事したが、藩の経済事情や藩主の隠居等の事もあって遂に江戸に去らねばならなかったことは吉向のためにも又須坂のためにも洵に残念なことであった。
<参考資料> 吉向焼登り窯
吉向焼窯は江戸時代末期に須坂藩第11代藩主堀直格(ほり・なおただ)公の招きにより、陶工吉向父子が陶器類を焼いた登り窯です。
ここに一部を復元した窯は、吉向焼窯の基本構造を示す登り窯です。当時の吉向焼窯は焼成室がいくつも連なった大規模な窯でした。
登り窯は斜面を利用しているため、下から上へ勢いよく炎が上がって行き、1,200度以上の高温が得られる構造になっています。このため、硬い焼き物を作ることができます。このような登り窯は現在でも使われていますが、技術が難しいために少なくなっています。 以下略 (須坂市教育委員会設置の案内板から)
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須坂市八町(地図)にある県指定史跡の古墳で、昭和32年8月に発掘調査が行われました。1号墳から発掘された水字貝(すいじがい)釧片は、もともと水字貝が沖縄や台湾などの東シナ海に生息するものであるため、須坂にもたらされた理由を考えると大変貴重な発見だったといわれています。また、2号古墳から発掘された帯金具の文様には「獅子噛み文」があり、これは朝鮮半島などで発掘例があることから、半島からこの地に住んだ渡来人との関係をしのばせるものとして貴重な発見だったということです。
古墳周辺は整備されており駐車スペースがありますので、ゆっくり古墳を見学することができます。 (写真=22日撮影、640×480拡大可能)
<参考資料> 八丁鎧塚第1・2号古墳
鎧塚古墳群は、鮎川古墳群のほぼ最上流部に位置し、現在は6基で一群をなしています。
1号古墳は直径25.5m、高さ2.5mでスイジガイ釧片(くしろ)ゴホウウラガイ釧片、碧玉製石釧片(へきぎょくせいいしくしろ)、勾玉、ガラス小玉等が出土、4世紀後半の古墳と推定されています。
2号古墳は直径25.5m、高さ3.5mで、南側に張り出した部分があり、この時代の積石塚(つみいしづか)としては全国で初めて(張出付円墳)と確認されました。
また、(鍛銀銅製獅噛文銙=か板)と呼ばれる帯金具、家形埴輪片、朝顔形埴輪片、円筒埴輪片、人物埴輪片等が出土し、5世紀後半の古墳と推定されています。
6号古墳は直径12.5mで6世紀中頃の葺石工法で造られた古墳と推定されています。
日本の代表的積石塚として、また貝釧が東シナ海原産の貝であること、帯金具の文様が朝鮮半島出土のものに似ていることなど、大陸文化の影響を色濃く示しておりたいへん重要な意味を持っています。
出土品は須坂市立博物館で保管・展示しています。
<参考資料> 鎧塚第6号古墳
この古墳は、平成6年の1・2号古墳範囲確認調査で偶然確認されたもので、直径は約12mあります。
古墳の一番裾、最下部の石積が発見され、一緒に円筒埴輪片、土師器片が古墳の外側に当たる部分からまとまって出土しました。
この古墳は1・2号古墳とは異なり中心を土で盛り、その上に石を葺いた工法の古墳であることが特徴です。
鎧塚1号古墳から約1世紀以上の築造ですが、1・2号古墳の狭い場所に、しかも南北に並ぶように築造されていることは、埋葬された人を考える上でたいへん興味深いことです。
この古墳の埋葬施設は失われていますが、明治時代いこの古墳の中心部と思われる部分から、”板石をはこびだした”という言い伝えがあり、石館は板石で造られた”箱式石棺”だった可能性があります。
<参考資料> 箱式石棺
この石棺は、鎧塚第2号古墳の南側張出部に設けられたもので、長辺に板石6枚を短辺に各1枚で箱形に組み立てられ長さ2m50cm、幅約50cmの大きさです。
石棺底にも西側では平らな川原石を2枚、東側では平らな板石を2枚敷いています。
また、石棺の内部からは遺物は出土していません。
築造当所(原文まま)はこの石棺の上に板石で蓋されていたと考えられます。
古墳の周りに石棺を設け、埋葬する例はたくさんありますが、この石棺は2号古墳から南に延びる張出部分に東西に造られていて、2号古墳本体に埋葬された被葬者との関わりはたいへん深かったことがうかがわれます。
また、この石棺の発見は、2号古墳の埋葬施設を知る手がかりになります。
左から2号・6号・1号古墳 | 箱式石棺(中央) |
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信濃源氏の祖井上氏が11世紀頃構えた居館跡(地図)で、当時は四方に水濠を巡らしていたとされています。現在は道路となっており、近くに井上氏居館跡の案内板が設けられています。 (写真:居館跡付近=18日撮影)
<参考資料> 井上氏居館跡
井上氏の祖は清和源氏源頼信の第三子頼季であるが、頼季は京に官仕していた。その子満実に至って十一世紀後半、信濃高井郡に入国した。信濃に最も早く入ったので、井上氏は信濃源氏の祖とも言われる。満実はこの地に入って井上氏と称したが、史料の最初はまず戸隠寺を経営した事である。井上氏の氏族的伝統は、仏教文化と関係が深いが、これは満実の戸隠入部の影響であろう。井上氏は入国以来、高井郡南半にかけて十五の氏族を分出した。保科・米持・村山・高梨・須田氏などはその主なもので、その遺跡を後裔は今日もなお全国に広く残っている。この館跡は前面に大城・小城を、東方に竹の城を馬蹄形に配する扇の要に位置し、湧水線直線上にあって、西北方に展開する所領の水田地帯を掌握するに便である。ほぼ一丁四方(約百メートル四方)の回字形を成し、四周に水濠をめぐらしていた。古代以来の豪族居館の例によって、裏鬼門の西南の角を欠く入角(いりずみ)になっているのも注目される。信濃入国以来この居館跡の位置は動いていない。井上氏はこの東国、西国の各地に現存し、仏教文化の面では、特に臨済宗・真宗に名僧智識を輩出し、井上氏系教団は今日全国に展開している。 (案内板から)
<参考記事>
・ 井上氏墳墓
http://wingclub.blog.shinobi.jp/Entry/1179/
・ 角張屋敷跡
http://wingclub.blog.shinobi.jp/Entry/1167/
・ 井上城跡
http://wingclub.blog.shinobi.jp/Entry/933/
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上信越道自動車道須坂長野東IC近くにある(地図)県天然記念物に指定されている枕状溶岩の跡。 (撮影=18日撮影)
<参考資料> 井上の枕状溶岩
枕状溶岩は、枕のような丸みのある塊が、重なりあって固まった溶岩です。このような現象は、溶岩が水中に流れ出る際に、急激に冷やされることによって起こります。
この井上の枕状溶岩ができた時代は、今からおよそ二千万年前の大三紀中新世で、当時この一帯は海の中にあり、かなり広い範囲で活発な海底火山が活動していたと考えられます。その後の地殻変動によって海から隆起し、現在の陸地になりました。
このように、井上の枕状溶岩は、長野盆地の生い立ちを考える上で、大変貴重な自然現象です。
なお、枕状溶岩は、県内では長野市大柳、丸子町(現在上田市丸子)大村川流域(町指定)、真田町(現在上田市真田)菅平口、安曇村(現在松本市安曇)の白骨温泉、上伊那郡長谷村(現在伊那市長谷)などに見られるだけです。 (須坂市教育委員会設置の案内板から)
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