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100919_1128_すこうぶどう祭り2010(須坂市)

須坂市高畑のAコープすこう店「アグリス」特設会場(地図)で19日、恒例のすこうぶどう祭り(主催:JA須高ぶどう部会)が開催され、大勢の家族連れで賑わいました。
会場内のテントでは、巨峰を中心とした須高産のぶどうを販売。試食をしながら、お目当てのぶどうを買い求める人たちで列ができたほか、ぶどうの粒当てクイズでは、かごに盛られたぶどうの粒数を数える人たちが輪を作っていました。
また展示会場では、話題の「ナガノパープル」(長野県果樹試験場が育成・「巨峰」と「ロザリオビアンコ」を交配)と、新品種のぶどう「シャインマスカット」(農業・食品産業技術総合研究機構 果樹研究所が育成・「ブドウ安芸津21号」と「白南」を交配)が並べられ、訪れた人たちの注目を集めていました。 (写真:ぶどうの粒当てクイズのため、かごに盛られたさまざまなぶどう=19日撮影)

<参考HP>
・ JA須高 (須高農業協同組合)
  http://www.ja-sukou.iijan.or.jp/


すこうぶどう祭り2010
100919_1136_すこうぶどう祭り2010(須坂市) 100919_1132_すこうぶどう祭り2010(須坂市)
ナガノパープル 新品種・シャインマスカット


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100723_2040_2010須坂みんなの花火大会(須坂市)

須坂市の百々川緑地で23日夜、須坂みんなの花火大会(主催:須坂市花火大会実行委員会)が開催され、地元協賛企業や須坂市民の募金により寄贈された花火が夏の夜空を彩りました。 (写真:ビックワイドスターマイン『須坂の夜空に満点の華』・須坂市民寄贈=23日撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 須坂商工会議所
  http://www.suzaka.or.jp/


100723_2020_2010須坂みんなの花火大会(須坂市) 100723_2034_2010須坂みんなの花火大会(須坂市)
第23回須坂みんなの花火大会


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100504_1520_須坂藩館鐘楼(須坂市)

須坂市の奥田神社(須坂藩館跡)に残る鐘楼。もともとは藩館北西隅にありましたが、大正時代に移築され現在に至っています。 (写真=4日撮影)

<管理人ひとこと>
奥田神社(須坂藩館跡)の奥にひっそり残されている鐘楼。江戸時代に建てられた貴重なものですが、よほど歴史に詳しい方でなければ、ここにこうしたものが残されていることすら知らないのではないでしょうか。簡単に移設することなど難しいかもしれせんが、例えば長野電鉄の須坂駅前など、目立つ場所に移して、「蔵の町」としてのイメージ造りに役立てたり、大晦日に鐘をたたいたりする(除夜の鐘)ことができれば、注目を集めるように思うのですがどうでしょうか。

<参考HP>
・ 須坂市ホームページ
  http://www.city.suzaka.nagano.jp/
※ 各課別>市民共創部 生涯スポーツ課>須坂の歴史と文化 ライブラリー

<参考資料> 時の鐘の「鐘楼」
須坂藩時の鐘は、第八代藩主堀直郷(ほりなおさと)公が天明二年(一七八二)に造り、第九代藩主堀直皓(ほりなおてる)公が鋳なおして、鐘楼を館の北西隅の現在の浮世小路入口付近に建てたと伝えられています。大正初年、鐘楼は現在地に移されましたが、部材の程度から、建設当時のものと考えられます。
なお、百六十年余り時を告げた鐘は、第二次世界大戦で供出されてしまましたが、平成十二年十月に新たな鐘が寄贈され、半世紀ぶりに「時の鐘」は復活しました。 (須坂市教育委員会設置の案内板から)

<参考資料> 史跡 須坂藩館跡
須坂藩は一万石の小大名でhしたので、城ではなく館を構えました。
須坂藩の館は二代藩主・堀直升(ほりなおます)によって元和三年(一六一七)に築かれたといわれています。敷地はこの奥田神社付近を中心に、須坂小学校や須坂東高校前の通りまでを占めていました。十四代藩主・堀直明(ほりなおあき)のときの版籍奉還の後、東京鎮台の所轄とない明治五年に廃城となりました。
現在当時の面影を残すものは、須坂小学校北側の石垣だけとなっています。 (須坂市教育委員会設置の案内板から)

<参考資料> 奥田神社 由緒
祭神は、直重大明神、直虎大明神の二柱を祭る。
初代須坂藩主堀直重公は、慶長三年十四才、初めて徳川秀忠に出仕、同五年、上杉景勝討伐、従軍の功によって、下総国香取郡矢作(千葉県佐原市)に弐千石を賜る。慶長十五年信州高井郡の内に加増あって、八千石となる。
慶長十九年大阪冬の陣、元和元年夏の陣に、いずれも抜群の殊勲あって凱旋、四千五十石加増されて、信州須坂十三ヶ村および下総国矢作の地、総計壱万弐千五十石余を領す。よって、元和元年八月、領内初巡視並びに陣屋築造のため入国、普願寺に、仮陣屋を設け、家臣を留めて矢作に帰り、元和三年六月、下総国に於いて病歿す。墓所は、佐原市香取町新福寺にある。
十三代藩主堀直虎公は、文久元年十月、二十六才の時、兄直武の後をうけて封を襲ぐ。時に、河野、野口等の権臣跋扈(※ばっこ)して領内疲弊の極に達す。茲に於いて家督するや、大英断を以て、野口等四十余名を追放して、藩政を改革し、又、人民の貧苦を救うため、一年間の納税を免除し、拝借金全部を惠与するなど、仁政を施した。又、直虎公は夙(つと)に洋学を志し、旧来の兵制の恃ぬに足らぬを察して、全藩洋式に改め、英式を採用、甲冑弓槍を売却して、銃器や洋服を購入した。
慶応三年、三十二才の若さをもって、幕府の要職、若年寄兼外国奉行の要職につき、藩政に参与された。時、恰(※あたか)も、幕末に際し、尊王攘夷開国の世論が沸騰し、議論定まらず、騒然たる国情の中にあって、公は毅然として、尊皇の大義により、将軍徳川慶喜に断乎、恭順の意をすすめたるに、その議は容れるところとならず、遂に、公は憤然として、江戸城に於て自刃し、その赤誠を表明、以て、維新開花の礎石となられたのである。時に、慶応四年一月十七日のことである。
直虎公の墓は赤坂の種徳寺にあり、臥竜山に霊廟が建てられている。
文久より慶応年間に渉った其の治教徳政を歓迎し、明治十三年十一月奥田神社を建立した。 (宗教法人奥田神社設置の案内板から)

100504_1526_須坂藩邸鐘楼(須坂市) 100504_1525_須坂藩館図(須坂市)
奥田神社(須坂藩館跡) 江戸時代末期の藩館図
「藩館図」はクリックで拡大





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100501_1507_井上氏墳墓(須坂市)

須坂市井上(地図)に残る中世豪族・井上氏の墳墓跡。 (写真=1日撮影)

<参考資料> 井上氏墳墓
ここ土栗集落内には、在家(ざいけ)と呼ぶ地籍が今も残っている。在家とは、中世の居住地を指すことが多い。つまりこの辺り一帯は、中世井上氏関係者の居住地であったと言えよう。
中世の豪族の墓は、屋敷内に設けることが多かった。明治の初年にこの辺りを開墾した時、散乱していた墓石を集め、塚を築いて祭ったものがこの墓地である。各種の宝筐(ほうきょう)印塔や五輪塔などが乱積みされているが誰れの墓であるかは不明である。墓石の材質や様式からして室町時代にさかのぼるものであり、井上氏関係の墓であることは疑いない。 (「井上歴史の道」設置の案内板から)

<参考資料> 史跡 井上氏墳墓
井上氏は須田、高梨、村山、仁礼氏の総本家といわれており、源経基の孫頼信(又は満仲)の子頼季より井上に居住し、その居館跡は県史跡に指定されている。この墳墓は井上氏中いずれのものかは不明であるが、比較的原型に近いものとされている。 (須坂市教育委員会設置の案内板から)

100501_1506_井上氏墳墓(須坂市) 100501_1507_井上氏墳墓(須坂市)
井上氏墳墓




<参考記事>
・ 角張屋敷跡
  http://wingclub.blog.shinobi.jp/Entry/1167/
・ 井上氏居館跡
  http://wingclub.blog.shinobi.jp/Entry/934/
・ 井上城跡
  http://wingclub.blog.shinobi.jp/Entry/933/

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100501_1505_角張屋敷跡(須坂市)

須坂市井上(地図)に残る角張浄阿の屋敷跡。近くの浄運寺は、この浄阿が鎌倉時代の建保2年(1214)に開きました。浄運寺のシダレザクラは、須坂市のさくら名所・名木30選に選定されています。 (写真=1日撮影)

<参考HP>
・ 須坂井上 浄運寺
  http://www.jounji.or.jp/

<参考資料> 角張屋敷跡
角張淨阿(かくはりじょうあ)は、源平盛衰記や法然上人絵伝などに登場する。浄土宗関係では重要な人物であり、法然開教当時は法然上人に常に従い身のまわりの世話をした。また、淨阿は信濃源氏の一族で、木曽義仲が京を目指して西上した時、井上氏軍団の中にあった。敗戦後は法然上人の教えを受けるようになった。
この屋敷跡は、角張氏累代の住居地であり、今も残る四周の小堰(こせぎ)は往時の水濠の痕跡と考えられる。角張氏の遺跡と子孫は、越後や関東など東国各地に散在するが、多くは戦国時代に移動したものである。ここ井上には、現在一戸だけ残っている。 (「井上歴史の道」設置の案内板から)




<参考記事>
・ 井上氏墳墓
  http://wingclub.blog.shinobi.jp/Entry/1179/
・ 井上氏居館跡
  http://wingclub.blog.shinobi.jp/Entry/934/
・ 井上城跡
  http://wingclub.blog.shinobi.jp/Entry/933/

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