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150816_1649_市指定文化財・高岡大仏(富山県高岡市)

富山県高岡市の鳳徳山 高岡大佛寺にある銅造阿弥陀如来坐像(地図)。
奈良・鎌倉とともに日本三大仏に数えられる高岡大仏は、幾度かの火災により焼失しましたが、明治年間に大仏再建のための事業に着手。高岡の工人・職人たちの手により、昭和8年(1933)、20有余年の歳月を経て完成しました。
お台座下の回廊には、高岡在住(昭和27年当時)日本画家制作による仏画のほか、明治33年(1900)の高岡大火により焼失した大仏の佛頭が安置されています。
(写真:高岡大仏=16日午後撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 日本三大佛 高岡大佛
  http://www.takaokadaibutsu.xyz/
・ たかおか道しるべ(高岡市観光協会)
  http://www.takaoka.or.jp/

<参考資料>
高岡市指定文化財
銅造阿弥陀如来坐像(高岡大仏)
高岡大仏は、坂下町極楽寺第十五世等誉上人が大仏建立を誓い、延享二年(一七四五)、木造金色の仏像を建立したのが始まりである。しかし、その像は文政四年(一八二一)に焼失、その後、天保十二年(一八四一)に再興されたが、これもまた明治三十三年(一九〇〇)の大火で焼失した。
現在の大仏は、篤信家の松木宗左衛門が大仏の再建を発願し、明治四十年(一九〇七)に造営事業が着手された。その後、中川原町の荻布宗四郎らの協力により、二十有余年の歳月を経て昭和八年(一九三三)に全行程を完了、五月に開眼式が行われた。昭和五十五年(一九八〇)に十一メートル後ろへ下がった現在の場所へ移転・補修された。
原型は中野双山(参考)。古式鋳造法である焼型重ね吹きの技法で、鋳造から着色に至るまですべての工程を高岡の工人・職人等の手で行った記念すべき大作である。
昭和三十三年(一九五八)に建戴された円輪光背には、阿弥陀仏の仏徳を一字で表現するキリークという梵字が頂点に拝されており、大円輪の光背がそびえる大仏尊は世に珍しく、奈良・鎌倉の大仏とともに日本三大仏と称されている。
(高岡市教育委員会設置の案内板から・平成10年)

<参考資料>
高岡市指定文化財 時鐘
150816_1648_市指定文化財・高岡大仏(富山県高岡市)
時鐘
江戸時代にはまだ時計が普及していなかったので町民に時刻を知らせる必要があった。それには規則的な生活を営み、共同社会の秩序を保ち、生産の能率を上げ災害を防止する上にも重要であった。
当時の高岡町奉行寺島蔵人は時鐘の鋳造を計画し藩の許可をえたところ、金屋町は前田利長以来の藩の厚い保護に報いるためその鋳造を願い出て文化元年(一八〇四)に出来上った。そうして九月十一日午前六時から二番町会所でつきはじめたが、間もなく鐘に割目が生じ改鋳にせまられた。
坂下町の鍋屋仁左衛門は、高岡鋳物の声価を傷つけたことを悲しみ、自ら多額の金品を寄付し、浄財を集め工人を督励などして文化三年(一八〇六)七月遂に見事な大鐘を完成しhた。
これがその時鐘で、口径百十二糎(センチ)、唇厚十八糎、高さ百九十七糎、重量二千二百五十瓲あり、鐘面一杯に皆川淇園の筆になる銘が刻んである。
以来朝夕高岡町民に親しまれてきたが、明治十二年以降数度の火災により移転され、その後大佛寺に寄付されて今日に致っている。
(高岡市教育委員会設置の案内板から・昭和46年)





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150816_1539_国指定史跡・櫻谷古墳(富山県高岡市)

富山県高岡市の雨晴海岸近くにある国指定史跡の古墳(地図)。
大正時代に行われた調査では、前方後円墳2基(5世紀初頭以前の築造)及び円墳7基が確認され、多数の遺物が出土しました。昭和51年と52年に行われた県道(現在は国道415号線)工事に伴う発掘調査では、新たに円墳1基が発見されています。
円墳7基については、戦時中の食糧増産のため畑地となり現存していません(昭和になって発見された円墳1基は道路に陸橋を架けて保存)が、前方後円墳2基については環境整備工事により公園内に保存され見学することができます。
(写真:国指定史跡 櫻谷古墳2号墳=16日午後撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 雨晴観光協会
  http://www3.nsknet.or.jp/~amaharasi/
・ とやま観光ナビ(富山県観光連盟)
  http://www.info-toyama.com/

<参考資料>
国指定史跡 櫻谷古墳(二基)
150816_1541_国指定史跡・櫻谷古墳(富山県高岡市)
前方後円墳1号墳
150816_1540_国指定史跡・櫻谷古墳(富山県高岡市)
櫻谷古墳案内図
古墳時代は、弥生時代に始まった農耕が、鉄器の普及、灌漑技術の発達、耕地の拡大などによって、農業生産が著しく向上し、大きな経済力と権力をもった地方豪族が現れた時代です。
古墳とは、弥生時代末期から奈良時代初期(三世紀末頃~七世紀初め)にかけて築かれたこれら有力豪族の墳墓であり、前方後円墳・円墳・方墳などの基本形があります。
桜谷古墳の発見は、大正七年九月、開墾のため、元諏訪社の老松の根を掘り上げた際、銅鏡一面と管玉十三個が出土したことに始まります。宮内省・内務省・県史跡調査委員会等の調査で、大正十三年までに前方後円墳二基と円墳七基が確認され、多数の遺物も出土しました。出土遺跡は、碧玉製紡錘車(糸をつむぐ道具)同石釧(腕輪)・管玉(数個を連ねて首飾などの装飾具にする)・仿製内行花文鏡(漢式鏡を模倣した銅鏡)・金環(耳環)・金銅製帯金具・刀・土師器・須恵器人骨などで、東京国立博物館、高岡市立博物館に保存されています。
円墳七基は、戦時中に食糧増産のため畑地となり、確認しがたくなりましたが前方後円墳二基は五世紀初頭以前の築造と推定され、規模の大きさや出土遺物の豊かさから、北陸を代表する古墳といえます。内部調査は行われていませんが、北陸地方の文化の発展を理解するうえで貴重な資料となっています。
この二基の前方後円墳を保存するため、昭和四十年から四十三年にかけて土地の買収と環境整備工事が行われ、史跡公園ができました。地元では桜谷古墳群保存会を結成して、史跡の清掃管理や、文化財の愛護活動につとめています。
なお、古墳の南側を県道(現在は国道四一五号線)が通過することになり、昭和五十一年から五十二年度に工事区域の発掘調査を実施したところ、新たに円墳一基(六世紀)と箱式石棺二基が発見されたので、遺構の上に陸橋を架けて保存しています。

第1号墳
全長62m
前方部:幅30m、高さ5.45m
後円部:径35m、高さ6m
第2号墳
全長50m
前方部:幅不明、高さ1m
後円部:径33m、高さ6m
(高岡市教育委員会設置の案内板から・昭和59年)





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150816_1557_雨晴海岸・雨晴岩(富山県高岡市)

富山県高岡市の雨晴海岸に残る義経と弁慶の伝説が残る岩(地図)。
(写真:雨晴海岸にある「雨晴岩」=16日午後撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 雨晴観光協会
  http://www3.nsknet.or.jp/~amaharasi/
・ とやま観光ナビ(富山県観光連盟)
  http://www.info-toyama.com/
  
<参考資料> 雨晴海岸と雨晴岩
150816_1602_雨晴海岸(富山県高岡市)
雨晴海岸
(海に浮かぶ岩は女岩)
二上山の山裾が富山湾に没するこのあたり一帯は、白砂青松と日本海では数少ない遠浅海岸の「雨晴海岸」です。
この岩の別の名を「義経雨はらしの岩」といい文治三年(一一八七年)に源義経が北陸路を経て、奥州下りの際ここを通りかかった時、にわか雨にあい、この岩の下に家来ともども、雨宿りをしたという伝説があり、亦近在する女岩、男岩と共にこの海岸は秀景をなし、かつ越中国司として伏木に在住した成年歌人大伴家持もこの絶景を多く万葉集におさめています。

 馬なめて いざ打ち行かな 渋渓の
 清き磯みに 寄する波見に

(高岡市観光物産課設置の案内板から)

<参考資料>
 磯上之 都萬麻乎平見者 根乎延而 年深有之 神左備尓家里
 (いそのうへの つままこみれば ねをはへて としふかからし かむさびにけり)
 磯の上の 都萬麻を見れば 根を延へて 年深からし 神さびにけり
 (大伴家持 巻十九-四一五九 天平勝宝二年(七五〇)三月詠

150816_1609_雨晴海岸・万葉歌碑(富山県高岡市)
万葉歌碑
この歌碑は、安政五年(一八五八)に太田村伊勢領の肝煎(村長)宗九郎が建立したとされ、高岡市では、最も古い万葉歌碑である。
宗九郎は、相当の学問があり万葉集にも関心が高く、特に、都萬麻(つまま)はタモノキであると推定し、一方のタモノキとこの碑を置いたとされるが、永年の風食により、碑の文字を判読するのは難しい。
都萬麻(つまま)は、クスノキ科の常緑高木で一般にタモまたはタブノキと呼ぶイヌグスのこととされている。老木は根が盛り上がり、神々しい姿となることから神聖な木として扱われることが多い。
「都萬麻」の歌は、家持が出拳(すいこ)のため旧江村(ふるえむら・現在の十二町潟南端辺り)に向かう途中、越中国射水郡渋谿の崎(現、高岡市雨晴海岸)の岩上の盤根を露出した見なれない大樹に驚き、なによりもまだ耳にしたことのない「都萬麻」の名に異郷の風土を感じ、詠したものであるとされている。
都から遠く離れた越中に国守として赴任していた大伴家持は、二上山塊の北東端であり、断崖となって海に没し、海面に点在する大小さまざまの岩礁に白波がくだける渋谿(しぶたに)の景観が、よほど鮮烈なものであったらしく、いくつかの賛辞の歌を詠じており、この歌もその中の一つである。曲がりくねった太い幹をぐんとどこまでも伸ばし、岩上にしっかりと根をおろして神々しい風情を帯びている「都萬麻」の木を見て、その根のように自分の生命の永遠を願うとともに、自分の眼前の渋谿の景観が未来永劫いつまでも続くように願ったのであろう。
(高岡市設置の案内板から・平成6年)





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150816_1224_中島閘門(富山県富山市) 150816_1228_中島閘門(富山県富山市)
中島閘門 下流部の閘門
150816_1230_中島閘門(富山県富山市) 150816_1232_1_中島閘門(富山県富山市)
上流部から見た運河(左)と操作盤(右) 
150816_1223_中島閘門(富山県富山市) 150816_1232_2_中島閘門(富山県富山市)
運河の説明(左)と建設中の運河の様子(右)

昭和初期に建設された富岩運河に設けられたパナマ運河式の閘門(こうもん)。
昭和9年(1934)に完成。建設当初の扉体等の老朽化により、平成9年(1997)から原形復元を基本方針に改修工事を進め、翌年復元改修工事が完了。同年、昭和の土木構造物では全国で初めて国の重要文化財(近代化遺産)に指定されました。
(写真:中島閘門=16日午後撮影、640×480拡大可能)

<参考資料>
国指定重要文化財 富岩運河 中島閘門
閘門の概要
中島閘門は、富岩運河の開削にあわせて設置され、運河上流に工場が誘致されたことから、当時の工業用原料を運ぶ船が往来するなど、運河のシンボルとして富山市の発展に大きな役割を果たしました。
この閘門は、運河の河口から約3.1km上流に位置(地図)し、およそ2.5mの水位差を二対の扉で調節するパナマ運河式の閘門で、ヨーロッパにおいては中世から近代にかけて発達した水運技術を取り入れたものです。
閘(こう)室・扉(ひ)室は、昭和初期の土木技術を用いた石組み、鉄筋コンクリート造りで地震に強い構造となっていおり、扉体は今では珍しいリベット接合(約15,000本)により造られています。
この他、この閘門は海と川との生物の接点となっており、下流側にはコノシロ、アユ、ボラ、ミミズハゼなどの海が遡上してくる魚が、また上流側ではメダカ、フナ、オイカワなど川からの魚が生息しています。
富山県では、平成9年から閘門の改修工事を進め、この度復元が完了しました。

(沿革)
昭和3年(1928年)
富山県の豊富な電力を活かした工業地帯を形成するため、富山港から富山駅北を結ぶ富岩運河計画が、富山市都市計画事業の1事業として認められた。
昭和5年(1930年)
県施工の運河事業として着工した。
(エキスカベーカーという蒸気機関の堀削機が2台投入された。)
昭和9年(1934年)
富岩運河、中島閘門完成。
平成元年(1989年)
富岩運河環境整備事業に着手。
平成10年(1989年)
建設当初の扉体等が老朽化したことにより、原形復元を基本方針として、64年ぶりに改修工事を行った。

(構造)
・閘門の形式:鋼製マイタゲート(合掌式)
・閘門の有効長:60.6m
・閘門の有効幅:9.09m
・閘失の深さ:6.27m
・閘失、扉室の構造
 天端および扉室まわり:石組み(花コウ岩)
 側壁・底部:コンクリート(一部鉄筋使用)

<参考資料> 富岩運河
①神通川の馳越線工事
富山市の中心部を流れる神通川は、明治の中頃まで、富山城の北側で大きく蛇行していたため、大雨のたびに溢れていました。
このため、オランダ人技師ヨハネス・デ・レーケの提案を受け、明治34年(1901)~36年(1903)神通川の蛇行区間の西側に、洪水を流す直線状の水路を建設し、川の流れを直線化する「馳越線(はせこしせん)工事」が行われました。
この水路は、洪水の時に自然の力を利用して少しずつ幅を広げていくもので、大正年間には、現在のように、完全に流れを移し替えました。
②富山都市計画事業と富岩運河
神通川の馳越線工事の結果、元の神通川はわずかに松川を残すのみで、広大な廃川地が富山駅と市街地の間に横たわり、都市の発展に大きな障害となっていました。
このため、昭和3年(1928)、東岩瀬港(現在の富山港)から富山駅北まで約5kmの運河を作り、運河を掘ったときの土砂で神通川の廃川地を埋め立て、新市街地を作る計画を作成しました。
「富岩運河」は、富山県ではじめて都市計画事業の一環として、昭和5年(1930)から建設を行い、昭和9年(1934)に完成しました。運河の建設により、運河に沿って、工業地帯が形づくられ、かつての神通川の跡地には、県庁や市役所などが建ち並ぶ、新しいまちが生まれ、富山の都心が形づくられました。
③富岩運河の危機と再生
昭和30年代半ばから、物流の中心がトラック輸送となってくると、運河の水運機能は失われ、水も汚れてきたため、一時は運河を埋め立てる計画が立てられましたが、その後、県はこれを見直し、まちなかの貴重な水面を保存・活用する方針へと転換しました。
昭和60年(1985)以降、汚れていた水をきれいにし、岸辺に散策路を設けるなど、富岩運河の保存・再生に取り組み、さらに使えなくなっていた中島閘門と牛島閘門を建設当時の姿に復元しました。
④運河のまち 富山へ
保存・整備された「富岩運河」は、現在、市民の憩いの場としてイベントを中心にさまざまに使われています。また、平成16年には、運河沿線の自治振興協議会を中心に「運河のまちを愛する会」が設立されました。
これからの「富岩運河」が、みなさんに親しまれ、にぎわいを生み出す場となり、「運河のまち富山」をして知られるようになることを目指しています。
(富山県富山港事務所設置の案内板から・平成17年)

<参考資料>
操作室の復原工事
本操作室は、昭和9年(1934年)の建設後、多年の風雪等により、建物内外の老朽化が著しかったことから、文化庁の助成と指導を得て保存修理を実施し、創建当初の姿に復原しました。
保存修理としては、創建当時の建物に復原することを基本に、外観の補修、基礎・木部の補修、屋根の葺き替え、建物の耐震補強(基礎・輪郭)に加え、後年、改造されたアルミサッシを木枠のガラス窓にするなどの工事を行い、平成22年(2010年)8月に完成しました。

操作室の特徴
・操作室は閘門内を監視できるよう3方向を大きなガラス窓にしています。また、外観は切妻屋根に着色した瓦で葺かれており、妻には破風板(注:妻面の合掌形の板のこと。棟木や軒桁を隠す化粧材。)・ガラリ(注:羽板を取り付けた換気を目的とする開口部のこと。)を付けて装飾、外壁はドイツ壁(注:モルタルを壁に叩きつけて定着させ質感のある仕上がりにした壁のこと。)・洗出壁(注:砂利などが壁表面に出るようにモルタルを洗い出した壁のこと。)とするなど、全体を洒落た構えとしています。
・閘門の操作や治水のため、24時間体制で管理できるよう和室や、当時としては珍しい内風呂が備わっています。
・創建当初の操作盤が現在もそのままの姿で残っており、黒色の重厚な大理石パネルに、尺度法で目盛りが刻まれています。

操作盤
この操作盤は、閘門扉と閘門室内の水位を調整するための通水扉を開閉させるもので、操作員は、開門側を向いて作業ができるように設置されています。
計器パネルは、上流。閘門室内、下流のそれおzれの水位を知ることができ、その下にある開・閉・停止スイッチにより上下流の閘門扉と通水扉をそれぞれ操作できます。
また、閘門とは別に右岸にある放水紋を操作するスイッチも設置されています。
この操作盤は昭和30年代まで使用されていましたが、その後、新しい操作盤を使用しています。

盤の大きさ:横幅1.818m、奥行き1.042m、高さ1.318m
構造:鋼製、パネルは大理石製
目盛:尺貫法





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150816_1158_環水公園(富山県富山市) 150816_1203_環水公園(富山県富山市)
150816_1201_環水公園(富山県富山市)
150816_1200_環水公園(富山県富山市) 150816_1204_環水公園(富山県富山市)
富岩運河環水公園

富山県富山市にある都市公園(地図)。
昭和初期に建設された富岩(ふがん)運河( Wikipedia )の舟溜まりを整備し、平成9年に富岩運河環水公園として開園しました。
(写真:富岩運河環水公園=16日午前撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 富岩運河環水公園
  http://www.kansui-park.jp/
・ 富岩水上ライン
  http://fugan-suijo-line.jp/
・ キュイジーヌ フランセーズ ラ・シャンス 
  http://www.lachance-ikk.jp/

<参考資料>
富岩運河環水公園は、とやま都市MIRAI 計画のシンボルゾーンとして、歴史ある富岩運河の旧舟だまりを都市の貴重な水辺空間として整備した親水文化公園です。全体面積9.7haの広大な水辺空間に、泉と滝の広場、天門橋、バードサンクチュアリなどがあり。県都富山市の新しいオアシスとなっています。公園の名称にある「環水」とは、富山湾や日本海とのつながり、還日本海へのひろがり、さらに地球規模の循環をイメージし、”めぐる水”の豊かさを表現したものです。また、この公園が都市のシンボルとして多くの人々に親しまれるとともに、水を通して人と人とのつながり、青海とのつながりが広がるようにとの願いがこめられています。

富岩運河の歴史
1.長い間、神通川は富山市街地で大きく蛇行しており、洪水の原因になっていました。
2.県は、明治34年から洪水対策として川を直線化する工事を進め、その結果、もとの河川敷(図黄色部)が残りました。
3.県は昭和3年、近代都市富山にふさわしいまちづくりをめざし、3つの都市計画事業を決定しました。
・富山駅北から東岩瀬港まで運河を建設し、水運の便を開き、沿岸に工場を形成する。
・運河を堀削した土砂で、もとの河川敷を埋め立てて区画整理を行う。
・関連する街路を建設する。
というものです。富岩運河は、昭和10年に完成し、富山市の発展に役立ちました。
4.昭和30年代半ばから物流の中心がトラック輸送となり、水運の機能を失い、水も汚れてきたことから、一時埋立てる計画もありましたが、昭和50年代後半に、まちの中の貴重な水面として残し、活用することとなりました。
(富山県設置の案内板から)





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