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「ネマガリダケ」を求めて訪ねたのは収穫の最盛期を迎えているという上水内郡信濃町。最近、テレビで信濃町の「ネマガリダケ」事情について放送されたそうで、テレビを見ていた家族が連れてってほしい、とのことから、それではと、農産物の販売がある道の駅しなの ふるさと天望館を訪ねてみました。
しかし…。残念ながら、早朝入荷になったものは完売。午前11時を過ぎてようやく2箱ほどの入荷がありましたが、写真を撮影している最中にも訪れた観光客が次から次へと買い求め、あっという間に売り切れてしまうほどの人気ぶりでした。
ここ信濃町でも、今年はネマガリダケの生育が遅いようで、収穫に苦労されているとのこと。保存ができない山菜なので、偶然にも手に入れることができたらホントに幸運、と思ったほうが良いのかもしれませんね。 (写真=19日撮影)
<参考HP>
・ 道の駅しなの ふるさと天望館
http://www.michinoeki-shinano.jp/
・ 信濃町総合情報センター
http://www.dia.janis.or.jp/~info-shinano/
道の駅しなの ふるさと天望館 (6月19日) | |
店頭にずら~り並ぶ「ほうれん草」や「フキ」 | |
信濃町産「とっくり芋」 | 入荷した「ネマガリダケ」1つ500円 |
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上水内郡信濃町平岡(地図)に咲く原のシダレザクラ(閑貞桜・かんていさくら)の様子です。
このシダレザクラは、県の天然記念物にも指定されている古木で、江戸時代、この地に庵をむすんだ旅僧閑貞坊が手植えをしたものと伝えられ、別名「閑貞坊」と呼ばれ親しまれてきました。
しかし、近年は樹勢が衰え、平成18年に日本樹医会長野県支部と地元保存会の協力により治療が施されました。その後、花を咲かせるための力を生育にまわすため、つぼみを摘み、花を咲かせないようにしていましたが、平成21年春はつぼみも少なくなったことから花を咲かせいます。
満身創痍の姿は忍び難いものがありますが、長く厳しい冬を越え、春になれば可憐な花を付け続ける古木の姿は訪れる多くの人々の心を打ちます。 (写真=3日撮影、640×480拡大可能)
山桜 花の主や 石仏 一茶
<参考HP>
・ 信州 信濃町観光協会
http://www.shinano-machi.com/
・ 寿化工株式会社
http://www.kotobukikakou.co.jp/
・ 藤牧造園樹木医事務所
http://www.jumokui.co.jp/
・ 原の閑貞桜
http://homepage2.nifty.com/kantei-sakura/
<参考資料> 閑貞坊の由来記
今は亡き古老の伝説に閑貞坊は身の丈六尺余にして筋骨たくましく豪力だったという。もとよりのお坊様でわなく由井正雪の孫にあたり丸橋忠弥の一党で倒幕の一味といわれたり、時の幕府のおとがめを受けひそかに身を隠せりと、元禄十四年赤穂浪士が主君の仇を討ち泉岳寺に引き揚げの際酒屋の奉公人の身でありながら四斗樽を振舞したとか、享保の初め幕府の目きびしく江戸をのがれ信州路に入り放浪の旅をつづけ享保の中頃今の長野市内西和田村禅宗雲照寺光尊住職の門を叩き佛門に入り弟子となる。書をよくし近くの子弟を集め手習師匠をなせりと享保十年頃雲照寺を去り浪々の末原村にとまりたり。その折光尊住職の送証文持参す。時享保十四年五月なり享保十八年十月原村百姓懇談し閑貞坊御方に観音様御地を東西六十間南北四十間二千四百坪堂宇建立地その他を含め年貢六斗四升七合三勺にて寄進す。これら二通の古文書現存し共に二本松春治氏所蔵す櫻の木はその頃植えられたものと考えられ今より凡そ二百四十年前のことなり。その頃御料村無量寺に寄寓せらることもあると言われ五六貫匁っもある呼板を首にかけ托鉢をなせりという。夜お堂に妖怪が出没す閑貞坊泊まりこみにて数匹のてん、むじな等を退治し村中を引ずり廻し村人を驚かせりと、或る時信州中野方面に托鉢その折すべり草にこしょうをかけて喰って死せりと、時宝暦八年六月の事二十八年間原村に在住何才にて亡くなったかわ不明なり。閑貞坊の墓石今尚現存す。孤独の一生を偲れるが毎年美しい花を咲かせ多くの人々の目を楽しませ今に子供達に口ずさまれる歌に、原のはずれの閑貞櫻花は咲けども実がならぬ。幾百年も今の姿でこの花を咲かせたいものです。 (原文まま、設置されている案内板から)
黒姫山を背景に咲く閑貞桜 | わずかに咲く花 |
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上水内郡信濃町にある大久保池(地図)では、ミズバショウが満開となり見ごろとなっています。 (写真=3日撮影)
<管理人ひとこと>
昨年は専用駐車場がいっぱいになるほどの賑わいでしたが、今回訪ねてみると、全く車がなく、まだ開花には早いのかなぁ…と勘違いしてしまうほど閑散としていたのにはびっくりしました。
少々の不安を残しつつ、木道を歩き、最奥のミズバショウの咲く場所まで行ってみると…。昨年よりちょっと小ぶりかなぁ…と感じるミズバショウがまさに満開の状態。例年よりも開花の遅れたことがタイミング的に良かったのかもしれません。
<参考HP>
・ 信州 信濃町観光協会
http://www.shinano-machi.com/
満開のミズバショウ |
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上水内郡信濃町の野尻湖で、21日から第18回野尻湖発掘が始まりました。
3年に1度、野尻湖の渇水期にのみ行なわれるこの発掘調査では、前回、国内最古とされるヘラジカ化石が見つかっており、今回も通称「立ガ鼻」(地図)と呼ばれる地区の湖底をさらに掘り下げ、新たな発見に期待を賭けます。
発掘調査は30日まで、29日の午後6時45分から公民館野尻湖支館で今回の発掘調査についての成果報告会が行われることになっています。 (写真:野尻湖発掘現場=22日撮影)
<管理人ひとこと>
野尻湖発掘の様子については、22日から29日(29日は午前)までの間、毎日見学することができるようになっています。また、発掘ガイドがいる時は、説明を聞きながら見学することもできます。見学時間は、午前9時から午前11時30分まで(ガイドは9時30分から11時30分まで)、午後は1時から4時30分まで(ガイドは午後1時30分から午後4時まで)となっています。見学される前に「発掘ひろば」で受付が必要です。
詳しくは、野尻湖ナウマンゾウ博物館のホームページに説明がありますのでご覧ください。
<参考HP>
・ 野尻湖ナウマンゾウ博物館
http://www.avis.ne.jp/~nojiriko/
※ お出かけ前にご確認ください。
さて、見学についておさらいしたところで疑問点を幾つか。
(1) 「発掘ひろば」の見学者受付で住所・名前・電話番号を記入する必要性は?
個人情報がこれだけ騒がれているこのご時世、見学のためにここまでする必要があるのかぁ、という疑問。ガイドさんが付いて、説明を受けるためなら、名前だけで良いのではないでしょうか。
(2) 見学できる時間以外に現場を訪ねたらどうなのか?
残念ながら、見学者はいわゆる岸壁というか、遠くから発掘現場を眺めるだけとなります。実際、とことこと湖底に降りて行ったら、見学者は入れません、といわれてしまいました。入口にある「グリッド内は立ち入り禁止」のグリッドとは、つまりここ(湖底全般)なのだそうです。見学者は、発掘現場を遠巻きで見るしか方法はありません。ガイドさんがいれば、また違うかもしれませんが。
そのようなこともあって、もし見学されるようなら事前によくホームページなどでチェックされてからお出かけになることをおススメしておきます。そうでないと、管理人のように、新聞やテレビなどマスコミで注目されている発掘調査にもかかわらず、意外にも閉鎖された世界なのだなぁ…という印象だけが残ってしまってはいけませんので 。
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長野・新潟県境に架かる「信越大橋」 |
<参考HP>
・ 新潟県妙高市ホームページ
http://www.city.myoko.niigata.jp/
・ 新潟県妙高市観光協会
http://www.myoko.tv/
<参考資料> 関川の関所跡
江戸中期、全国五三の関所は、重関所と軽関所に分けられ、越後の関所五ヶ所のうち重関所は関川だけでした。これは、この地が加賀藩などの参勤交代や佐渡産金が通過する要路にあったためと考えられています。
関所は幕府の支配をうけ、直接にはその土地の大名や代官が管理しました。関川の関所は、榊原時代には藩士足軽数名と現地採用の郷足軽など十数名が勤務し、そのなかに常勤の人見女(ひとみおんな)がいましたが、「入鉄砲と出女」の取締りをするために土地の女が選ばれました。
関所の開門は明六つ(午前六時)から暮六つ(午後六時)までで、閉門後は特別の者以外通さず、いわゆる関所破りは死刑になりました。しかし、関所附近の女が川向うの野良仕事に出るときは、前もって配布された「女通手札(おんなとおりてふだ)」で通関できました。
幕末になると取締りもゆるみ、明治二年に関所が廃止されました。(旧妙高高原町教育委員会設置の案内板から)
「うば坂」から望む県境 | 関川に架かる「一之橋」 |
「 きんさんぎんさん」の像 | 「 関川の関所」案内図 |
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