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140321_1512_松代城下の高札場(長野市)

長野市松代町中町に復元された旧松代藩の高札場(地図)。
(写真:復元された旧松代藩の高札場と中町の市太神=3月21日午後撮影、640×480拡大可能)

<参考資料> 松代城下の高札場
140321_1510_松代城下の高札場(長野市)
140321_1508_松代城下の高札場(長野市)
高札と宿場の配置図
この高札場は、松代藩が城下に対するきまりやお達しを立札(高札)に書いて掲示した所で、江戸時代に中町の北国脇街道筋(現国道四〇三号)にあったものを復元しました。
高札場が中町におかれたのは、早くから有力な町人達が居住し、松代藩の下で城下八町を統括する「町年寄」や、松代藩で人馬継ぎ立てを行う「問屋」を勤める城下宿場の中心地であったことに因ります。
松代藩には「本陣」はなく、「検断(けんだん)」(自治警察的な役職)を兼ねた「問屋」が高札場の管理を行い、火災時には「高札場堅め」を設け中町全戸で高札場の守りに当たった。
高札場は明治六年廃止され、松代町の掲示場となったが以後の詳細は不明で、また明治時代二度の大火で宿場町の町並みは焼失し、その面影や遺跡は残っていない。
平成二十三年中町公会堂広場整備にあたり、往時の歴史的景観の再現を図り、唯一の宿場町遺物である中町市太神碑の移転鎮座と城下高札場の復元を行ったものです。
尚、高札場の復元は旧藩領内近隣の高札場をもととし、高札の文面は江戸時代の文章をわかりやすく表記し、説明を加えた。
(案内板から)

<参考資料> 高札場の基礎石
140321_1509_松代城下の高札場(長野市)
高札場の基礎石
この石は旧松代藩高札場の基礎石の一部で、高札場があった中町の旧北国脇街道の屋敷地(現六七〇番地)に残っていたものです。
この街道は廃藩後、県道谷街道として整備され、高札場の基礎石は東側屋敷の道端に寄せられていました。
ここは、松代藩の下で高札場の管理にあたった松代藩問屋兼検断伴家の屋敷南に位置した所です。
平成二十三年三月、高札場復元にあたりこの建物の押さえ石として、ここに移しました。
※柵内の木樋管は城下時代、現「つつみ公園」の水源から城下五町に引いた上水井戸をつないだ木樋で、高札場付近から出土したものです。
(案内板から)

<参考資料> 中町の市太神
140321_1512_中町の市太神(長野市)
中町の市太神
中町の市太神は、江戸時代には御馬出(おうまだ)し通り沿いにあった大きな市太碑です。
もともと人が集まる所に市が立ち、市の入口や中心地に市神をまつり、市の繁栄や安泰を願うことが行われていましたが、この市太神の造立年代や由来の詳細は分かりません。
古くは東条尼巖(あまかざり)城下(後に東条荒町)にあったものが、松代城下に人々が集まり商売繁盛の地となった中町へ移されたといわれています。
市太神は町人町の市神として正月十一日を市神祭日と定めて信仰を集め、城下でも早くから市が立ち、すでに寛文年間(一六六〇年代)には「六斎市(ろくさいいち)」(月六回の定期市)が中町伊勢町、荒神町で開かれていました。
廃藩以後は次第に忘れられ伝承も途絶え長い間小鮒川辺りに置かれていたものを、平成十三年中町公会堂前に移し、同二十三年公会堂広場整備にあたりここに移転鎮座したものです。
(案内板から)





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140321_1439_祝神社(長野市松代町)

長野市松代町鏡屋町にある延喜式内社(地図)。登録有形文化財。
(写真:祝神社境内=21日撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 神社建築情報サイト・おみやさん com
  http://www.omiyasan.com/

<参考資料> 祝(ほうり)神社
祭神 生魂命(いくたまのみこと)
 相殿
 健御名方富命(たけみなかたとみのみこと)
 八坂斗売命(やさかとめのみこと)

延喜式内社埴科郡五社の一つで千年以上の歴史を有す。松城城下時代は町方の産土神、総鎮守社として祀られ、いまも親しみを込めて「お諏訪さん」と呼ばれている。
慶長三年(一五九八)に、生魂命は東条から、健御名方富命八坂斗売命は海津城二の丸から合祀された。本殿は一間社( ※ Wikipedia )入母屋造り銅瓦葺き、拝殿間口四間・奥行七間、瓦葺き。見事な立川流の彫刻が刻まれる。
境内には、稲荷社、八幡社、天神社、西宮神社(恵比寿神社)、猿田彦社、宗像社などがあり、学問、商業、家屋敷、食物、治水、漁業、道案内他、八百万の神が祀られる。
(案内板から)

地元のNPO団体・夢空間 松代のまちと心を育てる会発行の「遊学城下町 信州松代 まち歩きガイドブック」によれば、「本殿は、銅板葺きの二間社流れ造り。縁、浜床を高くした均整の取れた外観。拝殿は入母屋造り、桟瓦葺き、妻入。正面向拝は唐破風…」と祝神社について記しています。規模から考えると、ガイドブックのほうが正しいように思いますが、さてどうなのでしょうか。





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140308_1411_海津久龍山蓮乗寺(長野市松代町)

長野市松代町の御安町にある町内唯一の日蓮宗の寺院(地図)。
境内には、大正11年(1922)に京都妙心寺から分葬された佐久間象山の墓や、菅平を開発した加藤丹後守道句、「富岡日記」を記した和田英の墓があります。
 (写真:蓮乗寺本堂=8日撮影、640×480拡大可能)

<参考資料> 御祭神 佐久間象山について
幕末の大先駆者である。
松代藩士佐久間一学の長男として文化八年(一八一一)に生まれる。六才の時から父や鎌原桐山・活文禅師などから学問・武術を習い、二十才で詩文・経書・武術等免許される程の秀才であった。
二十三才江戸佐藤一斎の塾に入門、渡辺崋山・藤田東湖等と親交。三年で帰藩し、藩の子弟に経書や漢学を教える。この頃名を修理、号を象山と改める。
二十九才江戸お玉ヶ池に象山書院を開き、多くの門弟を集める。藩主幸貫老中で海防掛の時、海防八策を幕府に上申する。
三十六才帰藩し、湯田中・沓野・佐野(志賀高原)の利用係として開発に努力、又大砲・電信機等の製作・実演をする。
四十一才江戸木挽町に塾を開き、勝海舟・坂本龍馬・吉田松陰・橋本左内など維新の英才を輩出、ペリー来航国論沸騰の再、軍議役として横浜警備に当る。開国論を唱え横浜開港を主張する。松陰密航事件に連座して投獄される。
四十四才から九年間松代に蟄居される。この間、高杉晋作・久坂玄瑞( Wikipedia )・山形半蔵( Wikipedia )・中岡慎太郎・石黒忠悳(ただのり)らが面会に訪れ、時世について激論、象山の学識に感動して去る。
五十四才元治元年(一八六四)幕府の命で京都へ上る。将軍家茂・一橋慶喜・山階宮・中川宮に公武合体開国を説いて活躍中、七月十一日、三条木屋町で尊攘派の凶刃にたおれ、尊皇開国の捨石となって非業の最後を遂げる。
その後四年にして明治維新の世を迎え、象山の尊皇開国という憂国の至情がそのまま具現されたのであった。
大正二年象山殉難五十年祭を契機に、元大審院長横田秀雄博士( Wikipedia )の主唱で、神社建立の計画が進められ、地元をはじめ県下全市町村及び信濃教育会・全学校・全国関係者の協力によって、昭和十三年十一月三日県社として創建された。
(象山神社にある財団法人佐久間象山先生顕彰会設置の案内板から)


130914_1524_佐久間象山・大村益次郎遭難之碑(京都市中京区) 140308_1411_海津久龍山蓮乗寺にある象山先生の墓(長野市松代町)
左:京都市中京区三条木屋町にある遭難之碑
右:蓮乗寺の境内にある佐久間象山の墓

<参考資料> 佐久間象山 大村益次郎遭難之碑
佐久間象山( Wikipedia )は信州松代藩の出身で、儒学や朱子学を修め、西洋科学の導入で日本の殖産興国に尽力しました。彼の塾からは、勝海舟・吉田松陰・坂本龍馬ら傑物を輩出しています。元治元年(一八六四)に上洛し、開国論を唱えて公武合体に努めたため、同年七月十一日に刺客に斬殺されました。
大村益次郎は長州藩出身で、医学を梅田幽斎に学び、さらに緒方洪庵の適塾でも学んで兵学者となりました。長州藩の軍事指導者として活躍し、その功績から維新後、兵部大輔に任命され、近代兵制樹立に尽力しました。しかし、廃刀論で士族の反感を買い、明治二年に三条木屋町(地図)にて反対派士族に襲われ、同年敗血症で死去しました。
(三条小橋商店街振興組合設置の案内板から)





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140316_1544_鈴木市兵衛生家(長野市松代町)
 
松代藩六代藩主真田幸弘が養鯉を始め、後に吾妻銀右衛門が幸弘の意思を受け継ぎ、藩内の池で淀鯉(松代では緋鯉と区別して青鯉と称した)の養殖を行い盛んになったと伝えられています。後に「鯉・鼈飼養方法概略(こいすっぽんしようほうほうがいりゃく)」( emoji 近代デジタルライブラリー )を記した鈴木市兵衛(地図)も、当時、松代で盛んだった養鯉の影響を受けた人物のひとりだったのかもしれません。
(写真:鈴木市兵衛生家=16日午後撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 国立国会図書館 博覧会 近代技術の展示場
  http://www.ndl.go.jp/exposition/index.html

<参考資料> 鈴木市兵衛生家
鯉魚の養殖・飼育研究者 松代町殿町
文政二十九年(一八二九)~明治三十八年(一九〇五)
享年七十七歳

松代藩士・鈴木為吉の二男として生まれる。藩務の余暇に鯉魚の養殖に従事し、維新後は飼育研究に情熱を傾け、改良青鯉を産出する。形状優秀で養法も模範と高い評価を受け、宮城・青森・秋田・新潟などの水産試験場へ供給する。第二回内国勧業博覧会で三等有効賞を受賞する。
(案内板から)





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140308_1445_浄土宗 皓月山 大英寺(長野市松代町)

長野市松代町にある浄土宗の寺院(地図)。
(写真:大英寺本堂=8日午後撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 上田市文化財マップ
  http://museum.umic.ueda.nagano.jp/map/index.html

<参考資料> 大英寺の歴史
皓月山大英寺は、松代藩初代の藩主真田信之が、その奥方であった小松姫(大蓮院殿)の菩提を弔うために建立した寺である。
小松姫は徳川家の重臣本田忠勝の娘であり、しかも徳川家康の養女となって嫁いだので、信之を助け大変立派な奥方だったといわれたが、元和六年に小松姫が亡くなると信之は大変に落胆して嘆きもひとしおであった。
小松姫の戒名は、大蓮院殿英誉皓月大禅定尼で、大英寺の名前もこれによる。
小松姫が亡くなったのは、信之がまだ上田城主の頃だったので、上田の常福寺(今の芳泉寺)に葬られて、お墓やお霊屋が建てられたが、元和八年、信之は松城(松代)へ転封になったので、松城に大蓮院殿の寺を移し、これが今の大英寺である。
上田に造ったお霊屋と鐘楼を運んで建てなおした。(このお霊屋が現在の本堂で県宝に指定されている。)その頃の大英寺にはお霊屋や鐘楼のほかに、諸堂が建立され大変立派だったと伝えられている。
完成した大英寺は、常福寺の含霊大和尚によって開山された。
慶安二年には幕府より百石の御朱印を頂戴し、宝永七年に本堂と庫裏、衆寮などを建立した。享保十九年火災を起こして焼失し、寛保元年に再建に着手し同二年完成した。また天明五年お霊屋の大修理等、全て松代藩真田家によって行われた。
明治維新のあとは、真田家の援助も領地もすべて無くなってしまったので、大きな寺の維持は困難になり、いくつかの堂を取り壊し、真田家にお願いして、お霊屋を本堂にし、残りの材で庫裏も造った。
大英寺は、江戸時代初期からの歴史が境内の所々にみられる、浄土宗の由緒ある寺である。
(皓月山大英寺設置の案内板から)

<参考資料> 長野県宝 大英寺本堂及び表門
この本堂及び表門は寛永元年(一六二四)真田信之が、夫人大蓮院殿英譽皓月大禪定院尼(徳川家康の養女、実は本田忠勝の娘、小松姫)の霊屋として建立したもので、萬年堂とも称した。明治初年大英寺の諸堂が取り壊された際に、この霊屋を同時の本堂に代要したものである。外観は円柱に舟肘木(ふなひじき)、一軒で簡素であるが、内部は、内・外陣境に円柱を立てて、中敷居格子の間仕切りを設け(今、格子戸はない)柱上に出組の組物を置き、内陣奥に来迎柱を立て、禪宗様仏壇をおく。但し来迎壁を取り除いて佛像を安置しているのは、寺の本堂にしたときの改造である。
内部の彩色は天明五年(一七八五)修理の再彩色である。柱や組物には、極彩色が施され豪華な建物である。
太い柱で、木割も太く垂木には反りをもち縁束(えんづか)を柱筋に揃えているなど古風な造りで、真田家霊屋中最も古い建物である。
表門も霊屋の正門として同時に建立されたもので、霊屋にふさわしい豪壮な桟瓦葺(さんかわらふ)き四脚門である。
(長野市教育委員会・大英寺設置の案内板から)





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