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140322_1257_笠鉾会館ドリームホール「十四段の雛飾り」(須坂市)

須坂市の有形民俗文化財に指定されている笠鉾(かさぼこ)11基と祭屋台4台を保存展示する笠鉾会館ドリームホール(地図)では、4月13日まで、「十四段の雛飾り」が展示されています。入場無料。
(写真:笠鉾会館に展示されている「十四段の雛飾り」=22日撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 一般財団法人須坂市文化振興事業団
  http://www.culture-suzaka.or.jp/kasaboko/

<参考資料> お雛様の話
3月3日に女児の成長を祝う雛祭りは、江戸時代中期に入ると庶民の生活にも取り入れられるようになり、今日まで受継がれてきました。
現在展示している雛人形は昭和60年以降に作られたもので、市内外の皆様から寄贈していただき、展示をしています。※現在寄贈は受け付けておりません。

≪内裏雛の並び方≫
江戸時代に発行された書籍を見ると、内裏雛は向かって右に男雛を置いています。
宮中では天皇から見た左側を上位とするので、向かって右側が男雛になったといわれています。
近代に入ると、西欧式のスタイルが取り入れられ、向かって左に男雛を着座させるようになります。また、昭和天皇が即位式のときに向かって左側に着座したことが、新聞発表の写真によって一般家庭にも普及するようになりました。
今日では、どちらの飾り方も行われています。

≪人形の意味・持ち物≫
内裏雛(だいりびな)
お姫様は生まれた女子、お殿様は将来の婿を示し、良い縁組に恵まれるように願いを込める、理想の夫婦像。
三人官女(さんにんかんじょ)
二人の身の回りの世話や対外的な事に気を配り、周囲の人たちに支えられて生きることの大切さを表します。
向かって右から「長柄の銚子」「島台、または三方(三宝)」「加えの銚子」。長柄の銚子は柄の長いお酒をそそぐもの。ともに、現在も結婚式の三三九度に使われます。島台は本来大小の盃をかさねましたが、現在は松竹梅をのせています。三方は盃をのせる台のことで、三方に穴があることからこのように呼ばれています。
五人囃子(ごにんばやし)
舞や踊りの際におはやしを務める役。音楽を奏で、皆を楽しませ、世の中には楽しいことがたくさんあることを示します。能の囃方と同じで、向かって右から「謡」「笛」「小鼓」「大鼓(おおかわ)」「太鼓」。
雅楽仕立ては向かって右から「ひちりき」「笙」「横笛」「羯鼓(台の上におきばちで両面を打つもの)」「火災太鼓(大太鼓」をそれぞれもちます。
随身(ずいしん)
二人を守る護衛役。
老人で黒色の上衣を着ているほうは位も四位以上。緋色は五位になります。
仕丁(しちょう)
出かける際に従者役。笑い・泣き・怒る三人の表情から、喜怒哀楽のある、豊かな人生を表現。関東風は、向かって右から「立傘(江戸時代、長柄の大傘。野天の日よけ、貴人のお供連れにも持参)」「沓台」「台傘(傘袋納めた妻折れの傘。主として参内のときに持参)」をもち、天皇の巡幸の姿をあらわします。京風は、向かって右から「ほうき」「ちりとり」「熊手」をもち、御所の掃除をしている姿です。表情はともに「泣き」「笑い」「怒り」の三通り。
(会場の案内から)





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140308_1411_海津久龍山蓮乗寺(長野市松代町)

長野市松代町の御安町にある町内唯一の日蓮宗の寺院(地図)。
境内には、大正11年(1922)に京都妙心寺から分葬された佐久間象山の墓や、菅平を開発した加藤丹後守道句、「富岡日記」を記した和田英の墓があります。
 (写真:蓮乗寺本堂=8日撮影、640×480拡大可能)

<参考資料> 御祭神 佐久間象山について
幕末の大先駆者である。
松代藩士佐久間一学の長男として文化八年(一八一一)に生まれる。六才の時から父や鎌原桐山・活文禅師などから学問・武術を習い、二十才で詩文・経書・武術等免許される程の秀才であった。
二十三才江戸佐藤一斎の塾に入門、渡辺崋山・藤田東湖等と親交。三年で帰藩し、藩の子弟に経書や漢学を教える。この頃名を修理、号を象山と改める。
二十九才江戸お玉ヶ池に象山書院を開き、多くの門弟を集める。藩主幸貫老中で海防掛の時、海防八策を幕府に上申する。
三十六才帰藩し、湯田中・沓野・佐野(志賀高原)の利用係として開発に努力、又大砲・電信機等の製作・実演をする。
四十一才江戸木挽町に塾を開き、勝海舟・坂本龍馬・吉田松陰・橋本左内など維新の英才を輩出、ペリー来航国論沸騰の再、軍議役として横浜警備に当る。開国論を唱え横浜開港を主張する。松陰密航事件に連座して投獄される。
四十四才から九年間松代に蟄居される。この間、高杉晋作・久坂玄瑞( Wikipedia )・山形半蔵( Wikipedia )・中岡慎太郎・石黒忠悳(ただのり)らが面会に訪れ、時世について激論、象山の学識に感動して去る。
五十四才元治元年(一八六四)幕府の命で京都へ上る。将軍家茂・一橋慶喜・山階宮・中川宮に公武合体開国を説いて活躍中、七月十一日、三条木屋町で尊攘派の凶刃にたおれ、尊皇開国の捨石となって非業の最後を遂げる。
その後四年にして明治維新の世を迎え、象山の尊皇開国という憂国の至情がそのまま具現されたのであった。
大正二年象山殉難五十年祭を契機に、元大審院長横田秀雄博士( Wikipedia )の主唱で、神社建立の計画が進められ、地元をはじめ県下全市町村及び信濃教育会・全学校・全国関係者の協力によって、昭和十三年十一月三日県社として創建された。
(象山神社にある財団法人佐久間象山先生顕彰会設置の案内板から)


130914_1524_佐久間象山・大村益次郎遭難之碑(京都市中京区) 140308_1411_海津久龍山蓮乗寺にある象山先生の墓(長野市松代町)
左:京都市中京区三条木屋町にある遭難之碑
右:蓮乗寺の境内にある佐久間象山の墓

<参考資料> 佐久間象山 大村益次郎遭難之碑
佐久間象山( Wikipedia )は信州松代藩の出身で、儒学や朱子学を修め、西洋科学の導入で日本の殖産興国に尽力しました。彼の塾からは、勝海舟・吉田松陰・坂本龍馬ら傑物を輩出しています。元治元年(一八六四)に上洛し、開国論を唱えて公武合体に努めたため、同年七月十一日に刺客に斬殺されました。
大村益次郎は長州藩出身で、医学を梅田幽斎に学び、さらに緒方洪庵の適塾でも学んで兵学者となりました。長州藩の軍事指導者として活躍し、その功績から維新後、兵部大輔に任命され、近代兵制樹立に尽力しました。しかし、廃刀論で士族の反感を買い、明治二年に三条木屋町(地図)にて反対派士族に襲われ、同年敗血症で死去しました。
(三条小橋商店街振興組合設置の案内板から)





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140316_1544_鈴木市兵衛生家(長野市松代町)
 
松代藩六代藩主真田幸弘が養鯉を始め、後に吾妻銀右衛門が幸弘の意思を受け継ぎ、藩内の池で淀鯉(松代では緋鯉と区別して青鯉と称した)の養殖を行い盛んになったと伝えられています。後に「鯉・鼈飼養方法概略(こいすっぽんしようほうほうがいりゃく)」( emoji 近代デジタルライブラリー )を記した鈴木市兵衛(地図)も、当時、松代で盛んだった養鯉の影響を受けた人物のひとりだったのかもしれません。
(写真:鈴木市兵衛生家=16日午後撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 国立国会図書館 博覧会 近代技術の展示場
  http://www.ndl.go.jp/exposition/index.html

<参考資料> 鈴木市兵衛生家
鯉魚の養殖・飼育研究者 松代町殿町
文政二十九年(一八二九)~明治三十八年(一九〇五)
享年七十七歳

松代藩士・鈴木為吉の二男として生まれる。藩務の余暇に鯉魚の養殖に従事し、維新後は飼育研究に情熱を傾け、改良青鯉を産出する。形状優秀で養法も模範と高い評価を受け、宮城・青森・秋田・新潟などの水産試験場へ供給する。第二回内国勧業博覧会で三等有効賞を受賞する。
(案内板から)





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140315_1402_中野陣屋ひな市特別展(中野市)

中野市中央の中野陣屋・県庁記念館では、3月15日から4月1日まで、中野市に伝わる京都伏見系の土びな作りを伝える中野人形師の奈良家と、愛知三河系の土びな作りを伝える立ヶ花人形師の西原家の作品が展示されています。入場無料。
(写真:特別展が開催されている中野陣屋・県庁記念館の会場=15日午後撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 信州なかの観光協会
  http://www.nakanokanko.jp/


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140308_1445_浄土宗 皓月山 大英寺(長野市松代町)

長野市松代町にある浄土宗の寺院(地図)。
(写真:大英寺本堂=8日午後撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 上田市文化財マップ
  http://museum.umic.ueda.nagano.jp/map/index.html

<参考資料> 大英寺の歴史
皓月山大英寺は、松代藩初代の藩主真田信之が、その奥方であった小松姫(大蓮院殿)の菩提を弔うために建立した寺である。
小松姫は徳川家の重臣本田忠勝の娘であり、しかも徳川家康の養女となって嫁いだので、信之を助け大変立派な奥方だったといわれたが、元和六年に小松姫が亡くなると信之は大変に落胆して嘆きもひとしおであった。
小松姫の戒名は、大蓮院殿英誉皓月大禅定尼で、大英寺の名前もこれによる。
小松姫が亡くなったのは、信之がまだ上田城主の頃だったので、上田の常福寺(今の芳泉寺)に葬られて、お墓やお霊屋が建てられたが、元和八年、信之は松城(松代)へ転封になったので、松城に大蓮院殿の寺を移し、これが今の大英寺である。
上田に造ったお霊屋と鐘楼を運んで建てなおした。(このお霊屋が現在の本堂で県宝に指定されている。)その頃の大英寺にはお霊屋や鐘楼のほかに、諸堂が建立され大変立派だったと伝えられている。
完成した大英寺は、常福寺の含霊大和尚によって開山された。
慶安二年には幕府より百石の御朱印を頂戴し、宝永七年に本堂と庫裏、衆寮などを建立した。享保十九年火災を起こして焼失し、寛保元年に再建に着手し同二年完成した。また天明五年お霊屋の大修理等、全て松代藩真田家によって行われた。
明治維新のあとは、真田家の援助も領地もすべて無くなってしまったので、大きな寺の維持は困難になり、いくつかの堂を取り壊し、真田家にお願いして、お霊屋を本堂にし、残りの材で庫裏も造った。
大英寺は、江戸時代初期からの歴史が境内の所々にみられる、浄土宗の由緒ある寺である。
(皓月山大英寺設置の案内板から)

<参考資料> 長野県宝 大英寺本堂及び表門
この本堂及び表門は寛永元年(一六二四)真田信之が、夫人大蓮院殿英譽皓月大禪定院尼(徳川家康の養女、実は本田忠勝の娘、小松姫)の霊屋として建立したもので、萬年堂とも称した。明治初年大英寺の諸堂が取り壊された際に、この霊屋を同時の本堂に代要したものである。外観は円柱に舟肘木(ふなひじき)、一軒で簡素であるが、内部は、内・外陣境に円柱を立てて、中敷居格子の間仕切りを設け(今、格子戸はない)柱上に出組の組物を置き、内陣奥に来迎柱を立て、禪宗様仏壇をおく。但し来迎壁を取り除いて佛像を安置しているのは、寺の本堂にしたときの改造である。
内部の彩色は天明五年(一七八五)修理の再彩色である。柱や組物には、極彩色が施され豪華な建物である。
太い柱で、木割も太く垂木には反りをもち縁束(えんづか)を柱筋に揃えているなど古風な造りで、真田家霊屋中最も古い建物である。
表門も霊屋の正門として同時に建立されたもので、霊屋にふさわしい豪壮な桟瓦葺(さんかわらふ)き四脚門である。
(長野市教育委員会・大英寺設置の案内板から)





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