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140412_1308_旧松代藩鐘楼(長野市松代町)

長野市松代町にある旧松代藩鐘楼(地図)。
江戸時代後期の嘉永2年(1849)、佐久間象山( Wikipedia )が電信機の製作を行い、御使者屋との間に有線を敷き、電信( Wikipedia )実験を行ったと伝えられています。日本に来訪したペリーが電信機を幕府に献上したのは、それから5年後のこと。それより前に、象山が電信実験に成功したとされていることから、ここが日本電信発祥の地と呼ばれる所以となっています。
(写真:旧松代藩鐘楼=平成26年4月12日午後撮影、640×480拡大可能)


旧松代藩鐘楼
(平成26年4月12日)
140412_1315_旧松代藩鐘楼(長野市松代町) 140412_1311_旧松代藩鐘楼(長野市松代町)
幕末の鐘楼と火の見櫓
(藩絵師・青木雪卿作)
鐘楼東側の御使者屋跡
(正面左)


<参考資料> 長野市指定有形文化財 旧松代藩鐘楼
旧松代藩鐘楼は真田信之が松代に入封直後に建てられたとされ、当初は火の見櫓の役割を兼ねていた。
昼夜の区別なく一刻(二時間)ごとに時刻を知らせたほか、城下で出火があった際にも鐘を撞いて非常を知らせていた。
その後三度の火災に見舞われ、現在の鐘楼は享和元年(一八〇一)の再建にあたり、鐘楼と火の見櫓を別棟にして造営された。
また鐘は太平洋戦争で供出され、現在のものは平成三年に旧鐘の寸法や重さを摸して取り付けられたものである。
この鐘楼で、江戸の末期に、佐久間象山が電信実験をしたという言い伝えが残されている。
構造は石積みの基壇の上に立つ井楼式高櫓形鐘楼で、高さは約十二メートル、屋根は切妻の瓦葺きである。
屋根まで伸びる四隅の柱を保護するため、支え柱を立て、下見板張りとしている。
内部は三層になっており、土間を除いて床は板張りとし、各階をはしごでつないでいる。
平成二十二年度から、保存修理工事を実施、あわせて周辺を広場として平成二十六年三月まで整備した。
(長野市教育委員会設置の案内板から)





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140412_1207_縣宮稲荷大明神(長野市松代町)

長野市松代町の和菓子店・蔦屋本店西隣にある稲荷社(地図)。
(写真:縣宮稲荷大明神=平成26年4月12日午後撮影、640×480拡大可能)

<参考資料> 縣宮稲荷大明神
祭神
正一位稲荷大明神
稲荷大明神は、食物・農業・殖産産業・商業などの神さま。
松代町西木町の縣宮稲荷大明神は、文政九年(一八二〇)に、松代藩預所が勧請。明治維新の地、民間に払い下げられ、社も含め永島新兵衛に渡り、屋敷の鎮守社となった。
昭和初期、永島家が松代を去り、稲荷大明神は佐藤楳治郎に渡り、西木町のお稲荷さんとして祀られるようになった。
石の鳥居は文化四年建立、石造手水鉢は慶応三年に水内郡高井郡十六箇村、権堂村他が奉納した。春秋の例祭た初午祭は賑わいを見せている。
(案内板から)





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140412_1011_竹原笹塚古墳(長野市松代町)

松代町内には土口・舞鶴山・桑根井・南太平・牧内・西前山・管間・竹原・長札山の古墳のほか、500基もの古墳が点在する大室古墳群などがあります。
竹原笹塚古墳は東条・菅間地区へ続く坂道の途中(地図)にある古墳時代後期の積石塚古墳で、全国でも珍しい合掌形石室を備えたもの。その構造は朝鮮にも例があることから、渡来人たちとの関わりが注目されています。
(写真:竹原笹塚古墳=平成26年4月12日午前撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 長野市文化財データベース
  http://www.bunkazai-nagano.jp/

<参考資料> 竹原笹塚古墳
墳丘は積石塚円墳でやや原形を変えており、横口式石室の羨道部を南方に開口している。
石室の大分部は破壊されているが、当地特有の屋根形天井のある合掌形である。
玄室の基部は平らな面を内に向けて、高さの同じ大石で四方を囲み、長方形の竪穴を設けている。
その基部上に長さ一.五メートル、幅一.七メートル~一メートルの平石三枚ずつを中央に傾けて立て、石室中軸線の上方で組合わせて屋根形を造り、羨道部も同様の構造となっている。
大きさは玄室部の長さ四.二メートル、幅一.四メートル、高さ一.八メートル。羨道部の長さ二.七メートル、幅〇.六メートル。
屋根形天井のある石室古墳は、善光寺平周辺に三十余基(※案内板の設置は昭和六十二年三月)を数えられるが、当古墳の石室は規模が最も大きく整っている。
成因については、百済の公州所在の古墳中に相似の構造を持つものがあるので、朝鮮との関係が考察され、造営は古墳時代後期の六世紀半ば頃のものと考えられている。
(長野市教育委員会設置の案内板から)





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140412_0959_玉依比賣命神社(長野市松代町)

玉依比賣命(たまよりひめのみこと)神社は、松代町東条の天王山南麓にある延喜式内社(地図)。玉依比賣命は、穂高神社の御祭神・綿津見命(海神)の子であることから、日本海を北上し、善光寺平に定着した海人一族により祀られたと考えられています。
毎年1月6日午後には田植神事の「御田祭」が、翌7日早朝には子孫繁栄を祈願する「児玉石(こだまいし)神事」、続いてその年の穀物の出来を占う「五穀御判事」が行われ、何れも長野市の無形民俗文化財に指定されています。
(写真:玉依比賣命神社=平成26年4月12日午前撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 長野市文化財データベース
  http://www.bunkazai-nagano.jp/

<参考資料> 玉依比賣命神社 由来
由緒
神社創建の縁起によれば、「人皇八代孝元天皇十六年四月十六日東条斎川の地に勧請された」とあり、斎川は現在の岩沢である。その後磯並(現在の中川)に移り、磯並三社大明神と称した。現在の地に鎮座したのは寛喜二年(一二三〇年)と伝える。
延長五年(九二七年)左大臣藤原忠平らにより撰進された。延喜式五十巻の中の神名帳に記載された信濃国四十八座の式内社の一つとして、その歴史は極めて古い。現社殿は天保四年(一八三三年)に改築された、八棟造りを摸した荘厳な建築である。

祭神
主祭神  玉依比賣命神(初代神武天皇の母神)
合祀   天照皇太神・建御名方富命・素戔鳴命

主たる神事
御田祭
正月六日の午後、神社拝殿において古くから行われている豊作祈願の神事
児玉石神事
御田祭の翌七日早朝より、神社の神宝で県宝にも指定されている古墳時代からの翡翠の勾玉・管玉などを主とした「児玉石」の数を改める。平成二十三年は八百二十七個。今も玉の数の増減でその年の吉凶を占う。
五穀御判事
児玉石神事の横で氏子総代たちが集まり作物の神占いを行う。稲や大麦、小麦など九種類の穀物の作柄の上・中・下を占う。
恒例祭
新年祭、例大祭、新嘗祭、歳旦祭ほか
(玉依比賣命神社社務所が設置した案内板から)

<参考資料>
県宝(工芸品)
玉依比売命神社児玉石
たまよりひめのみことじんじゃこだまいし
昭和四十三年には総数七八六個、その中の五九一個が指定されている。
市指定無形民俗文化財
玉依比売命神社の御田祭・児玉石神事・御判神事
市指定有形文化財
漆地彩色装神輿(玉依比命神社の神輿)
うるしじさいしきそうみこし
江戸時代初期の厨子様神輿で、松平忠輝寄進との伝承がある。ほぼ全面黒漆塗りで細部は朱漆、金箔などで丁寧な装飾が施されている。
(長野市教育委員会設置の案内板から)





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140412_0924_御船屋稲荷(長野市松代町)

国道403号線(谷街道)荒神町交差点から西へ入ったところにある松代藩の御船屋跡(地図)。江戸時代中期の古地図には「御舟小屋」と記された場所があり、御船屋を西から北を巡る水路は、現在、千曲川通船船付場跡碑のある荒神町に至り、大英寺付近で鮒沢川と分かれた関谷川と合流。その流れは千曲川に続いていました。
「戌の満水」の後、御船屋は廃止され、道橋方(土木関係)の役所が設けられ、鎮守として稲荷が祀られ、現在に至っています。
(写真:御船屋稲荷=平成26年4月12日午前撮影、640×480拡大可能)

<参考資料> 御船屋稲荷の由来
千曲川が松代城の北裏から、この稲荷社の北を流れていたころ、藩の御船屋(御船蔵・おふなぐら)がこの地(不二越工場跡)にあって領内七ヵ所の渡船場(矢代・赤坂・寺尾・関崎・小市・市村・布野)支配の役所が置かれていました。
寛保二年(一七四二)の「戌の満水」と呼ばれる記録的な大水害後、千曲川を北方の現在地に移したので、御船屋は廃止になって、その跡に藩の道橋方(土木関係)の役所が設けられて、鎮守として稲荷大明神をまつったので「御船屋稲荷」とよばれました。
享和元年(一八〇一)二月、道橋奉行の金井縫殿丞・石黒和左衛門・矢野源八らが、京都の神祇(※)官に願って、六代藩主真田幸広公の筆になる「御神号」を御神体として祭りました。
以来城下の竹山稲荷など数か所の稲荷社と共に二月の初午祭が盛大に行われました。
明治四年(一八七一)廃藩によって道橋方は廃されたので、稲荷社は御厩(※)町の町内持ちとなって祭典が引きつがれ、今日に至っております。
(案内板から)





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