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110712_1523_北の城橋(宮田村)

上伊那郡宮田村の天竜川河畔にある公園(地図)。
中世の城跡と伝えられる「北の城」や、上伊那唯一のトラス吊り橋「北の城橋」(昭和33年)などがあります。春はサクラの名所。 (写真:北の城橋=12日撮影、640×480拡大可能)

<管理人ひとこと>
見るとやや弱弱しさを感じるこの吊り橋ですが、日中のわずかな時間に、驚くほど多くの車が行き交っていました。ものは試しに…とばかり、途中まで恐る恐る歩いてみましたが、やっぱりちょっと怖かったです…。

<参考HP>
・ 宮田村ホームページ
  http://www.vill.miyada.nagano.jp/
・ 宮田村観光協会
  http://www.vill.miyada.nagano.jp/kanko.php

<参考資料> 史跡 北の城
北の城は、天竜川の右岸河成段丘上に築かれた平山城である。城の規模は東西約一〇〇メートル、南北一五〇メートルで、城の南と西は空堀が廻り、西側には※型の北が高く南が低い土塁が廻らされている単郭式の城である。
城内からは室町時代の陶器が発見されているところから、中世この地の地頭職であった中越氏に関わる城と伝えられる。 (宮田村商工会青年部設置の案内板から)





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110716_0001_津島神社祇園祭(宮田村)

上伊那郡宮田村で16日、村内を巡った神輿を境内階段から転げ落とすことで知られる津島神社(地図)の祇園祭が行われ、ご利益があるという壊れた神輿の破片を手に入れようと訪れた見物人で賑わいました。
(写真:投げ落とされる神輿=16日午後10時頃、640×480拡大可能、video)

<管理人ひとこと>
午後5時。神事を終えた神輿が神社を出発。村内の家々を巡り、午後9時過ぎに神社到着。祭りが最高潮を迎えるのはご神体を神社に戻した後の午後10時頃から。担ぎ手たちによって境内階段まで運ばれた神輿は、高々と持ち上げられ投げ落とされます。
5mほどの階段を転げ落ちた神輿は、担ぎ手たちが足で蹴り壊すなか、今度は別の担ぎ手たちから「上げろ、上げろ」の掛け声とともに、再び階段上へ。
これを何度も繰り返し、最後は姿をとどめないまでに粉砕された御輿の破片を担ぎ手たちが掲げられると、やがて境内から花火が打ち上げられ、天下の奇祭といわれる、この津島神社の祇園祭が締めくくられます。

<参考資料> 津島神社と祇園祭
京都八坂神社(祇園社)の守護神牛頭(ごず)天王を勧請したと伝えられ、宮田では、天保年間、勇壮同格とされる須佐之男命(すさのおのみこと)を愛知県津島神社から勧請して社名をつぎ通称「御天王さま」とも呼ぶ。
祭礼は、毎年7月中に(祇園祭)と称し氏子を中心として村民挙げて祝福する。祭礼の中核を神輿に置き、町内を練って盛儀を極めた後粉砕して心中を神殿に奉納し以って、住民の安泰を祈願する。 (宮田村商工会青年部設置の案内板から)


津島神社祇園祭 (7月16日)
110716_1610_津島神社祇園祭(宮田村) 110716_1611_津島神社祇園祭(宮田村)
津島神社 神事
110716_1704_津島神社祇園祭(宮田村)
110716_1611_津島神社祇園祭(宮田村)
御輿のお練り 粉砕された神輿の破片を高々掲げ…




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080820_1050_中越遺跡の発掘調査(宮田村)

上伊那郡宮田村の宮田村役場前にある中越(なかこし)遺跡は、縄文時代前期初頭から室町時代にかけて、周辺一帯に形成された集落群の遺跡。整備された公園内には、縄文時代の竪穴式住居も復元されています。
写真は、中越遺跡で新たに行われている発掘調査の様子です。
住居跡発掘の記録更新となりますでしょうか。 (写真=20日撮影)

<マピオン地図>
・ 上伊那郡宮田村町 ( 1 / 21000 )

<参考資料> 県史跡 中越遺跡
今からおよそ六千五百年前、縄文時代早期と呼ばれている時期が終わるころ、次の時期の幕あけをつげるかのように、地球の気温が上がり、それまで寒冷な気候のため現在より約百五十mも下にあった海水面が、逆に現在よりも二~三m上まで上昇する出来事がありました。いわゆる「縄文海進(じょうもんかいしん)」です。
実は、適度な高台と抱負な湧水に恵まれたこの台地を選んで、それまでは多くても数軒程度の大きさの集落しかなかった中部高地に、初めて巨大集落を作った人々こそ、この縄文海進によって住む場所を失い、河岸段丘上に広がる雑木林に実るクリやドングリ類を糧に、新たな定住の地を求めて、島の中央の湖(諏訪湖)から流れ下る川(天竜川)を遡ってきた、海辺の民の一段の一つであったと考えられています。
東西三百五十m、南北百五十mの範囲に、数世代の間に建て替えられた家の跡が三百軒以上。これが、今日までの発掘調査の結果をもとに推定されている中越遺跡の縄文時代前期の集落の大きさです。
彼らは、西日本的な独自の土器(中越式土器)を作り、八つに裂けた山(八ヶ岳)の麓から持ってきた黒曜石を原料に大量の石器を加工し、旺盛な生産活動を続けていましたが、その集落は縄文時代前期の中頃で一度途絶えます。そして、縄文時代中期になると再びこの地に人が住み始め、今度は台地の南側に、縄文時代晩期まで続く息の長い大集落を営むようになるのです。
このほか弥生時代や平安時代、さらに室町時代にも人々が生活していた跡があり、それらをあわせて中越遺跡と呼んでいます。
中越時代では、大正十四年に鳥居龍蔵(とりいりゅうぞう)が初めて考古学的調査をして以来、昭和三十一年の村内では初めての組織的な調査の後も、昭和四十三、四年の大規模な調査の後も、道路や住宅の建設に伴う発掘調査を継続してきており、今までに発見された家の跡は三百九軒。そのうち、縄文時代前期の家は百七十七軒を数え、この数字は今も増えつづけています。 (宮田村教育委員会設置の案内板から)

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