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131012_1240_中尾歌舞伎秋季公演(伊那市長谷溝口・熱田神社)

伊那市長谷(地図)の市無形民俗文化財「中尾歌舞伎」が、保存会会員の減少により、当面の間、活動を中止することになりました。
「中尾歌舞伎」は、江戸時代中期、地元の小松浅右衛門が四国の旅芸人から義太夫を伝授されたのが始まりとされ、戦後、しばらく途絶えていましたが、昭和61年に地区の青年たちが復活させ、毎年春と秋に定期公演を行ってきました(参考:伊那市ホームページ)。
然しながら、過疎化が進むなかで、保存会会員の減少による役者の確保が深刻となり、4月に予定されていた春季定期公演の開催を待たずに、活動の中止が決定したということです。
このまま貴重な伊那谷の文化のひとつが失われることはとても残念なことです。
ぜひ復活されることを願っています。
(写真:平成25年度中尾歌舞伎秋季定期公演「人情噺 元結文七」( emoji ブログ )から、左から順に左官長兵衛・女房のお兼・娘のお久・和泉屋清兵衛・文七=平成25年10月12日午後撮影、640×480拡大可能) 

<参考HP>
・ 信州伊那長谷 中尾歌舞伎 blog
  http://nakaokabuki.blog.fc2.com/





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emoji 中央構造線 板山露頭 emoji 北川露頭

160816_1512_中央構造線 溝口露頭(伊那市長谷)

中央構造線( Wikipedia )は、関東平野から南アルプス西側を経て、紀伊半島・四国・九州へ、西南日本を縦断する日本で一番長く大きな断層。中央構造線を境に、北側を西南日本内帯(領家変成帯)、南側を西南日本外帯(三波川変成帯)と呼び区別しています。
長野県南部を縦断する中央構造線は、埋って確認できない関東や九州と異なり、西南日本内帯(領家変成帯)と西南日本外帯(三波川変成帯)が接する状況が確認できる場所(露頭)が幾つかあり、伊那市長谷の溝口集落(地図)には、1500万年前にマグマが中央構造線の割れ目に沿って入りできた溝口露頭を見学することができます。
(写真:伊那市長谷溝口にある中央構造線 溝口露頭=8月16日午後撮影、640×480拡大可能)

<管理人ひとこと>
写真は南側にある崖を東から西方向に撮影したもので、左側が「西南日本内帯 領家変成帯」(およそ1億年前)、手前のやや黒めの部分が「西南日本外帯 三波川変成帯」(およそ8000万年~7000万年前)、その間にあるやや明るい茶色の部分は、1500万年前に左右の岩石帯との裂け目に入り込んだ新しい岩石帯です。
「中央構造線」は、この新しい岩石帯(明るめの茶色の岩石帯)ではなく、その両側の岩石帯(領家変成帯及び三波川変成帯)との境界部分(写真では2本の線で表示した部分)をいいます( emoji 写真 )。
 
<参考HP>
・ 大鹿村中央構造線博物館
  http://www.osk.janis.or.jp/~mtl-muse/
・ 南アルプス ジオパーク(中央構造線エリア)
  http://minamialps-mtl-geo.jp/


中央構造線 溝口露頭
160816_1501_中央構造線 溝口露頭(伊那市長谷) 160816_1500_中央構造線 溝口露頭(伊那市長谷)
中央構造線公園の案内 公園にあるモニュメント
160816_1507_w_中央構造線 溝口露頭(伊那市長谷)
中央構造線 溝口露頭
160816_1508_w_美和湖(伊那市長谷)
美和湖から分杭峠を望む
160816_長谷地域を通過する中央構造線を北から南へ見た状況(伊那市長谷) 160816_中央構造線 溝口露頭の案内図(伊那市長谷)
中央構造線の位置 溝口露頭案内図
160816_1437_秋葉街道案内図(伊那市長谷) 160816_1528_国道152号線案内図(伊那市長谷)
溝口集落周辺案内図 国道157号線案内図

<参考資料>中央構造線ってなに?
中央構造線は大地がずれ動いた境目で、断層とよばれるものです。地下で地震をおこしながら、左側の大地と右側の大地が少しずつずれてくい違った跡です。ずれた時に岩と岩とがすれあって壊されたので、中央構造線の近くの岩は粉々になったり、割れたりしています。
中央構造線は日本を代表するとても大きな断層です。
この溝口露頭は、1500万年前ごろ、地下で岩が溶けてできた熱いどろどろのもの(マグマ)が中央構造線の割れ目にそって入ってきました。そのため、うす茶色のマグマの岩の両側が中央構造線になります。
(「中央構造線が見える崖 溝口露頭」案内板から)

<参考資料>中央構造線の谷は自然がつくった道!
中央構造線の谷はまっすぐなので古くから人々の行き来する道として利用されてきました。
縄文時代には、諏訪湖の北、和田峠でとれた黒曜石(こくようせき:石器の材料)が静岡などへ運ばれていきました。また後の時代まで、薪・炭・栗などの山の幸や、塩・魚の観物などの海の幸、砂糖といった生活に必要なものが運ばれた道でもあります。南北朝時代には宗良親王(むねながしんのう:後醍醐天皇の皇子)が伊那市の南にある大鹿村に住み、北朝勢力との戦いの道としてこの谷を行き来しました。江戸時代になると、火防(ひよけ)の神をまつる浜松市秋葉神社へのお参りが盛んになり、今でも秋葉街道として名を残しています。
(「人の行きかう中央構造線の谷 中央構造線公園」案内板から)
 
<参考資料>谷の東と西、どちらに人が住んでいる?
谷の西側の山は急ですが、東側の山はなだらかです。これは中央構造線を境に、西側はかたい岩、東側は地すべりを起こしやすい岩でできているためです。また、谷の東側には山から沢が土砂を運んでできたゆるやかな斜面や、かつて三峰(みぶ)川の川原だった平らな部分が広がっているので、谷の東側が人々の暮らしの場になっています。
(「中央構造線の谷 溝口露頭」案内板から)

<参考資料>美和湖のひみつ!
目の前の美和湖は三峰(みぶ)川をせき止めてできたダム湖です。以前は田んぼが広がる大きな川原で、集落もありました。美和ダムの完成は昭和34年です。昭和36年に記録的な豪雨があり、長野県南部で大きな被害もでました。この下流域では美和ダムによって水害は軽減されました。
美和湖は湖底にたまった土砂に悩まされています。三峰川の上流にはけわしい南アルプスがある上、中央構造線にような大きな断層もあり、岩がもろくなっています。このため、梅雨や台風の豪雨があると、崖が崩れたり、川底が削られたりしてたくさんの土砂がつくられ、それを川が運んでくるためです。
(「人の行きかう中央構造線の谷 中央構造線公園」案内板から)





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emoji 中央構造線 溝口露頭 emoji 北川露頭

160816_1327_中央構造線板山露頭(伊那市高遠町)

中央構造線( Wikipedia )は、関東平野から南アルプス西側を経て、紀伊半島・四国・九州へ、西南日本を縦断する日本で一番長く大きな断層。中央構造線を境に、北側を西南日本内帯(領家変成帯)、南側を西南日本外帯(三波川変成帯)と呼び区別しています。
長野県南部を縦断する中央構造線は、埋って確認できない関東や九州と異なり、西南日本内帯(領家変成帯)と西南日本外帯(三波川変成帯)が接する状況が確認できる場所(露頭)が幾つかあり、伊那市の最北部にある高遠町長藤(地図)の板山露頭もそのひとつとして注目されています。
(写真:伊那市高遠町長藤にある中央構造線 板山露頭=8月16日午後撮影、640×480拡大可能)

<管理人ひとこと>
中央構造線に関心を持ったのは、平成28年4月16日に熊本市内で発生した熊本地震( Wikipedia )が、遠く離れた我が仮住まいのある長野県諏訪市でも震度2の揺れとなって伝わったことでした。
14日に発生した地震は日奈久断層帯、16日に発生した地震は布田川断層帯、さらにその後大分県で発生した地震は別府万年山断層帯の活動とされており、九州を南西から北東へ移動する震源地の分布が中央構造線を形成する断層帯の延長上に位置していたため、次第に震源が東へ移動してくるのではないか、と報じられていました。
また、熊本地震以降、たびたび発生している埼玉県や茨城県の地震も、長野県内では佐久地域や諏訪地域に限り伝わってきており、その震源地の何れも中央構造線の延長線に存在しています。
諏訪地域はその中央構造線の延長線にあるものの、後にできた糸魚川静岡構造線と新発田小出構造線・柏崎千葉構造線の内側(フォッサマグナ)の、いわゆる地溝帯部分に、新第三紀の堆積岩や諏訪湖に流れ込んだ堆積物により形成された地形といわれています。
また、中央構造線と糸魚川静岡構造線が交差し、もともとが軟弱地盤(地震が起きると液状化現象が発生するほど)であるという特異な地形が、もしかしたら他の地域よりも揺れを増幅させているのかもしれません。
因果関係はともかく、この中央構造線に沿って過去に発生した地震が多い( Wikipedia )ことは事実。記録がどれほど残っているのかわかりませんが、今後の防災対策を検討する上でも、当時の被害状況などをを改めて検証してみる必要がありそうです。
(「国東半島の一部を除き、九州には中央構造線は存在しない」という知見が emoji 地質調査総合センター から公表されていますので、併せてご覧ください)
 
<参考HP>
・ 大鹿村中央構造線博物館
  http://www.osk.janis.or.jp/~mtl-muse/


中央構造線 板山露頭
160816_1339_中央構造線板山展望台(伊那市高遠町) 160816_1326_中央構造線 板山露頭(伊那市高遠町)
展望台から杖突峠を望む 板山露頭の位置
160816_1328_2_中央構造線 板山露頭(伊那市) 160816_1328_1_中央構造線 板山露頭(伊那市)
周辺の地層 構造線の断面図

<参考資料>南アルプスの中央構造線
中央構造線の誕生は1億年以上前で、恐竜時代のアジア大陸で生まれました。日本列島をつくっている古い岩石はアジア大陸の一部でした。
1500万年前ころ、大規模な変動がおきました。アジア大陸の一部が分裂して、太平洋の方へ移動しました。中央構造線も、まわりの岩石と共に移動して日本列島の骨組みができました。
ずっと新しい時代になってから、今ある山や川ができてきました。南アルプスが姿をあらわしたのは、およそ300万年前のころです。新しい変化により、南アルプスは隆起して3000メートルの山脈になりました。山が高くなると共に川も急流になり谷も深くなっていきます。とりわけ中央構造線の断層線に沿う谷が目立っています。
南アルプスには中央構造線が見える露頭がいくつかあります。露頭では、内帯と外帯の岩石が直接に接し合い、断層で破砕された岩石や細かく砕かれた断層粘土が観察できるので大変貴重です。板山もその一つです。
(案内板から)





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160816_1309_杖突街道・御堂垣外宿(伊那市高遠町)

伊那市高遠町藤沢の杖突街道(国道152号線)と金沢街道の分岐にある宿場町(地図)。高遠藩や飯田藩の参勤交代は、この宿場町から金沢峠を経て、甲州街道金沢宿に至るルートを利用しました。
(写真:杖突街道 御堂垣外 藤沢郵便局隣に残る本陣表門=8月16日午後撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 伊那市観光協会
  http://inashi-kankoukyoukai.jp/
・ じゃかんが往く
  http://hmjacquin.travel.coocan.jp/

<参考資料>本陣跡
160816_1308_杖突街道・御堂垣外宿(伊那市高遠町)
杖突街道と金沢街道の分岐
ここは、江戸時代の参勤交代の大名行列の一行や、幕府の役人などが宿泊した御堂垣外(みどがいと)宿の本陣跡で、金沢街道を往来した高遠藩の内藤家、飯田藩の堀家をはじめ、旗本の知久(ちく)、近藤、小笠原、座光寺(ざこうじ)などの諸侯が利用しました。
御堂垣外宿が整備されたのは、天和年間(一六八一-一六八四)といわれ、当初は本陣にかわる「御茶屋」が置かれていました。御茶屋が廃止され、正式に本陣が設置されたのは享保十年(一七二五)で、以来明治時代に至るまで、藤澤家が世襲で永代本陣役を務めました。なお、御堂垣外宿に脇本陣は設置されず、問屋油屋が脇本陣役を務めています。
本陣の建物は藩費で建築や修復が行われ、食器や調度品、宿駕篭(しゅくかご)などは藩からの貸与品でした。今も残る表門や上段の間(殿様座敷)、江戸時代中期に作庭された枯山水の庭園、大名籠を置く籠立石(かごたていし)などは、往時の面影を伝えています。
(伊那市教育委員会設置の案内板から)




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150505_1417_羽広観音 仲仙寺(伊那市)

伊那市西箕輪の羽広観音 仲仙寺(地図)で、4月18日から5月8日まで、御本尊である秘仏の十一面観世音菩薩の御開帳が行われました。
(写真:羽広観音 仲仙寺観音堂=5日午後撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 信州伊那路 羽広観音仲仙寺
  http://chusenji.or.jp/
・ 伊那市観光協会 
  http://inashi-kankoukyoukai.jp/

<参考資料>
まほら伊那 仲仙寺
130518_1009_1_伊那街道・山寺から伊那部宿へ(伊那市・坂下の辻)
伊那街道「坂下の辻」
(平成25年5月18日撮影)
弘仁7年(816)今から千年以上の昔、慈覚(じかく)大師は夢のお告げで京の都から信濃に下り、この山奥にて霊木を得て十一面観音像を刻みました。観音様を刻んだ木片に写経し、経塚を作って納めたところから、この山は「経ヶ岳(きょうがたけ)」と呼ばれ、その観音様をご本尊として開山したのが、このお寺の始まりと伝えられています。
開山当初は今とは別の場所にあり、寺名も藤宝寺(とうほうじ)といいました。最盛時には12の坊(僧侶の住居)を数えましたが武田信玄の兵火に焼かれ衰退しました。慶長18年(1613)領主小笠原秀政の発願でこの場所に移り「羽広山仲仙寺」と名を改め、現在にいたります。ここ仲仙寺は通称「羽広観音」と親しまれ、特に「馬の観音様」として、遠く諏訪、木曽、飯田からも広く信仰を集めました。農耕馬が家族の一員だったころ、6月の田植えが終わると馬を連れて多くの農民んがお参りに来るため、市内坂下区常圓寺(じょうえんじ)下の辻から続く「羽広道(はびろみち)」は、きれいに飾り立てられた農馬で大変ににぎわいました。
羽広道には丁石(一丁=約109mごとに立てられた道しるべ)と呼ばれる石仏が、かつてあった五十五体のうち現在も三十数体残っていると言われています。一つ一つ見つけながらここまでお参りに来るのも、また楽しいでしょう。
(案内板から)

<参考資料> はびろ道「丁石 丁観音」
150505_1416_羽広観音 仲仙寺(伊那市)
境内にある「丁観音」
はびろ道は、伊那の中心を南北に通る伊那街道坂下の辻から羽広山仲仙寺に至る五十四丁の信仰の道である。
仲仙寺は秘仏の十一面観世音菩薩を本尊とする、千二百年の歴史ある信濃観音霊場の第二十二番札所、伊那諏訪第一番礼所の古刹である。
伊那街道の起点の辻には、いくつかの道標と石仏が安置されている。そのなかに、「右ぜん可うし道(善光寺) 左はび路道」と刻まれた古い石柱と、起点を示す馬頭観音像がある。
江戸時代中期から大東亜戦争のころまで、馬が農耕と交通の主役であり、大切な一家の一員であった時代、馬の安全祈願のため人と馬が共に、仲仙寺へ参拝する信仰の道であった。一丁(約一〇九メートル)毎に道標となる観世音石仏が寄進奉納され、数多の参詣者でにぎわったという。
馬の観音様として親しまれ、千人余の人が力を合わせて奉納しら千疋馬(せんびきうま)絵馬(伊那市指定有形文化財)と呼ばれる巨大な絵馬がいくつかある。
最近、この古い歴史の道が伊那市と伊那市観光協会によって整備され、再び注目されている。
(伊那市設置の案内板から)

<参考資料> 長野県宝 木像仁王立像
密迹金剛(みつしゃこんごう)
150505_1410_羽広観音 仲仙寺(伊那市)
密迹金剛
檜材を用い寄木造り、肉身朱彩し玉眼を用い、単髯、面を斜右に向け、開口す。左手を上にし屈臂して鈷杵を握る。右手を下げ五指を延して掌を下に向ける。左足に重心をかけ、右足を斜前に出す。裳裾を膝頭から後方に翻転す。天衣は頭部後方より両腕の前にかけ腰に至り、更に両足外側に垂れ下る。頭部は耳後で前後縦矧ぎ。腕は肩・臂・手首矧付け、脚は腰下横で縦矧ぎ、足先矧付けとする。
那羅延金剛(ならえんこんごう)
材質・構造は密迹金剛に大体同じ。単髯、面をやや右に向けて閉口。左手臂を後に引き、拳を前に押出す形とし、右手臂を屈げ五指を開いて前方に向ける。右足に重心をかけ、左足を横に出し、爪先を左に向ける。
法量は像高両金剛力士共二五五cmである。
この寺の縁起に「文亀元酉年五月十三日より閏六月十八日迄に大旦那家満朝臣並に十方多力を以って執金剛神二躰を彫刻せり仏工は雲慶法印より十代七条大蔵郷康忠法眼なり同人多門(聞)治(持)国二天を修理彩色せり」とあり、作者並に造立の年紀を知ることが出来る。(文亀元年は西暦一五〇一年である。)
この像、全体の調和・均衡がとれ、堂々としていて室町時代の作品として優秀で貴重な彫刻である。
(案内板から)

<参考資料>
伊那市有形文化財彫刻指定
木像持国天 多聞天立像
本堂(観音堂)の本尊厨子の両側に安置してあり、持国天は像高一六七cm、多聞天は一五〇cmの立像である。持国天は檜材寄木造り、胡粉(こふん)地彩色、玉眼嵌入(ぎょくがんかんにゅう)。兜を冠えい、唐革甲を着け、左膝を屈し両足で邪鬼を踏む。頭部は前後を縦に矧(はぎ)付け、首柄で体部に押込む。体部は前後縦に矧付け両肩先、肘先、手首先矧付け両足先も矧付けとする。地髪をあらわす。
多聞天は、品質、構造はほとんど持国天に同じ。但し玉眼を欠失して小板でとめている。この像の作者年代等不明であるが、造立は鎌倉時代と推定される。
二天のそれぞれ首柄の部に墨書があり「藤宝寺二天之事 本堂願主金剛仏子賢宗 二王建立之時修理彩色奉所也 文亀元年辛酉壬六月吉日成就」と記されている。藤宝寺というのは仲仙寺の前の寺号である。この像において寄木法は鎌倉時代通有の手法に依っており、顔貌・形態共に鎌倉様で、写実に勝った作品である。殊に天衣の彫り強く稜もかなり高く力強い量感のある像である。但し文亀元年以後において度々修理彩色が行われ、かつての像容を損している点が惜しまれる。
(案内板から)

<参考資料>
伊那市有形文化財工芸指定
鰐口(わにぐち)
仏家で用いる青銅円形の鉦には勤行の際たたく鉦鼓(しょうこ)、僧侶が布教のとき首にかけて打ち鳴らす金鼓(こんく)等があるが、これに類した大型のものに鰐口がある。鰐口は、社殿・仏堂の軒下につるし、参拝者が布で編んだ綱を振り動かして打ち鳴らす。扁円・中空で、下方に横長い口があいている。銘「奉下野国殖野保東光寺亀峯山薬師之鰐口大旦那祐山本願 大永四年甲申八月十二日敬白作者 大田右衛門二郎宣定」
(案内板から)

<参考資料> 桜本地蔵
150505_1434_羽広観音 仲仙寺(伊那市)
桜本地蔵
江戸時代中頃からその由来が伝わる地蔵さまです。
要旨:伊那町の入船の舟問屋に、みねうるわしい生まれつき口のきけないおなみという娘がいました。娘が12歳の時、母の枕元に定期的に参拝するようにとのお告げがありました。町からお寺まで54町、翌朝から母娘連れだって1日も欠かすことなく参拝。満願の日、強風と小雪が吹き付け身が凍えるばかり。娘が「かあさん寒いよう」と母の体にしがみついた。母は「お前、今何と言った。」と娘を抱きしめ、お地蔵様の前に泣き伏した。舟問屋ではお地蔵様のお陰と感謝し、お地蔵様も寒くないようにと三河木綿の着物に厚い綿を入れて作り着せたという。
注:地蔵菩薩;釈尊の入滅後、弥勒仏の出生の間、無仏の世界に住して六道の衆生(しゅじょう)を教化(きょうげ)・救済するという菩薩。子安・六・延命地蔵などがある。(地獄・飢餓・畜生・修羅・人間・天)。
(案内板から)





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