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管理人の思いつくまま、気の向くまま、長野県内の町や村の話題を取り上げています。

160814_1349_龍岸寺にある真田隠岐守信尹の墓(山梨県北杜市)

山梨県北杜市長坂の徳雲山 龍岸寺(地図)にある、真田阿波守昌幸の弟で、松代藩初代藩主信之や大坂の冬の陣・夏の陣で活躍した信繁(幸村)の叔父・真田隠岐守信尹( Wikipedia )の墓。
天正10年(1582)、織田信長による甲斐征伐で武田家が滅亡した後、徳川家康に仕え、真田本家と徳川家との仲介を務めました。
NHK大河ドラマ「真田丸」では俳優の栗原英雄さんが演じられています。
(写真:山梨県北杜市長坂の龍岸寺にある真田隠岐守信尹と子孫の墓=8月14日午後撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 北杜市観光情報サイト(ほくとナビ)
  http://www.hokuto-kanko.jp/


曹洞宗 徳雲山 龍岸寺
160814_1357_真田隠岐守信尹の菩提寺・徳雲山 龍岸寺(山梨県北杜市) 160814_1354_真田隠岐守信尹の菩提寺・徳雲山 龍岸寺(山梨県北杜市)
NHK大河ドラマ 「真田丸」関連の資料も展示

<参考資料>真田隠岐守信尹の墓
真田信尹(信昌)は、真田幸隆(真田家初代)の四男、すなわち昌幸(上田城主幸村の父)の弟である。昌幸とともに若年より武田信玄に仕え、武田一族の加津野家を継ぎ、加津野市右衛門、ついで同隠岐守と称している。後、真田姓に復する。天正10年(1582年)の武田氏滅亡後は、いち早く徳川家康に仕えた。同年9月昌幸が家康に属したのは、信尹の斡旋による。この後も、昌幸と徳川との仲介役をつとめている。一時会津の蒲生氏郷に仕え後、徳川家へ帰参、旗本奉行となり、関ヶ原、大阪(※坂)両陣に供奉し、その功績により千石加増され合計四千石となる。慶長19年(1614年)甲斐国巨摩郡の内に、采地をあたえられ御使番となる。慶長年間、龍岸寺6世利山玄益和尚の時本堂の再建、諸堂を建築して龍岸寺中興開基となった。この故に真田家家紋の六連銭が寺紋となっている。当時大蔵村(須玉町大蔵)に居住し、現在その屋敷跡を残している。寛永9年(1631年)5月、86歳で没、知行地でもあった龍岸寺に葬られた。この墓地には、信尹夫妻以下3代が葬られている。
(北杜市教育委員会設置の案内板から)





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160228_1618_若神子城跡・薬研掘(山梨県北杜市)

山梨県北杜市須玉町(地図)にある天正壬午の乱における北条方が布陣した城跡( Wikipedia )。
天正10年(1582)、本能寺の変の後、武田家の領地であった信濃・上野・甲斐の支配をめぐり、北条・徳川・上杉家が争った天正壬午の乱において、上杉景勝との争いを断念し、信濃を南下した北条軍が徳川軍と対峙した場所と伝えられています。
(写真:北条軍が布陣した若神子城の薬研掘跡=2月28日午後撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 北杜市観光情報サイト ほくとナビ
  http://www.hokuto-kanko.jp/
・ 津金學校(旧北杜市須玉歴史史料館)
  http://tsugane.jp/meiji/


若神子城跡
160228_1629_若神子城跡・南側(山梨県北杜市) 160228_1633_若神子城跡・大手の虎口付近(山梨県北杜市)
登城口 大手の虎口
160228_1636_若神子城跡・主郭(山梨県北杜市) 160228_1620_若神子城跡・案内板(山梨県北杜市)
若神子城跡主郭 若神子城周辺の砦跡

<参考資料> 若神子城
若神子城は「古城」あるいは「大城」とよばれる遺構を中心に、東に北城、湯沢の西に南城の三ヶ所からなる山城の総称である。連郭式といわれる中世の古い形態を残す山城で、新羅三郎義光によって築かれたと云伝えられている。「甲斐国志」に「若神子、多麻庄ニ属セリ、天正壬午八月ヨリ北条氏直本陣ヲ居キシ処…」とある。即ち、天正十年(一五八二年)武田氏滅亡后、信州から侵攻した北条氏直の相模勢と家康率いる徳川勢が対峙した時、古城に篭った北条軍が築構した薬研掘が主郭部から二ヶ所、発掘調査によって、検出された。更に主郭部の東端から厚く焼土が堆積した跡が発見され、南端部からは見張台の跡と思われる柱穴と掘り方も検出された。
往時「塩の道」ならぬ「のろしの道」の情報、通信拠点としての若神子城に、つるべ式狼火台を復元し、戦国の情報伝達を今に伝え、生きた歴史教育の一助になることを願います。
(案内板から)

<参考資料> 天正壬午の乱と薬研掘の跡
天正十年壬午(一五八二年)三月、新羅三郎義光以来の名門武田氏は信玄没後十年をへずして織田信長により悲劇的な滅亡を遂げた。その信長も六月、本能寺の変で明智光秀に殺された。この為、甲斐の国は、小田原の北条氏直と徳川家康との係争の地となった。この戦いを天正壬午の乱という。
家康は韮崎の新府城に陣し、氏直に若神子に本陣を構え、その時の八月から九月初旬にかけて、この城も修築がおこなわれた。薬研掘は、幅一メートル、深さ一.二メートル、長さ十メートル、発見され、規模と配置から構築途中の段階で放置された、当時ものと推定されています。薬研掘の名は、断面がV字形をした漢方薬の薬種を粉砕する薬研という道具に似ているので、その名がある。戦いは、津金衆・小尾衆など武田の遺臣たちを巧みに保護利用した、家康が大豆生田砦、獅子吼城の戦いで勝利を得た。
(案内板から)

<参考資料> ほくと 山城の里
大治5(1130)年、常陸国(茨城県)から甲斐国に配流となった源義清・清光親子の土着は、甲斐国に大きな歴史のうねりをもたらしました。甲斐源氏の誕生です。
清光(1110~1168)は、御牧(馬を飼育するための官営の牧場)に近い逸見(八ヶ岳南麓の台地一帯を指す古い地名)に目を付け、ここを本拠とし、逸見清光と名乗りました。清光が本拠とした北杜市域には、若神子城跡(古城・南城・北城)、谷戸(やと)城跡、源太ヶ(げんたが)城跡のような山城のほか、海岸寺、正覚(しょうがく)寺、長泉寺といった寺院まで、初期甲斐源氏にまつわる伝承が多くあり、戦国大名武田氏に繋がる甲斐源氏は、ここから甲斐国全域に広がりました。
八ヶ岳南麓台地をはさむ釜無川・塩川沿いには、諏訪あるいは佐久方面へ抜けるための街道が発達しており、境を接する信濃(長野県)の武士団と戦いが起こるとまず初めに被害を受けるのが八ヶ岳台地でした。街道沿いに多くの山城が築かれているのはそのためで、そこを本拠とする武川(むかわ)衆・津金(つがね)衆といった地域武士団の防衛拠点となりました。また、川沿いの見通しのより地形を活かして烽火台(のろしだい)網が整備され、情報は武田氏の本拠府中(甲府)に集めたと考えられています。
天正10(1582)年、武田氏滅亡後の甲斐国の領有をめぐり徳川家康と北条氏直が争った天正壬午の乱の戦いでは、信濃側から甲斐に侵入した北条方の本陣として若神子城(北城)が築かれました。北杜市域は主戦場となり、この時いくつかの城が北条氏により修築された推測されています。
(山梨県・北杜市設置の案内板から)





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150530_1155_曹洞宗 天童山 景徳院(山梨県甲州市)

山梨県甲州市大和町田野(地図)にある曹洞宗の寺院。
天正10年(1582)3月、織田信長の甲州征伐( Wikipedia )により、新府城( Wikipedia )を追われた武田勝頼は、岩殿城主・小山田信茂( Wikipedia )のもとに落ち延びます。しかし、その途中信茂の離反に遭い、遂に進退窮まり、追撃してきた滝川一益ら織田軍を家臣らが迎え撃つ(四郎作・鳥居畑古戦場)なか、北条夫人・嫡子信勝とともに自害したのがこの地と伝えられています。
甲州征伐の後、甲斐を領した徳川家康は、家臣の尾畑勘兵衛に命じて田野寺(現在の景徳院)を建立し、勝頼と家臣の菩提を弔いました。
(写真:武田氏最後の激戦地となった景徳院=平成27年5月30日撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 甲州市観光協会
  http://www.koshu-kankou.jp/


曹洞宗 天童山 景徳院
150530_1210_曹洞宗 天童山 景徳院(山梨県甲州市) 150530_1211_曹洞宗 天童山 景徳院(山梨県甲州市)
曹洞宗 天童山 景徳院
150530_1207_曹洞宗 天童山 景徳院(山梨県甲州市) 150530_1158_曹洞宗 天童山 景徳院(山梨県甲州市)
没頭地蔵 旗竪松
150530_1202_曹洞宗 天童山 景徳院(山梨県甲州市) 150530_1205_曹洞宗 天童山 景徳院(山梨県甲州市)
甲将殿 武田勝頼と一族の墓

<参考資料>
山梨県指定史跡 景徳院境内
本史跡は武田家最後の武将勝頼公及び同夫人、子信勝並びに将卒ら約五十名が自害した地である。
勝頼は武田信玄の第四子として天文十五年(一五四六)に生まれた。母は諏訪頼重( Wikipedia )の女である。天正元年二十八歳で甲斐国守となった。父信玄の志を継ぎ天下統一の業を進めたが、天正三年織田信長・徳川家康の軍と長篠に戦い( Wikipedia )大敗した。以来勢力回復のための進攻作戦で、数年の間敵を国内に入れなかったが、ついに天正十年(一五八二)織田、徳川連合軍の国内侵略を許した。

150616_1049_JR大月駅・岩殿山(山梨県大月市) 150616_1041_JR大月駅(山梨県大月市)
岩殿城(山梨県大月市)

勝頼は新府で前後策を講じ、小山田信茂の意見をもちい、同年三月三日居城を自らの手で焼き軍内の岩殿城( Wikipedia )に向かったが、信茂の叛にあい、やむなく駒飼から天目山に入ろうとしてならず、力つき主従田野において最後をとげた。時に天正十年三月十一日であった。
その後家康は甲斐に入国、勝頼ら将仕の菩提をとむらうため、勝頼の忠臣小宮山内膳友晴( Wikipedia )の弟、広厳院第七世拈橋(ねんきょう)を開山として田野寺を建立した。それが今の景徳院である。現甲将殿(影殿)の裏に墓地を設け、勝頼主従を手厚く葬った。
境内には世子信勝に「擐甲」(かんこう)の礼を行った場所といわれる「旗竪ての松」、勝頼親子が自害された所と伝えられる「生害石」などがあり、甲将殿には主従の牌子が祀られている。
(山梨県教育委員会・大和村教育委員会設置の案内板から・平成17年)

<参考資料> 
山梨県指定史跡 武田勝頼の墓
武田勝頼は武田信玄の第四子である。天文十五年(一五四六)、諏訪頼重の娘を母として諏訪に生まれ、諏訪四郎勝頼と名乗る。信玄没後天正元年(一五七三)に家督を継いだ。
天正三年(一五七五)五月、武田軍は長篠合戦で大敗し、以後勝頼は領土の拡大より領地の支配といった内政に力を入れるようになる。また、信州・駿府からの敵軍侵攻に備え、天正九年(一五八一)新府築城に着手、九月には落成し、十一月から十二月頃に躑躅ヶ崎の館から新府城に移ったようである。
天正十年(一五八二)二月二十五日、親族衆で富士川沿いの河内領を支配していた穴山信君が織田側に寝返り、三月三日に徳川家康とともに北上、さらに信州の高遠城を落とした織田信忠が南下し、親族をはじめ味方の多くが勝頼の元を離れていった。勝頼は小山田信茂の岩殿城へ向かうべく、住み始めたばかりの新府城に火をつけた。一行が勝沼を過ぎたところ小山田信茂も入城を拒否し、勝頼の進退は窮まった。新府を出たときには五~六〇〇人ほどいたとされる従者は、このときには四~五〇人しかいなかったといわれる。
田野の地で一行は、平屋敷に柵を設け陣所とした。三月十一日、滝川一益が情報を聞きつけ、滝川益重・篠岡右衛門に命じて包囲させた。逃れがたいことを悟った勝頼は自刃して果てた。勝頼三十七歳、北条夫人十九歳、嫡男信勝十六歳であった。
甲斐国曹洞宗総本山・中山広厳院の住職拈橋(ねんきょう)の兄は、謹慎の身にも関わらず武田家に殉じた小宮山内膳友晴といわれている。拈橋は田野に入り、敵味方の死体が累々としているなか、刀の中子に姓名を朱書きしている武田の家臣に戒名をつけていった。勝頼親子の遺骸は、陣を張った高台の中腹に埋葬し、後に地元の人々が首のない三体の地蔵尊を安置した。「没頭地蔵」と呼ばれ、境内の一画に祀られている。
織田信長が没すると、甲斐国は北条氏直と徳川家康が領地を争ったが、家康が甲斐国主に納まった。家康は国内安定化のため武田遺臣の懐柔策をとり、武田遺臣の優遇、兵火に焼かれた恵林寺等の復興を指示するとともに、武田遺臣・尾幡勘兵衛に命じ、勝頼の菩提寺を田野に建立させた。建立にあたり田野郷一円を茶湯料として、一山を寺領として寄進した。当初「田野寺」と称したが、後に勝頼の戒名である「景徳院」となった。天正十六年(一五八八)に伽藍がほぼ完成したというが、本堂・庫裡・御霊屋・山門などが建ち並ぶ、壮大なものであったと伝えられている。第一世には、広厳院住職であった拈橋が入ることとなった。
武田勝頼の墓は、甲将殿の背後に建立されている。中央に勝頼の宝篋印塔、向かって右手に北条夫人の五輪塔、左手に信勝の五輪塔の三基が長方形の基壇に据えられ、その両脇には正方形の基壇上に殉難者供養塔が二基据えられている。勝頼宝篋印塔の塔身側面に「相値二百年遠忌造立 當山十一世要導叟」「維時 安永四乙未歳 三月十一日」と刻まれており、勝頼の命日である安永四年(一七七五)三月十一日に、当時の第十一世住職の要導が二百年遠忌で建立したとある。
景徳院では平成十八年度に県費補助事業として、武田勝頼の墓の保存修理事業を計画し、十二月に工事着手したが、その最中基壇内部から五千点を越える経石が出土した。
そのため甲州市では、平成十九・二十年度に出土した経石の整理と分析を、二十年度には甲将殿周辺の発掘調査を行い、寺伝にはない勝頼没後から二百年遠忌までの経過を辿った。
整理作業の結果、経石は中央基壇から四七一〇点、左右基壇から五四五点、その他としてニ〇点の、計五ニ七五点あること、中央基壇の経石は法華経を、左右基壇の経石は金剛般若波羅蜜経・宝篋印陀羅尼経・首楞厳神呪(しゅりょうごんしんじゅ)など、複数の経典を写経していることなどが判った。特筆は、右基壇から出土した「戒名文字史料」裏面に「安永九年」(一七八〇)の銘があるのに対し、中央基壇からは「安永三年」(一七七四)銘の経石が三点出土していることである。
また、文献によると勝頼二百年遠忌は、先述の「安永四年」ではなく、安永八年(一七七九)に執行されたことが明らかで、三月十五日から二十一日までの七日間に及ぶ厳粛なものであった。
発掘調査の成果では、甲将殿の正面・背面側に近くの沢から土砂を運び入れ、大造成の結果現在のような平坦面が形成されたことが判った。なお、武具や人骨など、古戦場に結びつく直接的な遺物は出土していない。
二百年遠忌による墓が建立されるまで、甲将殿とその中に安置された勝頼・北条夫人・信勝の坐像と、殉難諸士の位牌が「墓」であった。つまり、甲将殿が建つこの一帯が「墓域」であり、聖域として勝頼公の慰霊に供されている。
勝頼没後一二四年を経過した宝永三猿(一七〇六)、甲州城主柳澤吉保の招きに応じて来甲した荻生徂徠が記した紀行文『峡中紀行』に戦没者の供養の様子が書かれている。
住持の僧余に語る。遺墳の所在を問えば、すなわち云う。(中略)既に七日を過ぎ、屍に血淋漓す。君臣わきまえず、すなわち同じく一壙に葬る。即ち今の廟の建つる処。故をもって別に窀穸の所なし。
「住持の僧が私に語る。遺墳(=墓)の所在を聞いたところ、こう答えた。(中略)すでに七日を過ぎ、したいには血が滴り落ちていた。主君も家臣も入り乱れており、そのため同じく一つの壙(=穴)に葬った。それは今の廟(=甲将殿)が建っているところである。そのため別に手厚く葬っているところはない。」
(文化庁・山梨県教育委員会・甲州市・甲州市教育委員会設置の案内板から・平成22年)

勝頼公辞世
 おぼろなる 月もほのかに 雲かすみ
  はれてゆくえの 西の山の端
北条夫人辞世
 黒髪の 乱れたる世ぞ はてしなき
  思ひに消ゆる 露の玉の緒
信勝公辞世
 あだに見よ 誰も嵐の さくら花
  咲き散るほどの 春の夜の夢

<参考資料> 四郎作古戦場の由来
150530_1218_天目山の戦い・四郎作古戦場(山梨県甲州市)
四郎作古戦場
小宮山内膳友晴(友信)は武田の重臣小宮山丹後守昌友の長男として武田家に仕え諸国への使い番十二人衆の一人に数えられ武田軍政に重きをなしていた。天正三年の長篠合戦以後武田軍の中枢は重臣たちによって司られていたが、小宮山内膳はその折々軍のための率直な意見を述べた。重臣たちはこれを快しとせず理非をわきまえずにこれを否定し遂にざん言により主君の勘気を被り蟄居を命ぜられ幽閉の身となった。
しかし天正十年三月十一日(一五八二年)に武田勝頼は多くの重臣たちに離反され一族と共にこの付近に於て最後の決戦をする運命に陥ったのである。小宮山内膳は朱君の危急を知り決戦の前夜一行に追い付き「友晴が譜代の臣でありながら武田家最後の戦いに臨のなかったなら小宮山家末代までの恥辱であり、武士道にも背くゆえ蟄居の許しを請い最後の戦いに御盾となり高思の万分の一にも報いたい」と言上した。勝頼は「あっぱれな武士の鑑よな余の不徳の致す処であった」と直ちにこれを許した。小宮山内膳は勇躍戦いの最前線であるこの地に仁を敷き寄せ来る的と奮戦数刻の末從容として主君に殉じたのである。戦いの直後奇しくも内膳の弟僧の拈矯がこの地を訪れ殉死した一族の霊を弔い内膳には、忠叟道節居士」の法名を贈った。後に水戸藩の儒者藤田東湖は文天祥の正気の歌に和して「或殉天目山 幽囚不忘君」と詠み崇高な至誠を貫いた内膳の忠節義烈を称えている。

この碑は内膳友晴の末裔一族と共に竜王町の小宮山清茂氏が資材を提供し敷地は地主の平山勝広氏の提供によるものである。
(大和村教育委員会設置の石碑より・昭和54年)

<参考資料> 鳥居畑古戦場
150530_1215_天目山の戦い・鳥居畑古戦場(山梨県甲州市)
鳥居畑古戦場
時、天正十年三月十日孤影消然僅かな家臣を従えて敗走つづける勝頼公の一行が、ようやく笹子峠の麓駒飼についた時、岩殿城に連絡に行った土屋昌恒が急ぎ帰り、城主小山田信茂が謀判を計っている事を言上し、勝頼公は止むなく天目山に籠り防戦する事に決め、付き従ふ者は、秋山紀伊守光継、阿部加賀守、土屋昌恒等四十三人、初鹿野から日川の渓谷づたいに田野の里に入った。其時かねて侫人の讒言により、主君勝頼公の勘気にふれて幽閉されていた小宮山内膳正友信は今こそ最後の御供をと田野の本陣に馳せ勝頼の許しを乞うたのである。
その夜天目山の頂きは残雪を残して寒気きびしく疲れはてた主従は明日の運命を悟りきってか深い眠りにおちていた。
明くれば三月十一日谷底の里、田野の夜がすっかり明けやらぬ払晩、忽然山麓より一隊の人馬が土煙を山霧にかくして押しよせて来た。織田信長の先鋒滝川一益、河尻鎮吉らの軍勢約四千である。勝頼公は己の命運がつきたことを知ると、十六才の嫡子信勝を招き、新羅三郎以来武田家に相伝された小櫻韋威楯無の鎧を着せて擐甲の式を挙げた(現在景徳院内に有り)。
秋山紀伊守光継、阿部加賀守、小宮山内膳正友信、土屋昌恒等百人に満たさる小勢を以て駒場口より攻め寄せる織田軍と戦い撃退する事数度以て勝頼公をして從容死を決するを得せしむ。生害石、甲将殿直前に三枚の扁平なる石有り、勝頼公、夫人北條氏、世子信勝公の生害せし処 現在景徳院内に有り
「山雲月を憂いて掩ふて夜色自ら惨め足たり」と史書はこの時の様子を伝える。武田家滅亡最後の激戦地なり。
(案内板より)





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150530_0748_武田八幡神社・石鳥居と総門(山梨県韮崎市)

150530_0740_武田八幡神社・北条夫人の祈願文(山梨県韮崎市)
祈願文を刻んだ 石碑
山梨県韮崎市にある神社(地図)で創建は弘仁13年(822)。
御祭神は武田武大神(たけたたけのおおおかみ・武田王)・足仲津彦命(たらしなかつひこのみこと・仲哀天皇)・誉田別命(ほんだわけのみこと・応神天皇)・息長足姫命(おきながたらしひめのみこと・神功皇后)。
神社( Wikipedia )には、織田信長による甲州征伐に際して、武田勝頼夫人( Wikipedia )が戦勝を祈願した祈願文(旧暦天正10年2月19日付・山梨県指定有形文化財)が残されており、当時の緊迫した状況を切々と訴える内容を刻んだ石碑が境内に建てられています。
(写真:武田八幡神社=5月30日午前撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 韮崎市観光協会
  http://www.nirasaki-kankou.jp/


武田八幡神社
150530_0748_武田八幡神社・総門(山梨県韮崎市) 150530_0738_武田八幡神社・舞殿(山梨県韮崎市)
総門 舞殿(手前)と拝殿
150530_0740_武田八幡神社・舞殿(山梨県韮崎市) 150530_0742_武田八幡神社・本殿(山梨県韮崎市)
舞殿 国重要文化財 本殿

<参考資料> 武田八幡神社
当社は社記によると嵯峨天皇弘仁十三年勅命によって、九州宇佐八幡をむかえ地神(武田武大神)と併祀して武田八幡宮と称したという。なお清和天皇の時、京都石清水八幡を社中に併祀し甲斐源氏の崇敬をあつめたが、鎌倉時代初期武田の荘に據って武田氏を始めた信義に至りこの郷一帯を寄進して氏神とした後、戦国時代に武田信玄は現本殿を再建(天文十年)して、子勝頼滅亡の寸前同夫人が戦勝を祈念して訴えた切切たる願文は今に伝えられ武田軍には深い関係を有する古社である。徳川氏治世後も広く敬信された神社である。

当社の文化財
重要文化財
武田八幡神社本殿
県指定有形文化財
武田八幡神社末社
若宮八幡神社本殿
武田八幡神社石鳥居 付正面石垣
石造明神鳥居。大きな亀腹(礎石)上に立つ柱には、二葉町志田の船形神社のそれと同様、見た目には胴張えい(エンタシス)のごとくに感じられ、しかもがっちり太く(径〇.四六メートル)これに比して柱上には台輪をはさんで置かれた幅の狭い鳥木や笠木は程よい真反りを示し、両端の切り方も内斜ではあるが後世のものほど極端でなく、増しも軽妙である。鳥居の貫に天正一二年(補修)の銘があり、峡北地方の中世造営の鳥居の特徴を備えている。石垣は正面神社参道から鳥居を迂回して石階をつくる特殊な形態を呈し、石積技術も優れ貴重なものである。
(山梨県教育委員会・韮崎市教育委員会設置の案内板から・平成10年)
市指定天然記念物
武田八幡神社 敬愛の樹叢


<参考資料> 北条夫人祈願文
うやまって申(す) きくわん(祈願)の事
南無きみやう(帰命)ちゃうらい(頂礼)八まん(幡)大ほさつ(菩薩) 此国のほんしゆ(本主)として 竹たの(武田)太ろう(郎)とかう(号)せしより此かた 代々まほ(守)り給ふ ここにふりょ(不慮)のけき(逆)新出き(来)たって 国か(家)をなや(悩)ます よってかつ(勝)頼 うん(運)をてんとう(天道)にまか(任)せ 命をかろ(軽)んしててきちん(敵陣)にむか(向)う しか(然)りといへとも しそつ(士卒) り(利)をえ(得)さるあいた(間)そのこころまちまちたり なん(何)そきそよし政(木曽義昌) そくはく(若干)の神りょ(慮)をむな(空)しくし あわ(哀)れ 身のふほ(父母)をすて(捨)て きへい(奇兵)をお(起)こす これみつ(是自)からはは(母)をかい(害)する也 なかんつく(就中)かつ(勝)頼るいたい(累代)十おん(重恩)のとも(輩)から けき新(逆臣)と心をひとつ(一)にして たちまちにくつかへ(覆)さんとする はんみん(万民)のなうらん(悩乱) 仏にうのさまた(妨)けならすや そもそもかつより(勝頼) いかてか(争)あく新(悪心)なからんや 思いのほのを(炎)天にあが(揚)り しんいなをふか(瞋恚猶深)からん 我もここにして あひとも(相倶)にかな(悲)しむ 涙又らんかん(闌干)たり しんりょ(神慮)天めい(命)まことあら(誠有)は 五きゃく(逆)十きゃく(逆)たるたくひ(類) しょ(諸)天 かり(仮)そめにもかこあら(加護有)し 此時にいた(至)って 神しん(信心) わたくし(私)なく かつかうきも(渇仰肝)にめい(銘)す かな(悲)しきかな(哉) しんりょ(神慮)まことあら(誠有)は うんめい(運命)此とき(時)にいた(至)るとも ねがわくは れいしん(霊神)ちから(力)をあわ(合)せて かつ(勝)事を かつ(勝)頼一し(己)につけ(付)しめたま(給)い あた(敵)をよも(四方)にしり(退)そけん ひょうらん(兵乱) か(還)へむ(つ)て めい(命)をひら(開)き しゅめう(寿命)しゃうおん(長遠) しそんはんしょう(子孫繁昌)の事みき(右)の大くわん(願) ちゃうしゅ(成就)ならは かつ(勝)頼 我ととも(倶)に しゃ(社)たん(壇) みかき(御垣) た(建)て くわいろう(回廊) こんりう(建立)の事
うやまって申(す)
天正十ねん二月十九日  みなもとの(源)かつ(勝)頼 うち(内)
(市誌上巻佐藤八郎氏執筆より・石碑文から)

※天正10年(1582)2月1日、義弟の木曽義昌が織田信長と結び反旗を翻したため、勝頼は翌日、新府城に人質として送られていた義昌の生母・側室・子供を処刑。勝頼は武田信豊を将とする討伐軍を木曽谷に派遣しますが、16日に行われた鳥居峠の戦いで木曽勢に敗北。勝頼は3月2日の高遠城落城に先立つ2月28日、諏訪から退却します。
北条夫人の祈願文の日付は2月19日。
木曽勢に対する勝利を願った夫人の祈願でしたが、その想いが届くことはありませんでした。

 <参考資料>
山梨県指定有形文化財
武田八幡宮二の鳥居 附・神器 輿石

由緒・歴史
150530_0730_武田八幡神社・二の鳥居(山梨県韮崎市)
県指定有形文化財 二の鳥居
武田八幡宮は弘仁十三年(八二二年)、嵯峨天皇の勅命により土地の神武田武大神と豊前国の宇佐八幡宮を合祀し創建された。社記に「地名の二字を冠として武田八幡宮と奉称し堅五尺擯(※)四尺の額面を賜り候」とある。二の鳥居についての記録を見ると、まず当社の氏神を定め尊崇した武田太郎信義の没後三四年を経た承久二年(一二二〇年)に信義の弟の加賀美次郎遠光が「本社末社一二三の鳥居迄造営御座候」と修覆整備したことが社記に記されている。また江戸後期の神主矢崎好貫の棟札によれば「天文の元の武田晴信朝臣父信虎朝臣の御代御新田をはじめ石木の鳥居まで残かたなく新たに造りたてんとたくみのことはしめ給ひて」とあり、二の鳥居は武田信虎の全面的な再建計画に入れられていた。本殿再建は武田晴信(信玄)によって同十年に完成されたことを示す棟札が残っている。二の鳥居の神額の裏には元禄十四年(一七〇一年)に再興、寛政元年(一七八九年)に再再興したという記録が刻まれている。この後、昭和五十四年に屋根の修理が行われ、さらに平成十一年着工の大改修に至った。
輿石は昭和初期まで鳥居の中心線上で控え柱西面より神社側に輿石東面が約三・五メートル離れた位置にあり、鳥居の下は車馬の通行が厳しく禁じられていた。その後、県道改修の際に現在地に移された。大祭には神輿の渡御が二の鳥居、輿石まで行われている。社記によると二の鳥居場は一一〇坪あり、御田祭などの催事も執り行われた。
昭和六〇年二月に二の鳥居附輿石は韮崎市指定有形文化財に指定され、さらに平成十二年十月には附に神額を特記し山梨県指定有形文化財に指定された。

構造
鳥居の形式は木造の両部鳥居で、高さ六・四メートル、□□全長八・七メートル、鏡柱々間上部四・九メートル、下部五・三メートル、転び二三センチの雄大な木割を示す。笠木・鳥木は一木造り(一部矧木あり)で穏やかな心反りを示し、その上に屋根をかける。鳥木と□□センチ下の大貫との間に額束を備え額□まえに縦一二五センチ、横八八センチの神額が掲げられている。神額には武田菱門の下に武田八幡宮と隷書体で大書され彫られているが、永い歳月風雨風雪に曝されたため、現在では殆ど判読できない。また神額□□□た鳥木付近に丹柄塗が僅に残っていることから建立当時は朱の大鳥居であったことが判る。また、各鏡柱の前後に面取りの角柱の袖柱を転びをつけて立て、上下二条の貫を通し三本の柱を連結し楔(くさび)で固定している。そらに、鏡柱と前後の袖柱にわたり一連の幅広い屋根を架けている。また、鏡柱には根巻を付け対面間隔七三センチの八角柱から直径五二センチの丸柱へ一木から削り出している。根巻の高さは九〇センチで下の貫の上面に達している。太い鏡柱の下部と上部の円柱とは上下の貫の間で継いでいる。これらの補強と雨避を考慮した特徴ある構造を有し、しかも雄大かつ均衡のとれた重量感ある形態を示す本鳥居は建立年代の確かな木造両部鳥居としては貴重な遺構である。一方、輿石は現在一辺約一・一二メートル、高さ三六センチであるが、本来の高さの半分近くが埋没し、位置も移動している。輿石側面には神主矢崎民部、村中、施主などの刻銘が見られる。

改修の経緯
鏡柱、袖柱の足元は度重なる道路舗装工事のために道路面が上がり基礎石が埋ったため腐食が進んでいた。平成十一年一月(有)大石組により鳥居を一時移動し基礎石を据え直す工事が始められた。しかし、柱足元は白蟻の被害も加わり予想を遥かに超える損傷が見られ、鳥居全体の大改修が決断された。文化財建造物保存技術協会の調査設計の後、多くの指定建築物の修復工事の実績を持つ(株)石川工務所により大改修が進み、平成十一年九月竣工を見るに至った。工事資金については韮崎市の多くの財務支援と奉賛会、氏子の理解と協力を得てこれに当てた。
 工事管理/財団法人 文化財構造物保尊技術協会
 工事施工/株式会社石川工務所 有限会社大石組
(武田八幡宮 功力利夫氏記述による案内板から・平成13年) 

<参考資料> 史跡白山城跡(北烽火台跡)
150530_0743_武田八幡神社(山梨県韮崎市)
熊に注意
甲斐源氏武田氏の祖武田信義の要害として築かれた伝承をもつ白山城は、戦国期に武田氏の領国経営の烽火台ネットワークの拠点的城郭として、甲府盆地北部における枢要な位置を占めていた。また新府城防衛の拠点であり重要な役割を担っていた。城郭史では武田氏城郭の典型例として位置付けられ、南北2箇所の烽火台を含め良好な遺構が残されている、武田氏発祥の地の城郭として、甲斐国の政治・文化・社会を考察するうえで学術的価値が極めて高く、武田氏の高度な築城技術を示す城跡としても重要である。
白山城の西側の尾根つづきの背後には標高約882mの八頭山があり、白山城をとりこむように北と南に尾根がのび、その尾根がつきるところにそれぞれ烽火台が築かれている。北のものを北烽火台、南のものをムク台と呼ぶ。
北烽火台は白山城とは八幡沢を挟んで北西約600m離れており、標高約601m。東西方向に長くのびた尾根城を堀切で区切り、そこから東側に土塁が設けられ2段の平坦地がみられる。平坦地は幅10m、長さ50mほどであり、段差のあるところに直径約4mの円形の凹みがある。
(文化庁・山梨県教育委員会・韮崎市教育委員会設置の案内板から・平成16年)





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150530_1003_臨済宗(妙心寺派) 法蓋山 東光寺(山梨県甲府市)

山梨県甲府市にある臨済宗妙心寺派の寺院(地図)。
鎌倉時代の弘長2年(1262)に蘭渓道隆が禅宗の寺院( Wikipedia )として再興し、戦国時代には武田信玄の庇護を受け諸堂の整備が行われました。
天正11年(1543)、武田氏の諏訪侵攻により捕われた諏訪頼重( Wikipedia )がこの寺に幽閉され、後に自害。また、永禄8年(1565)には謀反の疑いをかけられた信玄の長男・義信( Wikipedia )もここに幽閉された後に自害し、共に裏手にある墓地に葬られています。
(写真:臨済宗妙心寺派 東光寺=5月30日午前撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 東光寺ホームページ
  http://www.geocities.jp/saraya_ss/tokoji/


臨済宗(妙心寺派)仏蓋山 東光寺
150530_1001_臨済宗(妙心寺派) 法蓋山 東光寺(山梨県甲府市) 150530_0943_臨済宗(妙心寺派) 法蓋山 東光寺・諏訪頼重墓(山梨県甲府市)
鐘楼(手前)と仏殿 諏訪頼重墓
<写真説明>手前が信州諏訪・上原城主諏訪頼重の墓、左奥に武田信玄の長男・義信の墓、石柱に囲まれた墓地は甲府藩主を務めた柳沢吉保の子息二人の墓

<参考資料> 
国指定重要文化財 東光寺仏殿
東光寺は、蘭渓道隆によって鎌倉時代に再興された臨済宗の寺である。
仏殿は、天正十年(一五八二)の織田信長の兵火及び昭和二十年(一九四五)の戦災を免れて今日に伝えられたもので、建立年次は明らかでないが、様式からみて室町時代の建築とされている。
桁行三間、梁間三間、裳階(もこし)つきで、入母屋造、桧皮(ひわだ)葺である。江戸時代初期の修理で、裳階部分が改造され、外観の変更を余儀なくされているが、低い基壇・竿縁の天井・裳階の角柱・窓・引戸などの部分に、大陸の建築が日本化する過程を示し、清白寺仏殿(山梨市)、最恩寺仏殿(富沢町)と並んで中世禅宗様建築を知る上で貴重である。
昭和三十一年解体修理が行なわれた。
(山梨県教育委員会・甲府市教育委員会設置の案内板から・昭和49年)

<参考資料>
山梨県指定文化財(彫刻)
木造薬師如来坐像
木造薬師十二神将立像
仏殿の本尊として安置されている薬師如来坐像は、鎌倉時代に造られたもので、右手を曲げ手のほらを正面に向け、左手は膝のうえで薬壺をのせている一般的な薬師如来像である。檜材の内刳(うちぐり)された寄木造りで座高五一.五糎わが国の保守系仏師の手によって造られたと推定される。
十二神将立像は、薬師如来の守護神として本尊の三方を取り囲んでいる。これも檜材の内刳された寄木造で、玉眼が嵌入(かんにゅう)されており像高八十五糎前後でやや小柄な造りである。像の一つには弘長二年(一二六二)の墨書があり鎌倉時代の像である。しかし、技法や彩色法などの異同が認められ、造られた時期や補修の時期に差異のあることが推定される。姿態た衣服・鎧等の細部にわたって写実的に入念な仕上となっており、美術史的にも重要仏像である。
(山梨県教育委員会・甲府市教育委員会設置の案内板から・昭和62年)

<参考資料>
山梨県指定 名勝 東光寺庭園
この庭園は広さ約一,四八五平方メートル 法堂の裏手にのびる山畔を活かして上部に組まれた雄渾な中央滝を主景にして左右に展開する石組みをみせ、枯れ流れの末端に変化に富む護岸石組みの竜池をたたえた。坐視的池泉鑑賞庭園として傑出するものである。
とくに滝石組みの手法は京都の天竜寺・信濃の光前寺庭園など、寛元四年(一二四六)来朝した中国の僧蘭渓道隆に関係のある寺院のそれに共通するところから、東光寺の中興開山道隆(大覚禅師)の手になるものと推定され、従来の回遊式庭園から一変して縦の線を強調した禅庭の基準ともみられ、その後の築庭に至大な影響を及ぼしたと考えられる名園である。
(山梨県教育委員会・甲府市教育委員会設置の案内板から・昭和56年)

150530_0946_臨済宗(妙心寺派) 法蓋山 東光寺・庭園(山梨県甲府市)
東光寺庭園
この庭園は、池泉観賞式であり、その構成は山麓の傾斜地を利用した上下二段からなり、ゆるやかな斜面の石組が全庭の八割を占める景観はちから強い。
池泉の地割は鎌倉中期に初めて出現した竜池様式で、岩盤上の護岸方式に特色がある。
池中の舟石は、北宋山水画式庭園においては当然であり、単独に用いられたものとしては日本最古に属するといわれている。
山畔部は、枯滝を中心とする豪快な石組で、現存する四ヶ所の枯滝のうち特に東方(向って右側)から二番目の滝が、それに連なる枯流れとともに本庭の主景をなしている。この竜門滝は竜滝とともに鎌倉中期のころ始めて出現した新様式で、宋朝文化の所産である。
このように本庭は鎌倉時代中期の特色をよく示しており、作者も蘭渓道隆と推定される貴重な禅庭である。
(山梨県教育委員会・甲府市教育委員会設置の案内板から・昭和61年)





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150429_1556_臨済宗 乾徳山 恵林寺(山梨県甲州市)

山梨県甲州市にある臨済宗妙心寺派の寺院(地図)。
武田信玄の菩提寺として知られ、天正4年(1576)には武田勝頼が喪主となって信玄の葬儀がここで行われました。
天正10年(1582)の織田信長による甲州征伐( Wikipedia )において、武田氏滅亡後にこの恵林寺へ逃げ込んだ佐々木次郎(六角義定)の引渡し要求するも寺側が拒否。このため、快川紹喜ら僧侶たちは三門に集められ焼き打ちされました。

 安禅不須山水 滅却心頭火自涼
 あんぜんかならずしもさんすいをもちいず
 しんとうめっきゃくすればひもおのずからすずし

炎上する三門で快川紹喜が発した言葉(偈)は後に広く知られ、再興された現在の三門の両側に扁額として掲げられています。
(写真:恵林寺三門=4月29日午後撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 臨済宗 妙心寺派 乾徳山 恵林寺
  http://www.erinji.jp


臨済宗 乾徳山 恵林寺
150429_1620_臨済宗 乾徳山 恵林寺(山梨県甲州市) 150429_1603_臨済宗 乾徳山 恵林寺(山梨県甲州市)
恵林寺境内
150429_1612_臨済宗 乾徳山 恵林寺(山梨県甲州市) 150429_1605_臨済宗 乾徳山 恵林寺(山梨県甲州市)
名物の うぐいす廊下 武田不動尊・二童子像
150429_1607_臨済宗 乾徳山 恵林寺(山梨県甲州市) 150429_1610_臨済宗 乾徳山 恵林寺(山梨県甲州市)
武田信玄墓 柳沢吉保夫妻の墓

<参考資料> 乾徳山 恵林寺
臨済宗妙心寺派の名刹で、元徳2年(1330)の創建。往古は、鎌倉、円覚寺派で関東準十刹の寺格を有す。元徳2年甲斐牧ノ庄と称した当時地頭職(領主)二階堂出羽守貞藤(道蘊)が、七朝帝師と尊称された夢窓国師を招き自邸を禅院としたのに始まる。戦国時代武田信玄の尊崇を受けた快川(かいせん)和尚の入山で寺勢を高め、永禄7年(1564)信玄自ら寺領寄進し当山を菩提寺と定めた。境内には本堂・庫裡、開山堂、赤門(重文)、三重塔がならび巨刹らしい雰囲気である。
三門に掲げられた快川国師の「安禅不須山水、滅却心頭火自涼(あんぜんかならずしもさんすいをもちいず、しんとうめっきゃくすればひもおのずからすずし)」は有名。また境内の信玄公宝物館には、武田氏関係の貴重な資料を常時公開。
(山梨県甲州市設置の案内板から)

<参考資料>
重要文化財 恵林寺四脚門
丹塗りの門であるところから通称「赤門」とも呼ばれている。切妻造り、檜皮(ひわだ)葺きで、本柱、控柱ともに円柱を用い、柱には粽(ちまき)形が付けられ、柱下には石造礎盤(いしづくりそばん)が置かれている。中通しの本柱は控柱より太く大きく、これを桁行に通した頭貫(かしらぬき)で繋ぎ、その上に台輪を架し大枓(だいと)・枠・肘木・実肘木(さねひじき)を組み、軒先を海老虹梁(えびこうりょう)で繋いでいる。
このような極めて簡単な構架ではあるが、全体に木割りが大きく、その意匠は雄大であり、桃山期の豪放な気風をよく現わしている。

山梨県指定文化財
恵林寺三門 附棟札一枚
構造は、一間一戸、楼門形式、この門を「三門」と称するのは、仏殿前に位置し仏殿を法空・涅槃に擬し、そこへ入る端緒たり三解脱(さんげだつ)すなわち空門(くうもん)・無相門(むそうもん)・無願門(むがんもん)の意による三解脱門の略で、快川国師が織田軍の兵火で焼討ちを受けた折「安禅必ずしも山水を須(もち)いず、心頭滅却すれば火自(ひおのずから)ら涼し」と唱えて火定した場所に建つ。
四本の隅通し柱は、階下が角柱造り、階上部分を円柱造りとする技巧を凝らし、実肘木・板肘木・木鼻などに見られる渦巻状の絵様(えよう)は室町末期から桃山期にかけての名作技法である。小規模ながら総体的に溢れる重厚・荘厳さは、同時代の建築物の中でも逸品とされている。
(甲州市教育委員会設置の案内板から・平成7年)

<参考資料>
乾徳山(けんとくさん)恵林禅寺の沿革
当山は臨済宗妙心寺派往古は鎌倉円覚寺派で関東準十刹の寺格を有す。草創は鎌倉時代末期の元徳二年(西暦一三三〇)当時甲斐牧ノ庄と称した当地地頭職(領主)二階堂出羽守貞藤(道蘊)が、七朝帝師と尊称された夢窓国師を招き自邸を禅院としたのに始まる。
越えて戦国時代、甲斐国主武田信玄の尊崇を受けた快川国師(紹喜)の入山で寺勢を高め、永禄七年(一五六四)信玄は自らの手で寺領寄進と共に当山を菩提寺と定める。天正四年(一五七六)四月武田勝頼は父信玄の三年の秘喪をとき盛大な葬儀を厳修する。同十年(一五八二)三月勝頼は時勢に抗せず天目山下に自刃、甲斐武田氏は滅亡する。同四月三日、織田信長軍の兵火に遭い当山は諸堂宇を灰燼に帰する中で、快川国師は「安禅必ずしも山水を須いず、心頭滅却すれば火自ら涼し」と遺偈従容として火定する。
本能寺の変後、徳川家康の手により旧観に復し、また徳川五代将軍綱吉時代、甲斐国主となった柳沢美濃守吉保、同甲斐守吉里父子の外護で寺運は発展、吉保夫妻の菩提寺ともなる。庭園は鎌倉時代の作庭で国の史跡・名勝に指定されており、甲府八景「恵林晩鐘」に詠まれている。

重要文化財
 太刀(銘来国長) 一口 鎌倉時代
 短刀(銘備州長船倫光) 一口 南北朝時代
 恵林寺四脚門(中門・赤門) 一棟 桃山時代
国指定名勝
 恵林寺庭園 鎌倉時代
山梨県指定文化財
 夢窓国師坐像 一躯 鎌倉時代
 和漢朗詠集 一巻 室町時代
 恵林寺文書五点 五点 室町時代
 渡唐天神画像 一幅 室町時代
 武田晴信の墓 江戸時代
 不動明王とニ童子(築) 三枚 室町時代
 恵林寺三門 一棟 室町時代
塩山市指定文化財(カッコ内は時代)
鎧不動尊立像・釈尊像・軍配団扇・当世具足一式・食籠輪袈裟・軍神鞍・鎧・孫子の旗・諏訪神号旗・恵林寺大鋸・芦葉達磨図・不動明王図・観音像図・夢窓国師像図・快川国師像図・未宗禅師像図・五大尊十二天像図・面壁達磨像図(以上室町時代)
恵林寺文書八点(室町~桃山時代)
養朴筆隻履達磨像図・探雪筆達磨像図・白隠筆達磨像図・武田信玄軍陣影・武田信玄画・仏□槃図(以上江戸時代)
(甲州市教育委員会設置の案内板から・昭和61年)

<参考資料>
武田不動尊・二童子像
山梨県指定文化財(木造・三躯/室町時代)
信玄生前のお姿を仏法の守護神・不動明王に見立て、京から西佛所職「康清」を招き対面にて摸刻させたという等身大の坐像。
伝承によると、信玄は剃髪した毛髪を膝に混ぜ、自ら坐像の胸部に刷毛で塗りこめたと伝えられている。

<参考資料>
山梨県指定 史跡 武田信玄の墓
武田晴信(信玄)は武田信虎の長男で、大永元年(一五ニ一)の出生。天文十年(一五四一)二十一歳で家督を次ぎ、甲斐国主となる。性格武勇沈着、こよなく家臣団・領民を愛する戦国時代の代表的な武将であった。
元亀四年(天正元年・一五七三)四月十二日、病のため信州・駒場の陣中で五十三歳で没した。その十年前、永禄七年(一五六四)十二月一日、時の恵林寺住持快川和尚に宛てた「恵林寺領之事」の証文の中で、信玄自ら恵林寺を菩提寺と定めていたため、三年間の秘喪の後、天正四年(一五七六)四月に勝頼が施主となって本葬が執行された。「恵林寺殿機山玄公」と諡名される。このときの仏事一切について、快川国師が「天正玄公仏事法語」(県指定文化財」に記録している。
現在の墓は信玄霊廟「明王殿」裏手に位置し、聖域と称される。面積一八四.八平方メートル。ここに全高三四九.六センチの五輪塔一基、全高三六九.六センチの宝篋印塔ともに寛文十二年(一六七二)四月十二日、信玄公百回忌が厳修された際に、恵林寺住持荊山玄紹が武田家の遠孫・旧臣子孫五九二人の浄財を得て建立したものであることが判る。
(山梨県教育委員会・甲州市教育委員会設置の案内板から・平成14年)

<参考資料> 柳沢吉保夫妻の墓
江戸時代中期、徳川五代将軍綱吉の側近で大老格の地位にあった甲府十五万石藩主柳沢美濃守吉保( Wikipedia )と正室定子の墓で、はじめは甲府岩窪の竜華山永慶寺と真光院に建立されていたものであるが、享保九年(一七二四)三月吉保嫡男甲斐守吉里のとき、奈良の大和郡山十五万石に転出がきまり、このため同年四月十ニ日恵林寺へ改葬されたものである。
柳沢吉保は天下太平の世に異例の出世をしており、甲斐国主として優れた業績を残している。また、病弱であった正室定子を常にいたわり、市内に残る文献史料の中にもそれをうかがい知れる史料が現存している。このため、山梨県の歴史の中でも、武田信玄に次ぐ人物として知らしめる必要があるので、市指定の文化財とした。
(甲州市教育委員会設置の案内板から・平成元年) 





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150429_0957_新府城跡・本丸跡(山梨県韮崎市)

150429_1000_新府城跡・想定復元図(山梨県韮崎市)
新府城 想定復元図
山梨県韮崎市の七里岩台上南端(地図)にある新府城( Wikipedia )は、織田軍の侵攻に備え、天正9年(1581)、武田勝頼が真田昌幸に命じ築城した平山城。
天正10年(1582)3月、木曾義昌の謀反及び高遠城の落城により、勝頼は小山田信茂の岩殿城に移るため、完成したばかりの新府城に火を放ち撤退。
同年6月、本能寺の変の後に起きた武田旧領を巡る徳川氏と北条氏との争い(天正壬午の乱)において、甲斐へ軍を進める北条氏に対し、徳川家康が新府城に本陣を移し実戦に備える動きもありましたが、徳川氏と北条氏の和睦の後は実戦に利用された記録はなく、豊臣秀吉の小田原征伐による北条氏の滅亡後は廃城になったと伝えられています。
(写真:新府城跡=4月29日午前撮影、640×480拡大可能)

<管理人ひとこと>
新府城は、武田家の支配下にあった甲斐(山梨県)・信濃(長野県)の各地で見られる甲州流築城術が集約された代表的な城郭で、現在は草木が繁る遺構の至るところにその特徴を見ることができます。

<今回の見学順路>
北:専用駐車場→東出構→西出構→
西~東:搦手→井戸跡→二の丸→本丸→
南:大手桝形→丸馬出→三日月堀→首洗池→旧甲州街道→専用駐車場
※遺構の説明については案内板を参考

<参考HP>
・ 韮崎市観光協会
  http://www.nirasaki-kankou.jp/


新府城跡(北)
150429_0936_新府城跡・東出構(山梨県韮崎市) 150429_0939_新府城跡・西出構(山梨県韮崎市)
東出構 西出構
150429_0934_新府城跡・出構案内図(山梨県韮崎市) 150429_0945_新府城跡・西堀(山梨県韮崎市)
出構の位置(案内図) 西堀

<参考資料> 新府城跡出構
出構(でがまえ)は城の外郭の一部を長方形に堀の中へ突出させた大型の土盛構造である。東西に約百メートルへだてて平行に二本(東出構・西出構)が築かれている。城の裾に沿って彫られた堀は幅約七メートル、深さ約二.五メートルの断面逆台形をした箱堀で、その外側には湿地帯が広がり、深い堀と湿地帯を含め防御施設となっている。出構は新府城跡のみにみられる施設で、鉄砲陣地とも堀の水位を調整するためのダム的な施設ともいわれるが、その機能は解明されていない。
(韮崎市教育委員会設置の案内板から・平成26年)

<参考資料>
天正9年に武田氏の党首武田勝頼が新たに府中の中核として築造した新府城は、韮崎市を貫通する釜無川と塩川の2大河川の開削によって形作られた七里岩(しちりいわ)台地上にあり、その西崖を活かした要害の地に築城されている。
主郭(本丸)からは、富士山・甲府盆地・八ヶ岳が一望でき、諏訪・佐久・駿河等への交通網を掌握しやすい立地にある。また、本城の北側には能見城があり、北の守りの要となっている。釜無川をはさんだ対岸には、甲斐武田氏の初代にあたる武田信義が治めた地域が広がり、その歴史を示す願成(がんしょう)寺の木造阿弥陀如来及び両脇侍像(りょうわきじぞう)、武田八幡宮、白山城跡や武田信義館跡などの文化遺産が点在している。新府城を中心とした新たな府中の様子は未解明な点が多いが、家臣団の屋敷位置に描かれた絵図の存在や屋敷地の伝承を持つ土塁跡などの遺跡が確認されている。新府城跡とその周辺には、本城が交通・軍事・政治・経済などの様々な条件のもとに築造された経緯を知り得る良好な歴史的景観が保たれている。

能見(のうけん)城跡
150429_0845_能見城址(山梨県韮崎市)
能見城址
新府城の北側の守りとして築造されたと考えられ、土塁と堀が七里岩台地を横断するように東西方向に作られている。築造は武田氏とも徳川氏ともいわれているが、定かではない。

隠岐殿(おきどの)遺跡
戦国時代の終わり頃に築造された礎石建物跡や様々な道具が発見された遺跡である。新府城と深い関わりがあると考えられる。

新府城跡の位置づけ
新府城跡の本丸と二の丸の空間構成は、武田氏館(躑躅ヶ崎館)跡の方形の堀と土塁で囲まれた主郭と西曲輪の配置に類似した形態をなしており、新府城は武田氏の守護館を踏襲して造営されたと考えられる。当時の文献史料においても、「新御館」「新館」「御館韮崎」「館」と記されており、軍事的施設という認識以上に、館を意識した城郭であったことが窺える。
館は領国支配の中心的な役割を果たし、政権を執行するための重要かつ公的な場所である。新府城は、単に軍事的目的のためだけに築城されたものではなく、甲斐を中心に信濃・駿河・遠江(とおとうみ)・三河・西上野(にしこうずけ)・美濃・飛騨に広がる武田領国を統治する政庁=館としてつくられたものである。
(文化庁・山梨県教育委員会・韮崎市教育委員会設置の案内板から・平成24年)

<参考資料> 新府城跡北側の堀
新府城跡の北側山裾には外側に向かって帯廓・土塁・出構・堀などの諸施設が設けられているが、西堀(水堀)意外の堀跡は、周辺の湧水を水源とした水田が開かれるなど、廃城後の土地利用による改変で旧状は不明であった。
環境整備事業にともなう発掘調査により、中堀では、山際から埋もれていた深い堀跡が確認された。この発見された堀は、断面が逆台形状となる箱掘(はこぼり)と推定され、西堀の東端から始まり、堀幅は6~7m、深さは2.5m前後で、西出構の手前で閉じている。また堀の北側には堀と平行する低い土手状の高まりが見られる。堀は直線ではなく2箇所に折れ(※堀・土塁などを屈曲あるいは折り曲げた構造で、側面から敵への攻撃を可能にする。「横矢」ともいう。)をもった構造で、城側の土塁も同じ箇所で折れをもつ。この堀は、西出構の東側と東出構の西側の両方で閉じている。東出構の東側では深い堀は確認できていない。今回の調査によって、築城時には中堀・東堀の山際は幅約6~7m、深さ2.5mの深い堀と、その北側は幅30m前後の湿地帯がセットになって城の北側を防御していたことが明らかとなった。そのため整備では深い堀跡と浅い湿地帯の形状を復元し、新府城の使用時の状況を伝えることを主眼とした。西堀(水堀)は、発掘調査を実施せずに現状のまま樹木の間伐と植栽などの修景を行った。
(文化庁・山梨県教育委員会・韮崎市教育委員会設置の案内板から・平成23年)


新府城跡(西~東)
150429_0947_新府城跡・搦手桝形虎口(山梨県韮崎市) 150429_0948_新府城跡・搦手桝形虎口(山梨県韮崎市)
搦手・桝形虎口
150429_0950_新府城跡・井戸跡(山梨県韮崎市) 150429_0953_新府城跡・二の丸跡(山梨県韮崎市)
擂鉢状の井戸跡 二の丸
150429_0953_新府城跡・蔀の構(山梨県韮崎市) 150429_0958_新府城跡・武田勝頼公霊社(山梨県韮崎市)
蔀(しとみ)の構 本丸:武田勝頼公霊社

<参考資料> 新府城跡
新府城は、天正9(1581)年に武田勝頼によって築城された。城は未完成であったが、同年の9月頃には友好諸国に築城が報じられ、12月24日に躑躅ヶ崎館(武田氏館跡 山梨県甲府市)からの移転が行われた。しかし、天正10年3月3日、勝頼は織田軍侵攻を目前にして自ら城に火を放ち退却し、3月11日に田野(山梨県甲州市)において、夫人と息子信勝ともに自害し、武田氏は滅亡した。その後、同年に徳川氏と北条氏による甲斐国争奪をめぐる天正壬午の戦いがおこり、徳川家康は新府城を本陣として再利用した。
新府城が立地する七里岩(しちりいわ)は、八ヶ岳の山体崩壊にともなう岩屑流が、西と東側を流れる釜無川と塩川の侵食によって形成された台地で、西側の断崖絶壁は韮崎から長野県の蔦木(諏訪郡富士見町)まで約30km続き、奇観を呈している。台地上には、100を越す「流れ山」と呼ばれる小高い丘・小山があり、新府城は七里岩台地南端の標高約524mの「西の森」と呼ばれた小山に築かれ、西側は釜無川をのぞむ急崖となっている。
城の土の切り盛りによって造成が行われ、山頂の本丸を中心に、西に二の丸、南に西三の丸・東三の丸の大きな廓が配され、北から東にかけての山裾には堀と土塁で防御された帯廓がめぐり、南端には大手桝形・丸馬出・三日月堀、北西端には搦手(からめて)があり、全山にわたって諸施設が配置されている。搦手の廓は東西100m、南北25mの東西方向に細長い長方形をしており北側には水堀と土塁、東から南側にかけては空堀、西側は比高差90m程の七里岩の断崖となっている。城の北西隅につくられている乾門は、西側は七里岩の崖、東側が水堀でこの間を土橋でわたる構造で、大手と同様に内側が大きく、外側が小さい土塁によって囲まれたやや変則的な門の桝形虎口で、桝形内部空間は東西約13m、南北約12mの広さがあり、外側門(一の門)は北西角、内側門(二の門)は南東隅寄りに設けられている。
(文化庁・山梨県教育委員会・韮崎市教育委員会設置の案内板から・平成19年)

<参考資料> 井戸跡
本遺構は、調査前の上端の直径が32mある擂鉢状の大きな窪地で、発掘では現状の地表面から4mの深さになっても底に到達しなかった。七里岩台地の堅い地盤を堀りくぼめ、浸み出した水や雨水を集める構造であったと思われる。井戸底まで螺旋状の通路が設けられる巻巻(まいまい)井戸の可能性もあったが、その遺構を確認できていない。整備では、検出した井戸内側斜面を保護するため植栽(リュウノヒゲ等)し、見学通路として井戸の中に至る戒壇を北側に設けた。
なお、北西100mの帯廓にも井戸跡とみられる同様の形状の窪地がある。
(文化庁・山梨県教育委員会・韮崎市教育委員会設置の案内板から・平成23年)

<参考資料> 史跡 新府城跡
新府城は武田勝頼によって天正九年(一五八一年)二月に築城着手され、その完成したのは同年十二月であった。それまで甲府躑躅崎の館城になった勝頼は四囲の情勢から考えてこの天険を利用する以外に方策がなかったのである。しかし時すでに遅く天正十年三月三日織田軍の侵攻を前に自ら城を焼いて東方、郡内領岩殿城を指して落ちた悲劇の城跡である。本郭は南北六〇〇米、東西五五丸米、外堀の水準と本丸の標高差八〇米、型式は平山城で、石垣は用いない。最高所は本丸で、東西九〇米、南北一二〇米、本丸の西に「シトミの構え」を隔てて二之丸があり大手に続く。堀は北西から北、北東へ巡り、北方の高地からの敵襲に備えて、十字砲火を浴びせるための堅固な二ヶ所の「出構え」が築かれている。「シトミの構え」、「出構え」は新府城の特色で防御のために工夫されたもので特に「出構え」が鉄砲のような新鋭兵器を持って敵の攻撃に対抗するために工夫された構えといわれている。

武田氏の系図
甲斐源氏の祖、源義光の第三子義清は市河荘司として甲斐に土着した。その子清光は八ヶ岳山麓の大八幡・熱那・多摩の三荘を掌握し、逸見一帯を甲斐源氏の本拠とした。その子太郎信義は武田の荘(韮崎市神山町武田)にあって、初めて武田を名乗り、武田の氏祖となる。

清和天皇-貞純親王-源経基-満仲-頼信-頼義-(義家・義光)
義家(八幡太郎)
義光(新羅三郎)-義清-清光-信義(武田の氏祖)-信光-信政-信時-時綱-信宗-信武-(信成・氏信)
信成(甲斐源氏)-信春-信満-信重-信守-信昌-信縄-信虎-
氏信(安芸源氏)
晴信(信玄)-勝頼-信勝

天正十年三月(一五八二)、信玄の第四子武田勝頼、信勝の父子は天目山に滝川一益と戦い、父子自殺し武田の歴史が終わる。
(案内板から)

<参考資料> 史跡 新府城跡
新府城は、天正十年三月織田軍の侵攻を前に、武田勝頼が自ら火を放って東方郡内領岩殿城を指して落ちていった武田氏滅亡の歴史を伝える悲劇の城跡である。
本城は南北六〇〇メートル、東西五五〇メートル、外堀の水準と本丸の標高差八〇メートル。型式は平山城で、近世城郭のような石垣は用いず、高さ約二・五メートルの土塁を巡らしている。
最高所は本丸で、東西九〇メートル、南北一二〇メートル、本丸の西に蔀の構えを隔てて二の丸があり馬出しに続く。本丸の東に稲荷曲輪(いなりくるわ)、二の丸を北方に下れば横矢掛りの防塁があり、その外側に堀を巡らしている。堀は北西から北、北東へと巡り、北方の高地からの敵襲に備えて十字砲火を浴びせるための堅固な二ヶ所の出構が築かれている。三の丸の南方には大手が開け望楼があり、三日月形の堀とその外側に馬出しの土塁が設けてある。本丸と東西三の丸、三の丸と大手等の間には、帯曲輪、腰曲輪がある。搦手にも望楼がある、蔀の構、出構は新府城の特色で防御のために工夫されたもので、特に出構は鉄砲のような新鋭兵器を持って敵の攻撃に対抗するために工夫された構えといわれている。
(文化庁・山梨県教育委員会・韮崎市教育委員会設置の案内板から・昭和60年)

<参考資料> 石祠・武田勝頼公霊社
勝頼公霊社は、武田氏滅亡後当地方民が国主の恩徳を追慕し新府城守護神・藤武神社の北西の地を相して石祠を建立し、勝頼公の心霊を納め之を祀り勝頼神社と称し 毎年卒去の当日は慰霊祭を執り行い「お新府さん」と呼び藤武神社とともに地元民から親しまれてきた。
勝頼神社建立の時期は、貞享、元禄(一六八四年)の頃と言い伝えられている。
(新府藤武神社氏子総代設置の案内板から)


新府城跡(南)
150429_1011_新府城跡・南大手門桝形虎口跡(山梨県韮崎市) 150429_1012_新府城跡・南大手門桝形虎口跡(山梨県韮崎市)
南大手門桝形虎口跡
150429_1013_新府城跡・大手門虎口跡(山梨県韮崎市) 150429_1017_新府城跡・三日月堀跡(山梨県韮崎市)
大手門虎口跡 三日月堀跡

<参考資料> 国史跡 新府城跡
新府城は、正式には新府中韮崎城といい、天正九年(一五八一)春、武田勝頼が甲斐府中ろして、城地を七里岩南端韮崎の要害に相し、武将真田昌幸に命じて築かせた平山城である。勝頼がこの地に築城を決意したのは、織田信長の甲斐侵攻に備え、韮崎に広大な新式の城郭を構えて府中を移し、これに拠って強敵を撃退し、退勢の挽回を期した結果であろう。築城工事は昼夜兼行で行われ、着工後八ヶ月余りで竣工した。ついで城下町も整ったので、新府韮崎城と名づけ、同年十二月、甲府からここに移り、新体制を布いたのであった。しかし戦局は日に悪化して翌年三月、勝頼は織田軍の侵入を待たず、みずからこの城に火を放って退去するのやむなきに至り、天目山田野の里に滅亡の日を迎えたのであった。廃墟と化したこの城も、同年六月本能寺の変で織田信長が亡び、徳川・北条両氏が甲州の覇権を争うと、家康はこの城跡を修復して本陣とし、われに五倍する兵を率いて若神子に布陣する北条氏直を翻弄して有利に導き名城新府の真価を発揮したのである。この城は八ヶ岳火山の泥流による七里岩の上にあり、その地形をよく生かして築かれたその城地の特色は城外から俯瞰されないことで縄張りの特徴は北方に東西二基の出構を築き、鉄砲陣地とした点で、従来の城郭は、頂上の本丸を中心に西に二の丸、南の三の丸、大手、三日月堀、馬出、北に出構、搦手口、東に稲荷曲輪、帯曲輪があり北から東に堀が繞らされている。史跡指定区域は約二〇ヘクタールに及ぶ広大なものであるが、この外側には部将らに屋敷跡と伝えられる遺構・遺跡が散在している。
(文化庁・山梨県教育委員会・韮崎市・韮崎市教育委員会・韮崎市観光協会設置の案内板から・昭和59年)

能見城と周辺について
<参考資料>
守屋一族発祥の地
往時此ノ附近ハ武田信玄之家臣守屋親兵衛尉定知ノ守護シ来リシ地域也
此ノ風光明媚ナル勝地ハ萬民等シク賞嘆シ垂涎措ク能ハサリシ處咬龍ハ永ク池中ノ者タラス茲ニ特機到来シ萬民ノ福祉高揚ノ為吾等氏子相謀テ神域開放ノ擧ニ贊スルニ至ル
希ハ神霊此挙ヲ嘉納シ守護神トシテ本土ノ繁栄ニ未来永劫ニ神徳灼方ニ萬劫ノ鎮護ノ御手ヲ垂レ給フコトヲ茲ニ能見城氏神域変革ノ経緯ヲ記シ本碑ヲ建立ス
(氏代表 守屋逸男氏による碑文から・昭和卅五年)

<参考資料> 
中世の豪族 穴山氏紹介
武田氏と穴山氏の系図

清和天皇-貞純親王-源経基-満仲-頼信-頼義-(義家・義光)
義家(八幡太郎)
義光(新羅三郎)-義清-清光-信義(武田の氏祖)-信光-信政-信時-時綱-信宗-信武-(信成・氏信・義武)
<武田家>信成(甲斐源氏)-信春-信満-信重-信守-信昌-信縄-信虎-晴信(信玄)-勝頼-信勝
氏信(安芸源氏)
<穴山家>義武(1代)-満春(2代・武田家13代信満と兄弟)-信介(3代・武田家15代信守と兄弟)-信懸(4代)-信綱(5代)-信友(6代)-信君(7代梅雪・信友と晴信の姉である南松院との子供)-勝千代(8代・梅雪と晴信の娘である見性院の子供)
※穴山信君(梅雪)は武田晴信(信玄)の甥、勝頼とは従兄弟の関係

系図解説
穴山氏初代、二代は穴山に居館を置き峡北地方一帯に版図を拡大す。
三代から河内(南巨摩郡)に移る。六代信友の妻は、晴信(武田信玄)の姉、七代信君(穴山梅雪)の妻は、晴信の娘で、武田氏と婚姻関係にあり、本姓 武田、在名 穴山と称す。

穴山氏の史蹟
居館(穴山氏の宅地)
甲斐国誌に「次第 窪、重久ノ間、敷場ト言処ニ東西四町、南北三町ノ地」
氏神(若宮八幡 源氏の守神)
甲斐国誌に「穴山村重久組ニアリ 除地百三拾ニ坪、旅所、桟敷ノ地名アリ」
穴山氏の墓(穴山町久保区)
大竜山 満福寺の境内にあり、昭和五十四年 韮崎市より文化財に指定
詰城
記録には明らかでないが能見城と言われている。
(ふる里創生事業実行委員会設置の案内板から・平成5年)





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120519_1429_北杜市から望む甲斐駒ケ岳(山梨県北杜市)

山梨県北杜(ほくと)市を移動中(地図)に出会った風景。
甲斐駒ケ岳は、山梨県北杜市と長野県伊那市にまたがる標高2967mの山で、日本百名山などにも選定されている南アルプスの名峰。
(写真:山梨県北杜市小淵沢町の七里岩ラインから望む甲斐駒ケ岳=19日午後撮影、480×640拡大可能)

<参考HP>
・ 北杜市ホームページ
  http://www.city.hokuto.yamanashi.jp/
・ 北杜市観光協会
  http://www.hokuto-kanko.jp/


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111029_1349_高原大橋から望む八ヶ岳(山梨県北杜市)

山梨県北杜市の川俣川渓谷にかかる高原大橋(地図)から撮影した八ヶ岳の様子。
(写真=29日午後1時30分頃撮影、640×480拡大可能)

<管理人ひとこと>
紅葉スポットとして有名な高原大橋から望む八ヶ岳。県道沿いに設けられた駐車場は県外車でいっぱい(写真参照・クリックで拡大可能)でしたが、幸いにも停めることができ、写真の風景を楽しむことができました。
紅葉スポットとしては、上流に架かる東沢大橋が有名とか。機会があれば訪ねてみたいですが、高原大橋からでも十分過ぎるくらい素晴らしい風景でした。

<参考HP>
・ 北杜(ほくと)市ホームページ
  http://www.city.hokuto.yamanashi.jp/
・ 北杜市観光協会
  http://www.hokuto-kanko.jp/


高原大橋から望む八ヶ岳と富士山 (10月29日)
111029_1348_高原大橋から望む富士山(山梨県北杜市)
高原大橋から望む富士山
111029_1343_高原大橋から望む八ヶ岳(山梨県北杜市)
高原大橋から望む八ヶ岳
111029_1353_高原大橋から望む八ヶ岳(山梨県北杜市)
高原大橋から望む八ヶ岳





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