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管理人の思いつくまま、気の向くまま、長野県内の町や村の話題を取り上げています。

160814_1349_龍岸寺にある真田隠岐守信尹の墓(山梨県北杜市)

山梨県北杜市長坂の徳雲山 龍岸寺(地図)にある、真田阿波守昌幸の弟で、松代藩初代藩主信之や大坂の冬の陣・夏の陣で活躍した信繁(幸村)の叔父・真田隠岐守信尹( Wikipedia )の墓。
天正10年(1582)、織田信長による甲斐征伐で武田家が滅亡した後、徳川家康に仕え、真田本家と徳川家との仲介を務めました。
NHK大河ドラマ「真田丸」では俳優の栗原英雄さんが演じられています。
(写真:山梨県北杜市長坂の龍岸寺にある真田隠岐守信尹と子孫の墓=8月14日午後撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 北杜市観光情報サイト(ほくとナビ)
  http://www.hokuto-kanko.jp/


曹洞宗 徳雲山 龍岸寺
160814_1357_真田隠岐守信尹の菩提寺・徳雲山 龍岸寺(山梨県北杜市) 160814_1354_真田隠岐守信尹の菩提寺・徳雲山 龍岸寺(山梨県北杜市)
NHK大河ドラマ 「真田丸」関連の資料も展示

<参考資料>真田隠岐守信尹の墓
真田信尹(信昌)は、真田幸隆(真田家初代)の四男、すなわち昌幸(上田城主幸村の父)の弟である。昌幸とともに若年より武田信玄に仕え、武田一族の加津野家を継ぎ、加津野市右衛門、ついで同隠岐守と称している。後、真田姓に復する。天正10年(1582年)の武田氏滅亡後は、いち早く徳川家康に仕えた。同年9月昌幸が家康に属したのは、信尹の斡旋による。この後も、昌幸と徳川との仲介役をつとめている。一時会津の蒲生氏郷に仕え後、徳川家へ帰参、旗本奉行となり、関ヶ原、大阪(※坂)両陣に供奉し、その功績により千石加増され合計四千石となる。慶長19年(1614年)甲斐国巨摩郡の内に、采地をあたえられ御使番となる。慶長年間、龍岸寺6世利山玄益和尚の時本堂の再建、諸堂を建築して龍岸寺中興開基となった。この故に真田家家紋の六連銭が寺紋となっている。当時大蔵村(須玉町大蔵)に居住し、現在その屋敷跡を残している。寛永9年(1631年)5月、86歳で没、知行地でもあった龍岸寺に葬られた。この墓地には、信尹夫妻以下3代が葬られている。
(北杜市教育委員会設置の案内板から)





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160228_1618_若神子城跡・薬研掘(山梨県北杜市)

山梨県北杜市須玉町(地図)にある天正壬午の乱における北条方が布陣した城跡( Wikipedia )。
天正10年(1582)、本能寺の変の後、武田家の領地であった信濃・上野・甲斐の支配をめぐり、北条・徳川・上杉家が争った天正壬午の乱において、上杉景勝との争いを断念し、信濃を南下した北条軍が徳川軍と対峙した場所と伝えられています。
(写真:北条軍が布陣した若神子城の薬研掘跡=2月28日午後撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 北杜市観光情報サイト ほくとナビ
  http://www.hokuto-kanko.jp/
・ 津金學校(旧北杜市須玉歴史史料館)
  http://tsugane.jp/meiji/


若神子城跡
160228_1629_若神子城跡・南側(山梨県北杜市) 160228_1633_若神子城跡・大手の虎口付近(山梨県北杜市)
登城口 大手の虎口
160228_1636_若神子城跡・主郭(山梨県北杜市) 160228_1620_若神子城跡・案内板(山梨県北杜市)
若神子城跡主郭 若神子城周辺の砦跡

<参考資料> 若神子城
若神子城は「古城」あるいは「大城」とよばれる遺構を中心に、東に北城、湯沢の西に南城の三ヶ所からなる山城の総称である。連郭式といわれる中世の古い形態を残す山城で、新羅三郎義光によって築かれたと云伝えられている。「甲斐国志」に「若神子、多麻庄ニ属セリ、天正壬午八月ヨリ北条氏直本陣ヲ居キシ処…」とある。即ち、天正十年(一五八二年)武田氏滅亡后、信州から侵攻した北条氏直の相模勢と家康率いる徳川勢が対峙した時、古城に篭った北条軍が築構した薬研掘が主郭部から二ヶ所、発掘調査によって、検出された。更に主郭部の東端から厚く焼土が堆積した跡が発見され、南端部からは見張台の跡と思われる柱穴と掘り方も検出された。
往時「塩の道」ならぬ「のろしの道」の情報、通信拠点としての若神子城に、つるべ式狼火台を復元し、戦国の情報伝達を今に伝え、生きた歴史教育の一助になることを願います。
(案内板から)

<参考資料> 天正壬午の乱と薬研掘の跡
天正十年壬午(一五八二年)三月、新羅三郎義光以来の名門武田氏は信玄没後十年をへずして織田信長により悲劇的な滅亡を遂げた。その信長も六月、本能寺の変で明智光秀に殺された。この為、甲斐の国は、小田原の北条氏直と徳川家康との係争の地となった。この戦いを天正壬午の乱という。
家康は韮崎の新府城に陣し、氏直に若神子に本陣を構え、その時の八月から九月初旬にかけて、この城も修築がおこなわれた。薬研掘は、幅一メートル、深さ一.二メートル、長さ十メートル、発見され、規模と配置から構築途中の段階で放置された、当時ものと推定されています。薬研掘の名は、断面がV字形をした漢方薬の薬種を粉砕する薬研という道具に似ているので、その名がある。戦いは、津金衆・小尾衆など武田の遺臣たちを巧みに保護利用した、家康が大豆生田砦、獅子吼城の戦いで勝利を得た。
(案内板から)

<参考資料> ほくと 山城の里
大治5(1130)年、常陸国(茨城県)から甲斐国に配流となった源義清・清光親子の土着は、甲斐国に大きな歴史のうねりをもたらしました。甲斐源氏の誕生です。
清光(1110~1168)は、御牧(馬を飼育するための官営の牧場)に近い逸見(八ヶ岳南麓の台地一帯を指す古い地名)に目を付け、ここを本拠とし、逸見清光と名乗りました。清光が本拠とした北杜市域には、若神子城跡(古城・南城・北城)、谷戸(やと)城跡、源太ヶ(げんたが)城跡のような山城のほか、海岸寺、正覚(しょうがく)寺、長泉寺といった寺院まで、初期甲斐源氏にまつわる伝承が多くあり、戦国大名武田氏に繋がる甲斐源氏は、ここから甲斐国全域に広がりました。
八ヶ岳南麓台地をはさむ釜無川・塩川沿いには、諏訪あるいは佐久方面へ抜けるための街道が発達しており、境を接する信濃(長野県)の武士団と戦いが起こるとまず初めに被害を受けるのが八ヶ岳台地でした。街道沿いに多くの山城が築かれているのはそのためで、そこを本拠とする武川(むかわ)衆・津金(つがね)衆といった地域武士団の防衛拠点となりました。また、川沿いの見通しのより地形を活かして烽火台(のろしだい)網が整備され、情報は武田氏の本拠府中(甲府)に集めたと考えられています。
天正10(1582)年、武田氏滅亡後の甲斐国の領有をめぐり徳川家康と北条氏直が争った天正壬午の乱の戦いでは、信濃側から甲斐に侵入した北条方の本陣として若神子城(北城)が築かれました。北杜市域は主戦場となり、この時いくつかの城が北条氏により修築された推測されています。
(山梨県・北杜市設置の案内板から)





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150530_1155_曹洞宗 天童山 景徳院(山梨県甲州市)

山梨県甲州市大和町田野(地図)にある曹洞宗の寺院。
天正10年(1582)3月、織田信長の甲州征伐( Wikipedia )により、新府城( Wikipedia )を追われた武田勝頼は、岩殿城主・小山田信茂( Wikipedia )のもとに落ち延びます。しかし、その途中信茂の離反に遭い、遂に進退窮まり、追撃してきた滝川一益ら織田軍を家臣らが迎え撃つ(四郎作・鳥居畑古戦場)なか、北条夫人・嫡子信勝とともに自害したのがこの地と伝えられています。
甲州征伐の後、甲斐を領した徳川家康は、家臣の尾畑勘兵衛に命じて田野寺(現在の景徳院)を建立し、勝頼と家臣の菩提を弔いました。
(写真:武田氏最後の激戦地となった景徳院=平成27年5月30日撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 甲州市観光協会
  http://www.koshu-kankou.jp/


曹洞宗 天童山 景徳院
150530_1210_曹洞宗 天童山 景徳院(山梨県甲州市) 150530_1211_曹洞宗 天童山 景徳院(山梨県甲州市)
曹洞宗 天童山 景徳院
150530_1207_曹洞宗 天童山 景徳院(山梨県甲州市) 150530_1158_曹洞宗 天童山 景徳院(山梨県甲州市)
没頭地蔵 旗竪松
150530_1202_曹洞宗 天童山 景徳院(山梨県甲州市) 150530_1205_曹洞宗 天童山 景徳院(山梨県甲州市)
甲将殿 武田勝頼と一族の墓

<参考資料>
山梨県指定史跡 景徳院境内
本史跡は武田家最後の武将勝頼公及び同夫人、子信勝並びに将卒ら約五十名が自害した地である。
勝頼は武田信玄の第四子として天文十五年(一五四六)に生まれた。母は諏訪頼重( Wikipedia )の女である。天正元年二十八歳で甲斐国守となった。父信玄の志を継ぎ天下統一の業を進めたが、天正三年織田信長・徳川家康の軍と長篠に戦い( Wikipedia )大敗した。以来勢力回復のための進攻作戦で、数年の間敵を国内に入れなかったが、ついに天正十年(一五八二)織田、徳川連合軍の国内侵略を許した。

150616_1049_JR大月駅・岩殿山(山梨県大月市) 150616_1041_JR大月駅(山梨県大月市)
岩殿城(山梨県大月市)

勝頼は新府で前後策を講じ、小山田信茂の意見をもちい、同年三月三日居城を自らの手で焼き軍内の岩殿城( Wikipedia )に向かったが、信茂の叛にあい、やむなく駒飼から天目山に入ろうとしてならず、力つき主従田野において最後をとげた。時に天正十年三月十一日であった。
その後家康は甲斐に入国、勝頼ら将仕の菩提をとむらうため、勝頼の忠臣小宮山内膳友晴( Wikipedia )の弟、広厳院第七世拈橋(ねんきょう)を開山として田野寺を建立した。それが今の景徳院である。現甲将殿(影殿)の裏に墓地を設け、勝頼主従を手厚く葬った。
境内には世子信勝に「擐甲」(かんこう)の礼を行った場所といわれる「旗竪ての松」、勝頼親子が自害された所と伝えられる「生害石」などがあり、甲将殿には主従の牌子が祀られている。
(山梨県教育委員会・大和村教育委員会設置の案内板から・平成17年)

<参考資料> 
山梨県指定史跡 武田勝頼の墓
武田勝頼は武田信玄の第四子である。天文十五年(一五四六)、諏訪頼重の娘を母として諏訪に生まれ、諏訪四郎勝頼と名乗る。信玄没後天正元年(一五七三)に家督を継いだ。
天正三年(一五七五)五月、武田軍は長篠合戦で大敗し、以後勝頼は領土の拡大より領地の支配といった内政に力を入れるようになる。また、信州・駿府からの敵軍侵攻に備え、天正九年(一五八一)新府築城に着手、九月には落成し、十一月から十二月頃に躑躅ヶ崎の館から新府城に移ったようである。
天正十年(一五八二)二月二十五日、親族衆で富士川沿いの河内領を支配していた穴山信君が織田側に寝返り、三月三日に徳川家康とともに北上、さらに信州の高遠城を落とした織田信忠が南下し、親族をはじめ味方の多くが勝頼の元を離れていった。勝頼は小山田信茂の岩殿城へ向かうべく、住み始めたばかりの新府城に火をつけた。一行が勝沼を過ぎたところ小山田信茂も入城を拒否し、勝頼の進退は窮まった。新府を出たときには五~六〇〇人ほどいたとされる従者は、このときには四~五〇人しかいなかったといわれる。
田野の地で一行は、平屋敷に柵を設け陣所とした。三月十一日、滝川一益が情報を聞きつけ、滝川益重・篠岡右衛門に命じて包囲させた。逃れがたいことを悟った勝頼は自刃して果てた。勝頼三十七歳、北条夫人十九歳、嫡男信勝十六歳であった。
甲斐国曹洞宗総本山・中山広厳院の住職拈橋(ねんきょう)の兄は、謹慎の身にも関わらず武田家に殉じた小宮山内膳友晴といわれている。拈橋は田野に入り、敵味方の死体が累々としているなか、刀の中子に姓名を朱書きしている武田の家臣に戒名をつけていった。勝頼親子の遺骸は、陣を張った高台の中腹に埋葬し、後に地元の人々が首のない三体の地蔵尊を安置した。「没頭地蔵」と呼ばれ、境内の一画に祀られている。
織田信長が没すると、甲斐国は北条氏直と徳川家康が領地を争ったが、家康が甲斐国主に納まった。家康は国内安定化のため武田遺臣の懐柔策をとり、武田遺臣の優遇、兵火に焼かれた恵林寺等の復興を指示するとともに、武田遺臣・尾幡勘兵衛に命じ、勝頼の菩提寺を田野に建立させた。建立にあたり田野郷一円を茶湯料として、一山を寺領として寄進した。当初「田野寺」と称したが、後に勝頼の戒名である「景徳院」となった。天正十六年(一五八八)に伽藍がほぼ完成したというが、本堂・庫裡・御霊屋・山門などが建ち並ぶ、壮大なものであったと伝えられている。第一世には、広厳院住職であった拈橋が入ることとなった。
武田勝頼の墓は、甲将殿の背後に建立されている。中央に勝頼の宝篋印塔、向かって右手に北条夫人の五輪塔、左手に信勝の五輪塔の三基が長方形の基壇に据えられ、その両脇には正方形の基壇上に殉難者供養塔が二基据えられている。勝頼宝篋印塔の塔身側面に「相値二百年遠忌造立 當山十一世要導叟」「維時 安永四乙未歳 三月十一日」と刻まれており、勝頼の命日である安永四年(一七七五)三月十一日に、当時の第十一世住職の要導が二百年遠忌で建立したとある。
景徳院では平成十八年度に県費補助事業として、武田勝頼の墓の保存修理事業を計画し、十二月に工事着手したが、その最中基壇内部から五千点を越える経石が出土した。
そのため甲州市では、平成十九・二十年度に出土した経石の整理と分析を、二十年度には甲将殿周辺の発掘調査を行い、寺伝にはない勝頼没後から二百年遠忌までの経過を辿った。
整理作業の結果、経石は中央基壇から四七一〇点、左右基壇から五四五点、その他としてニ〇点の、計五ニ七五点あること、中央基壇の経石は法華経を、左右基壇の経石は金剛般若波羅蜜経・宝篋印陀羅尼経・首楞厳神呪(しゅりょうごんしんじゅ)など、複数の経典を写経していることなどが判った。特筆は、右基壇から出土した「戒名文字史料」裏面に「安永九年」(一七八〇)の銘があるのに対し、中央基壇からは「安永三年」(一七七四)銘の経石が三点出土していることである。
また、文献によると勝頼二百年遠忌は、先述の「安永四年」ではなく、安永八年(一七七九)に執行されたことが明らかで、三月十五日から二十一日までの七日間に及ぶ厳粛なものであった。
発掘調査の成果では、甲将殿の正面・背面側に近くの沢から土砂を運び入れ、大造成の結果現在のような平坦面が形成されたことが判った。なお、武具や人骨など、古戦場に結びつく直接的な遺物は出土していない。
二百年遠忌による墓が建立されるまで、甲将殿とその中に安置された勝頼・北条夫人・信勝の坐像と、殉難諸士の位牌が「墓」であった。つまり、甲将殿が建つこの一帯が「墓域」であり、聖域として勝頼公の慰霊に供されている。
勝頼没後一二四年を経過した宝永三猿(一七〇六)、甲州城主柳澤吉保の招きに応じて来甲した荻生徂徠が記した紀行文『峡中紀行』に戦没者の供養の様子が書かれている。
住持の僧余に語る。遺墳の所在を問えば、すなわち云う。(中略)既に七日を過ぎ、屍に血淋漓す。君臣わきまえず、すなわち同じく一壙に葬る。即ち今の廟の建つる処。故をもって別に窀穸の所なし。
「住持の僧が私に語る。遺墳(=墓)の所在を聞いたところ、こう答えた。(中略)すでに七日を過ぎ、したいには血が滴り落ちていた。主君も家臣も入り乱れており、そのため同じく一つの壙(=穴)に葬った。それは今の廟(=甲将殿)が建っているところである。そのため別に手厚く葬っているところはない。」
(文化庁・山梨県教育委員会・甲州市・甲州市教育委員会設置の案内板から・平成22年)

勝頼公辞世
 おぼろなる 月もほのかに 雲かすみ
  はれてゆくえの 西の山の端
北条夫人辞世
 黒髪の 乱れたる世ぞ はてしなき
  思ひに消ゆる 露の玉の緒
信勝公辞世
 あだに見よ 誰も嵐の さくら花
  咲き散るほどの 春の夜の夢

<参考資料> 四郎作古戦場の由来
150530_1218_天目山の戦い・四郎作古戦場(山梨県甲州市)
四郎作古戦場
小宮山内膳友晴(友信)は武田の重臣小宮山丹後守昌友の長男として武田家に仕え諸国への使い番十二人衆の一人に数えられ武田軍政に重きをなしていた。天正三年の長篠合戦以後武田軍の中枢は重臣たちによって司られていたが、小宮山内膳はその折々軍のための率直な意見を述べた。重臣たちはこれを快しとせず理非をわきまえずにこれを否定し遂にざん言により主君の勘気を被り蟄居を命ぜられ幽閉の身となった。
しかし天正十年三月十一日(一五八二年)に武田勝頼は多くの重臣たちに離反され一族と共にこの付近に於て最後の決戦をする運命に陥ったのである。小宮山内膳は朱君の危急を知り決戦の前夜一行に追い付き「友晴が譜代の臣でありながら武田家最後の戦いに臨のなかったなら小宮山家末代までの恥辱であり、武士道にも背くゆえ蟄居の許しを請い最後の戦いに御盾となり高思の万分の一にも報いたい」と言上した。勝頼は「あっぱれな武士の鑑よな余の不徳の致す処であった」と直ちにこれを許した。小宮山内膳は勇躍戦いの最前線であるこの地に仁を敷き寄せ来る的と奮戦数刻の末從容として主君に殉じたのである。戦いの直後奇しくも内膳の弟僧の拈矯がこの地を訪れ殉死した一族の霊を弔い内膳には、忠叟道節居士」の法名を贈った。後に水戸藩の儒者藤田東湖は文天祥の正気の歌に和して「或殉天目山 幽囚不忘君」と詠み崇高な至誠を貫いた内膳の忠節義烈を称えている。

この碑は内膳友晴の末裔一族と共に竜王町の小宮山清茂氏が資材を提供し敷地は地主の平山勝広氏の提供によるものである。
(大和村教育委員会設置の石碑より・昭和54年)

<参考資料> 鳥居畑古戦場
150530_1215_天目山の戦い・鳥居畑古戦場(山梨県甲州市)
鳥居畑古戦場
時、天正十年三月十日孤影消然僅かな家臣を従えて敗走つづける勝頼公の一行が、ようやく笹子峠の麓駒飼についた時、岩殿城に連絡に行った土屋昌恒が急ぎ帰り、城主小山田信茂が謀判を計っている事を言上し、勝頼公は止むなく天目山に籠り防戦する事に決め、付き従ふ者は、秋山紀伊守光継、阿部加賀守、土屋昌恒等四十三人、初鹿野から日川の渓谷づたいに田野の里に入った。其時かねて侫人の讒言により、主君勝頼公の勘気にふれて幽閉されていた小宮山内膳正友信は今こそ最後の御供をと田野の本陣に馳せ勝頼の許しを乞うたのである。
その夜天目山の頂きは残雪を残して寒気きびしく疲れはてた主従は明日の運命を悟りきってか深い眠りにおちていた。
明くれば三月十一日谷底の里、田野の夜がすっかり明けやらぬ払晩、忽然山麓より一隊の人馬が土煙を山霧にかくして押しよせて来た。織田信長の先鋒滝川一益、河尻鎮吉らの軍勢約四千である。勝頼公は己の命運がつきたことを知ると、十六才の嫡子信勝を招き、新羅三郎以来武田家に相伝された小櫻韋威楯無の鎧を着せて擐甲の式を挙げた(現在景徳院内に有り)。
秋山紀伊守光継、阿部加賀守、小宮山内膳正友信、土屋昌恒等百人に満たさる小勢を以て駒場口より攻め寄せる織田軍と戦い撃退する事数度以て勝頼公をして從容死を決するを得せしむ。生害石、甲将殿直前に三枚の扁平なる石有り、勝頼公、夫人北條氏、世子信勝公の生害せし処 現在景徳院内に有り
「山雲月を憂いて掩ふて夜色自ら惨め足たり」と史書はこの時の様子を伝える。武田家滅亡最後の激戦地なり。
(案内板より)





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150530_0748_武田八幡神社・石鳥居と総門(山梨県韮崎市)

150530_0740_武田八幡神社・北条夫人の祈願文(山梨県韮崎市)
祈願文を刻んだ 石碑
山梨県韮崎市にある神社(地図)で創建は弘仁13年(822)。
御祭神は武田武大神(たけたたけのおおおかみ・武田王)・足仲津彦命(たらしなかつひこのみこと・仲哀天皇)・誉田別命(ほんだわけのみこと・応神天皇)・息長足姫命(おきながたらしひめのみこと・神功皇后)。
神社( Wikipedia )には、織田信長による甲州征伐に際して、武田勝頼夫人( Wikipedia )が戦勝を祈願した祈願文(旧暦天正10年2月19日付・山梨県指定有形文化財)が残されており、当時の緊迫した状況を切々と訴える内容を刻んだ石碑が境内に建てられています。
(写真:武田八幡神社=5月30日午前撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 韮崎市観光協会
  http://www.nirasaki-kankou.jp/


武田八幡神社
150530_0748_武田八幡神社・総門(山梨県韮崎市) 150530_0738_武田八幡神社・舞殿(山梨県韮崎市)
総門 舞殿(手前)と拝殿
150530_0740_武田八幡神社・舞殿(山梨県韮崎市) 150530_0742_武田八幡神社・本殿(山梨県韮崎市)
舞殿 国重要文化財 本殿

<参考資料> 武田八幡神社
当社は社記によると嵯峨天皇弘仁十三年勅命によって、九州宇佐八幡をむかえ地神(武田武大神)と併祀して武田八幡宮と称したという。なお清和天皇の時、京都石清水八幡を社中に併祀し甲斐源氏の崇敬をあつめたが、鎌倉時代初期武田の荘に據って武田氏を始めた信義に至りこの郷一帯を寄進して氏神とした後、戦国時代に武田信玄は現本殿を再建(天文十年)して、子勝頼滅亡の寸前同夫人が戦勝を祈念して訴えた切切たる願文は今に伝えられ武田軍には深い関係を有する古社である。徳川氏治世後も広く敬信された神社である。

当社の文化財
重要文化財
武田八幡神社本殿
県指定有形文化財
武田八幡神社末社
若宮八幡神社本殿
武田八幡神社石鳥居 付正面石垣
石造明神鳥居。大きな亀腹(礎石)上に立つ柱には、二葉町志田の船形神社のそれと同様、見た目には胴張えい(エンタシス)のごとくに感じられ、しかもがっちり太く(径〇.四六メートル)これに比して柱上には台輪をはさんで置かれた幅の狭い鳥木や笠木は程よい真反りを示し、両端の切り方も内斜ではあるが後世のものほど極端でなく、増しも軽妙である。鳥居の貫に天正一二年(補修)の銘があり、峡北地方の中世造営の鳥居の特徴を備えている。石垣は正面神社参道から鳥居を迂回して石階をつくる特殊な形態を呈し、石積技術も優れ貴重なものである。
(山梨県教育委員会・韮崎市教育委員会設置の案内板から・平成10年)
市指定天然記念物
武田八幡神社 敬愛の樹叢


<参考資料> 北条夫人祈願文
うやまって申(す) きくわん(祈願)の事
南無きみやう(帰命)ちゃうらい(頂礼)八まん(幡)大ほさつ(菩薩) 此国のほんしゆ(本主)として 竹たの(武田)太ろう(郎)とかう(号)せしより此かた 代々まほ(守)り給ふ ここにふりょ(不慮)のけき(逆)新出き(来)たって 国か(家)をなや(悩)ます よってかつ(勝)頼 うん(運)をてんとう(天道)にまか(任)せ 命をかろ(軽)んしててきちん(敵陣)にむか(向)う しか(然)りといへとも しそつ(士卒) り(利)をえ(得)さるあいた(間)そのこころまちまちたり なん(何)そきそよし政(木曽義昌) そくはく(若干)の神りょ(慮)をむな(空)しくし あわ(哀)れ 身のふほ(父母)をすて(捨)て きへい(奇兵)をお(起)こす これみつ(是自)からはは(母)をかい(害)する也 なかんつく(就中)かつ(勝)頼るいたい(累代)十おん(重恩)のとも(輩)から けき新(逆臣)と心をひとつ(一)にして たちまちにくつかへ(覆)さんとする はんみん(万民)のなうらん(悩乱) 仏にうのさまた(妨)けならすや そもそもかつより(勝頼) いかてか(争)あく新(悪心)なからんや 思いのほのを(炎)天にあが(揚)り しんいなをふか(瞋恚猶深)からん 我もここにして あひとも(相倶)にかな(悲)しむ 涙又らんかん(闌干)たり しんりょ(神慮)天めい(命)まことあら(誠有)は 五きゃく(逆)十きゃく(逆)たるたくひ(類) しょ(諸)天 かり(仮)そめにもかこあら(加護有)し 此時にいた(至)って 神しん(信心) わたくし(私)なく かつかうきも(渇仰肝)にめい(銘)す かな(悲)しきかな(哉) しんりょ(神慮)まことあら(誠有)は うんめい(運命)此とき(時)にいた(至)るとも ねがわくは れいしん(霊神)ちから(力)をあわ(合)せて かつ(勝)事を かつ(勝)頼一し(己)につけ(付)しめたま(給)い あた(敵)をよも(四方)にしり(退)そけん ひょうらん(兵乱) か(還)へむ(つ)て めい(命)をひら(開)き しゅめう(寿命)しゃうおん(長遠) しそんはんしょう(子孫繁昌)の事みき(右)の大くわん(願) ちゃうしゅ(成就)ならは かつ(勝)頼 我ととも(倶)に しゃ(社)たん(壇) みかき(御垣) た(建)て くわいろう(回廊) こんりう(建立)の事
うやまって申(す)
天正十ねん二月十九日  みなもとの(源)かつ(勝)頼 うち(内)
(市誌上巻佐藤八郎氏執筆より・石碑文から)

※天正10年(1582)2月1日、義弟の木曽義昌が織田信長と結び反旗を翻したため、勝頼は翌日、新府城に人質として送られていた義昌の生母・側室・子供を処刑。勝頼は武田信豊を将とする討伐軍を木曽谷に派遣しますが、16日に行われた鳥居峠の戦いで木曽勢に敗北。勝頼は3月2日の高遠城落城に先立つ2月28日、諏訪から退却します。
北条夫人の祈願文の日付は2月19日。
木曽勢に対する勝利を願った夫人の祈願でしたが、その想いが届くことはありませんでした。

 <参考資料>
山梨県指定有形文化財
武田八幡宮二の鳥居 附・神器 輿石

由緒・歴史
150530_0730_武田八幡神社・二の鳥居(山梨県韮崎市)
県指定有形文化財 二の鳥居
武田八幡宮は弘仁十三年(八二二年)、嵯峨天皇の勅命により土地の神武田武大神と豊前国の宇佐八幡宮を合祀し創建された。社記に「地名の二字を冠として武田八幡宮と奉称し堅五尺擯(※)四尺の額面を賜り候」とある。二の鳥居についての記録を見ると、まず当社の氏神を定め尊崇した武田太郎信義の没後三四年を経た承久二年(一二二〇年)に信義の弟の加賀美次郎遠光が「本社末社一二三の鳥居迄造営御座候」と修覆整備したことが社記に記されている。また江戸後期の神主矢崎好貫の棟札によれば「天文の元の武田晴信朝臣父信虎朝臣の御代御新田をはじめ石木の鳥居まで残かたなく新たに造りたてんとたくみのことはしめ給ひて」とあり、二の鳥居は武田信虎の全面的な再建計画に入れられていた。本殿再建は武田晴信(信玄)によって同十年に完成されたことを示す棟札が残っている。二の鳥居の神額の裏には元禄十四年(一七〇一年)に再興、寛政元年(一七八九年)に再再興したという記録が刻まれている。この後、昭和五十四年に屋根の修理が行われ、さらに平成十一年着工の大改修に至った。
輿石は昭和初期まで鳥居の中心線上で控え柱西面より神社側に輿石東面が約三・五メートル離れた位置にあり、鳥居の下は車馬の通行が厳しく禁じられていた。その後、県道改修の際に現在地に移された。大祭には神輿の渡御が二の鳥居、輿石まで行われている。社記によると二の鳥居場は一一〇坪あり、御田祭などの催事も執り行われた。
昭和六〇年二月に二の鳥居附輿石は韮崎市指定有形文化財に指定され、さらに平成十二年十月には附に神額を特記し山梨県指定有形文化財に指定された。

構造
鳥居の形式は木造の両部鳥居で、高さ六・四メートル、□□全長八・七メートル、鏡柱々間上部四・九メートル、下部五・三メートル、転び二三センチの雄大な木割を示す。笠木・鳥木は一木造り(一部矧木あり)で穏やかな心反りを示し、その上に屋根をかける。鳥木と□□センチ下の大貫との間に額束を備え額□まえに縦一二五センチ、横八八センチの神額が掲げられている。神額には武田菱門の下に武田八幡宮と隷書体で大書され彫られているが、永い歳月風雨風雪に曝されたため、現在では殆ど判読できない。また神額□□□た鳥木付近に丹柄塗が僅に残っていることから建立当時は朱の大鳥居であったことが判る。また、各鏡柱の前後に面取りの角柱の袖柱を転びをつけて立て、上下二条の貫を通し三本の柱を連結し楔(くさび)で固定している。そらに、鏡柱と前後の袖柱にわたり一連の幅広い屋根を架けている。また、鏡柱には根巻を付け対面間隔七三センチの八角柱から直径五二センチの丸柱へ一木から削り出している。根巻の高さは九〇センチで下の貫の上面に達している。太い鏡柱の下部と上部の円柱とは上下の貫の間で継いでいる。これらの補強と雨避を考慮した特徴ある構造を有し、しかも雄大かつ均衡のとれた重量感ある形態を示す本鳥居は建立年代の確かな木造両部鳥居としては貴重な遺構である。一方、輿石は現在一辺約一・一二メートル、高さ三六センチであるが、本来の高さの半分近くが埋没し、位置も移動している。輿石側面には神主矢崎民部、村中、施主などの刻銘が見られる。

改修の経緯
鏡柱、袖柱の足元は度重なる道路舗装工事のために道路面が上がり基礎石が埋ったため腐食が進んでいた。平成十一年一月(有)大石組により鳥居を一時移動し基礎石を据え直す工事が始められた。しかし、柱足元は白蟻の被害も加わり予想を遥かに超える損傷が見られ、鳥居全体の大改修が決断された。文化財建造物保存技術協会の調査設計の後、多くの指定建築物の修復工事の実績を持つ(株)石川工務所により大改修が進み、平成十一年九月竣工を見るに至った。工事資金については韮崎市の多くの財務支援と奉賛会、氏子の理解と協力を得てこれに当てた。
 工事管理/財団法人 文化財構造物保尊技術協会
 工事施工/株式会社石川工務所 有限会社大石組
(武田八幡宮 功力利夫氏記述による案内板から・平成13年) 

<参考資料> 史跡白山城跡(北烽火台跡)
150530_0743_武田八幡神社(山梨県韮崎市)
熊に注意
甲斐源氏武田氏の祖武田信義の要害として築かれた伝承をもつ白山城は、戦国期に武田氏の領国経営の烽火台ネットワークの拠点的城郭として、甲府盆地北部における枢要な位置を占めていた。また新府城防衛の拠点であり重要な役割を担っていた。城郭史では武田氏城郭の典型例として位置付けられ、南北2箇所の烽火台を含め良好な遺構が残されている、武田氏発祥の地の城郭として、甲斐国の政治・文化・社会を考察するうえで学術的価値が極めて高く、武田氏の高度な築城技術を示す城跡としても重要である。
白山城の西側の尾根つづきの背後には標高約882mの八頭山があり、白山城をとりこむように北と南に尾根がのび、その尾根がつきるところにそれぞれ烽火台が築かれている。北のものを北烽火台、南のものをムク台と呼ぶ。
北烽火台は白山城とは八幡沢を挟んで北西約600m離れており、標高約601m。東西方向に長くのびた尾根城を堀切で区切り、そこから東側に土塁が設けられ2段の平坦地がみられる。平坦地は幅10m、長さ50mほどであり、段差のあるところに直径約4mの円形の凹みがある。
(文化庁・山梨県教育委員会・韮崎市教育委員会設置の案内板から・平成16年)





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150530_1003_臨済宗(妙心寺派) 法蓋山 東光寺(山梨県甲府市)

山梨県甲府市にある臨済宗妙心寺派の寺院(地図)。
鎌倉時代の弘長2年(1262)に蘭渓道隆が禅宗の寺院( Wikipedia )として再興し、戦国時代には武田信玄の庇護を受け諸堂の整備が行われました。
天正11年(1543)、武田氏の諏訪侵攻により捕われた諏訪頼重( Wikipedia )がこの寺に幽閉され、後に自害。また、永禄8年(1565)には謀反の疑いをかけられた信玄の長男・義信( Wikipedia )もここに幽閉された後に自害し、共に裏手にある墓地に葬られています。
(写真:臨済宗妙心寺派 東光寺=5月30日午前撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 東光寺ホームページ
  http://www.geocities.jp/saraya_ss/tokoji/


臨済宗(妙心寺派)仏蓋山 東光寺
150530_1001_臨済宗(妙心寺派) 法蓋山 東光寺(山梨県甲府市) 150530_0943_臨済宗(妙心寺派) 法蓋山 東光寺・諏訪頼重墓(山梨県甲府市)
鐘楼(手前)と仏殿 諏訪頼重墓
<写真説明>手前が信州諏訪・上原城主諏訪頼重の墓、左奥に武田信玄の長男・義信の墓、石柱に囲まれた墓地は甲府藩主を務めた柳沢吉保の子息二人の墓

<参考資料> 
国指定重要文化財 東光寺仏殿
東光寺は、蘭渓道隆によって鎌倉時代に再興された臨済宗の寺である。
仏殿は、天正十年(一五八二)の織田信長の兵火及び昭和二十年(一九四五)の戦災を免れて今日に伝えられたもので、建立年次は明らかでないが、様式からみて室町時代の建築とされている。
桁行三間、梁間三間、裳階(もこし)つきで、入母屋造、桧皮(ひわだ)葺である。江戸時代初期の修理で、裳階部分が改造され、外観の変更を余儀なくされているが、低い基壇・竿縁の天井・裳階の角柱・窓・引戸などの部分に、大陸の建築が日本化する過程を示し、清白寺仏殿(山梨市)、最恩寺仏殿(富沢町)と並んで中世禅宗様建築を知る上で貴重である。
昭和三十一年解体修理が行なわれた。
(山梨県教育委員会・甲府市教育委員会設置の案内板から・昭和49年)

<参考資料>
山梨県指定文化財(彫刻)
木造薬師如来坐像
木造薬師十二神将立像
仏殿の本尊として安置されている薬師如来坐像は、鎌倉時代に造られたもので、右手を曲げ手のほらを正面に向け、左手は膝のうえで薬壺をのせている一般的な薬師如来像である。檜材の内刳(うちぐり)された寄木造りで座高五一.五糎わが国の保守系仏師の手によって造られたと推定される。
十二神将立像は、薬師如来の守護神として本尊の三方を取り囲んでいる。これも檜材の内刳された寄木造で、玉眼が嵌入(かんにゅう)されており像高八十五糎前後でやや小柄な造りである。像の一つには弘長二年(一二六二)の墨書があり鎌倉時代の像である。しかし、技法や彩色法などの異同が認められ、造られた時期や補修の時期に差異のあることが推定される。姿態た衣服・鎧等の細部にわたって写実的に入念な仕上となっており、美術史的にも重要仏像である。
(山梨県教育委員会・甲府市教育委員会設置の案内板から・昭和62年)

<参考資料>
山梨県指定 名勝 東光寺庭園
この庭園は広さ約一,四八五平方メートル 法堂の裏手にのびる山畔を活かして上部に組まれた雄渾な中央滝を主景にして左右に展開する石組みをみせ、枯れ流れの末端に変化に富む護岸石組みの竜池をたたえた。坐視的池泉鑑賞庭園として傑出するものである。
とくに滝石組みの手法は京都の天竜寺・信濃の光前寺庭園など、寛元四年(一二四六)来朝した中国の僧蘭渓道隆に関係のある寺院のそれに共通するところから、東光寺の中興開山道隆(大覚禅師)の手になるものと推定され、従来の回遊式庭園から一変して縦の線を強調した禅庭の基準ともみられ、その後の築庭に至大な影響を及ぼしたと考えられる名園である。
(山梨県教育委員会・甲府市教育委員会設置の案内板から・昭和56年)

150530_0946_臨済宗(妙心寺派) 法蓋山 東光寺・庭園(山梨県甲府市)
東光寺庭園
この庭園は、池泉観賞式であり、その構成は山麓の傾斜地を利用した上下二段からなり、ゆるやかな斜面の石組が全庭の八割を占める景観はちから強い。
池泉の地割は鎌倉中期に初めて出現した竜池様式で、岩盤上の護岸方式に特色がある。
池中の舟石は、北宋山水画式庭園においては当然であり、単独に用いられたものとしては日本最古に属するといわれている。
山畔部は、枯滝を中心とする豪快な石組で、現存する四ヶ所の枯滝のうち特に東方(向って右側)から二番目の滝が、それに連なる枯流れとともに本庭の主景をなしている。この竜門滝は竜滝とともに鎌倉中期のころ始めて出現した新様式で、宋朝文化の所産である。
このように本庭は鎌倉時代中期の特色をよく示しており、作者も蘭渓道隆と推定される貴重な禅庭である。
(山梨県教育委員会・甲府市教育委員会設置の案内板から・昭和61年)





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