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管理人の思いつくまま、気の向くまま、長野県内の町や村の話題を取り上げています。

161105_0830_佛法招隆寺のイチョウ(諏訪市)

諏訪市四賀(地図)の真言宗鼈澤山 佛法紹隆寺(べったくさん ぶっぽうしょうりゅうじ)の境内にある樹齢200年の大イチョウ。
(写真:佛法紹隆寺=5日午前撮影、640×480拡大可能)

<管理人ひとこと>
境内下に駐車場あり。
途中の道路は狭く、また勾配も急なので運転には注意。

<参考HP>
・ 佛法紹隆寺
  http://sky.geocities.jp/inpara06/


佛法紹隆寺のイチョウ
161105_0829_佛法招隆寺のイチョウ(諏訪市) 161105_0831_佛法招隆寺のイチョウ(諏訪市)
161105_0834_佛法招隆寺のイチョウ(諏訪市) 161105_0833_佛法招隆寺のイチョウ(諏訪市)





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160211_0729_諏訪大社上社本宮・入口御門(諏訪市)

昨年10月、重要文化財(重文)として追加指定するよう国の文化審議会が文部科学大臣に答申していた諏訪大社上社本宮の社殿群10棟について、9日の官報(号外)に告示され、正式に追加指定されることになりました。
追加された社殿は、布橋、勅願殿、文庫、勅使殿、五間廊、摂末社(せつまつしゃ)遙拝所、神楽殿、天流水舎、神馬舎、入口御門の10棟。
(写真:重要文化財に追加指定された諏訪大社上社本宮の入口御門=11日午前撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 諏訪大社
  http://suwataisha.or.jp/


重要文化財に追加された社殿
160211_0718_諏訪大社上社本宮・勅願殿(諏訪市) 160211_0724_諏訪大社上社本宮・神楽殿(諏訪市)
勅願殿 神楽殿
160211_0722_諏訪大社上社本宮・天流水舎(諏訪市) 160211_0723_諏訪大社上社本宮・五間廊と凍てつく境内(諏訪市)
天流水舎 五間廊(右は布橋)
160211_0725_諏訪大社上社本宮・勅使殿(諏訪市) 160211_0726_諏訪大社上社本宮・神馬舎(諏訪市)
勅使殿 神馬舎


勅願殿(ちょくがんでん)
勅願とは天皇の祈祷という意味である
当社の場合この建物は御祈祷を行う場所である
建立は元禄三年(一六九〇)といわれ建物の配置は諏訪大神の御神霊が宿る守屋山(御神体山)に向かい建てられ古図には祈祷所と記されている
幣拝殿が大社の恒例祭典や重要神事を齋行して國家安泰並公事の祈願を執行する場所であるのに対して勅願殿は個人私事の祈祷を行う場所である

勅使殿(ちょくしでん)
現在の勅使殿は元禄三年(一六九〇)の創建であり安政年間に大修理を加えてある切妻流れ正面大唐破風造りである
中央の記録では神門戸屋・帝屋とも書かれており建武二年(一三三五)大祝即位の記録には御門戸屋にて神事があり社殿に布を敷いて其の上に五穀を供えそこに大祝が着座したことが見えている
また勅使参向の折りには幣帛の授受が行われた所である
元旦の蛙狩神事や御頭受神事も行われた所である

神楽殿
文政十年(一八二七)の建立で祈願者の神楽奉納の御殿である
四方吹通し入母屋造りで諏訪市の指定文化財の建造物である
大太鼓は神楽殿建立と同時に奉納され胴は樽と同様に合わせ木作りで神龍が画かれている
皮は一枚皮が使われ 一枚皮では(牛と云う)日本一と云われる
この大太鼓は元旦の朝のみ打たれる

天流水舎
俗にお天水と称される
どんな晴天の日でも雫が三滴は屋根上の穴から降り落ちると云われ諏訪の七不思議の一つに数えられている 旱(ひでり)天の祈りにはこのお水を青竹に頂いて持ち帰り雨乞いの祭をすると必ず雨が降ると云い伝えられる

五間廊(ごけんろう)
現在の建物は安永二年(一七七三)の建造であり廊下様式切妻造りである
古記録には神長官・祢宜太夫・権祝・擬祝・副祝の五官着座のことが見えている

勅使殿(ちょくしでん)
現在の勅使殿は元禄三年(一六九〇)の創建であり安政年間に大修理を加えてある切妻流れ正面大唐破風造りである
中央の記録では神門戸屋・帝屋とも書かれており建武二年(一三三五)大祝即位の記録には御門戸屋にて神事があり社殿に布を敷いて其の上に五穀を供えそこに大祝が着座したことが見えている
また勅使参向の折りには幣帛の授受が行われた所である
元旦の蛙狩神事や御頭受神事も行われた所である

神馬舎(しんめしゃ・駒形屋)
古くより諏訪大神の神馬の屋形で明治以降は背に御幣を立てた銅製の神馬と木製の神馬が安置されている
明治二十七年七月の大暴風雨により近くの大欅が倒れて神馬舎は倒壊してしまったのに神馬は前方に十メートル程飛んで微塵も被害を受けなかった
時恰(あたか)も日清戦争の勃発した頃であり人々は諏訪明神が神馬に乗って戦場に向かわれたのであると云って驚き懼れたと伝えられる
(案内板から)


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160206_0939_明治維新前の諏訪大社上社と神宮寺(諏訪市)

諏訪市の諏訪大社上社本宮の東に、かつては「神宮寺(じんぐうじ)」と呼ばれる大きな寺院がありました。しかし、明治政府の神仏分離政策( Wikipedia )によりそのほとんどが取り壊されるか、周辺の寺院などに移築され、現在は地名にだけ往時を偲ぶことができる程度です。
このほど、諏訪大社上社神宮寺勉強会のみなさんが作成した、明治維新前の上社本宮周辺の様子を紹介する案内板が完成し、諏訪大社上社本宮の布橋近く(地図)に設置されました。
案内板には、神宮寺や法華寺近くにあったとされる五重塔、上りと下りに設けられた仁王門のほか、参道沿いに幾つもの宿坊が建ち並んでいたことが紹介されたおり、周辺が門前町として栄えてきた様子がわかりやすく説明されています。
(写真:諏訪大社上社本宮の布橋近くに設置された案内板=2月6日午前撮影、640×480拡大可能)





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151031_0942_地蔵院のカツラ(諏訪市)

諏訪市四賀神戸にある地蔵院(地図)の境内にあるカツラ。
諏訪市天然記念物。
(写真:地蔵院のカツラ=10月31日午前撮影、640×480拡大可能)

<参考資料> 地蔵院のカツラ
種名 カツラ
樹齢 推定三百年
大きさ 目通り幹周4m63cm(平成十年現在)

151031_0942_曹洞宗 無量山 地蔵院(諏訪市)
地蔵院
カツラはカツラ科の落葉高木で雌雄異株。葉は対生し無毛で下面粉白色。花は五月頃、葉に先だって開くが、雄しべまたは雌しべのみで花被(花弁にあたるもの)はない。材は建築・器具・彫刻その他用途が広い。葉が抹香に使われるところからオコウノキの別名があり、寺院などによく植えられている。
地蔵院は古く地蔵堂と呼ばれていたが昭和二十七年三月宗教法令により昇格して地蔵院となった。本堂の扁額の裏書によって享保十五年(一七三〇年)の創立であることがわかっている。それより前にはここに青龍寺という寺があり、いくつかの坊や十三重の塔があったと伝えられている。
このカツラの木は大きさから創立当時からあったものと考えられ、雌木で市内では最大である。
(諏訪市教育委員会設置の案内板から・昭和46年)





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151016_1352_諏訪圏工業メッセ2015(諏訪市) 151016_1420_諏訪圏工業メッセ2015(諏訪市)
151016_1358_w_諏訪圏工業メッセ2015(諏訪市)
151016_1450_w_諏訪圏工業メッセ2015(諏訪市)
諏訪圏工業メッセ2015

15日から17日までの3日間、諏訪市の諏訪湖イベントホール(旧東洋バルブ諏訪工場跡地)で、今年で14回目となる「諏訪圏工業メッセ2015」が開催されました。
今年のメッセには県内外から403企業・団体が出展。来場者は3日間の合計で27000人を超え、出展及び来場者ともに過去最大規模となりました。
(写真:諏訪圏工業メッセ2015の様子=16日午後撮影、640×480・パノラマは640×166拡大可能)

<管理人ひとこと>
工業メッセと聞けば、企業が開発した製品の展示会、を連想させるところですが、諏訪のメッセは製品に値札を付けて販売するものとは異なり、そうした製品に組み込まるパーツそのものが展示の主体となっているということです。「ものづくり」を掲げる諏訪ならではの工業専門展示会といえるでしょう。
最近は土曜日などにアトラクションの時間を設け、家族連れなどがより工業に親しんでもらえるような試みも行われていますが、「諏訪ブランド」と称される、地域の企業が独自の技術を駆使し加工した部品ひとつひとつの評価の場であることに変わりありません。
ただ、会場をめぐりながら感じたのはまだまだ控えめであったことでした。競合他社が一堂に会する展示会では、どれだけ自社のブースに来場者を引き込めるかがポイント。他社に負けない自社の”強み”を、同じ土俵のなかでどのように売り込むか、その手法や工夫がもっと必要かなぁ…と感じました。

役立つ雑誌「ひとわざ(一技)」
会場では、受付で配布されていた「ひとわざ(一技)」というPR雑誌が大変役に立ちました。就活などで配られる企業ガイドとは違い、出展企業がどんな分野に”強み”があるのかより詳しく記されており、企業ガイドよりも更に一歩踏み込んでいるのが、この雑誌の大きな特長。超精密加工の集積地といわれる諏訪の企業が、今後、どの分野に進んでいくのかを知る手掛かりにもなる一冊でした。

<参考HP>
・ 諏訪圏工業メッセ
  http://suwamesse.jp/





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151012_1421_桑原城址・本丸跡(諏訪市)

151012_1423_桑原城址・案内図(諏訪市)
桑原城址案内図
諏訪市四賀桑原(地図)にある戦国時代の山城( Wikipedia )。
天文11年(1542)7月、武田晴信(のちの信玄)の諏訪侵攻を受け、武田軍と対峙していた諏訪頼重でしたが、武田軍に呼応した高遠頼継が杖突峠を越え諏訪へ攻め込んだことから、居城の上原城を焼き、後退した桑原城にて武田・高遠連合軍を迎え撃つ( Wikipedia )ものの、多勢に無勢。味方の逃亡もあり、武田方からの和睦を受け入れ桑原城を開城、頼重は甲府へ護送されます。
しかし、幽閉されていた東光寺(山梨県甲府市)にて、弟の大祝頼高とともに自刃。頼重が最後まで抵抗したこの城は、諏訪惣領家最後の舞台となりました。
(写真:諏訪惣領家の最後の舞台となった桑原城址=12日午後撮影、640×480拡大可能)


桑原城址 
151012_1456_桑原城址・普門寺登り口(諏訪市) 151012_1410_桑原城址(諏訪市)
普門寺登り口 整備された遊歩道
151012_1413_桑原城址(諏訪市) 151012_1415_桑原城址(諏訪市)
車両はここまで 普門寺口と桑原口の分岐
151012_1417_桑原城址(諏訪市) 151012_1419_桑原城址・東曲輪跡(諏訪市)
途中にある空濠 本丸下の東曲輪
151012_1444_桑原城址・二の丸跡から本丸跡を望む(諏訪市) 151012_1423_桑原城址・井戸跡(諏訪市)
二の丸から見た本丸 本丸に残る井戸跡
151012_1429_w_桑原城址・本丸跡(諏訪市)
本丸全景
151012_1436_桑原城址・本丸跡のサクラ(諏訪市) 151012_1427_桑原城址・二の丸跡(諏訪市)
本丸にあるサクラの木 本丸から見た二の丸
151012_1426_桑原城址・本丸跡から上原城跡を望む(諏訪市) 151012_1441_桑原城址・二の丸跡から望む諏訪湖(諏訪市)
城址から望む上原城跡(左)と諏訪湖(右)

<参考資料> 武田信玄の諏訪攻めと桑原城
桑原城は、戦国時代の山城であり、諏訪惣領家の本拠である上原城(茅野市)の支城の役割を担った重要な場所でした。
天文四年(一五三五)には惣領家の諏訪頼満と甲斐国守護の武田信虎が諏訪社の宝鈴を鳴らして和睦、信虎の娘禰々が頼満の孫頼重に輿入れし、諏訪・武田両家は同盟関係を結んでいました。その関係が崩れたのは、惣領を継いだ諏訪頼重が天文一〇年(一五四一)に関東管領上杉憲政と単独で講和を結んだことに対する報復か、翌一一年(一五四二)、父信虎を追放した武田晴信(にちの信玄)が諏訪に攻め入ったことによります。
上社神長の記録「守矢頼真書留」によれば、そのころ諏訪では災害や飢饉、対小笠原氏や佐久方面での戦が続き、民衆が疲れ果てていたため、高遠頼継らと結んだ武田勢を迎え撃つ勢力には差が歴然としていたといいますが、頼重は奇襲策を嫌い、正々堂々と戦おうとしていました。
七月二日夜、劣勢のまま居城である上原に火をかけれ桑原城へ退却、三日夕方には、戦闘に備えるために検分をしようと「つるね」(足長神社へ続く尾根か)を下った頼重を見た家臣が、頼重が城を捨てたと思い逃げていってしまったため、二〇人ほどで夜を明かし、四日、甲州勢の使者を受け入れ城を明け渡すことにしました。その後、頼重は甲府へ連行され、東光寺で自刃しました。
このように桑原城は、諏訪惣領家最後の舞台となりました。
(案内板から)

<参考資料> 桑原城
桑原城は一名を高鳥屋(たかとす)城ともいい、諏訪惣領家の本拠上原城の支城として要害をほこった山城である。甲州街道から約二百メートル北に位置し、本丸は空濠より高さ六メートル、東西三十三メートル、南北二十五メートル、面積はおよそ六百平方メートルある、空濠をへだてて西側の二の丸に続く。
天文十一年(一五四二)七月四日、諏訪頼重は武田信玄に攻められて上原城からのがれ、ここで敗れた。頼重は甲府に送られ、

 おのずから 枯れ果てにけり 草の葉の
 主あらばこそ またもむすばめ

の時世を残して割腹し、諏訪惣領家は一旦滅亡したという悲史を伝えている。
いま東光寺(甲府市)に、頼重と弟の大祝頼高(おおほうりよりたか)を祀る小さな五輪塔二基が建っており、また志賀神戸の頼重院(らいじょういん)には頼重を祀る供養塔がある。
(長野県教育委員会・諏訪市教育委員会設置の案内板から・昭和58年)





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151012_1335_志賀家住宅(諏訪市)

諏訪市内で唯一残る江戸時代の武家屋敷(地図)。
(写真:志賀家住宅=12日午後撮影、640×480拡大可能)

<管理人ひとこと>
平成27年5月、市有形文化財の指定の後、所有者の許可を得て、初めて一般に公開されました。普段は非公開となっており、常時、見学することはできないようです。諏訪の武家の生活を感じられる内部の公開が進むことを期待しています。

<参考資料>
志賀家住宅は安政二年(1855)に建てられ、諏訪市内に唯一残された高島藩の武家屋敷です。長年の経過により外観に手が加えられましたが、内部はほとんど改造がなく高島藩の武士の生活を物語る貴重な建物です。
主屋は本棟造ともいえる切妻造(きりつまづくり)妻入りの主屋とその後ろに入母屋(いりもやづくり)の梁間を主屋の三分の一にした奥の間を二間付加した造りで、諏訪の武家住宅の特徴が現れています。また、道路に面して建つ長屋門、主屋、そして奥の土蔵と三棟が揃って残されている例は県内でも少なく、この点でも大変貴重な建築物です。
(諏訪市教育委員会設置の案内板から)





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150919_1223_武田信玄狼煙リレー(諏訪市)

戦国時代、武田信玄が情報伝達のために用いたとされる「狼煙(のろし)」を再現し、地域の城跡をリレーするイベントが19日、諏訪と茅野で行われました。
イベント当日の天候は晴れ。正午、諏訪市郊外の大見山から上った「狼煙」(白煙)は、先ず対岸の豊田城跡(諏訪市豊田)へ。さらに高嶋城跡地(諏訪市)・武居城跡(諏訪市中洲=写真右)・桑原城址(諏訪市四賀)の順に受け継がれ、今年から新たに加わった干沢城跡(茅野市=写真左)へリレーされました。
(写真:上原城跡から確認した武居城跡と干沢城跡から上る「狼煙」の様子=19日午後撮影、640×480拡大可能)


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150725_0940_守屋山・西峰(諏訪市)
守屋山 西峰

諏訪市と伊那市の境にある守屋山( Wikipedia )。
国道152号線の杖突峠から登るのが一般的なルートと聞き訪ねてみました。
諏訪の仮住まいから毎日眺める山容から、それほど難しくもないだろう…と気軽に出かけてはみたものの、登山口からキャンプ場まで続く長い坂にほぼ労力を使い、頂上近くの胸突坂では完全に息切れ状態に…。昔はこのくらいどってことなかったのになぁ…とボヤキながら、どうにかこうにか東峰と西峰に登りました。
(写真=25日午前撮影、パノラマを除き、全て640×480拡大可能)

<コースタイム>
杖突峠登山口(地図)※駐車場あり(7:50)→キャンプ場(8:18)→胸突坂(8:53)→守屋山・東峰(9:06)→休憩→東峰出発(9:18)→西峰(9:39)→休憩→東峰経由・杖突峠(11:00)

<参考HP>
・ 守屋山ドットコム
  http://homepage2.nifty.com/allsuwa/moriya.htm
・ 信州山歩きマップ
  http://w1.avis.ne.jp/~nakajima/
・ 諏訪大社と諏訪神社
  http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/index.htm


守屋山 杖突峠登山口~キャンプ場
150725_0750_守屋山・杖突峠(伊那市) 150725_0751_守屋山・杖突峠(伊那市)
杖突峠登山口
150725_0800_守屋山(伊那市) 150725_0804_守屋山(伊那市)
150725_0815_守屋山(伊那市) 150725_0816_守屋山・キャンプ場(諏訪市)
守屋山 キャンプ場~ 胸突坂・守屋山東峰
150725_0818_守屋山・キャンプ場(諏訪市) 150725_0825_守屋山(諏訪市)
150725_0830_守屋山(諏訪市) 150725_0850_守屋山(諏訪市)
150725_0853_守屋山(諏訪市) 150725_0857_守屋山(諏訪市)
胸突坂には鎖場も
150725_0905_守屋山(諏訪市) 150725_0908_守屋山・東峰(諏訪市)
胸突坂を登りきると平坦となりそのまま東峰へ
150725_0916_w_守屋山・東峰(諏訪市)
東峰から撮影
(左:北アルプス 右:八ヶ岳連峰)
守屋山 守屋山東峰~守屋神社奥宮・西峰
150725_0920_守屋山・東峰(諏訪市) 150725_0922_守屋山・東峰(諏訪市)
東峰から西峰へ(右:守屋神社奥宮)
150725_0923_守屋山・東峰(諏訪市) 150725_0929_守屋山・西峰(諏訪市)
150725_0937_守屋山・西峰(諏訪市) 150725_0940_守屋山・西峰「一等三角点」(諏訪市)
西峰の避難小屋(左)と山頂の一等三角点(右)
150725_0942_守屋山・西峰から望む諏訪湖(諏訪市) 150725_0942_守屋山・西峰から望む御嶽山(諏訪市)
西峰から望む諏訪湖(左)と御嶽山(右)





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150314_1036_大熊城跡(諏訪市)

諏訪市湖南大熊(地図)にある諏訪神社上社大祝側に属した山城。
天文11年(1542)に武田信玄の侵攻により落城。
(写真:大熊城跡と土塁上の石祠=3月14日午前撮影、640×480拡大可能)

<参考資料> 大熊城跡
大熊城は千野氏居城と伝えられ、文献上では文明十五年(一四八三)にその名がみられる。諏訪神社上社大祝(おおほうり)側に属する山城で、当時対立していた下社大祝金刺氏との攻防の場となった。天文十一年(一五四二)、武田信玄の侵攻によって落城し、天文十七年頃破却された。城は三日月形をした自然丘陵上に主郭を築き、周囲に六ヶ所の郭(曲輪)を配置したいわゆる連郭式城郭である。主郭の南側には長さ二〇mの土塁があり、その上には千野氏の名を刻んだ石祠が建っている。
昭和四十八年に行われた発掘調査では堀・建物跡・土橋が発見され、築城の様子が明らかになった。また大熊城に隣接する城山遺跡・荒神山遺跡からは城主の居館跡とみられる建物跡も発見された。
(大熊区・諏訪市教育委員会設置の案内板から)





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