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161105_1535_真言宗智山派清龍山 長圓寺の紅葉(茅野市)

江戸時代の慶安2年(1649)に、武田慶尊法印により開山された真言宗智山派の寺院(地図)。紅葉の時期には、県内外から大勢の観光客が訪れる観光スポットとして知られています。
(写真:茅野市穴山の長圓寺の紅葉=5日午後撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 真言宗智山派清龍山 長圓寺
  http://chouenji.info/

<参考資料>真言宗智山派清龍山 長圓寺
161105_1537_真言宗智山派清龍山 長圓寺(茅野市)
真言宗智山派清龍山 長圓寺
當山は慶安二年(一六四九)武田慶尊阿舎梨が高野山金剛峯寺金剛頂院の本院を相続して創建された。寺格は格院 本尊は金剛界大日如来 要穴山長圓寺と号したが、其の後火災にあり焼失(年代不詳)した。
延享三年庫裡(一七四六) 延享四年本堂を再建し 火伏の為山号を清龍山と改める。
文化八年(一八一一)鐘楼門 土蔵 慶應二年隠寮 明治十七年観音堂が作られている。
特に山門は諏訪の大隅流の大工でよく知られた伊藤儀左エ門、長左エ門兄弟の作である。梵鐘は百五十貫の名鐘であったが、昭和十九年大戦の為供出し 永らく鐘声が跡絶えていたが 昭和三十八年當山檀信徒一丸となって二百貫の大梵鐘を鋳造すると共に庫裡を改築した。その庭園は 京都丸山派の庭師の作と伝えられ京風の作りで 諸木老い茂り景勝を以って著名である。
又観音堂に安置されている木造薬師如来(秘佛)百番観音他多数の石佛が茅野市文化財に指定されている。
(案内板から)

<参考資料>
市指定有形文化財 木造薬師如来像
この薬師如来像は、諏訪大社上社本宮の旧内陣の西方薬師堂に安置されていたもので、製作年代は鎌倉前期から中期頃と推定され、総体的に宋朝様式がみられる。江戸時代には郡内では有名な薬師如来とされ、御開帳もしばしば行われ、角間町入口・湯の町・神宮寺村・鬼場橋・金沢宿等に知らせの立札をした記録が残っている。明治維新の神仏分離の際に穴山長円寺に移され今日に及んでいる。総丈は、九三・五cmで檜の一本作りである。特徴としては螺髪の彫出しが高く、頬張りも大きく、下ぶくれで、眉毛の線も円弧を描き、小鼻のふくらみ、細眼の切れ目など鎌倉時代の特色をみごとに表現した慈愛にみちた御姿である。両側の月光菩薩・日光菩薩の脇侍と共に厨子の中に安置されている。但し長い歳月の間に破損した所が多く惜しまれている。
(茅野市教育委員会設置の案内板から・昭和52年)





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160716_1359_中ッ原縄文公園(茅野市)

茅野市湖東(地図)にある縄文時代の遺跡で、平成12年(2000)、ここから国宝「仮面の女神」(茅野市尖石縄文考古館蔵)が発掘されました。
またこの遺跡の発掘調査において、縄文時代後期前半、柱が建てられていた痕跡(8本柱方形柱穴列)が認められ、諏訪地域に伝わる御柱との関係が注目されています。
(写真:中ッ原縄文公園=16日午後撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 茅野市尖石縄文考古館(茅野市HP
・ NHKスペシャル
  古代史ミステリー「御柱」
  ~最後の”縄文王国”の謎~
  http://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20160626

<参考資料>中ッ原縄文公園
中ッ原縄文公園は、茅野市湖東(※こひがし)山口に位置する中ッ原遺跡の一部を保存し、特に土偶「仮面の女神」の出土状態を現地に再現するために平成14年に作られました。
中ッ原遺跡は縄文時代の大規模な縄文時代の集落址として、昭和初期より調査が行われ、現在までに竪穴住居址約200軒、土坑約3,400ヶ所が発見されており、この地域の中心的なムラであったことがわかっています。
中ッ原遺跡の縄文時代のムラは、中央の土坑群(どこうぐん)を囲むように竪穴住居址(たてあなじゅうきょし)が配された環状集落の構成をとり、土偶「仮面の女神」も、竪穴住居址に囲まれ墓などが作られる中央部の坑(あな)に横たえたようにな状態で発見されました。
中ッ原遺跡は縄文時代中期から後期の長期にわたり、多くの住居が作られていることや、土偶、ヒスイ飾り玉を副葬する墓などが作られていることを考えると、この地域の中心的なムラであったことがうかがえます。
(茅野市教育委員会設置の案内板から)

<参考資料>土偶「仮面の女神」
この土偶は、平成12年8月23日、竪穴住居址に囲まれ墓などが作られる集落中央部の坑(あな)に横たえたような状態で発見されました。
この土偶は、茅野市棚畑(たなばたけ)遺跡から発見された、国宝「土偶」(縄文のビーナス)よりも新しい時代の縄文時代後期に作られたものです。平らな逆三角形の顔面表現が、仮面を彷彿させることから「仮面の女神」の愛称が付けられました。大きく張り出す両腕、ふくよなか腹部、太くどっしりと立つ脚部に特徴を持ち、体部等に施された渦巻きやたすき状の文様は、縄文時代後期に特有なものです。また、頭部・胴部・脚部が中空に作られており、当時の製作技術の高さがうかがわれます。身丈34cmと群を抜く大きさ、墓を思わせる坑(あな)に人為的に埋められていた点などから、この土偶が特殊な意味を持ち祭られたものと考えられます。
(案内板から)

<参考資料>「仮面の女神」出現!
160716_1355_中ッ原縄文公園(茅野市)
復元された発掘現場
2000年8月23日、「仮面の女神」は4000年の眠りから覚め、その姿を現しました。発見されたのは、縄文ムラの中心に掘られた201×105cm楕円形の穴「第Ⅲ次 70号土坑」からです。この周辺は多数の墓が築かれた墓域で、これを取り囲むように住居が築かれています。
「仮面の女神」が出現した穴の下層部は、コレステロール・リン酸などの比重が高く、遺体が埋葬された墓穴であることは確実です。骨は土壌が酸性であるため融けて残っていません。
「仮面の女神」は遺体を埋葬したのち、小さい穴を掘り込み、安置したことが、土の埋まり具合から判明しています。
「仮面の女神」は、右脚にのみ多くの日々が入っていること、胴体の内部に大きな破片が入っていたことなどから、右脚は埋設された時点ですでに壊れていた、あるいは人為的に壊されていた可能性が高いと指摘されています。
「仮面の女神」の埋設された「第Ⅲ次70号土坑」の北には「第Ⅲ次94号土坑」「第Ⅲ次94号土坑」、南には「第Ⅲ次59号土坑」があり、3つの穴は同じ方向(長軸方向が東西」を向いています。「第Ⅲ次94号土坑」「第Ⅲ次59号土坑」には、「浅鉢形土器」が伏せられていました。これは使者の顔の上に被せられる土器です。3つの穴は共に4000年前の墓穴であり、当時の埋葬儀礼を今に伝えています。
(案内板から)





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160211_1406_権現の森(茅野市)

16_宮川街歩きマップ
宮川街歩きマップ
江戸時代初期に設けられた青柳宿でしたが、近くにある宮川の氾濫や、慶安年間に起きた火災により家屋の多くが焼失したことから、慶安4年(1651)、現在の茅野市金沢へ移転。宿名を金沢宿に改め、現在に至っています。
權現の森(地図)に残る石祠は、青柳宿が移転した後の承応3年(1654)に建立されていますが、金山權現はもともと山の神であり、近くには武田信玄が開発した金鶏金山との関連から、石祠が建立される以前に、すでに信仰の場となっていたと考えられています。
(写真:茅野市金沢の国道20号線沿いにある權現の森=11日午後撮影、640×480拡大可能)

<参考資料> 權現の森
江戸から甲府までの甲州道中(甲州街道)が下諏訪まで延長されたのは慶長十五年(一六一〇)ごろである。そのことここは青柳宿といい、この権現の森の北西に家が並んでいたが、たびかさなる宮川の洪水や慶安三年(一六五〇)の大火を機に南方の現在地へ移転し、翌四年に金沢宿と宿名を改めた。この宿場は、山浦方面や松倉峠(金沢峠)を越して高遠方面に通ずる分岐点として、交通上、物資の流通上重要な所であった。
文化二年(一八〇五)に金沢宿より幕府に提出した「御分間御絵図御用宿方明細書上帳」に、「宿持鎮守 除地 拾六間四方 金山權現森壱ヶ所石御祠御座候 但江戸ヨリ右之方往還ニ御座候」とあり、權現の森と石祠についての報告がされている。
参道正面に祀られているのがこの石祠で、建立は承応三年(一六五四)である。青柳宿が移転して金沢宿と名を改めた三年後のことである。金山權現は、祭神は金山彦命で、山の神である。武田信玄が開発した金鶏金山との関係が考えられ、当時すでに祀られていたのではないかと考えられる。
石祠の左右には、江戸中期ことより庶民の信仰として祀られた御嶽座主權現・庚申・矜羯羅(こんがら)童子と制吨迦(せいたか)童子の脇侍をともなう津島牛頭天王・大六天・如意輪観音・蚕玉大神・道祖神石祠・石燈籠など大正期までの石造物二十数基が祀られている。
また、石祠建立のころの植樹かと思われるサワラの古木が残存し、森に趣きを添えており、信仰の場として、また憩いの場として今も江戸時代の名ごりを留めている貴重な場所である。
(茅野市教育委員会設置の案内板から・昭和59年)





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160211_1337_酒室神社・甲州街道てくてくマップから(茅野市) 160211_1338_酒室神社・甲州街道てくてくマップから(茅野市)
160211_1344_酒室神社の「雨降塚」・甲州街道てくてくマップから(茅野市) 160211_1344_1_酒室神社の「赤石」・甲州街道てくてくマップから(茅野市)
酒室神社

茅野市坂室にある市指定史跡の神社(地図)。
御射山祭神事の祭場であり、前夜祭では濁酒(どぶろく)を作り奉納したと伝えられています。祭神は酒解子之(さけとくね)神。
(写真:酒室神社=11日午前撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ from 八ヶ岳原人
  http://www.yatsu-genjin.jp/
・ 旧街道ウォーク 人力
  http://www.jinriki.info/

<参考資料>
市指定史跡 酒室神社
酒室神社は、御射山(みさやま)祭りに濁酒(どぶろく)を作り、山の神に供える前夜祭をとり行なった神聖な地に祀った神で、酒室は御射舎まの入口に位置し、御射山は通称「はらやま」で、諏訪明神のみ狩神事の祭場である。年四度のみ狩が定められ、これを「みさやままつり」またははらやまさま」と呼ぶ。四度のみ狩りとは、押立ちみ狩・御作田み狩・穂屋のみ狩・秋尾のみ狩である。このうち最も盛大な神事が穂屋のまつりで、旧暦七月二十六日、現在は八月二十六日に行われている。武術を奨励した昔は、諸国から守護・地頭・代官職等が多数参加し、祭りの催しには、的矢・流鏑馬・角力等が行われ、露店や芸人が集り、そのため槍隊が出て警固にあたったと云われる。参詣人をかぞえる大草(すすき)さずけの儀が行われ、神事が終ると一堂勢揃いして弓張川で弓を清め、御射山にののりみ狩が行われた。
神殿は文政八年(一八二五)大隅流の建築家矢崎玖右衛門の建築したものである。なお境内の東の隅に「雨降り塚」と呼ぶ古墳があり、明治三十四年に発掘された。
(茅野市教育委員会設置の案内板から・昭和52年)





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160211_0927_かんてんぐら・宮川街歩きマップから(茅野市)

16_宮川街歩きマップ
宮川街歩きマップ
冬の寒さと適度な乾燥に恵まれた茅野市は、江戸時代から続く寒天作りが盛んで、全国一の生産量を誇ることで知られています。市内宮川地区には、寒天作りの歴史を伝える寒天蔵などの貴重な建物が残されており、雄大な八ヶ岳連峰を背景にして建つその姿は、季節ごとにさまざまな姿を魅せてくれます。
今回は、JR茅野駅内にある茅野市観光センターでいただいた「宮川街歩きマップ」を参考に、寒天蔵のある風景に会える街の見どころを訪ねてみます。
(写真:かんてんぐら=11日午前撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ かんてんぐら(宮川くらの会)
  http://www.chinonet.net/miyakura/
・ 鈿女神社
  http://www.okame.info/
  
<今回の街歩きコース> 
かんてんぐら(地図)→三輪社→おかめ神社→イリイチ寒天蔵→増木寒天蔵→松木寒天蔵→上川橋→円通山宗湖寺→木落し公園→甲州街道・一里塚→かんてんぐら

<参考資料> かんてんぐら
この建物は、昭和初期、岡谷に在った繭蔵を移築し寒天倉庫として使ってきたものです。明治から大正期、岡谷は製糸で栄えていました。昭和に入り製糸が下火になるのと入れ替わるように、ここ茅野では寒天作りが盛んになっていました。
『かんてんぐら』はそんな風景の中、岡谷から移築されてきたものです。繭倉として建てられてから築百年以上と考えられています。この地域300m圏内に同じくらいの規模の「寒天倉」はこれを含め4棟在りますが、共に岡谷の繭倉を移築したものです。
寒天倉庫としての役目を終えたこの『かんてんぐら』を、平成21年、多目的ホールに改築して、現在は音楽をはじめとする様々なイベント等で使用しています。

<参考資料> 明治天皇御小休所跡
160211_0931_明治天皇茅野御小休所・宮川街歩きマップから(茅野市)
五味邸跡
ここは、明治天皇が三重・滋賀・京都など巡幸された際に、御小休所に充てられた五味邸の跡である。
天皇は、明治十三年六月二十三日午後二時過ぎ、五味邸にお着きになり、約一時間お休みになった。お供には伏見宮・太政大臣三條実美・参議伊藤博文・同寺島宗則などのほか、勅任官・奏任官・判任官、及び警固の者まで加えるとその数三百人とも五百人とも伝えられている。
お迎えした給仕には五味又三・大島総十郎・五味嘉与助が当たり、天皇及びおもだった供奏者には、宗湖庵の井戸から運んだ水を用いてお茶を差し上げたという。
(案内板から)

明治十三年明治天皇は山梨・三重・京都御巡幸の際茅野をお通りになり、丸井伊藤商店前の五味三郎宅で御休憩された。出発は六月十六日で二十三日山梨県から諏訪に入られ午後に地に五味宅へお着きになった。一行は伏見宮・太政大臣三條実美・参議寺島宗則・伊藤博文等五百余名が従者としておいでになり、小休所では宗湖庵の井戸水を用いてお茶を差し上げた。御下賜品は白羽二重一匹・金拾五円、宗湖庵へは金五十銭を賜った。一行は約1時間お休みになって上諏訪へご出発された。
(丸井伊藤商店前に設置された案内板から)

明治天皇の巡幸について「宮川街歩きマップ」に詳しく記されていますので引用しておきます。また、資料については emoji 国立公文書館デジタルアーカイブ をご覧ください。
 
明治天皇は明治十三年に民情ご視察のため、伏見宮・三条太政大臣・参議寺島宗則・同伊藤博文らをお従えになり、山梨・三重・京都地方をご巡幸になった。六月十三日東京をご出発、甲州路より諏訪に入られ、二十三日午前十時ごろ、長野県令楢崎寛直のご先導により蔦木宿の本陣有賀源六宅にお着きになった。約一時間ご小休の後に出発。今の釜無河原平岡でご小憩。ここより御馬車を板輿に替えられて富士見町原の茶屋の戸長役場に向かわれた。ここで一時間ほどお休みになり二頭立ての御馬車で金沢宿本陣白川潤一郎宅に着かれたのは正午であった。ご食事の後、午後一時半ご出発、茅野五味和三郎宅でご小休、この時奉幣使を上社にお遣しになった。午後五時ごろ、諏訪市旧高島小学校の行在所に着かれてご宿泊された。

<参考資料>
市指定文化財 三輪社
160211_0930_三輪社・宮川街歩きマップから(茅野市)
三輪社
三輪社は久寿年間(約八一〇年前)に、大和国三輪村の三輪神社をこの地にお迎えしたものと伝えられ、宮川茅野・西茅野両区の産土神である。祭神は大国主命・稲御魂(うがみたま)命・櫛玉命である。
本殿は文化元年(一八〇四)三月に矢崎糺玖右衛門により建築され、拝殿は文政三年(一八二〇)に建築されたが、明治四一年に改築している。
本殿の彫刻は、大隅流の流れをくむ矢崎玖右衛門の代表作である。江戸時代の建築の、彫材の技巧をこらした傾向がよく現れている。題材はすべて中国の歴史物語にとり、北面には「蜀の三傑桃園に義を結ぶ」の図、東面は「黄石公張良に兵書を授くる」の図、南面は「玄徳赤兎馬に鞭打って潭渓を越ゆる」の図である。欅を材として、半肉彫で、空間構成もよくととのい、春高い芸術作品である。
(茅野市教育委員会設置の案内板から・昭和55年)

<参考資料> 鈿女(おかめ)神社
160211_0928_おかめ神社・宮川街歩きマップから(茅野市)
鈿女(おかめ)神社
鈿女神社の祭神は古事記や日本書紀に書かれている天照大神が天の岩戸に隠れたとき岩戸の前で舞を舞った「天鈿女命(あまのうずめ)」で後には猿田彦神と共に「道祖神」として祭られるようになりました。「天鈿女命」の面は狂言の面としていわゆる「おかめ面」となりこれが「ひょっとこ」と一緒におかしく踊られるようになりました。このおかめを祭る神社は諏訪に三社あり 長持ちに必ずおかめ面を担ぐ慣わしになっています。
昭和八年統治の商業者が商売繁盛 家内安全 厄除け 縁結び祈願のために、安曇の松川村より分社して以来地元宮川商業会がお守りしています。
福の神としておかめ様があり「笑う門には福来たる」として 心の明るさと癒しを与えてくださいます。
鈿女の字を分けて見ると金田女神社となり お金の貯まる神社として縁起もよく人々に愛されております。
(宮川商業会 宮川街づくり協議会設置の案内板より)


160211_1007_増木寒天蔵・宮川街歩きマップから(茅野市) 160211_1011_増木寒天蔵・宮川街歩きマップから(茅野市)
増木寒天蔵
160211_1018_松木寒天蔵・宮川街歩きマップから(茅野市) 160211_1005_イリイチ寒天蔵・宮川街歩きマップから(茅野市)
松木寒天蔵 イリイチ寒天蔵

<参考HP>
・ 松木寒天産業
  http://www.kanten.co.jp/
・ アルプス印 イリイチ寒天
  http://www.iriichi.jp/
 
<参考資料> 板倉
八ヶ岳山麓周辺に残るくらの多くは「板倉」です。
板倉の古いものは「セイロ」と呼ばれる「井籠倉」で建物の隣で井桁に組まれた形式のものですが、この『かんてんぐら』は「オトシ」と呼ばれる「落し板倉」です。
「オトシ」とは、大きな梁で支えられた柱と柱の間に1.5~2寸(5~6cm)の厚みの板材を柱の溝に沿って落とし込む形式のものですが、この地域の多くのくらはこの「板倉」です。
板倉は、釘を使っていないのも特徴の一つです。土壁を落として解体すれば、又別の場所で組み立てることができます。豊富な森林資源を背景に数百年にわたって作り続けられたくらですが、先人達が自然と上手く共存しながら生活する中で、資源を建築に活かす技術の集大成であり、木と土の文化が生み出した世界的にも稀な木造建築です。
(宮川「くらの会」設置の案内板から)


160211_1022_円通山宗湖寺・宮川街歩きマップから(茅野市) 160211_1025_円通山宗湖寺にある明治天皇御膳水・宮川街歩きマップから(茅野市)
円通山宗湖寺 法の真水(明治天皇御前水)

<参考資料> 円通山宗湖寺の由来
円通山宗湖寺は諏訪家中興の祖諏訪頼忠公(法名永明寺殿晃山宗湖大庵主)の菩提所であります。
天文十一年惣領家諏訪頼重が武田氏によって滅ぼされて以来、雌伏四十年上社大祝職にあった頼忠公(頼重の従弟)は、密かに再興の機を窺って居りましたが、天正十年武田氏が天目山に滅び、織田信長も又本能寺の変に討滅されるや、いち早く兵を挙げ再び諏訪の地を旧領に復しました。頼忠は慶長六年関ヶ原の戦いでは江戸城の留守役を務め、二代将軍秀忠と行動し、戦功により、再び故国諏訪の地に移封となり、頼忠・頼水父子領民歓呼の裡(うち)に旧領に復帰したのであります。帰国後四年、頼忠既に齢七十一歳を閲みし、慶長十年八月二十一人その寿を全とうして卒去、永明寺(茅野市上原地籍、上原五山のひとつ)に葬られました。
(TMO宮川街づくり協議会設置の案内板から)

<参考資料> 寺紋 梶の葉
この四本足の梶の葉は、諏訪大社大祝諏訪氏の定紋で、古くは諏訪明神の生き神様大祝が着用した衣服に使われていました。従ってこの紋は、諏訪明神の神威と大祝の身分をあらわすものでした。
(TMO宮川街づくり協議会設置の案内板から)

<参考資料> 法の真水(明治天皇御膳水)
宗湖寺の水は、八ヶ岳の阿弥陀岳より深い地層の中を通り、フォッサ・マグナの岩盤の下より湧いていると考えられています。
明治天皇は明治十三年六月二十三日に茅野に巡幸され、御小休された際に御膳水として宗湖寺の井戸水を利用しお茶をさし上げました。冷たい天然水を飲んでみると甘くてヒンヤリとした水が喉を通り、明治時代の思いをはせながら茅野の水の豊かさを実感します。
石碑は、砥川の石を用い、台石は霧ヶ峰産であり、文字は諏訪大社宮司高階研一氏の筆であります。
(TMO宮川街づくり協議会設置の案内板から)

<参考資料>
曹洞宗 圓通山 宗湖禅寺 山門由来
此の門は明治十三年 明治天皇 山梨、長野、三重、京都御巡幸の砌、当地五味和三郎邸にご休息に成られた、その折り、旧諏訪藩家老千野家の門、通称三の丸の御門を移築しお迎え申し上げた奉迎門で有る。
六月二十三日 天皇は二頭立ての輦車に乗られ、伏見宮・太政大臣三條実美、参議伊藤博文、同寺島宗則、又宮内大書記官山岡鉄舟等数百名の供奉者扈従のものと同邸に御小休遊ばされた。
その折り当宗湖寺の井水を御膳水として湯茶の接待に供された。
爾来この門は百十数年此の地に有り一時は県史跡として保存指定を受け代々管理継承されて来たが、この度現在の当主五味宏太郎氏より五味家先祖の菩提供養と史跡保存のため、当時に寄進されるところとなった。
抑 当時宗湖寺は頼岳寺十九世覚海真禅和尚が、諏訪氏中興の祖諏訪頼忠公の位牌所の荒廃に憂い、一山を建立し以て公の霊を祀るべく常々親交厚く勢威並びない、時の城代家老千野兵庫の物心の亙る庇護のもの当寺を建立するに至ったもの。
今又五味家より千野家由来の門の寄進を得たるは当寺に一層の光彩を添えたるのみ成らず、仏縁にいよいよ深きを覚えるものである。
(円通寺 宗湖寺設置の案内板から・平成15年)


160211_1030_木落し公園・宮川街歩きマップから(茅野市)
160211_1033_w_木落し公園・宮川街歩きマップから(茅野市)
木落とし公園から見える風景
(パノラマ写真は 1280*332 拡大可能)

<参考資料> 御柱(おんばしら)
七年(数え年)に一度天下の大祭、諏訪大社御柱祭、四月に行われる「山出し」の最大の見せ場であり又、難所でもある「木落しの地」です。坂の長さ約三十六M、最大斜度二十七度とまさに断崖です。
めどでこに大勢の若者を乗せて、木遣り一声、一気に急坂を下りると沸き起こる拍手と歓声。木落しは男たちの度胸の見せ所です。
この御柱は前回、平成十六年の大祭に本宮四の御柱で曳行されたご神木です。次回平成二十八年の御柱まで設置しておきます。なお、危険ですので柵の中に入ったり御柱に乗らないでください。けが等をされても一切責任は負えません。
(晴ヶ峰西山観光協会設置の案内板から)

今回の街歩きで、マップに記載はあるものの、なかなか場所がわからなかったものが江戸から50里(約200キロ)の位置にあった甲州街道の一里塚でした。
これぞっと思った脇道に入りひたすら探し歩いてみるものの、道沿いにはそれらしきものは見当たらず、なかには行き止まりになっている道も。
そうしたなか、役だったのが「甲州街道てくてくマップ」(茅野市公民館 学習専門委員会作成)。そこには「かつて街道の両脇に築かれた塚は取り壊され、民家の間に碑だけがひっそりと残ります」という一文でした。
改めて、甲州街道と思われる道を歩くと、左手にある民家の石段を進んだ先(写真参照)に目指す一里塚を紹介する案内板がありました。分かりにくい位置にありますので、参考までに( emoji 地図 )を記しておきます。
 
<参考資料> 一里塚
160211_1134_甲州街道一里塚・宮川街歩きマップから(茅野市)  
甲州街道・五十里塚
(右側の石段を進んだ先)
徳川家康は関ヶ原戦後五街道の制を定め、その一つの甲州街道ははじめ甲府までであったが、後中仙道の宿場下諏訪まで延長し、甲府までを表街道、甲府から下諏訪までを裏街道と呼んだ。そして街道は三十六町毎に塚を築き、主として榎(えのき)か欅(けやき)を植えた。このうち茅野市内での一里塚は金沢木舟の四十九里塚とここ五十里塚があった。江戸から五十里のこの塚は比翼塚と云って道の両側に塚を築いたものであったが、明治十八年に民間に払い下げられ取り壊されてしまった。
現在はその跡を示す碑がたてられている。
(茅野市教育委員会設置の案内板から)





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