忍者ブログ
管理人の思いつくまま、気の向くまま、長野県内の町や村の話題を取り上げています。

161105_1535_真言宗智山派清龍山 長圓寺の紅葉(茅野市)

江戸時代の慶安2年(1649)に、武田慶尊法印により開山された真言宗智山派の寺院(地図)。紅葉の時期には、県内外から大勢の観光客が訪れる観光スポットとして知られています。
(写真:茅野市穴山の長圓寺の紅葉=5日午後撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 真言宗智山派清龍山 長圓寺
  http://chouenji.info/

<参考資料>真言宗智山派清龍山 長圓寺
161105_1537_真言宗智山派清龍山 長圓寺(茅野市)
真言宗智山派清龍山 長圓寺
當山は慶安二年(一六四九)武田慶尊阿舎梨が高野山金剛峯寺金剛頂院の本院を相続して創建された。寺格は格院 本尊は金剛界大日如来 要穴山長圓寺と号したが、其の後火災にあり焼失(年代不詳)した。
延享三年庫裡(一七四六) 延享四年本堂を再建し 火伏の為山号を清龍山と改める。
文化八年(一八一一)鐘楼門 土蔵 慶應二年隠寮 明治十七年観音堂が作られている。
特に山門は諏訪の大隅流の大工でよく知られた伊藤儀左エ門、長左エ門兄弟の作である。梵鐘は百五十貫の名鐘であったが、昭和十九年大戦の為供出し 永らく鐘声が跡絶えていたが 昭和三十八年當山檀信徒一丸となって二百貫の大梵鐘を鋳造すると共に庫裡を改築した。その庭園は 京都丸山派の庭師の作と伝えられ京風の作りで 諸木老い茂り景勝を以って著名である。
又観音堂に安置されている木造薬師如来(秘佛)百番観音他多数の石佛が茅野市文化財に指定されている。
(案内板から)

<参考資料>
市指定有形文化財 木造薬師如来像
この薬師如来像は、諏訪大社上社本宮の旧内陣の西方薬師堂に安置されていたもので、製作年代は鎌倉前期から中期頃と推定され、総体的に宋朝様式がみられる。江戸時代には郡内では有名な薬師如来とされ、御開帳もしばしば行われ、角間町入口・湯の町・神宮寺村・鬼場橋・金沢宿等に知らせの立札をした記録が残っている。明治維新の神仏分離の際に穴山長円寺に移され今日に及んでいる。総丈は、九三・五cmで檜の一本作りである。特徴としては螺髪の彫出しが高く、頬張りも大きく、下ぶくれで、眉毛の線も円弧を描き、小鼻のふくらみ、細眼の切れ目など鎌倉時代の特色をみごとに表現した慈愛にみちた御姿である。両側の月光菩薩・日光菩薩の脇侍と共に厨子の中に安置されている。但し長い歳月の間に破損した所が多く惜しまれている。
(茅野市教育委員会設置の案内板から・昭和52年)





ランキングに参加しました。
Click >>> にほんブログ村 長野情報
Click >>> 人気ブログランキングへ
管理人ホームページ Click >>> 日本列島夢紀行 信州からあなたへ

拍手[0回]

PR

160716_1359_中ッ原縄文公園(茅野市)

茅野市湖東(地図)にある縄文時代の遺跡で、平成12年(2000)、ここから国宝「仮面の女神」(茅野市尖石縄文考古館蔵)が発掘されました。
またこの遺跡の発掘調査において、縄文時代後期前半、柱が建てられていた痕跡(8本柱方形柱穴列)が認められ、諏訪地域に伝わる御柱との関係が注目されています。
(写真:中ッ原縄文公園=16日午後撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 茅野市尖石縄文考古館(茅野市HP
・ NHKスペシャル
  古代史ミステリー「御柱」
  ~最後の”縄文王国”の謎~
  http://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20160626

<参考資料>中ッ原縄文公園
中ッ原縄文公園は、茅野市湖東(※こひがし)山口に位置する中ッ原遺跡の一部を保存し、特に土偶「仮面の女神」の出土状態を現地に再現するために平成14年に作られました。
中ッ原遺跡は縄文時代の大規模な縄文時代の集落址として、昭和初期より調査が行われ、現在までに竪穴住居址約200軒、土坑約3,400ヶ所が発見されており、この地域の中心的なムラであったことがわかっています。
中ッ原遺跡の縄文時代のムラは、中央の土坑群(どこうぐん)を囲むように竪穴住居址(たてあなじゅうきょし)が配された環状集落の構成をとり、土偶「仮面の女神」も、竪穴住居址に囲まれ墓などが作られる中央部の坑(あな)に横たえたようにな状態で発見されました。
中ッ原遺跡は縄文時代中期から後期の長期にわたり、多くの住居が作られていることや、土偶、ヒスイ飾り玉を副葬する墓などが作られていることを考えると、この地域の中心的なムラであったことがうかがえます。
(茅野市教育委員会設置の案内板から)

<参考資料>土偶「仮面の女神」
この土偶は、平成12年8月23日、竪穴住居址に囲まれ墓などが作られる集落中央部の坑(あな)に横たえたような状態で発見されました。
この土偶は、茅野市棚畑(たなばたけ)遺跡から発見された、国宝「土偶」(縄文のビーナス)よりも新しい時代の縄文時代後期に作られたものです。平らな逆三角形の顔面表現が、仮面を彷彿させることから「仮面の女神」の愛称が付けられました。大きく張り出す両腕、ふくよなか腹部、太くどっしりと立つ脚部に特徴を持ち、体部等に施された渦巻きやたすき状の文様は、縄文時代後期に特有なものです。また、頭部・胴部・脚部が中空に作られており、当時の製作技術の高さがうかがわれます。身丈34cmと群を抜く大きさ、墓を思わせる坑(あな)に人為的に埋められていた点などから、この土偶が特殊な意味を持ち祭られたものと考えられます。
(案内板から)

<参考資料>「仮面の女神」出現!
160716_1355_中ッ原縄文公園(茅野市)
復元された発掘現場
2000年8月23日、「仮面の女神」は4000年の眠りから覚め、その姿を現しました。発見されたのは、縄文ムラの中心に掘られた201×105cm楕円形の穴「第Ⅲ次 70号土坑」からです。この周辺は多数の墓が築かれた墓域で、これを取り囲むように住居が築かれています。
「仮面の女神」が出現した穴の下層部は、コレステロール・リン酸などの比重が高く、遺体が埋葬された墓穴であることは確実です。骨は土壌が酸性であるため融けて残っていません。
「仮面の女神」は遺体を埋葬したのち、小さい穴を掘り込み、安置したことが、土の埋まり具合から判明しています。
「仮面の女神」は、右脚にのみ多くの日々が入っていること、胴体の内部に大きな破片が入っていたことなどから、右脚は埋設された時点ですでに壊れていた、あるいは人為的に壊されていた可能性が高いと指摘されています。
「仮面の女神」の埋設された「第Ⅲ次70号土坑」の北には「第Ⅲ次94号土坑」「第Ⅲ次94号土坑」、南には「第Ⅲ次59号土坑」があり、3つの穴は同じ方向(長軸方向が東西」を向いています。「第Ⅲ次94号土坑」「第Ⅲ次59号土坑」には、「浅鉢形土器」が伏せられていました。これは使者の顔の上に被せられる土器です。3つの穴は共に4000年前の墓穴であり、当時の埋葬儀礼を今に伝えています。
(案内板から)





ランキングに参加しました。
Click >>> にほんブログ村 長野情報
Click >>> 人気ブログランキングへ
管理人ホームページ Click >>> 日本列島夢紀行 信州からあなたへ

拍手[0回]


160211_1406_権現の森(茅野市)

16_宮川街歩きマップ
宮川街歩きマップ
江戸時代初期に設けられた青柳宿でしたが、近くにある宮川の氾濫や、慶安年間に起きた火災により家屋の多くが焼失したことから、慶安4年(1651)、現在の茅野市金沢へ移転。宿名を金沢宿に改め、現在に至っています。
權現の森(地図)に残る石祠は、青柳宿が移転した後の承応3年(1654)に建立されていますが、金山權現はもともと山の神であり、近くには武田信玄が開発した金鶏金山との関連から、石祠が建立される以前に、すでに信仰の場となっていたと考えられています。
(写真:茅野市金沢の国道20号線沿いにある權現の森=11日午後撮影、640×480拡大可能)

<参考資料> 權現の森
江戸から甲府までの甲州道中(甲州街道)が下諏訪まで延長されたのは慶長十五年(一六一〇)ごろである。そのことここは青柳宿といい、この権現の森の北西に家が並んでいたが、たびかさなる宮川の洪水や慶安三年(一六五〇)の大火を機に南方の現在地へ移転し、翌四年に金沢宿と宿名を改めた。この宿場は、山浦方面や松倉峠(金沢峠)を越して高遠方面に通ずる分岐点として、交通上、物資の流通上重要な所であった。
文化二年(一八〇五)に金沢宿より幕府に提出した「御分間御絵図御用宿方明細書上帳」に、「宿持鎮守 除地 拾六間四方 金山權現森壱ヶ所石御祠御座候 但江戸ヨリ右之方往還ニ御座候」とあり、權現の森と石祠についての報告がされている。
参道正面に祀られているのがこの石祠で、建立は承応三年(一六五四)である。青柳宿が移転して金沢宿と名を改めた三年後のことである。金山權現は、祭神は金山彦命で、山の神である。武田信玄が開発した金鶏金山との関係が考えられ、当時すでに祀られていたのではないかと考えられる。
石祠の左右には、江戸中期ことより庶民の信仰として祀られた御嶽座主權現・庚申・矜羯羅(こんがら)童子と制吨迦(せいたか)童子の脇侍をともなう津島牛頭天王・大六天・如意輪観音・蚕玉大神・道祖神石祠・石燈籠など大正期までの石造物二十数基が祀られている。
また、石祠建立のころの植樹かと思われるサワラの古木が残存し、森に趣きを添えており、信仰の場として、また憩いの場として今も江戸時代の名ごりを留めている貴重な場所である。
(茅野市教育委員会設置の案内板から・昭和59年)





ランキングに参加しました。
Click >>> にほんブログ村 長野情報
Click >>> 人気ブログランキングへ
管理人ホームページ Click >>> 日本列島夢紀行 信州からあなたへ

拍手[0回]


160211_1337_酒室神社・甲州街道てくてくマップから(茅野市) 160211_1338_酒室神社・甲州街道てくてくマップから(茅野市)
160211_1344_酒室神社の「雨降塚」・甲州街道てくてくマップから(茅野市) 160211_1344_1_酒室神社の「赤石」・甲州街道てくてくマップから(茅野市)
酒室神社

茅野市坂室にある市指定史跡の神社(地図)。
御射山祭神事の祭場であり、前夜祭では濁酒(どぶろく)を作り奉納したと伝えられています。祭神は酒解子之(さけとくね)神。
(写真:酒室神社=11日午前撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ from 八ヶ岳原人
  http://www.yatsu-genjin.jp/
・ 旧街道ウォーク 人力
  http://www.jinriki.info/

<参考資料>
市指定史跡 酒室神社
酒室神社は、御射山(みさやま)祭りに濁酒(どぶろく)を作り、山の神に供える前夜祭をとり行なった神聖な地に祀った神で、酒室は御射舎まの入口に位置し、御射山は通称「はらやま」で、諏訪明神のみ狩神事の祭場である。年四度のみ狩が定められ、これを「みさやままつり」またははらやまさま」と呼ぶ。四度のみ狩りとは、押立ちみ狩・御作田み狩・穂屋のみ狩・秋尾のみ狩である。このうち最も盛大な神事が穂屋のまつりで、旧暦七月二十六日、現在は八月二十六日に行われている。武術を奨励した昔は、諸国から守護・地頭・代官職等が多数参加し、祭りの催しには、的矢・流鏑馬・角力等が行われ、露店や芸人が集り、そのため槍隊が出て警固にあたったと云われる。参詣人をかぞえる大草(すすき)さずけの儀が行われ、神事が終ると一堂勢揃いして弓張川で弓を清め、御射山にののりみ狩が行われた。
神殿は文政八年(一八二五)大隅流の建築家矢崎玖右衛門の建築したものである。なお境内の東の隅に「雨降り塚」と呼ぶ古墳があり、明治三十四年に発掘された。
(茅野市教育委員会設置の案内板から・昭和52年)





ランキングに参加しました。
Click >>> にほんブログ村 長野情報
Click >>> 人気ブログランキングへ
管理人ホームページ Click >>> 日本列島夢紀行 信州からあなたへ

拍手[0回]


160211_0927_かんてんぐら・宮川街歩きマップから(茅野市)

16_宮川街歩きマップ
宮川街歩きマップ
冬の寒さと適度な乾燥に恵まれた茅野市は、江戸時代から続く寒天作りが盛んで、全国一の生産量を誇ることで知られています。市内宮川地区には、寒天作りの歴史を伝える寒天蔵などの貴重な建物が残されており、雄大な八ヶ岳連峰を背景にして建つその姿は、季節ごとにさまざまな姿を魅せてくれます。
今回は、JR茅野駅内にある茅野市観光センターでいただいた「宮川街歩きマップ」を参考に、寒天蔵のある風景に会える街の見どころを訪ねてみます。
(写真:かんてんぐら=11日午前撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ かんてんぐら(宮川くらの会)
  http://www.chinonet.net/miyakura/
・ 鈿女神社
  http://www.okame.info/
  
<今回の街歩きコース> 
かんてんぐら(地図)→三輪社→おかめ神社→イリイチ寒天蔵→増木寒天蔵→松木寒天蔵→上川橋→円通山宗湖寺→木落し公園→甲州街道・一里塚→かんてんぐら

<参考資料> かんてんぐら
この建物は、昭和初期、岡谷に在った繭蔵を移築し寒天倉庫として使ってきたものです。明治から大正期、岡谷は製糸で栄えていました。昭和に入り製糸が下火になるのと入れ替わるように、ここ茅野では寒天作りが盛んになっていました。
『かんてんぐら』はそんな風景の中、岡谷から移築されてきたものです。繭倉として建てられてから築百年以上と考えられています。この地域300m圏内に同じくらいの規模の「寒天倉」はこれを含め4棟在りますが、共に岡谷の繭倉を移築したものです。
寒天倉庫としての役目を終えたこの『かんてんぐら』を、平成21年、多目的ホールに改築して、現在は音楽をはじめとする様々なイベント等で使用しています。

<参考資料> 明治天皇御小休所跡
160211_0931_明治天皇茅野御小休所・宮川街歩きマップから(茅野市)
五味邸跡
ここは、明治天皇が三重・滋賀・京都など巡幸された際に、御小休所に充てられた五味邸の跡である。
天皇は、明治十三年六月二十三日午後二時過ぎ、五味邸にお着きになり、約一時間お休みになった。お供には伏見宮・太政大臣三條実美・参議伊藤博文・同寺島宗則などのほか、勅任官・奏任官・判任官、及び警固の者まで加えるとその数三百人とも五百人とも伝えられている。
お迎えした給仕には五味又三・大島総十郎・五味嘉与助が当たり、天皇及びおもだった供奏者には、宗湖庵の井戸から運んだ水を用いてお茶を差し上げたという。
(案内板から)

明治十三年明治天皇は山梨・三重・京都御巡幸の際茅野をお通りになり、丸井伊藤商店前の五味三郎宅で御休憩された。出発は六月十六日で二十三日山梨県から諏訪に入られ午後に地に五味宅へお着きになった。一行は伏見宮・太政大臣三條実美・参議寺島宗則・伊藤博文等五百余名が従者としておいでになり、小休所では宗湖庵の井戸水を用いてお茶を差し上げた。御下賜品は白羽二重一匹・金拾五円、宗湖庵へは金五十銭を賜った。一行は約1時間お休みになって上諏訪へご出発された。
(丸井伊藤商店前に設置された案内板から)

明治天皇の巡幸について「宮川街歩きマップ」に詳しく記されていますので引用しておきます。また、資料については emoji 国立公文書館デジタルアーカイブ をご覧ください。
 
明治天皇は明治十三年に民情ご視察のため、伏見宮・三条太政大臣・参議寺島宗則・同伊藤博文らをお従えになり、山梨・三重・京都地方をご巡幸になった。六月十三日東京をご出発、甲州路より諏訪に入られ、二十三日午前十時ごろ、長野県令楢崎寛直のご先導により蔦木宿の本陣有賀源六宅にお着きになった。約一時間ご小休の後に出発。今の釜無河原平岡でご小憩。ここより御馬車を板輿に替えられて富士見町原の茶屋の戸長役場に向かわれた。ここで一時間ほどお休みになり二頭立ての御馬車で金沢宿本陣白川潤一郎宅に着かれたのは正午であった。ご食事の後、午後一時半ご出発、茅野五味和三郎宅でご小休、この時奉幣使を上社にお遣しになった。午後五時ごろ、諏訪市旧高島小学校の行在所に着かれてご宿泊された。

<参考資料>
市指定文化財 三輪社
160211_0930_三輪社・宮川街歩きマップから(茅野市)
三輪社
三輪社は久寿年間(約八一〇年前)に、大和国三輪村の三輪神社をこの地にお迎えしたものと伝えられ、宮川茅野・西茅野両区の産土神である。祭神は大国主命・稲御魂(うがみたま)命・櫛玉命である。
本殿は文化元年(一八〇四)三月に矢崎糺玖右衛門により建築され、拝殿は文政三年(一八二〇)に建築されたが、明治四一年に改築している。
本殿の彫刻は、大隅流の流れをくむ矢崎玖右衛門の代表作である。江戸時代の建築の、彫材の技巧をこらした傾向がよく現れている。題材はすべて中国の歴史物語にとり、北面には「蜀の三傑桃園に義を結ぶ」の図、東面は「黄石公張良に兵書を授くる」の図、南面は「玄徳赤兎馬に鞭打って潭渓を越ゆる」の図である。欅を材として、半肉彫で、空間構成もよくととのい、春高い芸術作品である。
(茅野市教育委員会設置の案内板から・昭和55年)

<参考資料> 鈿女(おかめ)神社
160211_0928_おかめ神社・宮川街歩きマップから(茅野市)
鈿女(おかめ)神社
鈿女神社の祭神は古事記や日本書紀に書かれている天照大神が天の岩戸に隠れたとき岩戸の前で舞を舞った「天鈿女命(あまのうずめ)」で後には猿田彦神と共に「道祖神」として祭られるようになりました。「天鈿女命」の面は狂言の面としていわゆる「おかめ面」となりこれが「ひょっとこ」と一緒におかしく踊られるようになりました。このおかめを祭る神社は諏訪に三社あり 長持ちに必ずおかめ面を担ぐ慣わしになっています。
昭和八年統治の商業者が商売繁盛 家内安全 厄除け 縁結び祈願のために、安曇の松川村より分社して以来地元宮川商業会がお守りしています。
福の神としておかめ様があり「笑う門には福来たる」として 心の明るさと癒しを与えてくださいます。
鈿女の字を分けて見ると金田女神社となり お金の貯まる神社として縁起もよく人々に愛されております。
(宮川商業会 宮川街づくり協議会設置の案内板より)


160211_1007_増木寒天蔵・宮川街歩きマップから(茅野市) 160211_1011_増木寒天蔵・宮川街歩きマップから(茅野市)
増木寒天蔵
160211_1018_松木寒天蔵・宮川街歩きマップから(茅野市) 160211_1005_イリイチ寒天蔵・宮川街歩きマップから(茅野市)
松木寒天蔵 イリイチ寒天蔵

<参考HP>
・ 松木寒天産業
  http://www.kanten.co.jp/
・ アルプス印 イリイチ寒天
  http://www.iriichi.jp/
 
<参考資料> 板倉
八ヶ岳山麓周辺に残るくらの多くは「板倉」です。
板倉の古いものは「セイロ」と呼ばれる「井籠倉」で建物の隣で井桁に組まれた形式のものですが、この『かんてんぐら』は「オトシ」と呼ばれる「落し板倉」です。
「オトシ」とは、大きな梁で支えられた柱と柱の間に1.5~2寸(5~6cm)の厚みの板材を柱の溝に沿って落とし込む形式のものですが、この地域の多くのくらはこの「板倉」です。
板倉は、釘を使っていないのも特徴の一つです。土壁を落として解体すれば、又別の場所で組み立てることができます。豊富な森林資源を背景に数百年にわたって作り続けられたくらですが、先人達が自然と上手く共存しながら生活する中で、資源を建築に活かす技術の集大成であり、木と土の文化が生み出した世界的にも稀な木造建築です。
(宮川「くらの会」設置の案内板から)


160211_1022_円通山宗湖寺・宮川街歩きマップから(茅野市) 160211_1025_円通山宗湖寺にある明治天皇御膳水・宮川街歩きマップから(茅野市)
円通山宗湖寺 法の真水(明治天皇御前水)

<参考資料> 円通山宗湖寺の由来
円通山宗湖寺は諏訪家中興の祖諏訪頼忠公(法名永明寺殿晃山宗湖大庵主)の菩提所であります。
天文十一年惣領家諏訪頼重が武田氏によって滅ぼされて以来、雌伏四十年上社大祝職にあった頼忠公(頼重の従弟)は、密かに再興の機を窺って居りましたが、天正十年武田氏が天目山に滅び、織田信長も又本能寺の変に討滅されるや、いち早く兵を挙げ再び諏訪の地を旧領に復しました。頼忠は慶長六年関ヶ原の戦いでは江戸城の留守役を務め、二代将軍秀忠と行動し、戦功により、再び故国諏訪の地に移封となり、頼忠・頼水父子領民歓呼の裡(うち)に旧領に復帰したのであります。帰国後四年、頼忠既に齢七十一歳を閲みし、慶長十年八月二十一人その寿を全とうして卒去、永明寺(茅野市上原地籍、上原五山のひとつ)に葬られました。
(TMO宮川街づくり協議会設置の案内板から)

<参考資料> 寺紋 梶の葉
この四本足の梶の葉は、諏訪大社大祝諏訪氏の定紋で、古くは諏訪明神の生き神様大祝が着用した衣服に使われていました。従ってこの紋は、諏訪明神の神威と大祝の身分をあらわすものでした。
(TMO宮川街づくり協議会設置の案内板から)

<参考資料> 法の真水(明治天皇御膳水)
宗湖寺の水は、八ヶ岳の阿弥陀岳より深い地層の中を通り、フォッサ・マグナの岩盤の下より湧いていると考えられています。
明治天皇は明治十三年六月二十三日に茅野に巡幸され、御小休された際に御膳水として宗湖寺の井戸水を利用しお茶をさし上げました。冷たい天然水を飲んでみると甘くてヒンヤリとした水が喉を通り、明治時代の思いをはせながら茅野の水の豊かさを実感します。
石碑は、砥川の石を用い、台石は霧ヶ峰産であり、文字は諏訪大社宮司高階研一氏の筆であります。
(TMO宮川街づくり協議会設置の案内板から)

<参考資料>
曹洞宗 圓通山 宗湖禅寺 山門由来
此の門は明治十三年 明治天皇 山梨、長野、三重、京都御巡幸の砌、当地五味和三郎邸にご休息に成られた、その折り、旧諏訪藩家老千野家の門、通称三の丸の御門を移築しお迎え申し上げた奉迎門で有る。
六月二十三日 天皇は二頭立ての輦車に乗られ、伏見宮・太政大臣三條実美、参議伊藤博文、同寺島宗則、又宮内大書記官山岡鉄舟等数百名の供奉者扈従のものと同邸に御小休遊ばされた。
その折り当宗湖寺の井水を御膳水として湯茶の接待に供された。
爾来この門は百十数年此の地に有り一時は県史跡として保存指定を受け代々管理継承されて来たが、この度現在の当主五味宏太郎氏より五味家先祖の菩提供養と史跡保存のため、当時に寄進されるところとなった。
抑 当時宗湖寺は頼岳寺十九世覚海真禅和尚が、諏訪氏中興の祖諏訪頼忠公の位牌所の荒廃に憂い、一山を建立し以て公の霊を祀るべく常々親交厚く勢威並びない、時の城代家老千野兵庫の物心の亙る庇護のもの当寺を建立するに至ったもの。
今又五味家より千野家由来の門の寄進を得たるは当寺に一層の光彩を添えたるのみ成らず、仏縁にいよいよ深きを覚えるものである。
(円通寺 宗湖寺設置の案内板から・平成15年)


160211_1030_木落し公園・宮川街歩きマップから(茅野市)
160211_1033_w_木落し公園・宮川街歩きマップから(茅野市)
木落とし公園から見える風景
(パノラマ写真は 1280*332 拡大可能)

<参考資料> 御柱(おんばしら)
七年(数え年)に一度天下の大祭、諏訪大社御柱祭、四月に行われる「山出し」の最大の見せ場であり又、難所でもある「木落しの地」です。坂の長さ約三十六M、最大斜度二十七度とまさに断崖です。
めどでこに大勢の若者を乗せて、木遣り一声、一気に急坂を下りると沸き起こる拍手と歓声。木落しは男たちの度胸の見せ所です。
この御柱は前回、平成十六年の大祭に本宮四の御柱で曳行されたご神木です。次回平成二十八年の御柱まで設置しておきます。なお、危険ですので柵の中に入ったり御柱に乗らないでください。けが等をされても一切責任は負えません。
(晴ヶ峰西山観光協会設置の案内板から)

今回の街歩きで、マップに記載はあるものの、なかなか場所がわからなかったものが江戸から50里(約200キロ)の位置にあった甲州街道の一里塚でした。
これぞっと思った脇道に入りひたすら探し歩いてみるものの、道沿いにはそれらしきものは見当たらず、なかには行き止まりになっている道も。
そうしたなか、役だったのが「甲州街道てくてくマップ」(茅野市公民館 学習専門委員会作成)。そこには「かつて街道の両脇に築かれた塚は取り壊され、民家の間に碑だけがひっそりと残ります」という一文でした。
改めて、甲州街道と思われる道を歩くと、左手にある民家の石段を進んだ先(写真参照)に目指す一里塚を紹介する案内板がありました。分かりにくい位置にありますので、参考までに( emoji 地図 )を記しておきます。
 
<参考資料> 一里塚
160211_1134_甲州街道一里塚・宮川街歩きマップから(茅野市)  
甲州街道・五十里塚
(右側の石段を進んだ先)
徳川家康は関ヶ原戦後五街道の制を定め、その一つの甲州街道ははじめ甲府までであったが、後中仙道の宿場下諏訪まで延長し、甲府までを表街道、甲府から下諏訪までを裏街道と呼んだ。そして街道は三十六町毎に塚を築き、主として榎(えのき)か欅(けやき)を植えた。このうち茅野市内での一里塚は金沢木舟の四十九里塚とここ五十里塚があった。江戸から五十里のこの塚は比翼塚と云って道の両側に塚を築いたものであったが、明治十八年に民間に払い下げられ取り壊されてしまった。
現在はその跡を示す碑がたてられている。
(茅野市教育委員会設置の案内板から)





ランキングに参加しました。
Click >>> にほんブログ村 長野情報
Click >>> 人気ブログランキングへ
管理人ホームページ Click >>> 日本列島夢紀行 信州からあなたへ

拍手[0回]


160211_0844_阿久遺跡(原村)

諏訪郡原村の中央自動車道原PA近くの丘陵地(地図)にある縄文時代前期の遺跡( Wikipedia )。高速道の工事に先立ち行われた発掘調査において、国内最古級の環状集石群(ストーンサークル)や多くの住居跡が見つかり注目を集めました。
現在、遺跡は盛土され中央道の下に保存されています。
(写真:諏訪郡原村の阿久遺跡=11日午前撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 原村デジタルミュージアム
  http://www.vill.hara.nagano.jp/www/photo/index.jsp
・ 縄文阿久友の会
  http://www.jomon-akuyu.com/

<参考資料> 阿久遺跡
八ヶ岳西南麓の丘陵、阿久川と大早川に挟まれた尾根上に立地する縄文時代前期を中心とした大規模な集落跡である。三期にわたり造りかえられているが、最後の時期には、中央に広場があり、その周囲に環状の集石群と土壙(どこう)がめぐり、環状の規模は径一二〇m、幅三〇mを計る。広場中央には立石、列石遺構がみられ大祭祀場と想定されている。また掘立柱施設(方形柱穴列)や住居跡も多数発見されており、従来の考古学的知見をくつがえすような新遺構の発見が相次ぎ「前期縄文時代観の転換」と評価された。
なお、本遺跡は、中央自動車道西宮線建設に先だって、昭和五〇~五三年に発掘が行われ、貴重な遺跡を後世に残すための保存運動がおこり、発見された遺構を埋めもどした上に、中央自動車道を通す方法で遺跡の保護を図った。
阿久尾根全域におよぶ五五六四〇.九七(※平方メートル)が昭和五四年七月、国史跡に指定された。
(文化庁・長野県教育委員会・原村教育委員会設置の案内板から・平成2年)

<参考資料> 阿久のムラと大祭祀場
160211_0843_阿久遺跡(原村)
阿久のムラと大祭祀場
160211_0908_w_阿久遺跡から望む八ヶ岳連峰(原村)
遺跡から望む八ヶ岳連峰
阿久遺跡は八ヶ岳西南麓遺跡群と呼ばれる遺跡の一つで、縄文時代前期を中心に、早期、中期、後期と平安時代後期にかけての複合遺跡です。
中央自動車道建設に伴い昭和50~53年にかけて行われた発掘調査により遺跡の重要性が確認され、中央道下に砂で埋めて保存されました。
阿久に縄文人が住み始めるのは約7千年前の前期の初めの頃になります。次第に住居は多くなり、中央に広場を持つ、環状に住居が廻るムラを形成しました。広場の外側には高床式の倉庫と考えられる柱の跡を発見しました。前期の中頃になると以前のムラより東側に場所を移して住居を建てるようになり、内側にはお墓と考えられる土壙が多く作られました。
約6千年前の前期後半になるとムラの中央の広場に長さ120cm、幅35cmの角柱状の石を立て、それを囲むように石を組んだ立石とそこから直線的に並ぶ列石が作られ、この施設をドーナツ状に取り巻くように土壙群と環状集石群が作られていきます。直径1~2m、深さ30cm程度の穴に石を積み上げ、そのまとまりが環状に廻る環状集石群の石の総数は10万個以上とも言われています。阿久のムラは居住の場から祭祀の場へと変遷していきました。
その後、さらに祭祀場の規模が大きく拡大し、住居は僅か2軒のみとなります。このうちの1軒は数回の建替えをした非常に大型の集会所的な住居で、阿久のムラは共同の祭祀場として使われるようになります。しかし、この時期を最後に前期の阿久のムラは役割を終え、縄文時代中期へと変わっていくのでした。
阿久遺跡はほぼ縄文時代前期を通して人々の生活の場で、居住の場から祭祀の場へと変遷していった過程と、前期の墓制や祭式など、社会の精神構造を知る事ができる遺跡として、全国的に例がなく、大変貴重な遺跡です。
(案内板から)





ランキングに参加しました。
Click >>> にほんブログ村 長野情報
Click >>> 人気ブログランキングへ
管理人ホームページ Click >>> 日本列島夢紀行 信州からあなたへ

拍手[1回]


160211_0806_安国寺門前の古戦場(茅野市)

160211_0933_丸井伊藤商店・宮川街歩きマップから(茅野市)
諏訪侵略図
(茅野市・丸井伊藤商店案内板)
茅野市宮川にある安国寺( Wikipedia )は、南北朝時代、足利尊氏が全国六十六ヶ国に一寺一塔を建立した寺院のひとつ。江戸時代中期の安永年間に移転し現在に至ります。その門前で、戦国時代、安国寺門前の古戦場(または宮川の戦い)とよばれる戦い(地図)が行われました。
天文11年(1542)7月、武田晴信(信玄)と高遠頼継( Wikipedia )連合軍の攻撃(参考:諏訪侵略図)を受けた諏訪惣領家の諏訪頼重( Wikipedia )は、降伏後に甲斐へ送られ、東光寺(山梨県甲府市)で自刃。諏訪惣領家の滅亡により、諏訪領は宮川を境に東が武田領、西は高遠領となります。しかし、諏訪惣領家の地位に拘る頼継は、同年9月、武田領に攻め込み諏訪を手中に入れようとします。頼継侵攻の知らせを受け出陣した武田軍との間で行われた戦闘が、この安国寺門前の戦い( Wikipedia )であり、激戦の末、頼継は敗走。諏訪領は武田家の統治下となりました。
頼継はその後も福与城の藤澤頼親や、小笠原長時の支援を受け、武田家への反抗を企てますが、天文14年(1545)4月、杖突峠を越え、高遠に押し寄せた武田軍を支えきれず城から逃走。後に武田家に従うことになりました。
(写真:安国寺門前の古戦場跡=11日午前撮影、640×480拡大可能)

<参考資料> 泰平山 安国禅寺の由来
延元三年(一三三八)に天下を平定し、征夷大将軍となった足利尊氏は当寺の名僧夢窓国師の勧めに後醍醐天皇はじめ元弘以来の戦乱によって死傷した人々の菩提を弔い、あわせて足利幕府の威信を示し民心をつかむため京都に天龍寺を建立した。その後興国六年二月(一三四五)にいたり幕府は光厳上皇に奏請して全国六十六ヶ国に一寺一塔を建立したのが安国寺である。信濃国の安国寺は、当時幕府の奉行人として活躍した諏訪円忠のはたらきによってこの地に建立された。古代から諏訪大明神の現人神として崇敬された大祝の居館の地である前宮に近く、千沢城下の門前には大町、小町が繁栄した中心地であった。然し度重なる宮川の氾濫と戦乱によってし大に衰微したが戦国時代にいたり諏訪を一時期支配した武田信玄の保護や諏訪氏中興の祖である諏訪満隣らの帰依によって寺は再建された。足利将軍家の御位牌十五体 諏訪家先祖一族の御位牌十八体、諏訪氏系図、天正の法度状、紺紙金泥の軸物などが納められており藩主代々の墓参と供養が行われた。江戸時代安永年中にいたり現在地に移転造立され、宗旨は臨済宗妙心寺派となり「こがい」といった部落もいつしか安国寺村と呼ばれるようになった。

諏訪郡百番霊場中十九番札所御詠歌
 泰平の御代ありがたき安国寺
 はこぶ歩みは後の世のため

(安国寺史友会設置の案内板から・平成3年)

<参考資料> 安国寺門前の古戦場
武田晴信(信玄)は天文十一年(一五四二)六月に諏訪を攻略し、妹むこの諏訪惣領家頼重を自刃させ滅亡させた後、宮川を境に東は武田が直轄とし、西は晴信とひそかに通じていた高遠頼継が領するところとなった。しかしあきたらない頼継は急に兵をあげて諏訪を一手におさめようとした。
晴信は直ちに五千の軍団を引きつれ、諏訪頼重の遺児虎王を擁して出動、九月二十五日に安国寺門前のこの辺一帯で両軍の大激戦があり、七百余人の戦死者を出して頼継は敗退したのである。
(安国寺史友会設置の案内板から・昭和49年)

<参考資料> 皇大神宮社
江戸時代の諏訪藩主手元絵図には、この社は「鎮守」と記されている。安国寺村の産土神であったことをうかがわせ、祭神は天照大神である。一書によれば諏訪明神、秋葉神、妙義神、三宝荒神、金比羅神、北野天満宮、愛宕神、水劔神など諸神を合祀したとあるが、境内には御鍬社と天満宮の石祠があり、元禄十六年(一七〇三年)の石燈籠二基が現存している。明治二十六年に拝殿が建設され、例祭は九月十七日であった。十月一日の甘酒祭は村中を楽しませ、子供たちによる火祭の場所でもあったが、戦後しばらくして廃絶した。
(安国寺史友会設置の案内板から・昭和54年)

<参考資料> 掘り出された石造物
昭和五十二年十一月安国寺橋の架替工事に関連して道路の中から掘り出した石塔九体である。
いつの時代に埋められたものかさだかではないが宮川の大洪水でしばしば堤防が欠壊した個所で昔から江戸道へ通ずる幹線道路がとおり石垣の根石の中に積み込まれていたものである。古いのは元禄十六年の念佛庚申供養塔 また宝永四年の伊勢講供養塔 そして享保三猿や天明元年、文化三年、文政七年のものは女講十七人で建てられている。
(安国寺史友会設置の案内板から)





ランキングに参加しました。
Click >>> にほんブログ村 長野情報
Click >>> 人気ブログランキングへ
管理人ホームページ Click >>> 日本列島夢紀行 信州からあなたへ

拍手[0回]


16_茅野市縄文ふるさと応援団(登録証)

16_茅野市縄文ふるさと応援団(緑)ロゴ
登録 NO. 890
縄文プロジェクト構想を策定し縄文を生かしたまちづくりを進める茅野市。 その茅野市の魅力や縄文を市内外のみなさんがブログなどで広くPRする制度が「茅野市ふるさと応援団」で、平成28年2月現在で約900人が登録されています。
今回、その「応援団」に管理人ひろさくも参加することとなりました。任期は平成28年2月1日から3年間(退会の申出がない場合は継続)です。
微力ではありますが、このブログを通じて、茅野市のPRができるように頑張りたいと思います。


ランキングに参加しました。
Click >>> にほんブログ村 長野情報
Click >>> 人気ブログランキングへ
管理人ホームページ Click >>> 日本列島夢紀行 信州からあなたへ

拍手[0回]


150919_1146_上原城諏訪氏館跡(茅野市)

150919_1145_上原城諏訪氏館跡・案内図(茅野市)
上原城案内図
茅野市の金毘羅山山頂と中腹にある諏訪惣領家の本拠(地図)。
天文11年(1542)、武田晴信(信玄)の信濃侵攻により上原城は落城。諏訪頼重( Wikipedia )は降伏し、後に板垣信方( Wikipedia )等が郡代として派遣され、信濃における武田氏の拠点となります。
しかし、天正10年(1582)、織田信長の甲州征伐( Wikipedia )により武田氏は滅亡し、その役割を終えました。
(写真:上原城諏訪氏居館跡=19日午前撮影、640×480拡大可能)


上原城跡
150919_1245_上原城跡(茅野市) 150919_1147_上原城跡(茅野市)
「上原城跡」の看板(左)右側ある登り口(右)
150919_1152_上原城跡(茅野市) 150919_1201_上原城跡(茅野市)
急な坂道を歩いて山頂へ
150919_1225_上原城跡(茅野市) 150919_1211_上原城跡(茅野市)
金毘羅神社 境内にある湧水
150919_1207_上原城跡(茅野市) 150919_1210_上原城跡(茅野市)
二の郭から主郭へ 振り返ると「物見岩」
150919_1208_w_上原城跡(茅野市)
主郭全景

<参考資料>
上原城諏訪氏館跡(字板垣平)の案内
このクルマ道を登れば、長野県指定諏訪氏城跡「上原城」に行きます。
右手の石碑から南方平坦地一帯は室町時代後期からの上原城諏訪氏館跡(面積約一ヘクタール)で、戦国時代の天文十一年(一五四二年)七月、武田晴信(信玄)により諏訪領主・諏訪頼重が滅ぼされて以降、武田氏の諏訪郡代(初代・板垣信方)の邸が建立された。そして天正十年(一五八二年)三月まで四〇年間、武田氏の諏訪統治の拠点となった所です。
今日でもこの地籍は字名を「板垣平」とよんでいます。
(案内板から)

<参考資料>
長野県史跡
諏訪氏城跡上原城
上原城跡は諏訪盆地を一望する金毘羅山頂(標高九七八m)にある。その遺構としては主郭・土塁・二の郭・三の郭・曲輪・空掘・物見岩等があり、上原城の中腹の小字板垣平(およそ1ha)には居館跡がある。
この城は、北は永明寺山を背に、北西に桑原城、東に鬼場城等をひかえ、前方南には上川や宮川を経て干沢城に対し、諏訪上社(本宮前宮)を見下ろした中世の典型的な山城である。築城の年代は明らかでないが、室町時代の後期、文正元年(一四六六)頃より、諏訪惣領家当主信満がこの城の中腹に館を構え、上原郷に城下町をつくった。その後、諏訪氏は信満-政満-頼満-頼隆-頼重の五代七〇余年にわたり諏訪地方を統治したが、天文十一年(一五四二)七月、甲斐の武田晴信(信玄)によって滅ぼされ、惣領家諏訪氏は滅亡した。
以後、上原城とその館は武田氏の諏訪地方統治と信濃攻略の基地として、天正十年(一五八二)武田氏の滅亡まで約四〇年間続いた。この城跡は昭和四六年五月二十七日、長野県史跡に指定された。
なお、三の郭にある金毘羅神社は、頼岳寺一八世尊応が文化二年(一八〇五)に頼岳寺の鎮守神として、四国の讃岐より金毘羅大権現を勧請してこの地に祀ったものである。
(長野県教育委員会・茅野市教育委員会設置の案内板から・昭和63年)

<参考資料> 上原城主郭跡
この主郭跡は金比羅山の最高所にあり、標高九七八mである。主郭の大きさは南北三〇m、東西二〇mほどで、三方に低い土塁跡を残し、南西隅に虎口を開いている。
物見石のある平地が二の郭で、金比羅神社のある所が三の郭となり、この城の中枢部である。
居館板垣平からの登路が大手に当り、途中所々に小郭を置いて、幾重にも防御されている。
東西は上幅三〇mにおよぶ大空堀を隔てて、はなれ山の出郭があり、その先を空堀で背後の山から切りはなしている。南面には畝形を思わせる竪堀を連続して施し、北面には幅広い曲輪が置かれ、これらの曲輪はそれぞれ二の郭、三の郭と武者走りと呼ばれる通路で連結され、全体に輪郭式の縄張りで構成されている。
水の手は背後の湧水と北西下の沢水が利用されたようであるが、城内へ引水されたことも考えられる。
理昌院平の下方にもしっかりした郭が続き、周囲の尾根上にも小郭が配されていて、小規模ながら堅固な構えで、戦国時代の山城の姿をよく残している。
(茅野市教育委員会設置の案内板から・平成元年)





ランキングに参加しました。
Click >>> にほんブログ村 長野情報
Click >>> 人気ブログランキングへ
管理人ホームページ Click >>> 日本列島夢紀行 信州からあなたへ

拍手[0回]


150919_1130_曹洞宗 少林山 頼岳寺(茅野市)

茅野市ちのにある曹洞宗の寺院(地図)。
江戸時代初期の寛永8年(1631)に、信州高島藩初代藩主諏訪頼水( Wikipedia )を開基として開創されました。境内には、諏訪頼水(頼岳寺殿)と父頼忠(永明寺殿)、頼忠夫人(理昌院殿)の御廟が祀られています。
(写真:頼岳寺本堂=19日午前撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 頼岳寺(らいがくじ)
  http://www.raigakuji.or.jp/

<参考資料>
開創
曹洞宗(禅宗)に属し、本山は永平寺(福井県)と総持寺(神奈川県)である。開創は江戸時代初期の寛永八年(一六三一)で開山(初代住職)は大通関徹(だいつうかんてつ・群馬県双林寺第十三世)、開基は高島藩初代藩主の諏訪頼水( Wikipedia )である。頼水は諏訪大社上社にまつられる建御名方神(たけみなかたのかみ・諏訪明神)の直系諏訪氏で、諏訪氏は古代から中世まで諏訪の盟主として君臨し、江戸時代は高島藩三万石の大名であった。

上原城周辺
寺の右側の金比羅山(九七八メートル、甲州街道からの比高はおよそ二〇〇メートル)には上原城があった。この城は諏訪信満の時代、諏訪総領家の居城として築城され、政満・頼満。頼隆・頼重が板垣平(頼岳寺の南方)に居館をおいて諏訪を統治した。
天文十一年(一五四一)武田信玄に攻略されたのちも、武田氏が城代をこの城において諏訪を治め、以後岡村(上諏訪)に政庁が移るまで諏訪の政治・経済の中心地であった。上原には城下町が経営され繁栄した。とくに城下にんは鎌倉五山にならって上原五山と呼ばれた五ヶ寺があった。永明寺(頼岳寺の前身)・極楽寺・金剛寺(廃寺)・法明寺・光明寺(この二ヶ寺はのちに合併して放光寺となり上諏訪に移る)があり、上原八幡社もこの時代に建立された。
上原五山のうち永明寺は向富山と号し、現在の頼岳寺よりおよそ五〇〇メートル南方にあった曹洞宗の寺である。開創は永正年間(一五〇四~一五一一)で、開山は慈山永訓(じさんえいくん・静岡県真珠院第二世)、開基は諏訪頼水の曽祖父にあたる頼満(永明寺殿西周宗昌大居士)である。永明寺は以後七代一三〇年間続いたが、寛永七年(一六三〇)同寺に駆け込んだ科人(とがにん)の引渡しを拒否したことから、頼水の命により炎上破却された。永明寺の頼忠夫妻(頼水の両親)の墓、本尊釈迦如来、什器などは翌年建立された頼岳寺に移された。

頼岳寺の沿革
開創以来この地方の中心的勢力を保ち、江戸時代には寺領一〇〇石を賜り、末寺は十四ヶ寺である。古くから修行寺として知られ、常に数十名の雲水が参集した。さらに第三十二世孤峰智璨(こほうちさん)は明治四十年以来五十年間にわたる在任中に、人材の育成、伽藍の整備に尽力し、のち頼岳寺の祖本寺にあたる神奈川県大雄山最乗寺の住職を経て、大本山総持寺独住第十八世円応至道禅師となった。

境内と文化財
本堂(間口十四間)とその後方の開山堂は大正六年、本堂右の庫院は明治三十五年の建立である。山門の額「鵞湖(がこ)禅林」は頼岳寺の別名で、鵞湖は諏訪湖を指す。山門と鐘楼は昭和二十七年の建立で、山門にいたる杉並木は樹齢約三〇〇年で、茅野市文化財に指定されている。開山堂後方の坐禅堂は昭和五十三年の建立で、一般にも公開されている。最近になった庫院の増築、墓地の増設などが行われた。
本堂右後方にある御廟(市指定史跡)には、開基の諏訪頼水(頼岳寺殿昊窓映林大居士)と頼水の父頼忠(永明寺殿昊山宗湖大居士)、頼水の母(理昌院殿玉英貞珠大姉)をまつる。文化財としては諏訪頼忠の念持仏(虚空蔵菩薩)、頼水が徳川家康から拝領した琥珀観音(聖観音)、吉山明兆(きちざんみんちょう)の十六羅漢が市の指定文化財である。国道わきの石柱「少林山頼岳寺」と総門額「少林山」は江戸時代の中国僧東皐心越(とうこうしんえつ)の書による。本堂正面の欄間彫刻は、天保十五年(一八四四)立川流二代和四郎冨昌の作である。境内八十二アール、山林約六ヘクタールは金比羅山一帯に拡がっている。

貞珠山 理昌院
曹洞宗に属し、頼岳寺の末寺である。頼岳寺第十八世尊応教堂が開山、開基は諏訪頼水の弟諏訪頼雄(二ノ丸家初代)で、母(理昌院玉栄貞珠大姉)のために開創した。はじめ上原城本丸下の曲輪(理昌院平)にあったが頼岳寺開創後に現在地に移る。
本尊は聖観世音菩薩、諏訪霊場百番札所の中一番。
(境内の案内から)

<参考資料>
茅野市指定文化財
頼岳寺山門前杉並木
150919_1127_曹洞宗 少林山 頼岳寺(茅野市)
頼岳寺山門前杉並木
少林山頼岳寺は、諏訪地方における曹洞宗の筆頭寺院である、高島藩初代藩主諏訪頼水は、寛永八年(一六三一)上野国最大山雙林寺(群馬県北群馬郡子持村)の大通関徹を招いて開創し、諏訪氏の菩提寺とした。
参道の杉並木は、かつて目通り幹周り三.五メートル、推定樹齢三百年の大木が立ち並んでいたが、昭和九年の室戸台風及びその後の台風によって多くの木が倒れた。現在は同樹齢の木は少ないが、境内の杉木立と合わせ頼岳寺の由緒と風致の上からも貴重なものである。
(茅野市教育委員会設置の案内板から・平成5年)

<参考資料> 梶(穀)の木
150919_1132_曹洞宗 少林山 頼岳寺(茅野市)
境内にある「梶の木」
クワ科の落葉樹、楮属(こうぞ)。本州の中部以南に分布、樹皮は紙・布を製する。梶葉・梶紋とよばれる紋章はこの若木の葉を模様化したもので昔から神木として尊ばれている。
古代から諏訪地方に政権を保持した大祝諏訪氏の衣服に、鎌倉時代には旗印として用いた。現在の図案化されたものは江戸時代以降である。
頼岳寺の開基となった高島藩初代藩主諏訪頼水公の縁により、藩主家の紋章を寺紋として用いている。(略)
(頼岳寺設置の案内板から)

<参考資料>
茅野市指定文化財
諏訪氏頼岳寺御廟所
150919_1133_曹洞宗 少林山 頼岳寺(茅野市)
諏訪氏頼岳寺御廟所
少林山頼岳寺は曹洞宗に属し、諏訪地方における名刹である。永明寺の破却後、高島藩初代藩主諏訪頼水が寛永八年(一六三一)群馬県北群馬郡子持村の最大山雙林寺十三世大通関徹を招いて、諏訪氏の菩提寺として開創した寺である。
御廟は三室に別かれ、中央が頼水の父頼忠(永明寺殿)、右が頼忠夫人(理昌院殿)で、と塔婆はともに五輪塔と訪篋印塔である。左側は頼水(頼岳寺殿)で、家形の石造一重塔が安置されている。
二代藩主忠恒が、後に城下町上諏訪にあらたに菩提寺を建立したので、以後歴代藩主の墓所は温泉寺に移った。
境内には、三代藩主忠晴の早逝した二人の子、大祝家、二の丸家および旧藩士の墓がある。
(茅野市教育委員会設置の案内板から・平成5年)





ランキングに参加しました。
Click >>> にほんブログ村 長野情報
Click >>> 人気ブログランキングへ
管理人ホームページ Click >>> 日本列島夢紀行 信州からあなたへ

拍手[0回]



HOME |

 次のページ>>
【諏訪市ライブカメラ】
twitter
ブログ内検索
ブログランキング投票
- ランキングに参加中 -
ポチっとクリック!

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 地域生活(都道府県)ブログ 長野情報へ
プロフィール
HN:
管理人ひろさく
性別:
男性
趣味:
里山めぐり
自己紹介:
長野県長野市在住。
カテゴリー
最新コメント
[05/13 タッキー]
[04/01 管理人ひろさく]
[03/28 布施谷文夫]
[02/18 管理人ひろさく]
[02/18 管理人ひろさく]
カウンター
現在の訪問者数
アクセス解析
忍者アナライズ

Template By Emile*Emilie / Material by Auto-Alice
忍者ブログ [PR]