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管理人の思いつくまま、気の向くまま、長野県内の町や村の話題を取り上げています。
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150921_1757_道の駅すず塩田村から望む夕陽(石川県珠洲市)
道の駅すず塩田村から望む夕陽
(石川県珠洲市)

シルバーウィークを利用して、能登半島最先端の珠洲岬(地図)に行ってきました。
長野市からだと、上信越道・北陸道(金沢森本経由)・能越自動車道を利用した場合の走行距離は約400キロ。能越自動車道の終点・能登空港からは珠洲岬までの一般道を除くと、行程のほどんとがノンストップの高速道として整備されていますが、それでも片道だけで5時間も走ることから、ちょいと気楽に能登半島まで…とはいえない位置にこの珠洲岬はあるのです。
然しながら、この珠洲岬。古から、灯台のある「禄剛崎」であったり、パワースポットとして注目されている「金剛崎」であったり、いやいや、すべての「岬」を含めた総称である、など諸説( Wikipedia )があり、実際のところ何れが珠洲岬なのか定かではありません。
ここでは、管理人・ひろさくが長野から最も遠いと感じた「能登半島最北端」の碑がある「禄剛岬」を珠洲岬として、道中のできごとや見どころを記してみたいと思います。

<参考HP>
・ おもてなし半島能登
  (能登半島広域観光協会)
  http://www.notohantou.com/
・ 能登観光ポータルサイト「のとねっと」
  http://www.notohantou.net/


のと里山空港
150921_1336_のと里山空港(石川県鳳珠郡穴水町) 150921_1332_のと里山空港(石川県鳳珠郡穴水町)
のと里山空港
※写真右奥が道の駅能登空港
150921_1323_のと里山空港(石川県鳳珠郡穴水町) 150921_1331_のと里山空港(石川県鳳珠郡穴水町)
空港2階にはドラマ「まれ」のセットも

のと里山空港(能登空港)
上信越自動車道・北陸自動車道・のと里山海道を延々と走り、走行距離約340km、所要時間約4時間かけて到着したのは、能登半島観光の玄関口ののと里山空港( Wikipedia )。現在、全日空の定期便が毎日2便、東京・羽田を結んでおり、能登半島を訪れる観光客や、関東圏に出かける地域住民の貴重な交通手段として利用されています。また、空港に隣接して、将来のパイロットや航空機関士などを養成する日本航空学園(本部=山梨県甲斐市)輪島校があり、この空港を利用して、生徒さんたちの軽飛行機による訓練もも行われているそうです。
空港内は、搭乗関連のエリアを除き見学自由。さすがに競合相手である北陸新幹線を祝うようなムードはなく、専ら目にしたのは、能登半島が舞台となったNHKの連続テレビ小説「まれ」( Wikipedia )関連のデスプレイでした。なかでも、空港2階にあるレトロ感たっぷりのセットは、「まれ」のファンでなくとも、ついつい引き込まれてしまいそうなほどで、訪れたこの日も大勢の観光客がセットを背景に記念撮影をする姿が見られました。
道の駅が空港内にある全国的にも珍しいのと里山空港。運転に疲れたら、ちょっと立ち寄ってみてはいかがでしょうか。
 
<参考HP>
・ のと里山空港
  http://www.noto-airport.jp/


須須神社
150921_1500_須須神社(石川県珠洲市) 150921_1457_須須神社(石川県珠洲市)
須須神社
※写真右は珍しい親子の狛犬
150921_1453_能登半島の町並み(石川県珠洲市寺家) 150921_1445_能登半島の町並み(石川県珠洲市寺家)
珠洲市寺家の国道沿いにあるポケットパーク
※この地域の想定津波高14.9mを意識した造りの施設にも

須須神社
東京から能登まで、飛行機だとわずか1時間で到着するのに、長野からだと4時間もかかる能登半島。そんな凹む気持ちを奮い立たせ、次に向かった先は、義経・弁慶の伝説が残る須須神社( Wikipedia )。
兄・源頼朝に追われた源義経と弁慶一行は、奥州平泉を目指す途中、この能登半島を訪れ、各地にその足跡を残しています。須須神社は、船で通過する際に地化に遭い、須須神社の神様のご加護もあって無事これを通過。そのお礼に立ち寄ったのが須須神社で、ここには名笛・蝉折れの笛や、弁慶の守刀が奉納されています。また、神社境内にある狛犬のひとつには、子犬と一緒の珍しい狛犬があり、安産や育児にもご利益があると伝えられています。

<参考資料> 須須神社
≪縁起≫
御祭神 高座宮
 天津日高彦穂瓊瓊杵尊(あまつひだかひこほににぎのみこと)
 美穂須須美命(みほすずみのみこと)
御祭神 金分宮
 木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)

当社は高座宮・金分宮の両社にご夫婦の大神様を祀り、須須神社と称し「三崎権現」・「須須大明神」と尊崇され、東北鬼門日本海の守護神として、あまねく信仰され、災難除けの御神徳あらたかな御社であります。
第十代崇神天皇(約二〇〇〇年前)の御代能登半島最東北端の山伏山(鈴ヶ嶽)の頂上に創建され、天平勝宝年間に現在の地に遷座した国史現在社・延喜式内社であります。
古代より縁結びの神として、世に知られており、この「むすび」とは単に男女の仲を結ぶだけでなく生成化育、修理固成という日本民族の根本精神である神業を、みずから妹背(ふうふ)の契を結び子孫繁栄の道を示し教えられた尊い祖神(おやがみ)さあであります。
かように、生業繁栄・五穀豊穣・大漁・交通安全・学業成就・縁結び・安産・育児・病気平癒・槌児祈願・鬼門除け等の大御稜威(おおみいつ)あらたかな日本海の守護神とし、古くから三崎大権現として深く信仰されています。

≪宝物≫
木造男神像五躯(国重要文化財)
鎌倉時代のもので、素朴でいずれも表情を異にし写実美をおびた衣冠束帯の座像です。
社叢(国の特別天然記念物)
蝉折れの笛と守刀(義経の笛と弁慶の守刀)
文治三年(一一八七年)源義経が兄頼朝に追われ奥州平泉へ下向の際、須須岬沖合で地化に会い無事難をのがれた御礼として、平家の名宝とも伝えられる義経愛用の笛と弁慶が寄進した「左」銘入りの守刀です。
義経・弁慶の献詠
「都より波の夜昼うかれきて道遠くして憂目みる哉」義経返歌「憂目をば藻塩と共にかき流し悦びとなる鈴の御岬は」
前田利家公献詠
「ほうくわん殿この笛をこのすずのやしろにささげ給へるとなんありしよのそのあらましをきくからに袖さへぬれてねにそなかるる」
法華経八巻
文明一二年(一四八〇年)蓮如上人の奥方真如院(幼名蓮能)が一六歳の時、父の七回忌を祈念し納経されたものです。
他、翁面(古珠洲焼)、隠切支丹崇拝像、古文書(県指定有形文化財)七〇余通があります。
(案内板から)

<参考資料> 源義経を護った須須神社
150921_1507_須須神社(石川県珠洲市)
蝉折の笛(上)
弁慶寄進の守刀(下)
天仁三年(一一一〇)、鳥羽天皇が宋朝へ万金を贈った返しとして、生きた蝉のような節の付いた笛が送られてきた。特別な笛として大切に守られていたが、ある時、高松中納言がこの笛を吹き、つい普通の笛と同じように膝下に置いたところ、それを咎めた笛は、蝉の節のところで折れてしまった。それ以来、「蝉折(せみおれ)の笛(ふえ)」と名づけられた。この笛はその後、平家から源義経の手に渡った。
文治三年(一一八七)、兄の源頼朝との不仲から追われる身となった義経は奥州へ落ちのびる際、大野(金沢市)から珠洲岬へと向かう船に乗りこむことができた。その日の昼すぎ、岬の手前で難風に遭い、三崎権現(須須神社)に無事を祈願した。まもなく風が静まり、お礼をとげるために岬に船を寄せた。
その時、弁慶がさざえに藻がついたものを拾い、義経に供えながら、
「都より 波の夜(寄る)昼 うかれきて
  道遠くして
   うきめ(憂きめ・浮き芽)みるかな」
と詠んだ。義経は、
「うきめをば
  藻塩と共に かきながし
   悦びとなる 鈴(珠洲)の御岬は」
と返し、一行をねぎらいながら、難を逃れたお礼として「蝉折の笛」を奉納したのである。それ以来、須須神社の宝物として、大切に守られている。
(「須須神社社伝縁起」より)


話題のパワースポット 聖域の岬
150921_1549_聖域の岬(石川県珠洲市・金剛崎) 150921_1547_聖域の岬(石川県珠洲市・金剛崎)
ランプの宿 聖域の岬・金剛崎
150921_1533_聖域の岬(石川県珠洲市・金剛崎) 150921_1538_聖域の岬(石川県珠洲市・金剛崎)
駐車場から海に下った先にある「青の洞窟」

話題のパワースポット・金剛崎
日本全国、パワースポットと呼ばれる地域は多数あれど、なかでも日本三大パワースポットとして挙げられているのが、霊峰・富士山、分杭峠(長野県伊那市長谷と下伊那郡大鹿村境)、そしてここ能登半島の先端にある聖域の岬(金剛崎)。
これらの地域が、何故にパワースポットとして特別な地域なのか、詳しくは Find Travel ( http://find-travel.jp/article/20065 )をご覧頂きたいのですが、今回の旅では、ここがいわゆるパワースポットだとは露知らず、何やらわんさか集まる人だかりにつられて出かけてしまった…というのが本音。既に日は西に傾き、心細さも募るなか、何故かここだけはそのようなことはお構いなしに、後から後から県外ナンバーの車が駐車場に入るため列を作り、独特な雰囲気を醸し出していました。それもそのはず、ここは日本三大パワースポットのひとつなのだから。人を導く何かがやはりあるのかもしれません。
聖域の岬・金剛崎には、岩窪にある石が波に洗われ、長い年月をかけて成形した「穴」(パワーホール)や、義経と弁慶一行が舟を隠したと伝わる「青の洞窟」、断崖に寄り添うように建つ「ランプの宿」を見下ろすように突き出た「空中展望台」など見どころはたくさん。料金はちょいと高めの大人1500円。躊躇してしまいそうなお値段ですが、なかなか経験できる場所じゃないなぁ…と感じたら、迷わず、一度は訪ねてみても良いかもしれません。

<参考HP> 
・ ランプの宿
  http://www.lampnoyado.co.jp/

150921_1553_聖域の岬(石川県珠洲市・金剛崎)
中日新聞記事
借用したヘルメットを返却しにガイドセンターに行く途中、ウィンドウに一枚の新聞記事が張ってありました。題名は”珠洲市沖に眠る「僚艦」”(中日新聞)。
昭和20年6月10日、海軍潜水学校七尾分校に練習艦として瀬戸内海から七尾港に浮上航行中だった伊号122( Wikipedia )が、米潜水艦・スケートの攻撃を受け、石川県珠洲市の禄剛岬沖10キロの地点で沈没。僚艦の伊号121は前日9日に七尾港に到着しましたが、沈んだ伊号122は京都・舞鶴港での修理により伊号121より1日遅れたためこの惨事に遭遇しました。
当時、アメリカ軍は機雷が敷設された対馬海峡を突破し、日本海における制海圏を構築する目的( Wikipedia )で、何隻かの潜水艦が侵入していました。伊号122を攻撃したスケートもそのうちのひとつで、伊号121が石川県沖を通過した9日は攻撃前の休息日だったため攻撃を受けずに済み、京都・舞鶴港での修理のため遅れ、攻撃を受けた伊号122とは、まさに1日の差で生死を分ける結果となったのでした。
 記事は伊号121の乗務員だった男性への取材が主体で、戦後、広島県呉市の海軍墓地内に慰霊碑を建て、命日には毎年、亡くなった犠牲者の遺族や生き残った元乗組員が集い供養されていたそうです。しかし、時が経過するなかでこうした惨事が次第に風化し、今では地元の珠洲市でも、沈没した潜水艦のことを知る人が少なくなっているということでした。
 
道の駅狼煙と禄剛崎
150921_1621_能登半島最北端・禄剛崎(石川県珠洲市)
禄剛埼灯台
聖域の岬から北へ、県道28号線を進み、狼煙漁港を左折したところにあるのが道の駅狼煙(のろし)。のと里山海道能登空港ICから約1時間30分。今回の旅の目的地・禄剛(ろっこう)崎灯台は、道の駅から10分ほど急な坂を歩いた小高い丘の上にありました。

<参考HP>
・ 道の駅狼煙
  http://noroshi.co.jp/

<参考資料> 禄剛崎
ここは能登半島の最北端で、ちょうど外浦と内浦との接点にあたるところです。「海から昇る朝日」と「海に沈む夕日」が同じ場所から眺められることができることで有名です。また、晴れた日には、立山連峰や佐渡が島が見渡せます。この高台に立つ灯台は、明治16年にイギリス人技師が設計したものです。現在も禄剛崎のランドマークとして、この地の壮大なロマンを感じさせてくれます。
(環境庁・石川県設置の案内板から)

<参考資料> 禄剛崎灯台
この灯台は明治16年(1883年)、日本に技術指導にきていたイギリス人の設計により建設されたものです。当時は灯油で発光していましたが、昭和15年に電化され、その光は海上34kmまで達します。
古来この地は日本海を航海する人にとって重要な目印で、江戸時代にはこの間近にある山伏山の山腹に九尺四方の行燈を設け、毎夜灯火して夜間公開の目印としていました。天保7年(1836年)には海上警備のため、現在の灯台付近に砲台が築かれていました。
なおこの灯台は昭和38年まで灯台守が常駐していましたが、現在は無人灯台になっています。
(案内板から)


道の駅すず塩田村
150921_1738_道の駅すず塩田村(石川県珠洲市) 150921_1732_道の駅すず塩田村(石川県珠洲市)
塩田
※中央にある四角の桝は、かん水を溜める「沼井(ぬい)」
150921_1739_2_道の駅すず塩田村(石川県珠洲市) 150921_1739_1_道の駅すず塩田村(石川県珠洲市)
海水を運ぶ 荒塩桶 汲んだ海水を溜めておく 引桶
 
道の駅すず塩田村
150921_1733_道の駅すず塩田村(石川県珠洲市)
道の駅すず塩田村
日本海に沈む夕日を眺めながら走る快適なドライブウェイを輪島へ。長野までの道のりを考えつつ国道を急ぐと、やがて右手の海浜に能登名物「揚げ浜塩田」が見えてきました。
能登半島の製塩の歴史は古く、江戸時代以前から行われていたと伝えられています。汲み揚げた海水を塩田にまき乾燥させ、より塩分濃度の高い「かん水」を作った後に平釜で煮詰める作業は「揚げ浜式製塩法」と呼ばれ、熟練を要する作業であることはもちろん、天候に左右されることも多いことから、「揚げ浜塩」は生産量の少ない、希少な塩として珍重されています。
道の駅では、その「揚げ浜式製塩法」による作業の様子が見学できるほか、実際に塩作りの体験(期間:5月1日~9月30日要予約)も可能とのこと。詳しくは「道の駅すす塩田村」のHPをご覧ください。

<参考HP>
・ 道の駅すず塩田村
  http://enden.jp/
・ あすかりんの恋味敬食(ブログ)
  http://ameblo.jp/shanti-sky/entry-11918902013.html
 
<参考資料> 塩釜の説明
150921_1731_道の駅すず塩田村(石川県珠洲市)
塩釜
・この塩釜は、塩田の聖地・仁江海岸の釜屋で約七十年の間、使われてきたものです。
・塩釜のサイズは、直径百八十五センチ、深さ三十一センチ、重量九百八十キロです。
・一夜に、塩田で採るカン水(塩分濃度の濃い海水)を六百リットル煮詰めると、塩が百キロできます。
・釜焚きの時間は二十二時間かかり、一回の釜焚きでトラック一台分の塩木(薪)を使います。
(案内板から)

<能登・揚げ浜式製塩>
道の駅すず塩田村に到着した時間が閉館間際だったこともあり、今回の旅では塩作りの体験ができませんでした。ここでは、当地にて昭和初期頃まで行われていた「揚げ浜式製塩」の手順を、施設内の資料を参考に記してみたいと思います。
 
その壱:「塩田」の整地
下層から「岩石」「小石」「粘土」「撒(まき)砂」の順に敷かれた「塩田」を、「刎(はね)」で砂を敷き、グランド整備に使うようなT字型をした「柄振(えぶり)」で平らにした後に、「盤突(ばんつき)」で突きながら砂を固めます。
その弐:「塩田」に海水を播く
「荒塩桶」に海水を汲み、「引桶(しこおけ)」に集めます。「荒塩桶」は2斗入(36リットル)で、1回(1荷)で4斗(72リットル)を汲みあげます。「引桶」には2斗入「荒塩桶」で12杯分(432リットル)入るので、これを満たすには海水を最低6回は汲みあげることになります。想像するだけでかなりの重労働…。
「引桶」に溜められた海水は、「打桶(うちおけ)」を使い、弧を描くように霧状に塩田に播きます。塩田1区画50坪とした場合、春は270リットル、夏は630リットル、秋は180リットルの海水を播くが目安。熟練の職人でないとできない作業のひとつ。
その参:「かん砂」を沼井へ
「駒渫(おこしこま)」でかん砂(海水のついた砂)をかき、地盤からゆるめ、沼井(ぬい)を中心にかん砂を集めます。集めたかん砂は、ムシロ(※下部透過用)を敷いた沼井の中に入れ、いっぱいになったかん砂の上に更にムシロ(※上部透過用)を敷きます。
その四:「かん水」を抽出
続いて、前日の浸出液(藻垂)をかけ、更に「荒塩桶」で汲みあげた海水をムシロ(※上部透過用)の上から流しこむと、「かん砂」を透過した海水が、下に敷いたムシロ(※下部透過用)から浸み出した「かん水」が沼井の下に溜まります。これを「胴桶(どうおけ)」で汲み上げ、濃度毎に1~4番および5番に分け、1~4番までは製塩にまわし、5番は「藻垂」とします。
その五:平釜で煮焚きして塩を精製
抽出された1~4番の「かん水」を釜屋のかん水桶に入れ、ここから約3石(540リットル)を釜に移して6時間ほど荒焚きをします。荒焚きした「かん水」は再度、かん水桶に戻し、その後に「こし桶」に入れ、ゴミや不純物を取り除いた後釜に入れ約12時間焚きます。
この作業で取れる塩は約90キログラム。塩は「居出場(いでば)」へ移し、3日ほど放置して「苦汁(にがり)」を切り、カマスに詰めて運び出します。
現在、道の駅すず塩田村では1000リットルの「かん水」を17時間、釜で焚き続けるそうです。


道の駅すず塩田村の見学を終えたのは午後5時半過ぎ。ここから、北陸道・上信越道を経て長野まで帰るのにどのくらいかかるのだろう…と気も重くなりがちだった管理人の気持ちを救ってくれたのは、今まさに日本海に沈もうとしている夕陽でした。
山国・信州ではこうした風景を見たくても見ることができません。稜線を赤く染めながら沈む夕陽も綺麗ですが、海に沈む夕陽は山とは違う趣があって、とても感動しました。
また何時か、この夕陽を温泉にでも浸かりながら、眺めてみたいなぁ…と思っています。





emoji 食祭物語emoji 能登食祭市場
石川県七尾市にある七尾フィッシャーマンズ・ワーフ「能登食祭市場」のパンフに能登半島の秋の味が紹介されていました。ここでは、市場で購入した新鮮な魚介類をその場で焼いて味わう「浜焼きコーナー」も設けられているそうです。能登を訪ねたら、美味しい海の幸を味わうことも忘れずに…。

鯖(さば)
日本近海にはマサバやゴマサバなどがいます。石川県で漁獲されるほとんどがマサバで、まき網や定置網で漁獲され産卵期の5~6月と、脂がのり「秋サバ」といわれる9月~10月が最盛期です。価格も比較的低価格な上に、イワシと並んで料理法も多く、しめ鯖や味噌だきなど私たちの食卓にはお馴染みの魚です。石川県では塩や糠を浸かって漬け込んだ「サバのこんか漬け」という輔遜色が有名です。

甘海老(あまえび)
能登を代表する美味しい魚介の一つである甘海老は、底引網漁が盛んな秋から冬が旬です。頭のミソ、腹にたっぷりかかえた灰緑色の卵、とろりと口の中でとろける濃厚な甘みはたまりません。獲れたてを、お刺身で食べると最高に美味しく、寿司ネタとしても大人気で、この時期に味わいたい逸品です。また生ゆえに柔らかくとろける食感と舌に広がる強い甘みは、他の海老では味わえないものです。
(「食祭秋物語」パンフから引用)


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151017_1328_全国丼サミット in いしかわ 2015(石川県金沢市)

ご当地自慢の丼ぶりが集合する「第7回全国丼サミット in いしかわ2015」が、17日と18日の2日間、石川県金沢市のいしかわ四高記念公園(地図)を会場に開催されました。
(写真:石川県金沢市で開催された「第7回全国丼サミット in いしかわ2015 」から=17日午後撮影、640×480拡大可能)

<管理人ひとこと>
151017_1333_全国丼サミット in いしかわ 2015(石川県金沢市)
人気の 駒ヶ根ソースかつ丼
会場では、入口で積極的に冊子を配りながらPRしていた徳島県の「南阿波右上がり丼」(「四国の右下・魅力倍増」推進会議・磯乃邑)と、島根県の隠岐から参加した「寒シマメ漬け丼」(海士町観光協会)の2つをいただきました。
長野県からは、駒ヶ根市の「駒ヶ根ソースかつ丼」(明治亭)が参加。会場内では、長い行列が目立つ数少ないブースのひとつで、駒ヶ根ソースかつ丼の人気を改めて知る機会にもなりました。

<参考HP>
・ 全国地域おこしご当地丼会議
  http://www.okunoto-ishikawa.net/don-summit/


第7回全国丼サミット in いしかわ 2015
151017_1327_全国丼サミット in いしかわ 2015(石川県金沢市) 151017_1356_全国丼サミット in いしかわ 2015(石川県金沢市)
会場のいしかわ四高記念公園
151017_1342_w_全国丼サミット in いしかわ 2015(石川県金沢市)
会場には28の「丼ぶり」ブースが登場
151017_1326_全国丼サミット in いしかわ 2015「南阿波右上がり丼」(石川県金沢市) 151017_1340_全国丼サミット in いしかわ 2015 「寒シマメ漬け丼」(石川県金沢市)
南阿波右上がり丼 寒シマメ漬け丼


百万石の菓子文化
いしかわスイーツ博2015 同時開催
151017_1400_いしかわスイーツ博 2015 (石川県金沢市)
いしかわスイーツ博
「全国丼サミット」の会場(いしかわ四高記念公園)の隣にあるしいのき迎賓館では、石川県のPRキャラクター「ひゃくまんさん」も参加しての、百万石の菓子文化「いしかわスイーツ博2015」が同時開催されました。
大人気の「スイーツカフェ」は、27店舗のおススメ商品から好きなスイーツを選ぶことができ、料金は和洋各1点とドリンクがセットで500円(税込)で楽しめるイベント。ただし、販売は両日とも午前10時と午後2時からの2回のみで、数量は各回先着400名(整理券配布)という制限付きだったこともあり、会場ではお目当てのスイーツを求める来場者の長い列ができていました。

<参考HP>
・ いしかわスイーツ博2015
  http://www.hot-ishikawa.jp/sweets/
・ 石川県観光PRマスコットキャラクター
  「ひゃくまんさん」公式ホームページ
  http://hyakumansan.jp/


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15_第7回全国丼サミット in いしかわ2015(表) 15_第7回全国丼サミット in いしかわ2015(裏)
第7回全国丼サミット in いしかわ2015

ご当地自慢の丼ぶりが集合する「第7回全国丼サミット in いしかわ2015」が、平成27年10月17日(土)と18日(日)の2日間、石川県金沢市のいしかわ四高記念公園(地図)を会場に開催されます。時間は両日とも午前10時から午後5時まで(入場無料)。
会場近くのしいのき迎賓館では「いしかわスイーツ博2015」も同時開催。
詳しくは「全国地域おこしご当地丼会議」のホームページをご覧ください。

<参考HP>
・ 全国地域おこしご当地丼会議
  http://www.okunoto-ishikawa.net/don-summit/
・ いしかわスイーツ博2015
  http://www.hot-ishikawa.jp/sweets/

<参加ご当地丼>
emoji ふくしま復興丼(福島県)
  参考:いいとこ鶏「ふくしま復興丼」
 ・伊達の牛タン・鶏そぼろ丼
 ・会津地鶏唐揚げ丼
 ・ふくしまやきとり丼
emoji 「うまさぎっしり新潟」のご当地丼(新潟県)
  参考:南魚沼きりざいDE愛隊
 ・南魚沼きりざい丼
emoji 能登丼(石川県)
  参考:うぇるかむ奥能登
 ・のと海鮮旬の物入り
 ・能登・牛すじ丼
 ・能登牛ローストビーフ鉄火丼
 ・カニ丼
 ・ロースト・ビーフ丼
 ・天然ブリのたたき丼
 ・能登がき ぶっかけ丼
 ・能登産カニとローストビーフのよくばり丼
 ・能登豚炙り丼
emoji かわきた味噌豚どん(石川県)
  参考:川北町商工会
 ・かわきた味噌豚どん
emoji 駒ヶ根ソースかつ丼(長野県)
  参考:駒ケ根ソースかつ丼会
 ・駒ヶ根ソースかつ丼
emoji おらが丼(千葉県)
 ・伊勢海老天丼
emoji 三浦どん(神奈川県)
 ・三浦三崎まぐろ三昧丼
emoji 小田原どん(神奈川県)
  参考:元気おだわら
 ・湘南しらす小田原三色丼
 ・相州牛焼肉丼
emoji 渥美半島どんぶり街道(愛知県)
  参考:渥美半島観光ビューロー
 ・渥美半島しらす天丼
 ・とろとろみそかつ丼
emoji 寒シマメ漬け丼(島根県)
  参考:島根県隠岐郡海士町
 ・寒シマメ漬け丼(参考
emoji 南阿波丼(徳島県)
  参考:徳島県南部観光サイト
 ・はも天丼
 ・南阿波右上がり丼
 ・浜節句丼
emoji どんぶり王国宇和島(愛媛県)
  参考:宇和島市観光協会
 ・宇和島鯛めし丼
emoji 日豊海岸ぶんご丼街道(大分県)
 ・がんこ漁師のあつめし(ブリの漬け丼)
emoji かのや豚ばら丼(鹿児島県)
 ・かのや黒豚薔薇丼





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150818_1423_なめりかわ宿場回廊・廣野家住宅(富山県滑川市)

富山県滑川市の中川河口周辺(地図)は、北陸道(北国街道)の宿場町として賑わいました。通りには、今も当時の面影を偲ばせる佇まいが数多く残り、宿場町をめぐる散策路は「なめりかわ宿場回廊」と呼ばれ親しまれています。
滑川市が作成した「なめりかわ 宿場回廊めぐり案内マップ」によれば、周辺の見どころは、滑川駅を起点に、西ルート8ヶ所(約2.3km)、東ルートが5ヶ所(約2.7km)の全13ヶ所。
海沿いに広がる宿場町の風情を楽しみながら歩いてみましょう。
(写真:中川河口から上流の町並みを撮影、正面は国登録有形文化財の廣野家住宅=18日午後撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 滑川市観光協会
  http://namerikawa-kankou.jp/

<参考資料> 芭蕉「奥の細道」と川瀬屋
150818_1417_なめりかわ宿場回廊・芭蕉「奥の細道」と川瀬屋(富山県滑川市)
旅籠・川瀬屋跡
元禄二年(一六八九)、松尾芭蕉と同行の曾良は、奥の細道の旅の途中、七月十三日(新暦では八月二十七日)の夕方滑川に着き宿った。旅籠の川瀬屋という説が有力でこの辺りにあった。宝暦十三年(一七六三)に「俳諧早稲の道」を著した川瀬知十は翁の宿泊を記念して自家の檀那寺である徳城寺の境内に「早稲の春や 分け入る右は 有磯海」の吟詠を刻んだ句碑を建立した。徳城寺は、この頃はまだ新(荒)町の海辺にあったが、明治十三年(一八八〇)に、句碑とも現在地に移転した。
【荒町の成立】
新町は、大町、瀬羽町に次いで、慶長年間に新しくできた町であったと伝えられる。海岸線に平行して東西に北国(北陸)街道が走り、その両側に家並みが連なり、浜に抜ける小路が発達した。
(滑川市設置の案内板から)

<参考資料> 滑川本陣跡
150818_1420_なめりかわ宿場回廊・滑川本陣跡(富山県滑川市)
滑川本陣跡
江戸時代、参勤交代などで、街道を往復する大名の休泊のため宿駅に本陣を設けた。
寛永二年(一六二五)桐沢家二代九郎兵衛は、加賀藩から御旅屋を命ぜられ、およそ六千平方メートルの敷地内に、格式ある屋敷をかまえ本陣とした。
桐沢家は歴代綿屋(わたや)と称し、火災により一時的な変更もあったが、天保九年まで約二百年余りの間本陣を勤めた。
この地が、その跡である。
(滑川市教育委員会設置の案内板から)

<参考資料> 桐沢本陣と大町
大町は、滑川発祥の町で、文治二年(一一八六)京都八坂神社の荘園である堀江荘にあった「滑河村」は、ここに成立した村落であったと考えられる。南北朝時代には、「高月滑川の要害」と見え、また、「滑川城主府久呂兼久(ふくろかねひさ)」という記録もあり、海辺に城が築かれていた戦国時代には、狭(せわ)町(現瀬羽町)も成立し、町並みもできていた。
慶長二十年(一六一五)、加賀藩によって北国街道(北陸道)の宿場町として再編され、大町には御旅屋(おたや)や問屋場(といやば)が設置された。由緒町人の住む所で、また町の運営の中心地であった。
御旅屋守(もり)は、綿屋九郎兵衛(わたやくろべえ)(桐沢氏)で、加賀藩主の参勤交代などに際し、お宿をつとめた。
(滑川市設置の案内板から)

<参考資料> 橋場
滑川旧町部を貫いて、海岸線に沿って南西から北東に延びる北国街道の中心部を流れる中川河口で町の東西を結ぶ橋の左岸を橋場という。
藩政時代、河口は船着き場で加賀藩の年貢米が積み出しされ、中新川郡の物資の集散地として賑わった。周辺は、藩の高札場、旅籠、商家が軒を並べ、荷車や旅人、日用品を買い求める人で往来が絶えなかった。
明治期には、中新川郡役所、警察などが置かれ行政の中心として、また周辺は中新川郡随一の繁華街として賑わった。
橋場に残る旅籠「嶋屋(しまや)」は、安政六年(一八五九)ごろは売薬商売や紅粉商売を営んでいた。建物は当時の面影を今に留めている。
中川右岸には、堂宮大工の岩城庄之丈(いわきしょうのじょう)が建てた廣野家(国登録建造物)が数奇屋(すきや)造りの優美な姿を川面に映している。
(滑川市設置の案内板から)





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150818_1354_万灯台(富山県魚津市)

富山県魚津市の角川河口(地図)にある江戸時代に設けられた灯台。
(写真:万灯台=18日午後撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 魚津たびナビ(魚津市観光協会)
  http://www.uozu-kanko.jp/
・ とやま観光ナビ(富山県観光連盟)
  http://www.info-toyama.com/

<参考資料>
魚津市指定文化財 万灯台
江戸時代の運輸は、海運による場合が多く、当時の魚津港(角川河口)にも、北海道や敦賀、大阪まで往来する数多くの船舶が出入していた。そこで、慶応元年(一八六五年)に町奉行土方与八郎が加賀藩に灯台の設置を願い出て、同四年、町奉行小川渡の時に角川尻に完成した。
この灯台を維持するために、油屋十二軒へ三六〇貫を貸し渡した利息を油代にあてたことから、この灯台の明かりは消えることはなかったという。港の整備に伴い、三度の移転の末、現在の地にある。
(魚津市教育委員会設置の案内板から・平成25年)





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