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管理人の思いつくまま、気の向くまま、長野県内の町や村の話題を取り上げています。

110504_1234_塩の道・糸魚川(新潟県糸魚川市)

新潟県糸魚川市(地図)で22日に発生した火事は、折からの強風にあおられ、瞬く間に商店や住宅に燃え広がり、約150軒が延焼する大火災となりました。
この火災で、新潟県最古の酒蔵として観光スポットにもなっていた「加賀の井酒造」も全焼しました。
(写真:富山第一銀行糸魚川支店前から撮影した被災前の現場の様子=平成23年5月4日午後撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 糸魚川市ホームページ
  http://www.city.itoigawa.lg.jp/
・ 加賀の井酒造株式会社
  http://www.kaganoi.co.jp/





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16_古道復活記念イベント「北条間道」を歩く
北条間道を歩くパンフ
昭和の時代まで、新潟県妙高市と飯山市を結んでいた北条間道の整備が地元地域の住民やボランティアのみなさんにより行われ昨年復活しました。
これを記念して、平成28年7月3日(日)、よし池広場(新潟県妙高市)から信越トレイル・小沢峠(地図)を越えて、飯山市戸狩温泉のとん平まで、復活した北条間道を、地元のガイドと歩くイベント(トレッキング距離は約5km、所要時間約4時間)が開催されます。
申し込みは6月26日(月)まで。詳しくは妙高市グリーン・ツーリズム推進協議会のサイトをご覧ください。
  
emoji 古道復活イベント 北条間道を歩く
開催日:平成28年7月3日(日)
※小雨決行
募集人数:
20名(健脚な方)
※先着順
※最少催行人数10名
参加料:2500円(弁当代・入浴代・ガイド料・傷害保険)
申込期限:6月26日(日)
問い合わせ:
 妙高市グリーン・ツーリズム推進協議会
 http://myoko-gt.com/





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16_北陸新幹線 糸魚川駅開業1周年記念イベント(表) 16_北陸新幹線 糸魚川駅開業1周年記念イベント(裏)
北陸新幹線糸魚川駅開業1周年記念イベントパンフ

新潟県糸魚川市の糸魚川駅アルプス口特設ステージで、3月20日、北陸新幹線糸魚川駅開業1周年記念イベントが開催されます。
詳しくは関連サイトをご覧ください。

<参考HP>
・ 糸魚川市ホームページ
  http://www.city.itoigawa.lg.jp/
・ えちごトキめき鉄道
  https://www.echigo-tokimeki.co.jp/


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16_国際ご当地グルメグランプリ 選抜大会 in 上越(表) 16_国際ご当地グルメグランプリ 選抜大会 in 上越(裏)
国際ご当地グルメグランプリ 選抜特別大会in 上越パンフ

新潟県上越市の上越妙高駅東口イベント広場で、3月12日と13日の2日間、北陸新幹線「上越妙高駅」開業1周年記念イベントが開催されます。
詳しくは公式サイトをご覧ください。

<参考HP>
・ 国際ご当地グランプリ 選抜特別大会 in 上越
  (上越観光コンベンション協会)
  http://www.kokusai-gotouchi.net/
・ 越後上越 上杉おもてなし武将隊
  http://www.uesugi-busyotai.com/


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140720_0954_春日山城跡・上杉謙信銅像(新潟県上越市)
上杉謙信公銅像

新潟県上越市春日山(地図)に、南北朝時代、越後国守護の上杉氏が築いたとされる山城( Wikipedia )。国指定史跡・日本百名城。
永正4年(1507)に起きた永正の乱で越後守護だった上杉房能( Wikipedia )を追放した後は、守護代の長尾為景が城主となりました。
永正の乱の後、関東管領であった上杉顕定が越後へ入り、長尾為景と上杉定実を追放させ国内の安定を図りますが、勢いを盛り返した為景・定実の軍により永正7年(1510)、長森原の戦い( Wikipedia )で敗死。戦後、為景と不和となった定実は春日山城を占拠し抵抗を続け守護としての権威維持を目指すものの失敗し、後は為景隠居後に跡を継いだ長尾晴景の弟・景虎(上杉謙信)に協力することになります。
天文17年(1548)、長尾景虎が兄の長尾晴景から家督を継いだ入城。天正6年に謙信が急死した後に発生した御館の乱( Wikipedia )において、上杉景虎( Wikipedia )を制した上杉景勝( Wikipedia )が入城し、群雄割拠する戦国時代を乗り切りますが、慶長3年(1598)、豊臣秀吉の命により会津へ転封。春日山城には越前北ノ庄から移ってきた堀秀治( Wikipedia )が入城します。
秀治は城内の普請や領地経営に努めますが、山城であった春日山城では不便であったことから新たに福嶋城の築城を計画。慶長12年(1607)、秀治の跡を継いだ忠俊( Wikipedia )が居城を福嶋城に移し、春日山城は廃城となりました。
(写真:新潟県上越市の春日山城跡=平成26年7月20日午前撮影、640×480拡大可能)

<管理人ひとこと>
140720_0957_春日山城跡・案内図(新潟県上越市)
春日山城 案内図
春日山城の見学は謙信公銅像前または春日山神社から本丸(天守台・大井戸)を巡り、二の丸・三の丸(米蔵・三郎景虎屋敷)を経て、出発地点の謙信公銅像に戻るコースが標準のようです。(参考:上越市HP
それぞれの郭をめぐる遊歩道が整備されていますが、山城特有の勾配もあり、夏ならば汗をかきかき、ぐるり歩いて所要時間は2~3時間程度といったところでしょうか。
春日山神社前の駐車場に車を停め、境内に続く石段を上がっても見学コースと合流しますので、春日山城へのお出かけにはこちらの利用をおススメします。

<参考HP>
・ 上越市ホームページ
  http://www.city.joetsu.niigata.jp/
・ 越後上越 上杉おもてなし武将隊
  http://www.uesugi-busyotai.com/


春日山城跡
140720_0858_春日山神社(新潟県上越市) 140720_0909_春日山城跡・お屋敷跡(新潟県上越市)
春日山神社 お屋敷址
140720_0911_春日山城跡(新潟県上越市) 140720_0914_春日山城跡・千貫門跡(新潟県上越市)
遊歩道 千貫門址
140720_0914_春日山城跡・上杉少弼入道宅址(新潟県上越市) 140720_0917_春日山城跡・虎口跡(新潟県上越市)
上杉少弼入道宅址 春日山城 虎口跡
140720_0919_春日山城跡・直江山城守宅址(新潟県上越市) 140720_0922_春日山城跡・毘沙門堂(新潟県上越市)
直江山城守宅址 毘沙門堂
140720_0932_春日山城跡・本丸跡(新潟県上越市) 140720_0933_春日山城跡・天守閣跡(新潟県上越市)
春日山城 本丸跡 天守閣址
140720_0941_春日山城跡・井戸曲輪跡(新潟県上越市) 140720_0940_春日山城跡・井戸曲輪にある「油流し」跡(新潟県上越市)
井戸曲輪跡 井戸曲輪の「油流し」
140720_0944_春日山城跡・二ノ丸跡(新潟県上越市) 140720_0932_春日山城跡・本丸跡から二ノ丸跡を望む(新潟県上越市)
春日山城 二の丸跡 本丸から二の丸を望む
140720_0946_春日山城跡・米蔵跡(新潟県上越市) 140720_0948_春日山城跡・上杉三郎宅址(新潟県上越市)
米蔵跡に残る土塁 上杉三郎宅址

<参考資料> 春日山城
上杉謙信公の居城として知られる春日山城は、今から約六百年程前の南北朝時代に築かれ、越後府中を守る拠点であった。
その後、謙信公の父為景公・謙信公・景勝公の三代にわたり普請に努め、現在見られるような大城郭になったと考えられている。
春日山城の特徴は、山頂の本丸跡から山裾まで連続する屋敷跡群と、裾野に巡らされた総延長千二百メートルの総構え(通称監物堀)である。
関東管領として、関東・北陸に覇を唱えた戦国大名の居城にふさわしい大城郭といえる。なお、この辺り(※上杉謙信公銅像周辺)は、かつて空堀が掘られていた。

<参考資料> 千貫門(せんかんもん)跡
春日山城の古地図に必ず描かれている門が千貫門である。それは、この門が古くから知られていたことを物語っている。
今でも門が建っていたと考えられる部分のみ、土塁が分断されていて、春日神社側からクランク状の道がここに通じている。
三方が土塁と土手に囲まれ、左に二本、一見道と思われる切通しがある。じつは、これは空掘の底で、侵入者を空掘から急峻な崖下に落そうとしたものであろう。
周到に計画された普請は、本丸と千貫門の外とを区画する重要な拠点であったことをうかがわせる。

<参考資料> 空掘
ここは通称搦手(からめて)、あるいは附内口で、春日山神社の郭をへて謙信の銅像の裏から登る道がここに通じています。それをたち切るのがこの空掘で、平素は橋がかかっていました。

<参考資料> 虎口(こぐち)
城に入る玄関にあたる所を「虎口」といいます。この虎口は、敵が城内に直進できなくするため、食違いになるよう工夫されています。春日山城は、謙信の頃に拡大され、壮大な城郭になったと考えられていますが、かつてここまでが城の範囲であったと推測されます。

<参考資料> 直江屋敷
上杉家の重臣直江家の屋敷跡と伝えられ、お花畑から千貫門までの間に上下三段の郭が造られています。現在は遊歩道があって使われなくなっていますが、郭と郭をつなぐ古道も残っています。
直江家は上杉謙信の父為景の代から重臣として仕え、山城守兼続は謙信の跡目を継いだ景勝の家老として活躍したことがよく知られています。景勝が会津へ国替えになったときに同行し、米沢藩三〇万石の城主となったことでもその活躍がしのばれます。

<参考資料> 毘沙門堂
この御堂には謙信公の信仰された毘沙門天の尊像(青銅製、約五〇センチ)が安置されています。尊像は景勝公のとき会津を経て米沢に移りましたが、嘉永二年の火災で傷みました。昭和三年に第十五代上杉憲章氏が東京美術学校に修理を依頼され、名匠高村光雲先生が一年余を費して修理いたしました。
そのさい先生は御分身をつくり、尊像の欠け損じたのをおなかに入れて同五年三月に完成し、当市(当時春日村)に寄進されました。
翌六年十一月んい、昔の堂跡にこの祠堂を建て奉安したのであります。
毘沙門天は悪魔を降ろす神です。謙信公は自らの軍を降魔の軍とみなし、毘の字の旗を陣頭にかざし、また事あるときはこの堂前で諸将に誓を立てさせました。毘沙門天は四天王のうち、北方を守る多聞天でもありました。
この尊像は多聞天のお姿です。公は王城の北方を守る意気をもっていたものと思われます。

<参考資料> 護摩堂
謙信が出陣前に毘沙門堂に籠ったことはよく知られていますが、戦勝や息災を祈祷したのが護摩堂です。護摩の修法(すほう)は、毘沙門天の信仰とともに謙信が真言密教を深く信仰していたことを如実に物語っています。

<参考資料> 本丸
南隣の天守台とともに春日山城の「お天上」と呼ばれた所です。標高一八〇mの本丸からは、かつて越後府中(直江津)と周辺の山々の支城跡や日本海が一望できます。
関川右岸に広がる、林に囲まれた村落が点在する風景は、慶長二年(一五九七)の「越後国絵図」に描かれた中世の景観とほとんど変わりません。関川の手前を手でかくして見てください。

<参考資料> 井戸曲輪
廃城後四百年の星霜を経て、今なお満々と水をたたえる大井戸は、春日山城が山城として最適の地に造られていることを教えてくれる。城の古地図にもここだけが井(※○に井)と、井戸があることを示しており、古くから注目されていたことがわかる。
どのようにして、水が湧く地点を調べたか定かではないが、地質学的には、西方の山々と礫層でつながっていて、サイフォンの原理が仂いて、水が湧くとのことである。
なお、数十年前に井戸さらいが行われ、滑車や杓などがみつかっている。

<参考資料> 油流し
本丸の西斜面は人の侵入を拒んでいるような急斜面となっていて「油流し」と呼ばれています。あまりの急斜面で滑ってしまうことから、油を流した時のように滑りやすい斜面の意味で名付けられたのかもしれません。

<参考資料> 二の丸屋敷
本丸から毘沙門堂を経てお花畑に至る実城と呼ばれる郭群の東裾を取り巻くように造られた郭で、実城とともに春日山城の中心地区を成しています。本丸の直下にあって、本丸を帯状に囲っている様子は、まさに本丸の警護として造作されたことを示すものと考えられます。
古地図には、「御二階」「台所」と記されたものもあり、現在も笹井戸といわれる井戸跡が残っていることも、当時の二の丸における生活を知る手掛かりとなっています。

<参考資料> 土塁
春日山城内で最も良好に残っている土塁跡です。郭を普請する際、削平したときに出た土を盛り堅め、防御の役割を果たしました。当時は、各郭にこのような土塁が築かれ、春日山城の守備をいっそう強固にしていたと想像されます。(米蔵址)

<参考資料> 三の丸屋敷跡
春日山では最も良好な状態で土塁が残る「米蔵跡」、謙信公が自らの名を与え住まわせた養子「三郎景虎屋敷跡」などを総称して「三の丸屋敷跡」と呼ぶ。それぞれの屋敷は段違いに造られて区分され、「景虎屋敷跡」の東端に入口が設けられ、今も道が残っている。
「米蔵跡」の名が示すように、城機能の中核施設が置かれた場所と考えられている。
三郎景虎公は、謙信公の死後に起こった「御館の乱」で敗れ、悲運の死を遂げた。公を慕って屋敷跡を訪れる人も多く、今、春日山城の中で最も注目を集めている所である。

<参考資料> 上杉三郎景虎屋敷
上杉謙信の死後、跡目を争った「御館の乱」で破れた悲劇の武将三郎景虎。小田原城主北条氏康の子で、人質として春日山城に来ました。謙信から景虎の名を与えられたことでも、人質としては破格の待遇であったことがわかります。また、美男として伝えられています。
跡目争いでは越後国外からの人質であったためか次第に援助の武将も離れ、最後は自害して一生を終えました。小説「炎の蜃気楼」で現代に蘇った景虎が美しい男性として描かれ人気を博しています。近年、春日山城で最も賑わいを見せている郭の一つです。





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150920_1425_儀明の棚田(新潟県十日町市)

新潟県十日町市松代(まつだい)にある「儀明の棚田」(地図)。
実りの秋…。
(写真:儀明の棚田=20日午後撮影、640×480拡大可能)

emoji まつだい棚田バンク
まつだい棚田バンクは、松代の担い手がいなくなった棚田を維持するため、里親(棚田オーナー)を募り、出資を受けた「まつだい棚バンク」(地元農家とNPO法人越後妻有里山協働機構)が棚田の運営・管理を行うものです。
里親は田植え(5月末~6月初旬)、畦草刈りを行う畦なぎ(8月)、稲刈り(9月末~10月初旬)、収穫祭などに参加できるほか、お米の「収量」と登録した「面積」に応じた配当米が受け取ることができるそうです。

<参考HP>
・ 越後妻有 大地の芸術祭の里
  http://www.echigo-tsumari.jp/activity/tanada_owner/

emoji まつだい棚田基金
新潟県十日町市で受付しているふるさと納税のひとつ。
過疎・高齢化・後継者不足・耕作放棄などの問題を抱える棚田を寄附により守ることを目的としたもので、寄附金は棚田を保全する活動支援に利用されます。
詳しくは新潟県十日町市のホームページ(ふるさと納税)をご覧ください。

<参考HP>
・ 十日町市ホームページ
  http://www.city.tokamachi.lg.jp/





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150822_1313_大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ2015(新潟県中魚沼郡津南町)

新潟県中魚沼郡津南町の越後妻有「上郷クローブ座」(旧上郷中学校)に展示されているパオラ・ピヴィ氏の作品(NO53)。
 
「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ2015」は、越後妻有(新潟県十日町市・中魚沼郡津南町)の里山を舞台に3年に1度、開催される国際芸術祭。今回は新作約180点を含む約380作品を展示。会期は平成27年7月26日から9月13日まで。詳しくは「越後妻有 大地の芸術祭の里」公式サイトをご覧ください。
(写真:「上郷グローブ座」に展示されているパオラ・ピヴィ氏の作品=22日午後撮影、640×480拡大可能)
 
<参考HP>
・ 越後妻有 大地の芸術祭の里
  http://www.echigo-tsumari.jp/


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150817_1522_寺泊「魚のアメ横」・海鮮茶屋汐の華の海鮮丼(新潟県長岡市)

150817_1547_寺泊「魚のアメ横」・海鮮茶屋汐の華(新潟県長岡市)
1階は角上魚類の売り場
2階が海鮮茶屋汐の華
(新潟県長岡市寺泊)
海鮮茶屋汐の華(しおのはな)は、「日本一の魚屋」を目指し、長野県内にも長野市と諏訪市に店舗を構える角上魚類株式会社(本社=新潟県長岡市寺泊)の新館2階にある食事処(地図)。新潟県内でホテル・外食産業を運営する株式会社安武商事(本社=新潟県五泉市)が運営しています。
寺泊といえば「カニ」。汐の華で提供している「かにラーメン」は人気1位のメニュー。ほかにも「かにいくら丼」「かに鮭いくら丼」「かにめし」など、カニを使ったメニューがオンパレード。人気3位の「海鮮丼」にも、もちろんカニが入り、さらに「青さ」のお味噌汁もついて、お値段は1650円。ぎゅぎゅっと締めたご飯は、見かけよりもボリュームがあり、満腹感いっぱいの逸品です。
(写真:寺泊「魚のアメ横」・海鮮茶屋汐の華で提供されている「海鮮丼」=17日午後撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 海鮮茶屋汐の華
  http://www.shionohana.com/
・ 角上魚類
  http://www.kakujoe.co.jp/





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150523_1804_御館(新潟県上越市)

150711_1608_御館(新潟県上越市)
御館跡平面図
(上越市史より)
御館の乱( Wikipedia )は、天正6年(1578)3月、上杉謙信が亡くなった後に起きた上杉景勝と上杉景虎の後継争い。天正7年(1579)2月、景勝の総攻撃を受けた御館が落城し景虎は脱出するも、逃亡中、立ち寄った鮫ヶ尾城( Wikipedia )で景勝方に寝返った堀江宗親に攻められ自害。国内を二分した内乱は景勝が勝利し終息しました。
この御館の乱は、上杉家の国力を失う結果にもなりましたが、一方で、北条家に代わり和平交渉を行った武田家の滅亡に繋がる戦いであったともいわれています。当初、北条家出身の景虎を支援していた武田勝頼でしたが、景勝との甲越同盟( Wikipedia )を進めたことで、北条家との甲相同盟( Wikipedia )が破綻。夫人を北条家から迎えていた勝頼でしたが、天正10年(1582)の織田信長による甲州征伐では、同盟破綻により北条家とも敵対する状況となり、また、同時期に北陸地方において織田軍の攻勢を受けていた景勝からの援軍も受けられず、孤立無援のまま戦いに挑まざるを得なくなったのでした。
内乱の舞台となった御館の跡は、現在は公園として整備され、発掘調査では実戦に使われたと思われる銃弾などが見つかっています。
(写真:景虎方の本拠のあった御館公園=平成27年5月23日午後撮影、640×480拡大可能)

<参考資料> 御館(おたて)
御館は、小田原城主北条氏康に敗れ、越後に逃れた関東管領上杉憲政のために上杉謙信公が造営した館で、後に憲政から関東管領職を継いだ謙信公が政庁としても使用したといわれています。
御館は、古い地籍図から二重の堀に囲まれた東西二五〇メートル・南北三〇〇メートルの大規模な館であったと考えられています。東京ドームの一・六倍の大きさでした。中心の郭は、四方を堀で囲まれた東西一二〇メートル・南北一五〇メートルの規模で、ここ御館公園の六倍の大きさであったとされています。発掘調査が行われた四十数年前に、越後の中世史を語る貴重な遺跡であることから、中心部分が「御館」の名を冠した公園として残されました。
少し足を伸ばしてJR線路まで出てみてください。右手の独立した山が春日山城です。

<参考資料> 御館の乱
天正六年(一五七八)に上杉謙信公が没した後、二人の養子景勝公と景虎公が跡目を争った「御館の乱」が起こりました。
景勝公は、謙信公の軍事拠点の春日山城を、一方景虎公は政治拠点の御館を占拠して戦ったのでしょう。
翌七年三月、景虎公のたてこもる、ここ御館が景勝公の総攻撃を受けて落城。景虎公は妙高市の鮫ヶ尾城で自害。二年にわたり越後の国を二分した争いは、御館の落城と景虎公の自害により幕を閉じました。この時、至徳寺などの名刹や府中の六千軒が焼けたと伝えられています。
この争いの中でめざましい働きを見せたのが景勝公の重臣、樋口与六(ひぐちよろく)、後の直江兼続公です。この戦功により兼続公は奉行に取り立てられ、上杉家の中で重要な地位を占めるようになりました。
御館跡の発掘調査では、鉛や青銅製の銃弾のほか、武具や刀剣等が見つかりました。ゆがんだ銃弾は、御館の乱で実際に発射されたものといわれ、攻防の様子を今に伝えています。
 




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150523_1753_安寿と厨子王の供養塔(新潟県上越市)
 
森鴎外の代表作「山椒大夫」( Wikipedia )に登場する安寿と厨子王の供養塔。
(写真:関川近くにある安寿と厨子王の供養塔=平成27年5月23日午後撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 上越観光ネット
  http://www.joetsu-kanko.net/
・ 「山椒大夫」(青空文庫)
  http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/689_23257.html

<参考資料>
今から約九百二十年前、陸奥岩城の国信夫郡の国守岩城判官正氏は悪人の讒言により筑紫(九州)に流されました。
左遷されていた時、妻と召使いの姥竹は安寿姫(十四才)と厨子王丸(十二才)の二子を連れて岩城(福島)からはるばると父を尋ねて行く途中、この直江の津の應化の橋の袂で山岡大夫にだまされて母親と姥竹は佐渡の二郎に、安寿姫と厨子王丸は越中の人質、宮津の三郎に売られました。
知らずにいた四人も港を出ると北と西とに漕ぎ別れていく舟にそれと気付き、子を呼ぶ母、母を呼ぶ子、その悲嘆のうちに身を投げた姥竹を土地の人々が厚く弔ってここに塔を建てました。
その後、安寿姫は悲しみの余り沼に身を投げ、死んでしまいました。
そこで姥竹の塔の脇に又、小さな塔を建てて弔いました。
厨子王丸が関白師寛に用いられ丹後の国守となって佐渡にいた母を迎えてこの津を上った時、土地の人々は温情に感泣し二人の塔に供養したと言われ、それから人々の手向ける香華が今も絶えないのであります。
(上越市設置の案内板から)

<参考資料> 山椒大夫 鴎外森林太郎
「山椒大夫」は、説経節の「さんせう太夫」に想を得て書かれたといわれていすが、「直江の浦」つまり直江津の情景が、より細かく描かれています。
鴎外は明治十五年、軍医として新潟県を訪れて高田に宿泊、直江津を徒歩で通過しています。
「北游日乗(ほくゆうにちじょう)」という日記には、加賀街道の景色やまちで出会った人々のことが漢詩に残されていますのでこの時の印象が物語のなかに強く反映されたようです。
原本所蔵・島根県津和野町森鴎外記念館
(三八朝市周辺まちづくり協議会設置の案内板から)





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