忍者ブログ
管理人の思いつくまま、気の向くまま、長野県内の町や村の話題を取り上げています。
Click 県内の話題をチェック >>> にほんブログ村 長野情報





愛知県岡崎市八帖町(地図)には、八丁味噌(岡崎城から八丁の距離にあることの意味)の伝統を受け継ぐ蔵元が2つあります。
八丁味噌(豆味噌・赤味噌)は、大豆と塩、水だけを原料に、二夏二冬(ふたなつふたふゆ)、川石を山のように積み上げ重石とし、自然の気温の変化にまかせ熟成された味噌で、信州味噌のような淡色な味噌(米味噌・赤と白味噌の中間)とは違い、黒味を帯びた濃厚な味噌へと変化するのが特徴( Wikipedia )。
江戸時代には「三河味噌」または「三州味噌」の名で、江戸などに出荷されました。
(写真:合資会社八丁味噌 本社事務所=平成23年11月23日午前撮影、640×480拡大可能)

<管理人ひとこと>
今回訪ねた八丁味噌の蔵元は、合資会社八丁味噌(以下、カクキュー)さん。
もうひとつの蔵元・まるや八丁味噌さんと、旧東海道を挟んで建つカクキューさんには、味噌の蔵元とは想像できないほどハイカラな造りの建物があり、昭和2年に建てられた本社事務所(南北2棟)は、平成8年、国の有形文化財に登録されているそうです。
カクキューさんでは味噌蔵をめぐる工場見学が可能。岡崎まで来たら「八丁味噌」とはどんなものか、その独特な製造方法を実際に目で見てみると、話題のひとつも増えることになりますのでおススメしておきます。
 
さて管理人はといえば…。
本来であればここで「八丁味噌」の蘊蓄(うんちく)をひたすら書き綴るところなのですが、そもそも「八丁味噌」の名前こそ知れ、どんなものなのか知識もなく、更に時間にも余裕がなかったこともあって、現地ではさらりっと蔵元の雰囲気を味い、最後に2種類用意されたお味噌汁の味比べをしただけで、次なる目的地へとさっさと移動してしまったのでした。
こんなことなら、もう少し情報を仕入れてから訪ねればよかった…と思ってももう後の祭り。

次回の岡崎訪問は何時になるかわかりませんが、旧東海道・岡崎宿の町並みめぐりと併せて、この八丁味噌の、深~い味わいをじっくり楽しみたいと思っています。

<参考HP>
・ 八丁味噌協同組合
  http://www.hatcho.jp/
・ 合資会社八丁味噌
  http://hatcho-miso.co.jp/
・ 株式会社まるや八丁味噌
  http://www.8miso.co.jp/

<参考資料>
合資会社八丁味噌 登録文化財
(平成八年十二月二十日付)

本社事務所(南北二棟)
昭和二年(一九二七)十一月二十三日に完成した本社事務所は、白い柱を強調した教会風の南北二棟からなり、建築当時は大きく人目を引くデザインだった。平成二年(一九九〇)には、岡崎市景観環境賞を受賞した。

 八丁味噌本社事務所
 木造二階建、トタン葺、建築面積三三九平方メートル
 愛知県岡崎市八帖町字往還通六九

本社蔵(現史料館)
現史料館の建物は、明治四〇年(一九〇七)に味噌蔵として建てられた。石垣上の東西三十余メートルの巨大な姿は、城壁の観があって「大蔵」と命名、平成三年(一九九一)十二月一日から八丁味噌の郷・史料館として現在に至っている。

 八丁味噌本社蔵(史料館)
 木造二階建瓦葺、建築面積四六三平方メートル
 愛知県岡崎市八帖町字往還通六九

<参考資料> ボイラーとストーカー
昭和16年に投射は製造工場を移転・改築し、大豆蒸煮設備も一新しました。その時に導入したのが石炭を燃料とする火管式(1)ボイラー(左)で、発生した蒸気は蒸釜で大豆を蒸すのに用いられました。石炭の燃料効率を高める装置としてボイラーの下にストーカー(2右)も設置しました。ストーカーは燃焼中の石炭を鉄製の無限軌道(3)の上に載せて奥へ運び、燃え尽きた石炭は下へ落ちる(4)ように出来ていました。平成10年夏に新工場建設のため、これら装置の移転が必要になりましたが、元の姿のまま展示するのは困難なので両装置とも頭部だけここに残しました(5)。
布達の装置は昭和50年まで使用されていました。その後は石油ボイラーに、さらに平成9年初夏からはガスボイラーに変わりましたが、石炭時代のこの種の産業遺産が現在、東海地方にほとんど残っていないといわれています。
(合資会社八丁味噌設置の案内板から)





ランキングに参加しました。
Click >>> にほんブログ村 長野情報
Click >>> 人気ブログランキングへ
管理人ホームページ Click >>> 日本列島夢紀行 信州からあなたへ

拍手[0回]

PR

111123_0949_岡崎城(愛知県岡崎市)

愛知県岡崎市康生町(地図)にある3層5階(復元前は3層3階)の天守と井戸櫓・附櫓からなる平城( Wikipedia )。岡崎市指定史跡。

<管理人ひとこと>
岡崎城といえば、誰もが思い浮かべるのが徳川家康( Wikipedia )出生の地ということ。整備された城址公園には、「東照公産湯の井戸」や「えな塚」など、家康出生にかかわる旧跡が残り、あの250余年も続く江戸幕府を築いた人物はここで生まれたのか…と感慨に耽る人たちも多いようです。
家康は天文11年(1542)12月、岡崎城内で誕生。しかし、世は戦乱続く戦国時代。西の織田氏と東の今川氏が互いに勢力を拡大するなか、その狭間にある岡崎も標的とされ、家康は6歳で織田氏へ、8歳で今川氏の人質とならざるをえませんでした。
しかし、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれ、状況は一変。岡崎に戻った家康は、元亀元年(1570)に浜松城へ拠点を移すまで、この岡崎城から各地を転戦。徳川家ゆかりの武将(大名)の多くがこの三河から輩出する由縁にもなっています。

天守から望む岡崎の町並みは、庶民の日常生活がすぐ手にとれるほど近い距離にありました。矢作川や菅生川に挟まれた地形にも理由があるのかもしれませんが、そうした河川の氾濫から町並みを守るため、惣掘の土塁内にコンパクトに町並みが収める必要があったこともその理由なのかもしれません。
最上階の床には「17世紀本多時代の岡崎城図」(原資料 西尾市岩淵文庫蔵)が、東西南北の方向に合わせて貼られています。ぜひ、現在の町並みとの比較をされることをおススメします。

<参考HP>
・ 岡崎市ホームページ
  http://www.city.okazaki.aichi.jp/
・ 岡崎市観光協会
  http://okazaki-kanko.jp/
・ 岡崎公園
  http://okazakipark.com/


徳川家康出生の地 岡崎城
 (平成23年11月23日)
111123_0948_岡崎城(愛知県岡崎市) 111123_1001_1_岡崎城(愛知県岡崎市)
岡崎公園案内板 解体前の天守
111123_1001_2_岡崎城(愛知県岡崎市) 111123_1006_岡崎城(愛知県岡崎市)
本多時代の岡崎城図 天守から望む岡崎市内
111123_1022_岡崎城(愛知県岡崎市) 111123_1018_岡崎城(愛知県岡崎市)
内堀と巽閣 舟着き場跡


<参考資料> 岡崎城
15世紀中頃(室町時代)、西郷弾正左衛門頼嗣(稠頼)が現在の岡崎城の位置にはじめて城を築き、のちに家康の祖父である松平清隆が入城し本格的な岡崎城を構えた。
1542年(天文11年)12月26日、徳川家康はここ岡崎城内で誕生した、江戸時代、岡崎城は「神君出生の城」として神聖視され、本田氏(康重系統/前本田)、水野氏、松平氏(松井)、本多氏(忠勝系統/後本多)と、歴代譜代大名が城主となった。石高は5万石と少なかったが、大名は岡崎城主となることを誇りとしたと伝えられる。
現在の天守閣は1959年(昭和34年)に復元され、3層5階の鉄筋コンクリート構造となっている。2階から4階は江戸時代の岡崎を紹介する展示室で、5階は展望室となっており三河平野を一望することができる。

岡崎城の歴史
1452~1455年(享徳元~康正元年)
西郷弾正左衛門頼嗣(稠頼)、竜頭山に築城。
1531~32年(享禄4~5年)
安城松平4代清隆、竜頭山の岡崎城へ移る。
1542年(天文11年)12月26日
徳川家康、岡崎城内で誕生する。
1590~1600年(天正18~慶長5年)
岡崎城主田中吉政、城と城下町を大改造、天主閣・惣構えの堀を築く。
※1602年(慶長6年)
 岡崎藩( Wikipedia )立藩
1617年(元和3年)
櫓をもつ複合天守閣に再建。
1871年(明治4年)
廃藩置県、額田県成立し旧城内に県庁設置。
城址は県有地。
1873~74年(明治6~7年)
城郭取り壊し、天主閣解体、礎石のみ残る。
武家屋敷払い下げ。
1875年(明治8年)
旧本丸・二の丸、城址公園となる。
1959年(昭和34年)
岡崎城天守復元。
1962年(昭和37年)
岡崎城跡約96,700平方メートルを岡崎市史跡に指定。
1982年(昭和57年)
旧二の丸跡に、三河武士のやかた家康館開館。
(案内板から)

<参考資料> 写された岡崎城
天守は城の中心となる建物で、物見櫓が発展したもの、城主の権威を象徴する建築物である。岡崎城の天守は、田中吉政が城主の時代に創建され、その後の地震等で倒壊したと考えられている。1617年(元和3)本多康紀が城主の時、3層3階、地下1階で東に井戸櫓、南に付櫓を附属した複合天守で再建されたものであったが、維新後の1873年(明治6)に廃城令が出され、翌7年にかけて取り壊された。1875年には本丸・二の丸部分が城址公園となり、後の1962年(昭和37)に公園の部分が市の史跡に指定され現在に至る。
再建の気運は1955年頃より市民の間から生じ、折しも日本各地で天主閣復興の気運が盛り上がり、近くでは岐阜城が56年に再建され、名古屋城の再建計画の話も伝わり、市のシンボル・観光の拠点として再建が多くの市民から望まれその道を歩みはじめた。当時5,700万円の総工費のうち、1,800万円が県費補助金、1,200万円は寄附金で賄われた。天主に飾られた鯱は青銅製で高さ1m36cm、重さ190kg、角のあるオスは南側、メスは北側にすえられた。
(城内案内板:「復元大系 日本の城4」ぎょうせい刊、「新編 岡崎市史 5現代」岡崎市刊から)

<参考資料> 東照公遺訓碑由来
この東照公遺訓碑は、額田郡岩津町奥殿(岡崎市奥殿町)出身の加藤賢次郎翁が岡崎市へ寄贈されたものである。
翁は、岡崎銀行(東海銀行の前身)を創立し、長く同行頭取、相談役として金融界に尽力されたのをはじめ、岡崎商工会議所会頭として、本市の経済界の発展に寄与され、昭和十八年三月九十八歳の天寿を全うされた。
翁は、終生、徳川家康公の遺訓を座右の銘とされ、これを後世の市民の教化育成に資するため、家康公研究者柴田顕正氏と相図り、この実現の為に時の小瀧市長の賛意を得て建立に至った。
碑文の文字は田安家徳川達孝氏に、礎石は万年の亀を据え、碑頭には竜城を象徴する竜を配し、制作施工は岡崎石工研究所長池上年氏に委ねられた。
碑裏面には、昭和十一年四月十六日建立とのみ刻み、寄贈者名は翁の意志により省略されたままであるが、本年(※昭和六十一年)は、遺訓碑が建立されて五十年、記念事業の一環として、この遺訓碑建立の由来を記し、あわせて加藤九十八翁を顕彰する次第である。
(案内板から)

<参考資料> 昔の舟着き場
昔は帆掛け舟が荷物をたくさん積んで菅生川(乙川)を上り下りした。
ここが積荷をあげおろしした昔の舟着き場である。岡崎には「五万石」という古謡がある。「五万石でも岡崎さまは、お城下まで舟が着く」。この帆掛け舟を形どった碑は当地方特産の花崗岩で出来ており、その古謡に因んで「五万石舟」という。
(案内板から)





ランキングに参加しました。
Click >>> にほんブログ村 長野情報
Click >>> 人気ブログランキングへ
管理人ホームページ Click >>> 日本列島夢紀行 信州からあなたへ

拍手[0回]


111103_1456_「奥の細道・むすびの地」船町港跡と住吉燈台(岐阜県大垣市)

111103_1453_「奥の細道・むすびの地」船町港跡と住吉燈台(岐阜県大垣市)
奥の細道・むすびの地
(岐阜県大垣市船町)
岐阜県大垣市船町にある奥の細道むすびの地(地図)は、東北・北陸の旅を終え門人宅に滞在していた松尾芭蕉が、伊勢神宮の遷宮参拝のため舟で桑名に向けて立つ際に、「奥の細道」( Wikipedia )結びの句( 蛤の ふたみに別れ 行く秋ぞ)を詠んだとされる場所。
元禄2年3月27日(新暦1689年5月16日)、江戸深川の採荼庵を出発した芭蕉は、河合曾良( Wikipedia )とともに東北・北陸をめぐり、同年8月21日に大垣着。門人宅に滞在した後、同年9月6日(新暦1689年10月18日)、桑名へ旅立ちました。
(写真:「奥の細道・むすびの地」 船町港跡と住吉燈台=平成23年11月3日午後撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 大垣市ホームページ
  http://www.city.ogaki.lg.jp/
・ 奥の細道むすびの地 芭蕉と大垣
  http://www2.city.ogaki.lg.jp/basyo/basyo.htm
・ 岐阜県観光連盟
  http://www.kankou-gifu.jp/
・ 大垣・西美濃観光ポータルサイト「水都旅」
  http://www.ogakikanko.jp/
・ 大垣地域ポータルサイト西美濃
  http://www.nisimino.com/nisimino/

<参考資料> 大垣市指定史跡 奥の細道むすびの地
「蛤のふたみに別行く秋ぞ」
俳聖 松尾芭蕉がこの地で詠んだ俳諧紀行「奥の細道」のむすびの句です。
元禄二年(一六八九)三月二十七日、江戸深川を出発した芭蕉は、門人曽良とともに奥州から北陸を経て、ここ大垣で「奥の細道」の旅を終えました。九月六日には、俳友の谷木因(たにぼくいん)や近藤如行(こんどうじょこう)ら大垣の俳人たちに見送られ、伊勢神宮の遷宮参拝のため、この船町港から桑名へ舟で下りました。

<参考資料> 大垣市指定重要有形民俗文化財 谷木因俳句道標
貞享元年(一六八四)の冬、俳聖 松尾芭蕉は「野ざらし紀行」の旅で大垣を訪れ、俳友谷木因の家に泊まりました。この道標は、その歓迎の意をこめて木因が建立したと伝えられており、道しるべの方向を俳句で表している全国的にも珍しく貴重なものです。
表面には「南いせ くわなへ十り ざいがうみち」の句が刻まれ、「くわなへ」は伊勢の「桑名へ」と季語の「桑苗(くわなえ)」を掛詞(かけことば)にしています。
なお、この道標は複製であり、実物は奥の細道むすびの地記念館で保存・展示されています。

<参考資料> 水門川の歴史
水門川は、大垣市から南流し揖斐川に合流する運河で、永禄4年(1561)大垣城主氏家直元が城池改築の際に開堀したと伝えられています。江戸時代に大垣藩初代藩主戸田氏鉄により改修され、この地方を集散する貨客の水運産業の振興とともに発展し、文化の興隆に大きく貢献しました。
当時は大量の自噴水が水門川にそそぎ、清らかな流れをみせ、アユやハエなどの清流魚が泳ぎまわるなど庶民生活と結びつき、広く親しまれ育まれてきました。また、この川は大垣城の外堀として幾多の攻防の歴史に秘められた物語も多く、沿線一帯には、「奥の細道むすびの地」や「住吉燈台」などの文化財が残され、水と緑の調和の中に詩情豊かな潤いのある風情をたたえています。
(以上、案内板から)

<参考資料>
岐阜県指定史跡 住吉燈台
大垣市指定史跡 船町港跡
船町港は、江戸時代から明治時代にかけて大垣城下と伊勢を結ぶ運河「水門川」の河港で、物資の集散と人の往来の中心であった。明治16年(1883)には、大垣~桑名間に蒸気船が就航したが、昭和期に入ると鉄道の発達に伴い衰退した。
住吉燈台は、元禄年間(1688~1704)前後に港の標識と夜間の目印として建てられたものである。高さは約8m、四角の寄棟造りで、最上部の四方には油紙障子をはめ込んであり形全体の優美さは芸術品としても十二分に価値がある。
(大垣市教育委員会設置の案内板から)





ランキングに参加しました。
Click >>> にほんブログ村 長野情報
Click >>> 人気ブログランキングへ
管理人ホームページ Click >>> 日本列島夢紀行 信州からあなたへ

拍手[0回]


111103_1438_大垣城(岐阜県大垣市)

岐阜県大垣市(地図)にある四層四階の天守をもつ平城( Wikipedia )。
慶長5年(1600)に起きた徳川家康と石田三成とが争った関ヶ原合戦では、西軍・石田三成の拠地として、東軍・徳川家康の動きに備えました。
合戦後の慶長6年(1601)、家康は譜代大名の石川康通を城主に任命。その後、石川(2代)・松平(2代)・岡部(2代)・松平(1代)氏を経て、寛永12年(1635)に摂津尼崎藩より戸田氏鉄( Wikipedia )が入り、以降、明治4年(1871)の廃藩置県まで、戸田氏が大垣の地を治めています。
(写真:大垣城天守・西門と戸田氏鉄公騎馬像=平成23年11月3日午後撮影、640×480拡大可能)

<管理人ひとこと>
関ヶ原の合戦では西軍・石田三成の本拠地となり、東軍・徳川家康と対峙するなかで、合戦前日の9月14日、家康本陣が大垣城北西の赤坂(地図)に移動。西軍を率いる石田三成はその夜、大垣城を出て関ヶ原に向かいました。
籠城戦をせず、家康との戦いを関ヶ原に選んだ三成の行動は諸説あるところですが、これに類似する事例がかつてありました。それは、甲斐の武田信玄が浜松城に攻め込まず、素通りしたことに激昂した若かりし家康が、信玄の罠にハマり城からおびき出されて大敗した、あの三方ヶ原の戦い( Wikipedia )です。
三成の性格をよく知る家康は、大垣城への総攻撃は行わずそのまま西に進めば、きっと三成は動くと考えたのでしょう。家康の巧妙な罠にハマった三成は、翌15日、関ヶ原で打ち破られることになります。

<参考HP>
・ 大垣・西美濃ポータルサイト
  http://www.ogakikanko.jp/
・ 今日は何の日?徒然日記 (羽柴茶々さん)
  http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/

<参考資料> 大垣城由来
111103_1425_大垣城(岐阜県大垣市)  
大垣城案内図
大垣城は古く応仁年間には東大寺城と呼び当時の城主は大井庄のうち石包名(いしかねみょう)という地域の代官職をしていた大垣氏であったようです。そこでこの城を大垣城というようになりました。その後、天文四年宮川安定が城郭を築き、永禄二年大垣城主氏家ト全が城郭の建築工事をほどこしました。
天正十三年(一五八五)九月豊臣秀吉が一柳直末を大垣城主として天守閣の造営を命じました。この工事は天正十六年七月になって完成し、その後改修を経て、以来この天守閣は四層四階建て総塗りごめ様式でたいへん優美な城として歴史のうえからも貴重なものでした。
昭和十一年(一九三六)国宝に指定され、郷土の博物館として親しまれてきましたが、昭和二十年の戦災( Wikipedia )で惜しくも焼失しました。その後、お城再建の機運が高まり、昭和三十三年五月着工、翌三十四年四月、昔そのままの姿で竣工したのがこの天守閣です。
なお江戸時代の城主は下記のとおりです。

石川康通  慶長六年二月~慶長十二年七月
石川家成  慶長十二年七月~慶長十四年十月
石川忠總  慶長十四年十二月~元和二年九月
松平忠良  元和二年九月~寛永元年五月
松平憲良  寛永元年十二月~寛永九年十一月
岡部長盛  寛永元年十二月~寛永九年十一月
岡部宣勝  寛永九年十一月~寛永十年三月
松平定綱  寛永十年三月~寛永十二年七月
戸田氏鉄  寛永十二年七月~慶安四年十一月
戸田氏信  慶安四年十一月~寛文十一年七月
戸田氏西  寛文十一年七月~貞享元年八月
戸田氏定  貞享元年八月~享保八年四月
戸田氏長  享保八年四月~享保二十年八月
戸田氏英  享保二十年九月~明和五年四月
戸田氏教  明和五年六月~文化三年四月
戸田氏庸  文化三年六月~天保十二年五月
戸田氏正  天保十二年五月~安政三年十月
戸田氏彬  安政三年十月~慶応元年八月
戸田氏共  慶応元年八月~明治二年六月

<参考資料> 明治29年(1896)7月・9月の風水害
111103_1424_大垣城(岐阜県大垣市)
大洪水の碑
明治29年の水害は大垣を中心とした輪中地域における最大の、そして最後の大水害であった。
この年の7月19日より22日にかけて大垣では降水量378ミリとなり各河川は増水して、21日に揖斐川にて今福が破堤し続いて水門川など46箇所で破堤して大水害となった。この災害復旧中の9月6日に台風が襲来して暴風雨となり、再び各河川で破堤して大風水害となった。9月の大垣の浸水は7月より約1メートル高く大垣町の約80パーセントの家々が屋根まで達する軒上浸水となった。
この大垣城石垣の刻まれたのがその水位であり、この惨状を後世に伝えるため大垣の金森吉次郎が私財を投じて建てたのが、この洪水碑である。

<参考資料> おあむの松
関ヶ原合戦の時「おあむ」は父山田玄暦らと西軍三成勢に属し大垣城にこもっていた。落城不安がつのるある日東軍から矢文が届き「玄暦は家康様御手習師匠であったので逃がす」と伝えた。「おあむ」は父母らと西堀端の松から堀のたらい舟に乗り移り西岸に上陸無事に逃れた、そののちその松を誰言うとなく「おあむの松」と愛称した。昭和の大戦直前枯れたが植え継ぎ青年の樹とし「二代おあむの松」と命名した。
(以上、案内板から)





ランキングに参加しました。
Click >>> にほんブログ村 長野情報
Click >>> 人気ブログランキングへ
管理人ホームページ Click >>> 日本列島夢紀行 信州からあなたへ

拍手[0回]


111103_1134_多賀大社(滋賀県犬上郡多賀町)

滋賀県犬上郡多賀町(地図)にある全国の多賀神社の総本社( Wikipedia )。
「お伊勢お多賀の子でござる」といわれるように、多賀大社は、伊勢神宮のご祭神である天照大神の親神様として知られる伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)、伊邪那美大神(いざなみのおおかみ)をご祭神としており、延命長寿、厄除け、縁結びにご利益があるといわれています。
(写真:七五三で賑わう多賀大社=平成23年11月3日午後撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ いのちの神様 多賀大社
  http://www.tagataisya.or.jp/
・ 多賀町役場ホームページ
  http://www.tagatown.jp/
・ 多賀観光協会
  http://www.taga-kankou.com/
・ 近江路観光ガイド(近江鉄道)
  http://www.ohmitetudo.co.jp/outdoor/index.html
 
  <参考資料> 多賀神社の概略
ご祭神
伊邪那岐大神 (いざなぎのおおかみ)
伊邪那美大神 (いざなみのおおかみ)

この男女二柱の大神は、はじめて夫婦の道をおこされ、わが国土と万物の神々と、その主宰神としての天照大神をお産みになられましたので昔から、わが日本国の祖神(あやがみ)さまと仰がれ、奈良時代の初めにできた「古事記」には、すでに淡海の多賀にご鎮座という記事が見えています。
そこで、早くより朝野の尊崇あつく、延命長寿、縁結び、厄除の霊神と仰がれ、元正天皇や俊乗坊重源、太閤秀吉の母大政所の延命祈願、武田晴信(信玄)の厄除祈願など数々のご社伝が伝えられております。
四月二十二日の多賀まつり(古例大祭)の騎馬四十頭に及ぶご神幸は天下に名高く、他にも節分祭、お田植祭、万灯祭、九月古例祭、七五三なども大変なにぎわいを見せます。
室町時代以来の由緒をもつ全国各地の多賀講はあまりにも有名ですが、更に近年は崇敬会に加入して神縁を結ばれる人々も増加しています。
ご本社の左奥にある参集殿では、これらの人々のお食事、あるいは結婚式の披露宴なども行われています。
又、春の枝垂れ桜、秋の紅葉、国の名勝である奥書院庭園も見事で、年間を通じ約百七十万人の参拝者を数えております。

<参考資料> 多賀神社の由緒
「お伊勢参らばお多賀へ参れ。お伊勢、お多賀の子でござる」という里謡がある通り、多賀大社のご祭神は伊勢神宮のご祭神天照大神の親神様にあたる伊邪那岐命、伊邪那美命の二柱の神様です。
「古事記」に伝えるところによると、この二柱の神様は高天の原で初めて夫婦の道を始められ、我が国の国土をはじめ八百万の神々をお生みになり、その後琵琶湖を西に望む杉坂山にご降臨になり、この多賀の霊地にお鎮まりになりました。
古くから延命長寿、縁結びの神様として有名で、奈良時代、元正天皇のご病気に際しては、多賀の神主が強飯を炊き、ご神木で作った杓子を添えて献上したところたちまち治癒され、平安の昔には、俊乗坊重源という高僧が二十年の寿命を賜って東大寺の再建を成し遂げたと伝えられております。
中でも有名なのは太閤秀吉の母大政所の病気平癒祈願で、その治癒を喜んだ秀吉は米一万石を寄進しております。
又、遠く甲斐の武田信玄も二十五歳の約利に際し、厄除けを祈願しております。
境内の枝垂れ桜、紅葉も見事で、年間を通じ約百七十万人の参拝者を数え、毎日、延命長寿、縁結び、厄除け、交通安全などのご祈願も奉修しております。

<参考資料> 胡宮神社の由緒
この地から約七百米のところにあり、ご祭神は伊邪那岐命、伊邪那美命、事勝国勝長狭(ことかつくにかつながさの)命。
古くから多賀大社の奥宮といわれているが、鎮座地の敏満寺は中世、敏満寺という寺を中心に仏教文化が栄えたところで、百を越える僧坊(戦国の兵火で焼失)が建ち並び、胡宮神社はその鎮守でした。
延命長寿の神様として崇敬され、本殿は県の重要文化財、その社宝、銅製五輪塔は国の重要文化財であります。

<参考資料> 大滝神社の由緒
この地から南南東五キロ米のところにあり、ご祭神は高龗(※環境依存文字)神(たかおかみのかみ)、闇靇(※)神(くらおかみのかみ)。水を司る神様で、犬上川の清流が奇岩怪岩の間から流れ落ちる滝のほとりに鎮座しています。
農業用水の要の位置に鎮座され、農家の守護神として古くから犬上郡一帯の篤い崇敬を受けています。
尚、胡宮神社と大滝神社は共に紅葉の名所として知られ、多賀町観光協会では、ここに多賀大社を加え、この三社を巡るコースを多賀三社参りと称し、皆様におすすめしております。
(以上、境内・駐車場にある案内板から)





ランキングに参加しました。
Click >>> にほんブログ村 長野情報
Click >>> 人気ブログランキングへ
管理人ホームページ Click >>> 日本列島夢紀行 信州からあなたへ

拍手[0回]


1972_パナマ運河(パナマ共和国)

パナマ運河( Wikipedia )は、パナマ共和国にある運河(地図)で、太平洋と大西洋(カリブ海)を最短で結ぶ交通の要所として有名ですが、そのパナマ運河が15日に開通100年を迎え、現地で式典が開催されたということです。

写真は父親がパナマ運河を通過した時に記念に撮影したもの。
プリントの日付から1972年(昭和47年)頃の風景と思われます。





ランキングに参加しました。
Click >>> にほんブログ村 長野情報
Click >>> 人気ブログランキングへ
管理人ホームページ Click >>> 日本列島夢紀行 信州からあなたへ

拍手[0回]


140815_0000_開業200日前 北陸新幹線飯山駅プロジェクションマッピング(飯山市)

北陸新幹線の開業を来春に控えた飯山駅で15日夜、映写機器を使って新駅舎に立体映像を映し出すプロジェクションマッピングのイベントが行われました。
約10分ほどの上映には、飯山の菜の花のほか、周辺地域の夏や冬の風景が音楽とともに映し出され、普段とは異なる駅舎の姿に手にしたカメラを向ける人たちで賑わいました。
(写真:北陸新幹線飯山駅で行われたプロジェクションマッピング=15日夜撮影、640×480拡大可能)


ランキングに参加しました。
Click >>> にほんブログ村 長野情報
Click >>> 人気ブログランキングへ
管理人ホームページ Click >>> 日本列島夢紀行 信州からあなたへ

拍手[2回]



木曽郡大桑村と上伊那郡飯島町にまたがる中央アルプス・仙涯嶺( Wikipedia )で登山道の崩落があり、現在、通行禁止とのこと(大桑観光協会)です。

<参考HP>
・ おおくわナビ(大桑観光協会)
  http://www.vill.ookuwa.nagano.jp/kankou/


ランキングに参加しました。
Click >>> にほんブログ村 長野情報
Click >>> 人気ブログランキングへ
管理人ホームページ Click >>> 日本列島夢紀行 信州からあなたへ

拍手[0回]

忍者ブログ [PR]結婚仲介 アルバイト
Template by wolke4/Photo by 0501
カレンダー
07 2014/08 09
S M T W T F S
1
4 5 6 7 8 9
11 12
19 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31
ガソリン価格情報 gogo.gs

gogo.gs
ブログ内検索
ブログランキング投票
- ランキングに参加中 -
ポチっとクリック!

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 地域生活(都道府県)ブログ 長野情報へ
プロフィール
HN:
管理人ひろさく
性別:
男性
趣味:
里山めぐり
自己紹介:
長野県長野市在住。
カテゴリー
最新コメント
[08/16 タッキー]
[08/16 タッキー]
[08/15 管理人ひろさく]
[08/15 管理人ひろさく]
[08/15 たっきー]
カウンター
BlogRanking
現在の訪問者数
現在の訪問者数をカウント中
アクセス解析
忍者アナライズ