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141219_0730_須坂ライブカメラ(須坂市)

19日は全国的に寒さが厳しく、長野県では南佐久郡南牧村の野辺山で氷点下20.8度、北佐久郡立科町と木曽郡木曽町の開田高原で氷点下15.6度と今季の最低気温を記録しました。
長野市では午前7時過ぎに氷点下6.1度を記録。市内幹線道路では、凍結によるスリップ事故で渋滞が発生し、通勤通学の足に影響がでました。
 
管理人は渋滞を避けるため、朝6時過ぎに自宅を出発。
最低気温を記録した午前7時頃は、鼻をすすりながら、塩カル播きをしていました。
ホントに寒い朝でした。
(写真:須坂市内のライブカメラから長野市方向を撮影した画像=19日午前7時30分撮影、320×240)


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130914_0729_JR東海道新幹線岐阜羽島駅(岐阜県)

京都・奈良・大阪方面へのお出かけに、長野県民(特に北信地域の在住者)が使う交通手段といえば、長野駅から中央線を走る特急「しなの」に乗り、名古屋で新幹線に乗り換える方法が一般的。
ところが伊那谷(南信地域)に住む人たちは、名古屋までであれば頻繁に運行される高速バスを、それより以西(いせい)であれば、場合によってはJR東海道新幹線 岐阜羽島駅(地図)まで自家用車を運転して出かけるよ、と聞き、もうびっくり。
  
会社の同僚に、なぜ岐阜羽島なの?と聞くと…
(1)京都や奈良、大阪まで車で行くにはちょいと遠いし渋滞が心配
   ※午前7時に到着できれば始発の「こだま」に乗車が可能
(2)名神道・岐阜羽島ICから近く、低価格の大きな駐車場が多数ある
   ※岐阜羽島駅は中京地域におけるパークアンドライド( Wikipedia )の拠点
(3)多人数であれば高速道路を使っても費用面において節約が可能
以上(1)~(3)が岐阜羽島駅を利用する理由とのこと。
   
ひろさくさんも一度使ってみたら…ということで早速今回の京都の旅でチャレンジ。
先ずは伊那の仮住まいを午前5時に出発。中央道恵那峡SAで休憩しながら、のんびり小牧JCTを東名・名神へ。渋滞が心配された一宮JCTもゆるゆる通過し、新幹線と並走する木曽川橋((愛知・岐阜県境)を渡るとやがて岐阜羽島IC。岐阜羽島駅南口への到着は、伊那の仮住まいを出発して2時間後の午前7時のことでした。
岐阜羽島駅前はウワサどおりに、それはそれは多くの貸駐車場があり、料金もさまざま。ぐるっと周辺をまわってみましたが、概ね1日(24時間)300円~400円というのが平均的な値段で、長野市内にある駐車場などと比較すると、まさに雲泥の差、激安という言葉がぴったりの印象を受けたのでありました。
岐阜羽島から京都までは、各駅停車の「こだま」で約40分。
始発ということもあり、席に座ってゆっくりと京都までの列車の旅を楽しみました。
  
開通する北陸新幹線。
長野駅周辺にも駐車場は多数ありますが、地価も高いのでなかなか料金を引き下げることは難しいかもしれません。飯山駅周辺の土地事情や、潜在的な需要がどれほどあるのかわかりませんが、高速道路のIC(豊田飯山IC)から近いという条件は岐阜羽島駅とよく似ており、ある程度の遊休地が確保できるのであれば、こうした利用方法も検討する価値はあるのかも…しれません。
(写真:JR東海道新幹線岐阜羽島駅=平成25年9月15日撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 株式会社スペース24
  (今回利用した駐車場の運営会社)
  http://www.space24.co.jp





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000813_0000_虫倉山山頂(旧上水内郡中条村・現長野市)

11月22日午後10時8分に北安曇郡白馬村で発生した神城断層地震については、その後も各地で被害状況が報告されていますが、10日、長野市中条と鬼無里との境にある信州百名山として人気のある虫倉山(地図)でも、山頂部分が崩落するなどの被害があることがわかりました。 
写真は、管理人が平成12年8月に登った際に撮影したものです。写真にある標柱(虫倉山 1378m)は別の場所に移動され新たに石柱が建てられていましたが、今回の地震により、その石柱と近くにあった三角点を含む、双眼鏡の東側(写真では左側)部分の大半が崩落したということです。
現在、虫倉山への登山は当面の間禁止されていますのでご注意ください。
(写真:虫倉山山頂=平成12年8月13日撮影、640×480拡大可能)
 
<参考HP>
・ 長野市ホームページ
  虫倉山の被害状況( PDF
・ ヒロちゃんのブログ
  長野県北部地震に伴う虫倉山崩落調査
  http://ameblo.jp/yamajin-28/entry-11958334252.html





信州百名山 虫倉山登山
不動滝コース
(平成12年8月13日)
000813_0001_虫倉山登山道入口(旧上水内郡中条村・現長野市) 000813_0002_虫倉山不動滝(旧上水内郡中条村・現長野市)
登山道入口 不動滝
000813_0003_虫倉山登山道 金倉坂(旧上水内郡中条村・現長野市) 000813_0004_虫倉山登山道(旧上水内郡中条村・現長野市)
金倉坂 分岐
000813_0005_虫倉山登山道(旧上水内郡中条村・現長野市) 000813_0006_虫倉山登山道 山頂直下(旧上水内郡中条村・現長野市)
登山道 山頂直下
000813_0007_虫倉山山頂(旧上水内郡中条村・現長野市) 000813_0008_虫倉山 山頂にある三角点(旧上水内郡中条村・現長野市)
虫倉山山頂 山頂の三角点

<参考資料> 虫倉山登山記
虫倉山は、上水内郡小川村・※中条村・※鬼無里村(※何れも登山当時の村名・以下同じ)に跨る標高1378mの山で、長野市と北安曇郡白馬村を結ぶ「オリンピック道路(県道長野白馬線)」からも望むことができる。6本ある登山道のうち5本は中条村に登山口が設けられており、毎年5月3日に行われる開山式には、県内外から400人近い登山者が、「星のきらめく公園」近くの不動滝コースを使って記念登頂を果たしている。
虫倉山の登山口は、村の最も北側を走る県道401号線(小川長野線)沿いに設けられている。長野方面からは、鬼無里村に続く国道406号線の「地蔵平入口」交差点を左に折れ、県道を経由するか、国道19号線の長野市信更町安庭地籍から県道白馬長野道路(オリンピック道路)に入ろ中条村を抜けるか、国道19号線の「笹平北」交差点でバイパストンネルに入らず、笹平地籍を経て県道31号線(長野大町線・旧道)・県道452号線(古屋敷境ノ沢線)を経て県道 401号線に入ることとなる。どのルートを辿っても、県道401号線には出なくてはならず、どれも道路幅が狭いので運転には十分注意が必要。
登山口は、中条村内に5本あり、先輩諸氏の話では、何れも独特な持ち味があるという。一般的なものとしては、梅木鉱泉に近い「岩井堂ルート」、子育ての神様として信仰を集める虫倉神社からの「さるすべりルート」、星のきらめく公園に行く途中の不動滝から登る「不動滝ルート」がよく利用されている。「さるすべりルート」は尾根伝いに急登が続き、最短ルートではあるが難儀とのことなので、ここでは、ファミリー向けの登山道として使われる「不動滝ルート」を中心に紹介する。
「不動滝コース」からの所要時間は、およそ一時間半。稜線までは若干の急坂があるものの、以降は比較的なだらかで、それほど難儀なコースではない。途中には東屋もある。
登山口は、昔の水車小屋を再現した「太田の水車小屋」の西側にある三差路を山側に進む。幅約1.5車線ほどの舗装道路を進むと駐車場。約3~4台の駐車ができ、転回も可能だ。ただ、この道は土砂崩落に伴なう工事が時々行われているようなので、通行の可否を確認しておいたほうがよいだろう。
登山口に車を停め、脇から続く砂利道を進む。ほどなく、不動滝が左に現れ、眩しいほどの緑のなかで清涼な音を立てている。登山道は、滝の上流を沢沿いに進んだ後、これを渡って稜線に向かうこととなる。
しばらく歩くと正式な登山口がある。入口には、登山計画書に代えて、登山者の名前・住所・連絡先・入山時刻・下山時刻・感想を自由に書き込めるノートが置かれている。しかし、最近は慣れや面倒と言った理由で「登山計画書」を提出しない登山者が多いという。山の大小を問わず、自分の所在を明らかにしておくことは重要なのことかと思うが、如何なのものだろうか。
ノートには、県内外から訪れた登山者らが、思い思いの言葉を書き綴っていた。「信州百名山」制覇を目指す単独者や、夫婦や子連れで山登りを楽しむファミリー、会社の登山同好会など、年齢層も幅広く、虫倉山が誰からも親しまれていることがわかる。
ところが、ぱらぱらと捲るうちに、やや心配な記述があらわれた。それは、おととい(8月11日 )山頂まで行った登山者が残したもので、「山頂直下に熊発見!登山者の方はご注意を!」と記されていたのだ。その後、このコースから登った人はいなかったようで、ノートにはその後の記述がなかった。山菜取りが好きな叔父は、よくザックに熊除けと称して「爆竹」を忍ばせていたが、そのようなものなど当然持ち合わせていないし、しかも単独行、さてどうするか迷ってしまった。ザックをかき回すと、偶々お守りに付いている小さな鈴が二つでてきた。どの程度の効果があるのかわからないが、熊除けには「鈴」を鳴らしながら行くと良い、という話をたびたび聞く。これをザックに取り付けると、ほどよく「チリン、チリン」と音を立てた。「こんなんでいいのかな?」などと、少々不安ではあったが、他に方法が無かったので、この音だけを頼りに登ってみることとした。 
辺りを警戒しつつ、ゆっくり沢沿いの道を進む。そこそこに整備はされているが、沢を渡る手前の一ヶ所のみ、崩落(雨で登山道が流されてしまった)場所があった。それほど危険といったものではないが、少々足場が悪いので注意したほうがよいだろう。
沢を渡ると、幾分急坂が続く。いかにも「熊」が現れそうな笹薮の中のジグザグを淡々と登るわけだが、早くこの場を離脱したいことばかり考えているせいか、いつもよりペースが速いように感じる。「ぜえぜえ」いいながら30分ほどで「金倉坂」に到着。大小の石が上部からごろごろと転がりだして堆積しているだけのものなのだが、コース中ここだけに見られる面白い現象だ。「金倉坂」と名を付けたことには、どんな意味があるのだろう。
「金倉坂」を過ぎ、幾度かジグザグを繰り返すと、「天神城コース」との分岐となる。このコースは、信濃三十三番札所の第三十一番目、乳出し観音の伝説が伝わる「廣福寺」が登山口となるもので、途中、柏鉢城跡を経由してここに至っている。利用する登山者もあるようだが、道の状況からすると、「不動滝コース」からのもののほうが明らかに踏み固められている様であった。
「天神城コース」との分岐を過ぎると、次ぎの分岐までは傾斜も緩やかになり、息が切れることも無くなる…、はずだったが、ここで思わぬ「落し物」を発見してしまう。それは、人間さまと変わらぬ大きな糞が、登山道の中央に落ちていたのである。それも、ハエが止まっているというのだから、かなり鮮度の高そうな「ブツ」。「熊の話はほんとうかもしれない…」。そう考えたら、やはり恐くなって、再びここでペースを上げ、「ぜえぜえ」いいながら笹薮を抜けることとなった。(写真を撮っておけばよかった、と今になって思うのだが、なにしろこの場を離脱することばかり考えていたので、残念ながらお見せできる資料はない)
次の分岐は、小川村日本記からの登山道と山頂へ続く道との三差路。「不動滝」からは、ここを直角に曲がり、右側の稜線を歩くことになる。少々急坂ではあるが、ほどなく東屋に到着するのでがんばりたい。ここでようやく展望が開け、眼下には県道白馬長野道路(オリンピック道路)に沿って中条村、小川村、美麻村、その右側には雄大な北アルプスの山並みを望むことができるようになる。
ここから山頂までは、稜線沿いを歩くことになる。多少のアップダウンがあるものの、ゆっくり歩けばそれほど気になるものではない。ただし、両側は崖になっているので注意すること。
しばらく歩くと「シラカンバ」の木があった。公園の街路樹としておなじみの「白樺」のことだが、山登りをしていて出会うのは、親戚の「ダケカンバ」の方が多いらしい。いずれにせよ、「シラカンバ」がここにあっても別に珍しいことではないわけだが、たまたまこの日は、仏(ほとけ)様をお迎えする「お盆の入り」。各家庭では、玄関前(お墓)で「シラカンバ」の樹皮(カンバ)を炊いて亡くなった親族をお迎えすることになっている。ところが、この時期になると、何処かから訪れた業者が勝手に林に入り込み、この「シラカンバ」の樹皮を剥いでいくのだという。販売価格などしれたものだが、アルバイト気分ででもやっているのだろう。仏(ほとけ)様をお迎えするものが「盗品」だった…、と知ったら購買者もなんだか心苦しい。
などなど、考えながら歩くと、やがて登山道の中央に大きな切り株。「おっと危ない!」と思いながら坂を上がると、いきなり頂上にでる。(大きな切り株があったら山頂も近い、と覚えておこう)
山頂は南斜面にいくらかの余裕があり、その向こうは崖(さるすべりコース)。そのためか、立ち木がないので眺望は抜群だ。ただ、ひとりだけだとかなり広く感じる山頂も、多人数ならちょっと狭いかも…。「400人近い登山者が訪れる開山祭の時などは、ゆっくり昼食を取るところまではいかないだろうな」と要らぬ心配をしながら、とりあえずお決まりの写真撮影を始める。この日はあいにくの曇り空で、爺ヶ岳や鹿島槍ヶ岳などの北アルプスは望めなかったが、南から東(長野市方面)にかけてはそこそこの眺望が得られた。
 虫倉山から続く山襞が途切れたところに土尻川、その向こうに中条村の町並みが点在しているのがわかる。左右に横切る白い線は「長野白馬オリンピック道路」だ。この道路沿いにある「道の駅 パークライン中条」の建物も肉眼で確認できるので、これを目印にお目当ての景色を楽しんでみよう。
山頂には、標高1378mを示す標示柱、その向こうにはお決まりの方位盤があるが、変わったところでは、望遠鏡メーカーからの寄付という説のある「望遠鏡」が備えつけられていた。何故かレンズにキャップがはめられており片方側しか覗くことができなかったが、「パークライン中条」に出入りする車がはっきり確認できるほどの精度。ぜひお試しあれ。
山頂では「不動滝コース」以外からの登山道すべてが一堂に会する。つまり、来たルートを戻るもよし、登ってきたルートとは別のルートを辿るもよし、楽しみかたに尽きるところはない。
なかでもベテランの方々が好んで利用するのが、すでに「虫倉山へのアクセス」の欄で紹介した「さるすべりコース」だ。麓の虫倉神社脇から続くこの登山道は、ナイフの刃先を辿るかのように切り立った崖上を頂上に向けて一気に登るもの。虫倉山への最短コースとして知られている。「お~っ」と思わず声が出てしまうほどの急な坂が、林の中に続いているのがわかる。もし興味があるようならチャレンジしてほしい。(保証しないけど…)

最後に余談ではあるが、管理人がこの山の存在を知ったのは、長野市内の土砂崩落について調べている中で、資料として提供された「むしくら日記」からだった。これは、御開帳で賑わう善光寺を襲った「善光寺大地震」(弘化4年)について記したもので、長野市周辺や上水内郡内の被害状況を松代藩がまとめたものだ。
なかでも、西山地区の被害は甚大だったらしく記述も多い。とりわけ長野市信更町と上水内郡信州新町(※現長野市信州新町)との境で起きた虚空蔵山の崩落については、堰き止められた犀川が地震発生から数日後に決壊し、怒涛の如く川中島平を襲った報告については、決壊に至るまでの経過がことこまかく記しており、今日の治水工事や災害防止等の対策においても参考となる貴重な資料として扱われている。隣村にあたる中条村でも地震による土砂流失があり、その痕跡は現在も所々に見られるという。
このようなことから、松代藩がまとめた報告書に「むしくら」という名称が使われたのは、おそらくこの辺りの被害が他地域に比べ際立っていたからと推測される。「虫倉山」の歴史は、「信州百名山」として知られる以前から注目されていた山なのである。 
(掲載の画像は「 MINOLTA Dimage V 」35万画素デジタルカメラで撮影しました)

 
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111123_1459_豊川稲荷(愛知県豊川市)

豊川稲荷( Wikipedia )は愛知県豊川市(地図)にある日本三大稲荷のひとつ。
室町時代前期の嘉吉元年(1441)、永平寺開山の道元禅師の法嗣である寒巌義尹禅師( Wikipedia )から六代目の法孫、東海義易禅師により、曹洞宗の寺として開創され、今川義元・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康などの戦国大名のほか、江戸時代には名奉行で知られる大岡忠相、渡辺崋山などの信仰を集めてきました。
「稲荷」と呼ばれるため神社と思われがちですが、実は円福山 豊川閣 妙厳寺という曹洞宗の寺院であり、お祀りされている「豊川吨枳尼眞天(とよかわだきにしんてん)」が稲穂を荷(にな)い、白い狐に跨っていることから「稲荷」と呼ばれるようになったようです。
(写真:豊川稲荷・大本殿=平成23年11月23日午後撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 豊川稲荷公式ホームページ
  http://toyokawainari.jp/
・ 豊川市観光協会
  http://www.toyokawa-map.net/

<参考資料> 総門
この総門は当寺の創立から二百十四年後の明暦二年(一六五六年)に一度改築された。
現在の門は明治十七年(一八八四年)四月十八日当寺第二十九世黙堂(もくどう)禅師によって上棟改築されたものである。
門扉及び両袖の扉は一千有余年の樹齢を重ねた高さ四、五メートル・巾一、八メートル・厚さ十五センチの欅の一枚板で欅独特の如鱗(うろこ)のような木目は類い稀な木材として専門家に知られている。
屋根は銅板鱗葺きで又諸処に使用されている唐金手彫の金具は優れた技法を示している。
頭上に祀られている十六羅漢は名匠で諏訪ノ和四郎その他名工の合作といわれ参詣の諸人はこの仏様に見守れながら、この門をくぐるのである。

<参考資料> 法堂 通称 本堂
111123_1509_豊川稲荷・豊川稲荷秋季大祭(愛知県豊川市)
豊川稲荷秋季大祭
11月22日と23日に開催
「提灯祭り」とも呼ばれる
今から五百五十年前東海義易禅師によって創立されて円福山妙巌寺(えんぷくさんみょうごんじ)の中心を占める建物で寒巌禅師が自ら刻まれた千手、千眼観世音菩薩の尊像を本尊仏として奉祀している。
建物は総桧二重屋根瓦葺で重厚な外観を示す。
内部は禅宗寺院特有の簡素な構造で朝、昼、晩の勤行、仏事、法要、説教が随時行われる。
内部正面には浄聖台(じょうしょうだい)の額が、外部正面には大本山総持寺独住第一世奕堂(えきとう)禅師が揮毫した「妙巌禅寺」の扁額が掲げられている。
現在の建物は、天保時代二十四世の住職によって新築されたものである。
この建物に続いて開山堂があり宗祖道元禅師をはじめ、寒巌禅師、当寺の開祖、東海義易禅師、歴代住職、諸大和尚の尊像霊牌並びに開基の(今川義元公)位牌がお祀りされている。
尚釋尊のご分骨を奉安した舎利塔は国宝級の宝物で毎年十二月初旬舎利供養が営まれている。

<参考資料> 豊川いなり大本殿
寒巌義尹(かんがんぎいん)禅師がご感得、ご自作の端巌妙相をそなえられる豊川吨枳尼眞天通称「豊川いなり」のご本体が祀られており、全国幾千万のご信者の信仰の中心でありご祈祷の根本道場である。
御真言は「オン シラバッタ ニリウン ソワカ」と申しご参詣の人々は、このご眞言を唱えて拝礼しご加護を受けられたい。
当時二十九、三十、三十一世の三代にわたる大本殿新築の大願は明治、大正、昭和の三世代に跨って信者の信心を凝集して昭和五年春竣工し落慶大開帳が行われた。
建物は総欅造、妻入二重屋根三方向拝の型をとり間口十間七分五厘(十九、三五メートル)高さ百二尺(三十、六メートル)奥行二十一間四分三厘(三十八、五九メートル)丸柱直径八寸(二十四センチ)のもの、直径三尺(九十センチ)のもの計七十二本が使われ内部は内陣般若殿、施主殿に区画され内陣は本尊「豊川吨枳尼眞天」が奉祀してありその厨子は、諏訪ノ和四郎の作で尾根の瓦に至るまで朱漆塗りで精巧に彫刻を配し稀に見る巧緻精麗(こうちせいれい)な出来栄えは拝観者の讃嘆するところである。
更に両脇祭壇には伏見宮家より贈られた毘沙門天、有栖川宮家から贈られた聖観世音菩薩、その他貴重な諸仏、諸菩薩の像及び諸仏具等が安置されている。
明治時代に至り有栖川宮家より「豊川閣」の大額が下賜され大本殿内に掲揚されている。
当時を「豊川閣」と呼ぶのは、この因縁によるものである。
(豊川稲荷境内に設置されている案内板から)





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111123_1258_華蔵寺(愛知県西尾市吉良町) 111123_1250_華蔵寺(愛知県西尾市吉良町)
臨済宗 片岡山 華蔵寺
111123_1252_華蔵寺(愛知県西尾市吉良町) 111123_1245_華蔵寺(愛知県西尾市吉良町)
吉良家墓所 吉良義央の墓(右)
111123_1314_星野勘左衛門碑(愛知県西尾市吉良町) 111123_1323_清水一学の墓(愛知県西尾市吉良町)
星野勘左衛門生誕地 剣客・清水一学の墓

元禄15年12月14日(1703年1月30日)深夜、大石良雄以下赤穂浪士47名が江戸本所の吉良屋敷に討ち入り、主君浅野長矩(内匠頭)の仇を討ったことで知られる元禄赤穂事件( Wikipedia )。
討たれた高家旗本・吉良上野介義央が所領として治めていたのが、現在の愛知県西尾市吉良町(三河国幡豆郡)。歌舞伎や浄瑠璃などの題材として知られる「仮名手本忠臣蔵」では「悪役」として演じられることが多い義央ですが、「黄金堤」( Wikipedia )の築堤や、領内を赤馬に乗って視察を行ったことに因む「赤馬」と呼ばれる郷土玩具が今も地元に残るなど、一般的な評価と異なり、「名君」として多くの人たちに慕われていることは事実のようです。
吉良家菩提寺である臨済宗 片岡山 華蔵寺(地図)には、吉良義安(三河吉良家13代)から、元禄赤穂事件により改易され、幽閉先の信州諏訪・高島城で若くして亡くなった吉良義周(吉良家18代)までの墓があり、墓前に花が手向けられているのも、吉良家を慕う人たちの想いによるものなのかもしれません。
近くには、元禄赤穂事件において奮戦空しく討たれた剣客・清水一学( Wikipedia )の墓があり、吉良町の集落を望む高台から、町の人たちの生活を見守っています。
(写真:愛知県西尾市吉良町にある臨済宗 片岡山 華蔵寺ほか=平成23年11月23日撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 西尾市観光協会
  http://www.240kanko.com/
・ 銘菓・御菓子所 東角園
  http://www.toukakuen.jp/

<参考資料> 臨済宗 片岡山 華蔵寺
慶長五年(一六〇〇)吉良義定公、妙心寺の高僧月船禅師を請じて、吉良家菩提寺として華蔵寺を開基する。当寺吉良家一三代から一八代(※義安から義央の継嗣義周)までの墓を護る。
吉良氏は源家嫡流足利氏の名門で、鎌倉初期に足利義氏が三河守護になり吉良荘(現在の西尾市一帯)に住み、吉良を称した。
室町時代には有力大名の一として、常に室町幕府を支えた。江戸時代には旗本高家に列し、その筆頭として栄えたが、不幸な元禄事件により断絶した。
当寺には県指定の文化財を数多く伝えている。吉良上野介義央公自らの彩色といわれる木像(※愛知県指定文化財)をはじめ、江戸期南画の第一人者とされる池大雅の作品群、吉良家寄進の品等、その代表的なものである。
また、本堂裏の枯山水は、小堀遠州流といわれ、古来から有名である。
(西尾市教育委員会設置の案内板から)

<参考資料> 星野勘左衛門
弓の名手として有名な星野勘左衛門( Wikipedia )は、ここ宮迫で生まれ、尾張藩に仕えた。寛文二年(一六六二)五月一日に、京都三十三間堂の通し矢を試み、八千本の新記録をつくって「総一」(第一の者)を称され、弓道の達人として有名になった。この記録は貞享三年(一六八六)四月六日まで二十四年間も破られなかった。
勘左衛門は元禄九年(一六九六)五月六日に五十五歳で亡くなった。住居跡は現在の愛知県芸術文化センターの南側にあり、標柱が建てられている。
(西尾市教育委員会設置の案内板から)

<参考資料>
吉良の五本松
西尾市指定天然記念物 吉良の五本松
地図
昭和三十九年十二月一日指定
根回り四.〇~四.五m 樹高約三〇m
現在は二本が残るのみ。伐採時に年輪を調べたところ樹齢四三〇年以上と判明。
※吉良町宮迫の円融寺前
 
西尾市指定天然記念物 円融寺の大梛
昭和四十九年二月二十二日指定
目通り二m 根回り二.五m 樹高約十五m
県内でも特に大きな梛(なぎ)とされる。幹は垂直に伸び、下部の枝は取り除かれている。

<参考資料> 史跡 清水一学の墓
一学はここ宮迫の百姓の生れで、幼名を藤作といった。少年のころから剣術を好み、岡山の陣屋へ通った。
義央公(吉良上野介)は、藤作に目をかけ、十五歳で江戸に呼び寄せ、やがて中小姓にとりたてた。赤穂浪士襲撃の夜一学は奮戦して討死、行年二十五歳であった。
遺骨は江戸万昌院に葬られ、円融寺(地図)に分骨した。時の円光上人は一学の法名端翁元的を改め、義央公の法名にちなんで実相院宗禅信士として、ここに葬った。
一学は、一角 逸学 逸覚とも書かれ仮名手本忠臣蔵では鷺坂伴内(さぎさかばんない)の名で知られている。
(西尾市教育委員会設置の案内板から)





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600726_地附山地滑り災害(長野市)

長野市の北西に位置する地附山(じづきやま)で、昭和60年(1985)7月26日午後5時ごろ、大規模な地滑り( Wikipedia )が発生しました。
地滑り災害は、梅雨明けの長雨の後、災害が発生するおよそ1週間前から、戸隠バードラインに亀裂や小崩落が起こり、監視体制が続くなかで発生しました。
地滑りによる土砂は、湯谷団地や南東斜面にあった特別養護老人ホーム「松寿荘」(地図)へ流入し、押し潰された建物の下に残された26名の入居者が死亡しました。
現在、災害現場は「防災メモリアル地附山公園」として整備され、平成16年(2004)に開園しました。
(写真:長野市地附山地すべり災害=昭和60年7月26日午後5時頃・城山公園から撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 地附山の地すべり災害とは (長野県)
  http://www.pref.nagano.lg.jp/choken/saigai/bosai/jidukiyama/jisuberi.html
・ 長野県の地学
  http://www2.ueda.ne.jp/~moa/

<参考資料> 地附山の地すべり災害
昭和60年(1985年)7月26日、午後5時ごろ、ここ地附山(じづきやま)で「地すべり」が発生しました。地すべりは長さ700m、幅500m、深さ60mにもおよぶ山の斜面がすべり落ちるという大規模なものでした。動き始めた斜面は、巨大な土砂のかたまりとなって、直下の湯谷団地や特別養護老人ホーム「松寿荘(しょうじゅそう)」に押し寄せました。そして、64棟の建物を押しつぶし、4人にけがをさせ、26人の命をうばいました。
災害のあと、長野県は、すぐに応急対策をするとともに、二度と災害が起こらないように、さまざまな地すべり対策を行いました。また、市民のみなさんとともに植樹を行って、地附山を緑にする努力も続けられています。
この公園では、昭和60年の災害をふりかえり、地すべり対策について学ぶことができます。地附山を歩きながら、どのようにしたら土砂災害から命を守ることができるが学習してみましょう。

The large-scale landslide occurred on the southeast slope of Mt.Jizuki on July 26,1985. The sliding mass flowed on to the Yuya apartment block and Syojusou sanatorium.26 precious lives were lost and 64 homes were totally or partly destroyed. (略)

<参考資料> 地すべりとは
地すべりとは、大量の雨が地中にある粘土層などの水を通しにくい地層までしみこみ、その影響で、上の地面が動き出す現象です。
地附山の地下にも粘土層があり、雨は地面にしみこんでいってその上で止まり、水が集ってしまいます。そして、大雨で地下の水かさが上がると、上にのっている地面が押し上げられ、重力にさからえずにすべり落ちるのです。
昭和60年に起きた地すべりも、「大雨」と「地附山の地層・地質」が大きな原因となって発生しました。
(長野県土木部砂防課・長野県長野建設事務所が設置した案内板から)





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121125_1150_神戸の大イチョウ(飯山市)
神戸の大イチョウ (平成24年11月25日)

飯山市瑞穂にある県天然記念物の神戸の大イチョウ(地図)の様子。
お出かけの参考にご覧ください。
(平成25年度定点観測は → こちら

<管理人ひとこと>
11月2日
昨年と比較すると、およそ1週間程度早く葉の色が変わり始めているようです。
11月9日
現場でも随分早く色付いたなぁ…と感じましたが、こうして昨年と比較してみると、その違いは歴然。少なくとも2週間程度、早めに色付きが進んでいる様子がわかります。
昨年は大変な大雪に見舞われました。しかし、落葉の早さは概ね例年並みでした。
間違いなく今月中に落葉しそうな今年の大イチョウ。
この冬はどうなるのでしょうか…。
11月16日
141116_1230_神戸の大イチョウ(飯山市)
イベントの案内
新聞に、北海道では降雪とともに一気にイチョウの落葉が見られた…という記事がありましたが、神戸の大イチョウも気候が変われば瞬く間に落葉してしまうような状況になっています。昨年と比較すると、やはり1週間は早めの色付きになっており、その翌週には完全に落葉。現在の色付きから考えると、今週中に落葉してしまってもおかしくないような状況かもしれません。
案内によれば、11月22日・23日・24日の午後5時から10時までライトアップイベントを行う予定とのこと。どうにか持ちこたえてくれれば良いのですが…。
11月22日
長野市内でも早朝は氷点下になる日々が続き、さすがの大イチョウも葉を落としたかな…と思っていたのですが、どうにかこうにか残っていました。「イチョウの葉が一度に落ちた年は大雪になる」といういい伝えがここにはありますが、今日の様子を見る限り、今冬は大雪にならないのかもしれませんね(わかりませんが…)。
11月30日
定点観測も今日が最終日…と思いながら現地に向かうと、あれあれ、まだイチョウの木の先には葉っぱがちらほらあるではありませんか。いつもならバサバサ落ちて、枯れ木状態であるのに、今年は最後のところで踏ん張るほどの粘り。むむむ、そこでこの様子を地元の方々に聞いてみると、どうやら話題になっているらしく、口々に「今冬は雪が少ないかもしれないね」とのご回答でした。

そこで!気象予報士でもない管理人が大胆にも今冬の雪予想を。
それは…

今冬は冬の訪れこそ早かったものの、雪は少ない

ハズレたらごめんなさい。
大雪になったら困るので、来週も定点観測を続行します。
 
定点観測~神戸の大イチョウ (飯山市)
141025_1123_神戸の大イチョウ(飯山市)
平成26年10月25日
131104_1056_神戸の大イチョウ(飯山市) 141102_1209_神戸の大イチョウ(飯山市)
平成25年11月4日 平成26年11月2日
131110_1145_神戸の大イチョウ(飯山市) 141109_1134_神戸の大イチョウ(飯山市)
平成25年11月10日 平成26年11月9日
131116_1242_神戸の大イチョウ(飯山市) 141116_1225_神戸の大イチョウ(飯山市)
平成25年11月16日 平成26年11月16日
131124_1139_神戸の大イチョウ(飯山市) 141122_1308_神戸の大イチョウ(飯山市)
平成25年11月24日 平成26年11月22日
131130_1253_神戸の大イチョウ(飯山市) 141130_1211_神戸の大イチョウ(飯山市)
平成25年11月30日 平成26年11月30日
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<最終>定点観測


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新潟県糸魚川市・糸魚川世界ジオパーク



110504_1158_フォッサマグナパーク(新潟県糸魚川市)

新潟県糸魚川市にあるフォッサマグナ(大地溝帯)の西縁に存在する糸魚川-静岡構造線( Wikipedia )の断層面を見学できる野外施設(地図)。
フォッサマグナ( Fossa Magna )は、西縁を糸魚川-静岡構造線、東縁を新発田-小出構造線と柏崎-千葉構造線(現在の説)の、その間に存在する1600万年前に陥没してできた地溝のことです。日本列島をほぼ縦断するように存在し、北は新潟県糸魚川市~新発田市間、南を静岡県静岡市~千葉県千葉市間とする地域がその地溝帯とされています。したがって、長野県内はそのほとんどが、フォッサマグナと呼ばれる地溝帯に存在することになります。
地溝帯は200万年前から隆起が始まり、かつての海は山地・盆地・平野となりました。山々が連なる長野県の山間地で、海中生物の骨格や貝殻などが発掘されるのは、陥没した地溝帯が隆起するまでの間、海として存在していた名残りといえます。
(写真:新潟県糸魚川市にあるフォッサマグナパーク=平成23年5月4日撮影、640×480拡大可能)

<管理人ひとこと>
これまで「糸魚川-静岡構造線」と「フォッサマグナ」は 同じ ものだと思っていました emoji

<参考HP>
・ 糸魚川市ホームページ (新潟県糸魚川市)
  http://www.city.itoigawa.lg.jp/
・ 糸魚川世界ジオパーク (新潟県糸魚川市)
  http://geo-itoigawa.com/

・ 長野県の地学
  http://www2.ueda.ne.jp/~moa/
・ 戸隠地質化石博物館 (長野市)
  http://www.avis.ne.jp/~kaseki/
・ 信州新町美術館・有島生馬記念館・信州新町化石博物館 (長野市)
  http://www.ngn.janis.or.jp/~shinmachi-museum/
・ 中央構造線博物館 (下伊那郡大鹿村)
  http://www.osk.janis.or.jp/~mtl-muse/


<参考資料> フォッサマグナパーク
糸魚川市のジオパーク(野外博物館)の一つであるフォッサマグナパークでは、日本第二位の規模を持つ活断層「糸魚川-静岡構造線(糸静線)」と日本で最大級の規模を持つ「枕状溶岩」を見学することができます。
入口から糸静線の露頭までの間は、舞鶴帯の一部である約2億5000万年前の黒色頁岩と変はんれい岩が露出し、糸静線から先はフォッサマグナ地域で活動した約1600万~1400万年前の玄武岩~玄武安山岩が露出しています。遊歩道沿いには糸魚川の大地の歴史を紹介した解説板が設置されていますので、見学を通して糸魚川の地史を学習できるようになっています。見学に要する時間は約40~60分ほどです。
また、美山公園にある地質博物館フォッサマグナミュージアムも合わせてご見学ください。(ここから車で日本海方向へ15分)

110504_1157_フォッサマグナパーク・ナウマン博士のフォッサマグナ(新潟県糸魚川市)
ナウマン博士のフォッサマグナ
詳しい図は 糸魚川市ホームページ をご覧ください


ナウマン博士とフォッサマグナ
フォッサマグナはラテン語で、「大きな溝」という意味です。ドイツ人地質学者のナウマン博士によって、1886年に名づけられた上図(参考:ナウマン博士のフォッサマグナ)のような溝状の地質構造をさしています。
上図で、「新しい岩石」を取り除くと、「古い岩石」でできた大きなU字溝が現れます。この溝がフォッサマグナの名前の由来であり正体です。ナウマン博士は、フォッサマグナの西縁が糸魚川-静岡構造線、東縁は、直江津と平塚を結ぶ線と考えましたが、現在は、右図(略)のような範囲がフォッサマグナと考えられています。
 
現在のフォッサマグナ
フォッサマグナで行われた深度6000m級の石油ボーリング調査(黄丸印・略)によっても、フォッサマグナの底にある「古い岩石」に到達することができません。
このことは、フォッサマグナの深さが6000m以上であることを示しています。さらに、フォッサマグナの東西の「古い岩石」でできている越後山脈(※2000m)や北アルプス(※3000m)の標高を合わせると深さ8000m~9000mに及ぶ地質の凹地が日本列島の中央部に横たわっていることになります。

 ナウマンのフォッサマグナは修正され、上図(略)のようなフォッサマグナ(新潟大学理学部教授 植村 武(当時) 1988年提唱)が、現在、受け入れられています。すなわち、明瞭でなかった、ナウマンのフォッサマグナの東縁を新発田-小出構造線と柏崎-千葉構造線に求めました。こうすることで、溝状構造が明瞭になったのです。この場合、関東山地はフォッサマグナの範囲内に含められます。
しかし、問題も残ります。ナウマンはフォッサマグナを関東山地西側の火山列が南北方向に並ぶ地帯とし、伊豆-小笠原弧(こ)と本州弧(こ)の衝突によってできた裂け目と考えました。東縁は明瞭ではありませんが、ナウマンが主張したフォッサマグナも明らかに存在するのです。

フォッサマグナと日本海
日本列島は、上図(略)のように、日本海が広がることによってできたものです。フォッサマグナの溝は、日本海の発生期の落ち込み(2000年万年前)と同時にできたものと考えられています。
<2000万年前>
フォッサマグナの陥没、やがて日本海になる陥没帯ができる。
※案内によれば、当時の日本列島は朝鮮半島の北にあり、大規模なマグナの上昇の後に陥没した「フォッサマグナ」と呼ばれる溝とともに、ユーラシアプレートの移動に伴い大陸を離れ、徐々に太平洋側へ移動したようです。
<1600万年前>
陥没帯は拡大し、日本海ができる。フォッサマグナは拡大せずそのまま移動し、その海底に砂岩、泥岩、火山灰、溶岩などの「新しい岩石」がたまっていく。
※日本列島は更に移動し、現在の東は太平洋プレート、南はフィリピン海プレート付近まで移動。「フォッサマグナ」の溝はには海水が流入し、海底には「新しい岩石」が堆積しました。長野県内の山間地(長野市の戸隠・鬼無里・信州新町、松本市四賀など)から海中生物の骨や貝殻が発見されるのはこのためかもしれません。
<300万年前>
糸魚川-静岡構造線の一部が、プレート境界(※北アメリカプレートとユーラシアプレート)になる。日本列島が隆起し、フォッサマグナの岩石が削られていく。
※日本列島はやがて、東から太平洋プレート、西からユーラシアプレート、北から北アメリカプレート、南からフィリピンプレートの力の均衡が保てる位置まで移動。糸魚川-静岡構造線の一部が北アメリカプレートとユーラシアプレートの境界になったことで左右からの圧力により隆起し、現在のような姿となりました。

フォッサマグナの海のうつりかわり
<1600万年前>
フォッサマグナの地域が落ち込んで、海が進入してきました。フォッサマグナの大部分は、海になりました。
<1400万年前>
フォッサマグナの海の中央部が隆起して、北と南のフォッサマグナの海に分かれました。
<1200万年前>
フォッサマグナの北の海は、どんどん深くなり、水深3000mほどの海になりました。
<700万年前>
フォッサマグナの北の海は、あいかわらず深い海でしたが、陸地から運び込まれた土砂で浅くなっていきます。
<400万年前>
日本列島は、隆起しはじめ、フォッサマグナの海も土砂で埋め立てられながら、浅くなっていきます。
<200万年前>
日本列島は、どんどん隆起し、山地、盆地、平野の区別ができはじめていきます。
<現在>
現在の日本列島の完成です。完成と言っても、今も隆起はつづいています。この結果、陸上に姿を現したフォッサマグナの「新しい岩石」は、現在も削られつづけています。

110504_1157_フォッサマグナパーク・北部フォッサマグナの地震活動(新潟県糸魚川市)
北部フォッサマグナの地震活動
詳しい図は 糸魚川市ホームページ をご覧ください


フォッサマグナと地震帯
フォッサマグナに関係する地震帯は、(1)糸魚川-静岡構造線活断層帯、(2)信濃川地震帯、(3)関東地方の異常震動帯です。(1)は、糸魚川-静岡構造線の中央部が現在活動的なことを示し、(2)は、新発田-小出構造線と並行する断層が信濃川に沿う地下にかくされており、それが現在活動的なことを示しています。(3)は、関東地方では、柏崎-千葉構造線が地震の通り道(揺れやすい地帯)となっていることを示しています。

北部フォッサマグナの地震活動
フォッサマグナの地震活動を見ると、どこでも地震が起きているわけではなく、ある限られた地域に多いことがわかります。それらの地域は、現在の断層活動が活発な地域です。糸魚川-静岡構造線活断層帯では、マグネチュード(M)6以上(参考:北部フォッサマグナの地震活動にある黄色部分)の、信濃川地震帯では、M5以上(参考:北部フォッサマグナの地震活動にある緑色部分)の地震が起こっています。他に、高田平野、能登半島、飛騨地域も大きな地震が起きている地域であることがわかります。

日本列島周辺のプレート境界
人工衛星を使ったGPS観測によって、詳細な地盤の動きの変化がわかるようになり、現在の日本列島周辺のプレート境界のようすもよくわかるようになりました。糸魚川-静岡構造線の中央~南部は北アメリカプレートとユーラシアプレートの南のマイクロプレートの境界となっています。この部分は現在も活発な地震活動が起こっています。一方、ここフォッサマグナパークを含む糸魚川-静岡構造線の北部はプレート境界ではなく、断層の東西の岩盤はユーラシアプレートの一部として一緒になって東(1cm/年)へ動いています。

フォッサマグナの発見・命名者
エドムント・ナウマン ( WIkipedia
(1854-1902、ドイツ)
フォッサマグナを発見して命名したナウマンは、フォッサマグナの西縁を次のように述べました。
西縁は、静岡から富士川に沿って北上し、途中で北西に向きを変え、宮川に沿って諏訪湖に達する。松本で再び向きを北に変え、姫川の河口に至る、としています。しかし、この西縁の線には名前を与えませんでした。
フォッサマグナは、日本列島が太平洋側へ水平に移動して張り出したとき、七島山脈(伊豆-小笠原弧)と衝突してできた裂け目であると考えました。プレートテクトニクスが提出されたのは、1960年代後半ですから、ナウマンの日本列島の水平移動説は、それからさかのぼること80年ほど前になります。このことはナウマンの鋭い直感と深い洞察力を示しています。

糸魚川-静岡構造線の命名者
矢部長克 ( Wikipedia
(1878-1969、東北大学理学部所属)
糸魚川-静岡構造線(命名は構造線ではなく地溝線。以下、糸静線)を命名したのは、当時、東北大学理学部教授の矢部長克でした。それはナウマンがフォッサマグナを1885年の論文で提唱してから、33年後の1918(大正7)年のことでした。
矢部はじめ、多くの人たちによって調べられた糸静線の通過経路は以下のようです。糸魚川を起点にほぼ姫川に沿い南下、青木湖を通り、鳳凰山の東を通り、山梨県早川、静岡県安倍川に沿って静岡市に至ります。
矢部は、糸静線のほか、中央構造線、地層や古生物など幅広い分野で研究を行い、日本の地質学の発展に大きく貢献しました。1953(昭和28)年に地質学文やで初めて文化勲章を授与されています。
 
断層露頭
110504_1200_フォッサマグナパーク(新潟県糸魚川市)
断層露頭
左(西):西南日本
(ユーラシアプレート)

右(東):東北日本
(北アメリカプレート)
ここが、人工的に堀削して露出させた糸魚川-静岡構造線の断層露頭(ろとう)です。断層面は、ここでは東北東-西南西の走向で、垂直あるいは南南東に急傾斜しています。断層破砕帯(はさいたい)の幅は約1.5mです。
断層の右側(東側)は、安山岩(約1600万年前)であり、地質学的に東北日本に属し、フォッサマグナの構成岩石です。一方、左側(西側)は、変はんれい岩であり、2億6000万年前より古いことがわかっており、西南日本に属する岩石です。

断層破砕帯と断層運動
断層破砕帯とつくるのは、未固結な破砕物質であり、径10cm以下のさまざまな破砕岩片からなる断層ガウジと断層角礫です。ともに断層をつくる岩石の名称です。左から右へ、あずき色・暗緑色ガウジ(幅約85cm)、白色・灰色縞状ガウジ(幅約2cm)と変わり、破砕されたもとの岩石を反映して色がついています。
断層ガウジの変形構造から、この断層に沿って少なくとも4回の断層運動が起こったことがわかっており、いずれも、右側(南南東側)がずれ落ちる正断層の動きを示しています。

現在のフォッサマグナ
ナウマンのフォッサマグナは修正され、上図(略)のようなフォッサマグナ(新潟大学理学部教授 植村 武(当時) 1988年提唱)が、現在、受け入れられています。すなわち、明瞭でなかった、ナウマンのフォッサマグナの東縁を新発田-小出構造線と柏崎-千葉構造線に求めました。こうすることで、溝状構造が明瞭になったのです。この場合、関東山地はフォッサマグナの範囲内に含められます。
しかし、問題も残ります。ナウマンはフォッサマグナを関東山地西側の火山列が南北方向に並ぶ地帯とし、伊豆-小笠原弧(こ)と本州弧(こ)の衝突によってできた裂け目と考えました。東縁は明瞭ではありませんが、ナウマンが主張したフォッサマグナも明らかに存在するのです。
(以上、糸魚川フォッサマグナパークに設けられた案内板から)





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