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管理人の思いつくまま、気の向くまま、長野県内の町や村の話題を取り上げています。

15_栄村フットパスツアー(表) 15_栄村フットパスツアー(裏)
栄村フットパスツアーパンフ

下水内郡栄村で27日と28日、「常慶寺・仙当城跡巡りコース」「善光寺街道古道散策コース」「秋山郷マタギの故郷コース」の3コースを対象にしたフットパスツアーが企画されました。

<管理人ひとこと>
フットパスとはイギリスが発祥の地で、楽しみながら歩くこと( Foot )ができる緑の散歩道( Path )のこと。最近は全国各地に農村や山村の小径を巡り歩くフットパス・ウォーキングがあるそうです。

<参考HP>
・ 森宮交通株式会社
  http://www.morimiya-kanko.com/
・ 日本フットパス協会
  http://www.japan-footpath.jp/
・ NPO法人 信州アウトドアプロジェクト
  http://outdoorproject.jp/


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150621_1537_歌舞劇団「田楽座」創立50周年記念公演(茅野市)

伊那を拠点に活躍する歌舞劇団「田楽座」の創立50周年記念公演が21日、茅野市市民館・マルチホールで開催されました。
伊那で仮住まい生活を送っていた頃から、田楽座の活動はたびたび長野日報の記事などで見ていましたが、実際に公演を鑑賞するのは今回が初めて。長野県内のみならず、全国各地の伝統文化・芸能を調べ、団員が習得しさらに未来へ繋ぐ、という試みを実際に行っているみなさんですが、その努力は並大抵のものではなく、相当のご苦労をされているようでした。
公演は2部構成で、1部(50分)は「信濃の故郷(くに)」と題した信州ならではの芸能(木遣り・舞台獅子・大獅子)と盆踊りの情景(盆踊り狂言・盆の亡者現世参り)を、休憩(15分)をはさんで、2部(40分)では「田楽法師 西へ東へ」と題して、太鼓・踊り(千秋万歳・とりさし舞・東西太鼓芸能絵巻・秩父屋台獅子・田遊び)などを上演されました。
交互にさまざまな太鼓を打ち、篠笛を吹き、踊り謡う様子は、舞台展開に慣れているのはいえ、その舞台をおそらく役者さん7人で繰りまわす軽快なフットワークには驚かされるばかり。
エンディングは「茅野スペシャルバージョン」と題して、茅野市木遣保存会とラッパ隊有志のみなさん、八ヶ岳泉龍太鼓保存会と八釼太鼓保存会のみなさんが登場し、田楽座が浜松公演実行委員会・はまでんに作曲したという創作曲「濱のお囃子」を合同で演奏し約2時間の公演が終了しました。
(写真:茅野市市民館で開催された「田楽座茅野公演」から=21日撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・歌舞劇団 田楽座
 http://www.dengakuza.com/


150621_1_歌舞劇団「田楽座」創立50周年記念公演パンフ(茅野市) 150621_2_歌舞劇団「田楽座」創立50周年記念公演パンフ(茅野市)
歌舞劇団「田楽座」創立50周年記念公演パンフ

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150530_0748_武田八幡神社・石鳥居と総門(山梨県韮崎市)

150530_0740_武田八幡神社・北条夫人の祈願文(山梨県韮崎市)
祈願文を刻んだ 石碑
山梨県韮崎市にある神社(地図)で創建は弘仁13年(822)。
御祭神は武田武大神(たけたたけのおおおかみ・武田王)・足仲津彦命(たらしなかつひこのみこと・仲哀天皇)・誉田別命(ほんだわけのみこと・応神天皇)・息長足姫命(おきながたらしひめのみこと・神功皇后)。
神社( Wikipedia )には、織田信長による甲州征伐に際して、武田勝頼夫人( Wikipedia )が戦勝を祈願した祈願文(旧暦天正10年2月19日付・山梨県指定有形文化財)が残されており、当時の緊迫した状況を切々と訴える内容を刻んだ石碑が境内に建てられています。
(写真:武田八幡神社=5月30日午前撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 韮崎市観光協会
  http://www.nirasaki-kankou.jp/


武田八幡神社
150530_0748_武田八幡神社・総門(山梨県韮崎市) 150530_0738_武田八幡神社・舞殿(山梨県韮崎市)
総門 舞殿(手前)と拝殿
150530_0740_武田八幡神社・舞殿(山梨県韮崎市) 150530_0742_武田八幡神社・本殿(山梨県韮崎市)
舞殿 国重要文化財 本殿

<参考資料> 武田八幡神社
当社は社記によると嵯峨天皇弘仁十三年勅命によって、九州宇佐八幡をむかえ地神(武田武大神)と併祀して武田八幡宮と称したという。なお清和天皇の時、京都石清水八幡を社中に併祀し甲斐源氏の崇敬をあつめたが、鎌倉時代初期武田の荘に據って武田氏を始めた信義に至りこの郷一帯を寄進して氏神とした後、戦国時代に武田信玄は現本殿を再建(天文十年)して、子勝頼滅亡の寸前同夫人が戦勝を祈念して訴えた切切たる願文は今に伝えられ武田軍には深い関係を有する古社である。徳川氏治世後も広く敬信された神社である。

当社の文化財
重要文化財
武田八幡神社本殿
県指定有形文化財
武田八幡神社末社
若宮八幡神社本殿
武田八幡神社石鳥居 付正面石垣
石造明神鳥居。大きな亀腹(礎石)上に立つ柱には、二葉町志田の船形神社のそれと同様、見た目には胴張えい(エンタシス)のごとくに感じられ、しかもがっちり太く(径〇.四六メートル)これに比して柱上には台輪をはさんで置かれた幅の狭い鳥木や笠木は程よい真反りを示し、両端の切り方も内斜ではあるが後世のものほど極端でなく、増しも軽妙である。鳥居の貫に天正一二年(補修)の銘があり、峡北地方の中世造営の鳥居の特徴を備えている。石垣は正面神社参道から鳥居を迂回して石階をつくる特殊な形態を呈し、石積技術も優れ貴重なものである。
(山梨県教育委員会・韮崎市教育委員会設置の案内板から・平成10年)
市指定天然記念物
武田八幡神社 敬愛の樹叢


<参考資料> 北条夫人祈願文
うやまって申(す) きくわん(祈願)の事
南無きみやう(帰命)ちゃうらい(頂礼)八まん(幡)大ほさつ(菩薩) 此国のほんしゆ(本主)として 竹たの(武田)太ろう(郎)とかう(号)せしより此かた 代々まほ(守)り給ふ ここにふりょ(不慮)のけき(逆)新出き(来)たって 国か(家)をなや(悩)ます よってかつ(勝)頼 うん(運)をてんとう(天道)にまか(任)せ 命をかろ(軽)んしててきちん(敵陣)にむか(向)う しか(然)りといへとも しそつ(士卒) り(利)をえ(得)さるあいた(間)そのこころまちまちたり なん(何)そきそよし政(木曽義昌) そくはく(若干)の神りょ(慮)をむな(空)しくし あわ(哀)れ 身のふほ(父母)をすて(捨)て きへい(奇兵)をお(起)こす これみつ(是自)からはは(母)をかい(害)する也 なかんつく(就中)かつ(勝)頼るいたい(累代)十おん(重恩)のとも(輩)から けき新(逆臣)と心をひとつ(一)にして たちまちにくつかへ(覆)さんとする はんみん(万民)のなうらん(悩乱) 仏にうのさまた(妨)けならすや そもそもかつより(勝頼) いかてか(争)あく新(悪心)なからんや 思いのほのを(炎)天にあが(揚)り しんいなをふか(瞋恚猶深)からん 我もここにして あひとも(相倶)にかな(悲)しむ 涙又らんかん(闌干)たり しんりょ(神慮)天めい(命)まことあら(誠有)は 五きゃく(逆)十きゃく(逆)たるたくひ(類) しょ(諸)天 かり(仮)そめにもかこあら(加護有)し 此時にいた(至)って 神しん(信心) わたくし(私)なく かつかうきも(渇仰肝)にめい(銘)す かな(悲)しきかな(哉) しんりょ(神慮)まことあら(誠有)は うんめい(運命)此とき(時)にいた(至)るとも ねがわくは れいしん(霊神)ちから(力)をあわ(合)せて かつ(勝)事を かつ(勝)頼一し(己)につけ(付)しめたま(給)い あた(敵)をよも(四方)にしり(退)そけん ひょうらん(兵乱) か(還)へむ(つ)て めい(命)をひら(開)き しゅめう(寿命)しゃうおん(長遠) しそんはんしょう(子孫繁昌)の事みき(右)の大くわん(願) ちゃうしゅ(成就)ならは かつ(勝)頼 我ととも(倶)に しゃ(社)たん(壇) みかき(御垣) た(建)て くわいろう(回廊) こんりう(建立)の事
うやまって申(す)
天正十ねん二月十九日  みなもとの(源)かつ(勝)頼 うち(内)
(市誌上巻佐藤八郎氏執筆より・石碑文から)

※天正10年(1582)2月1日、義弟の木曽義昌が織田信長と結び反旗を翻したため、勝頼は翌日、新府城に人質として送られていた義昌の生母・側室・子供を処刑。勝頼は武田信豊を将とする討伐軍を木曽谷に派遣しますが、16日に行われた鳥居峠の戦いで木曽勢に敗北。勝頼は3月2日の高遠城落城に先立つ2月28日、諏訪から退却します。
北条夫人の祈願文の日付は2月19日。
木曽勢に対する勝利を願った夫人の祈願でしたが、その想いが届くことはありませんでした。

 <参考資料>
山梨県指定有形文化財
武田八幡宮二の鳥居 附・神器 輿石

由緒・歴史
150530_0730_武田八幡神社・二の鳥居(山梨県韮崎市)
県指定有形文化財 二の鳥居
武田八幡宮は弘仁十三年(八二二年)、嵯峨天皇の勅命により土地の神武田武大神と豊前国の宇佐八幡宮を合祀し創建された。社記に「地名の二字を冠として武田八幡宮と奉称し堅五尺擯(※)四尺の額面を賜り候」とある。二の鳥居についての記録を見ると、まず当社の氏神を定め尊崇した武田太郎信義の没後三四年を経た承久二年(一二二〇年)に信義の弟の加賀美次郎遠光が「本社末社一二三の鳥居迄造営御座候」と修覆整備したことが社記に記されている。また江戸後期の神主矢崎好貫の棟札によれば「天文の元の武田晴信朝臣父信虎朝臣の御代御新田をはじめ石木の鳥居まで残かたなく新たに造りたてんとたくみのことはしめ給ひて」とあり、二の鳥居は武田信虎の全面的な再建計画に入れられていた。本殿再建は武田晴信(信玄)によって同十年に完成されたことを示す棟札が残っている。二の鳥居の神額の裏には元禄十四年(一七〇一年)に再興、寛政元年(一七八九年)に再再興したという記録が刻まれている。この後、昭和五十四年に屋根の修理が行われ、さらに平成十一年着工の大改修に至った。
輿石は昭和初期まで鳥居の中心線上で控え柱西面より神社側に輿石東面が約三・五メートル離れた位置にあり、鳥居の下は車馬の通行が厳しく禁じられていた。その後、県道改修の際に現在地に移された。大祭には神輿の渡御が二の鳥居、輿石まで行われている。社記によると二の鳥居場は一一〇坪あり、御田祭などの催事も執り行われた。
昭和六〇年二月に二の鳥居附輿石は韮崎市指定有形文化財に指定され、さらに平成十二年十月には附に神額を特記し山梨県指定有形文化財に指定された。

構造
鳥居の形式は木造の両部鳥居で、高さ六・四メートル、□□全長八・七メートル、鏡柱々間上部四・九メートル、下部五・三メートル、転び二三センチの雄大な木割を示す。笠木・鳥木は一木造り(一部矧木あり)で穏やかな心反りを示し、その上に屋根をかける。鳥木と□□センチ下の大貫との間に額束を備え額□まえに縦一二五センチ、横八八センチの神額が掲げられている。神額には武田菱門の下に武田八幡宮と隷書体で大書され彫られているが、永い歳月風雨風雪に曝されたため、現在では殆ど判読できない。また神額□□□た鳥木付近に丹柄塗が僅に残っていることから建立当時は朱の大鳥居であったことが判る。また、各鏡柱の前後に面取りの角柱の袖柱を転びをつけて立て、上下二条の貫を通し三本の柱を連結し楔(くさび)で固定している。そらに、鏡柱と前後の袖柱にわたり一連の幅広い屋根を架けている。また、鏡柱には根巻を付け対面間隔七三センチの八角柱から直径五二センチの丸柱へ一木から削り出している。根巻の高さは九〇センチで下の貫の上面に達している。太い鏡柱の下部と上部の円柱とは上下の貫の間で継いでいる。これらの補強と雨避を考慮した特徴ある構造を有し、しかも雄大かつ均衡のとれた重量感ある形態を示す本鳥居は建立年代の確かな木造両部鳥居としては貴重な遺構である。一方、輿石は現在一辺約一・一二メートル、高さ三六センチであるが、本来の高さの半分近くが埋没し、位置も移動している。輿石側面には神主矢崎民部、村中、施主などの刻銘が見られる。

改修の経緯
鏡柱、袖柱の足元は度重なる道路舗装工事のために道路面が上がり基礎石が埋ったため腐食が進んでいた。平成十一年一月(有)大石組により鳥居を一時移動し基礎石を据え直す工事が始められた。しかし、柱足元は白蟻の被害も加わり予想を遥かに超える損傷が見られ、鳥居全体の大改修が決断された。文化財建造物保存技術協会の調査設計の後、多くの指定建築物の修復工事の実績を持つ(株)石川工務所により大改修が進み、平成十一年九月竣工を見るに至った。工事資金については韮崎市の多くの財務支援と奉賛会、氏子の理解と協力を得てこれに当てた。
 工事管理/財団法人 文化財構造物保尊技術協会
 工事施工/株式会社石川工務所 有限会社大石組
(武田八幡宮 功力利夫氏記述による案内板から・平成13年) 

<参考資料> 史跡白山城跡(北烽火台跡)
150530_0743_武田八幡神社(山梨県韮崎市)
熊に注意
甲斐源氏武田氏の祖武田信義の要害として築かれた伝承をもつ白山城は、戦国期に武田氏の領国経営の烽火台ネットワークの拠点的城郭として、甲府盆地北部における枢要な位置を占めていた。また新府城防衛の拠点であり重要な役割を担っていた。城郭史では武田氏城郭の典型例として位置付けられ、南北2箇所の烽火台を含め良好な遺構が残されている、武田氏発祥の地の城郭として、甲斐国の政治・文化・社会を考察するうえで学術的価値が極めて高く、武田氏の高度な築城技術を示す城跡としても重要である。
白山城の西側の尾根つづきの背後には標高約882mの八頭山があり、白山城をとりこむように北と南に尾根がのび、その尾根がつきるところにそれぞれ烽火台が築かれている。北のものを北烽火台、南のものをムク台と呼ぶ。
北烽火台は白山城とは八幡沢を挟んで北西約600m離れており、標高約601m。東西方向に長くのびた尾根城を堀切で区切り、そこから東側に土塁が設けられ2段の平坦地がみられる。平坦地は幅10m、長さ50mほどであり、段差のあるところに直径約4mの円形の凹みがある。
(文化庁・山梨県教育委員会・韮崎市教育委員会設置の案内板から・平成16年)





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150530_1003_臨済宗(妙心寺派) 法蓋山 東光寺(山梨県甲府市)

山梨県甲府市にある臨済宗妙心寺派の寺院(地図)。
鎌倉時代の弘長2年(1262)に蘭渓道隆が禅宗の寺院( Wikipedia )として再興し、戦国時代には武田信玄の庇護を受け諸堂の整備が行われました。
天正11年(1543)、武田氏の諏訪侵攻により捕われた諏訪頼重( Wikipedia )がこの寺に幽閉され、後に自害。また、永禄8年(1565)には謀反の疑いをかけられた信玄の長男・義信( Wikipedia )もここに幽閉された後に自害し、共に裏手にある墓地に葬られています。
(写真:臨済宗妙心寺派 東光寺=5月30日午前撮影、640×480拡大可能)

<参考HP>
・ 東光寺ホームページ
  http://www.geocities.jp/saraya_ss/tokoji/


臨済宗(妙心寺派)仏蓋山 東光寺
150530_1001_臨済宗(妙心寺派) 法蓋山 東光寺(山梨県甲府市) 150530_0943_臨済宗(妙心寺派) 法蓋山 東光寺・諏訪頼重墓(山梨県甲府市)
鐘楼(手前)と仏殿 諏訪頼重墓
<写真説明>手前が信州諏訪・上原城主諏訪頼重の墓、左奥に武田信玄の長男・義信の墓、石柱に囲まれた墓地は甲府藩主を務めた柳沢吉保の子息二人の墓

<参考資料> 
国指定重要文化財 東光寺仏殿
東光寺は、蘭渓道隆によって鎌倉時代に再興された臨済宗の寺である。
仏殿は、天正十年(一五八二)の織田信長の兵火及び昭和二十年(一九四五)の戦災を免れて今日に伝えられたもので、建立年次は明らかでないが、様式からみて室町時代の建築とされている。
桁行三間、梁間三間、裳階(もこし)つきで、入母屋造、桧皮(ひわだ)葺である。江戸時代初期の修理で、裳階部分が改造され、外観の変更を余儀なくされているが、低い基壇・竿縁の天井・裳階の角柱・窓・引戸などの部分に、大陸の建築が日本化する過程を示し、清白寺仏殿(山梨市)、最恩寺仏殿(富沢町)と並んで中世禅宗様建築を知る上で貴重である。
昭和三十一年解体修理が行なわれた。
(山梨県教育委員会・甲府市教育委員会設置の案内板から・昭和49年)

<参考資料>
山梨県指定文化財(彫刻)
木造薬師如来坐像
木造薬師十二神将立像
仏殿の本尊として安置されている薬師如来坐像は、鎌倉時代に造られたもので、右手を曲げ手のほらを正面に向け、左手は膝のうえで薬壺をのせている一般的な薬師如来像である。檜材の内刳(うちぐり)された寄木造りで座高五一.五糎わが国の保守系仏師の手によって造られたと推定される。
十二神将立像は、薬師如来の守護神として本尊の三方を取り囲んでいる。これも檜材の内刳された寄木造で、玉眼が嵌入(かんにゅう)されており像高八十五糎前後でやや小柄な造りである。像の一つには弘長二年(一二六二)の墨書があり鎌倉時代の像である。しかし、技法や彩色法などの異同が認められ、造られた時期や補修の時期に差異のあることが推定される。姿態た衣服・鎧等の細部にわたって写実的に入念な仕上となっており、美術史的にも重要仏像である。
(山梨県教育委員会・甲府市教育委員会設置の案内板から・昭和62年)

<参考資料>
山梨県指定 名勝 東光寺庭園
この庭園は広さ約一,四八五平方メートル 法堂の裏手にのびる山畔を活かして上部に組まれた雄渾な中央滝を主景にして左右に展開する石組みをみせ、枯れ流れの末端に変化に富む護岸石組みの竜池をたたえた。坐視的池泉鑑賞庭園として傑出するものである。
とくに滝石組みの手法は京都の天竜寺・信濃の光前寺庭園など、寛元四年(一二四六)来朝した中国の僧蘭渓道隆に関係のある寺院のそれに共通するところから、東光寺の中興開山道隆(大覚禅師)の手になるものと推定され、従来の回遊式庭園から一変して縦の線を強調した禅庭の基準ともみられ、その後の築庭に至大な影響を及ぼしたと考えられる名園である。
(山梨県教育委員会・甲府市教育委員会設置の案内板から・昭和56年)

150530_0946_臨済宗(妙心寺派) 法蓋山 東光寺・庭園(山梨県甲府市)
東光寺庭園
この庭園は、池泉観賞式であり、その構成は山麓の傾斜地を利用した上下二段からなり、ゆるやかな斜面の石組が全庭の八割を占める景観はちから強い。
池泉の地割は鎌倉中期に初めて出現した竜池様式で、岩盤上の護岸方式に特色がある。
池中の舟石は、北宋山水画式庭園においては当然であり、単独に用いられたものとしては日本最古に属するといわれている。
山畔部は、枯滝を中心とする豪快な石組で、現存する四ヶ所の枯滝のうち特に東方(向って右側)から二番目の滝が、それに連なる枯流れとともに本庭の主景をなしている。この竜門滝は竜滝とともに鎌倉中期のころ始めて出現した新様式で、宋朝文化の所産である。
このように本庭は鎌倉時代中期の特色をよく示しており、作者も蘭渓道隆と推定される貴重な禅庭である。
(山梨県教育委員会・甲府市教育委員会設置の案内板から・昭和61年)





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150616_1041_JR大月駅・大月市内案内板(山梨県大月市) 150616_1043_富士急行大月線・大月駅(山梨県大月市)
大月市内案内図 富士急行大月線
150616_1049_JR大月駅・岩殿山(山梨県大月市) 150616_1511_東京駅八重洲口付近で発生した火事(東京都中央区)
JR大月駅と岩殿山 住宅火災(東京駅)

16日は休暇を取得し東京へ。
仮住まいを始めてからたびたび山梨方面に出かけていますが、今回は笹子峠(中央道・笹子トンネル)を越えて山梨県大月市まで。駅前にクルマを置き、そこから「スーパーあずさ」(新宿行き)に乗り換え都内に向かいました。
目的地へはJR線と地下鉄を乗り継ぎ、駅からはひたすら歩いて20分。東京は信州と違って蒸し暑い。若い頃は感じなかったこうした陽気も、オジサンの域に入った管理人には本当に堪えました。そのようなこともあって、帰りは吊り革にぶら下がり移動する気力もすっかり萎え、最寄りの東京駅から「かいじ」(甲府行き)に乗り大月まで戻ったのでありました。
 
※写真右下は、東京駅八重洲口近く(東京都中央区京橋)で発生した住宅火災の様子を、駅に停車中の「かいじ」から撮影したものです。突然の煙に大変驚きました。
(写真:休暇での「ひとこま」から=16日撮影、640×480拡大可能)

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