忍者ブログ
管理人の思いつくまま、気の向くまま、長野県内の町や村の話題を取り上げています。

幸い大きな病気もせず、元気でいたオヤジやオフクロも、さすがに寄る年波みには勝てないようで、我が家ではこれまであまり考えたこなかった「介護」が現実になりました。加えて、我が家では+伯父(平成29年8月まで)の「介護」も看ることとなり、以降、生活が大きく変わることにもなりました。ここでは、現在進行中の我が家の「介護」の様子を備忘録代わりに綴っています。

emoji 平成27年度
emoji 平成28年度
emoji 平成29年度
emoji 平成30年度
emoji 平成31年度(令和元年)
emoji 令和2年度

令和2年5月
20日(水) 13,954歩
<オヤジ>施設から電話連絡あり。左肺の肺炎の所見があるとのこと。治療には、抗生剤を利用するそうですが、点滴だと心臓に負担がかかるため、飲み薬で対応するとのことでした。また、血圧が低い(稀に最高血圧が70程度しか上がらないことも)ところも気になるため、薬の組み合わせを見直しするとのことでした。しばらく一進一退の日々が続きそうです。
19日(火) 13,799歩
<オヤジ>介護施設からオヤジの様子について連絡があり、もし時間があれば施設に来れないか、とのことでした。そこで、オフクロを連れて、午後5時頃、施設を訪問。現在、面会は禁止されていますが、危急ということなのでしょうか、居住棟とは別の部屋にて面談させていただくことになりました。電話の様子から、これはヤバいのかな…とある程度覚悟していたのですが、思っていたよりも顔色もよく、熱も37.2度とのことで、先ずは安心。明日、医師の往診があるとのことで、詳細は先生の診断を聞いてから…とのことになりました。
併せて、今後の対応について、AEDを使用する状況であれば蘇生はお願いすることとし、それでも回復しない場合は先生の判断に任せること。また、救急車を呼んで病院への転送することはせず、施設を看取りの場とすることを、職員さんと改めて確認(書面は既に提出済)しました。
13日(水) 15,877歩
<オヤジ>介護施設から面会ができない家族向けに、オヤジの最近の様子を撮影した写真が送られてきました。相も変わらず、元気そうで安心。
9日(土) 24,520歩
<管理人>3月29日に受診した検査の結果を聞くためクリニックを訪問。CT検査の結果は特段の問題なく、軽度の椎間板ヘルニアのあることがわかりました。また、成分検査もこれといった異常値もなく、毎日のウォーキングの成果か、全体的に数値が改善(基準値内)されていました。
 総コレステロール:165→144
 中性脂肪:164→51
 血糖:100→106
 動脈硬化指数:3.7→2.3
3日(日) 17,482歩
<管理人>新型コロナウィルス対策に係る業務のため出勤。
2日(土) 16,050歩
<管理人>新型コロナウィルス対策に係る業務のため出勤。

令和2年4月 749,480歩(AV24,982歩)
29日(水) 歩数31,591歩
<オヤジ>新型コロナウィルスの感染予防のため、面会ができない施設に電話をして、オヤジ近況を確認。担当の方によれば、体調も持ち直し、呼びかけにも応じるようになったこと、また食事も十分に摂れるようになったとのことで、先ずは安心しました。
22日(水) 歩数27,241歩
<管理人>新型コロナウィルス感染予防のため会議中止。
11日(土) 歩数18,561歩
<管理人>長野市西長野の旭山麓にあるカタクリの群生地を訪ねました。
10日(金) 歩数18,561歩
<管理人>新型コロナウィルス感染予防のため会議中止。

令和2年3月 595,932歩(AV19,223歩)
28日(土) 歩数21,488歩
<管理人>かかりつけのクリニックの先生からお誘いを受けた(造影)CT検査を受診してきました。一回目は頭部からCTのなかに入り、途中思い切り息を吸い込みながら撮影、二回目は点滴で造影剤を入れながら脚からCTのなかに入り、途中思い切り息を吸い込み、吐き終わったところで撮影するもので、時間にして凡そ20分の検査でした。造影剤を左腕から入れたのですが、点滴が始まると、事前に説明があったように、ポカポカとカラダが熱くなってきて、個人差があるのかもしれませんが、ひろさくの場合は、やや心臓がバクバクする感じがしばらく続きました。
検査終了の後に、先生からCTで撮影した写真を見ながら説明を受けました。上は甲状腺の部分から撮影したようですが、結論から記すと何も異常がなく、先ずは安心といったところでした。ただ、ナントか胞というものが肝臓と副腎にあります…ということで、白くなった部分の画像をモニターに映してくださいましたが、特段、薬で治すとかは必要ないとのことでした。
最後に、上から三段階に撮影された肺の画像の写しをいただきましたが、長年の喫煙がたたってか、16段階のうちのレベル8ということで、中程度の肺気腫との診断がありました。詳しい定義はわかりませんが数値から判断すると、肺野100%のうち機能が弱っている部分が25%程度あるとレベル8なのかなと、報告書を見て感じました。先生からは、1日20本として×30年で600、35年で700、800を超えると危険域とのことであり、早期に禁煙したほうが良いとのご指導がありました。
検査結果は、採血検査と合わせてまた次回(1ヵ月後)とのこと。CT検査のお値段はなかなかなものでしたが、それでも検査の結果で、これまでエコー検査なのでわからなかった部分も調べることもできたので良かったかなと思いました。
26日(木) 歩数19,223歩
<管理人>「糖質制限」効果がでてきたのか、9日を基準にした体重から0.5kg減に到達。僅か0.5kg、されど0.5kg。
21日(土) 歩数16,933歩
<管理人>春のお彼岸ということで、オフクロを乗せてお墓参りに。天気も良く、お寺さんの墓地には大勢のみなさんがお参りに来ていました。
9日(月) 歩数16,078歩
<管理人>減量対策として、「とことこウォーキング」を1年間続けてきて、一応の成果(ピーク時の体重から凡そ7kg減量)がでましたので、今年からは「とことこウォーキング」(10,000歩/日→15,000歩/日)に加え、更に目標値である60kgを目指し、流行りの「糖質制限」を実行することとしました。大好きなスパゲティもラーメンも、牛丼もグっと我慢して、先ずは3か月、1日の摂取する糖質及びたんぱく質を「体重×1.2(g)」に設定。オジサンがいちいちメニューを考えるのは大変なので、ここは最寄りのセブンイレブンで購入できる「セブンプレミアム」(以下=「7P」)の商品にお世話になり、これをベースにして下記の食事を続けてみることにしました。

<朝>
・7Pチョコクロワッサン5個入(のうち2個)
カロリー:83kcal/たんぱく質:1.3g/脂質:4.7g/糖質:8.6g/食物繊維:0.6g/食塩相当量:0.6g(クロワッサン1個あたり)
・お味噌汁
<昼>
・7Pだしが決めての7種具材豚汁
カロリー:154kcal/たんぱく質:6.0g/脂質:10.6g/糖質:7.4g/食物繊維:2.5g/食塩相当量:2.2g
<夜>
・7Pおだし染みる おでん
カロリー:166kcal/たんぱく質:13.4g/脂質:5.3g/糖質:14.9g/食物繊維:2.4g/食塩相当量:5.3g(おだしは飲まない)
・キャベツとレッドオニオンのサラダ
・若鶏のから揚げ
・お味噌汁
<日中>
・(朝)クラフトボス ブラックコーヒー500ml
カロリー:0kcal/たんぱく質:0g/脂質:0g/糖質:0g/食物繊維:0g/食塩相当量:0.0-1.0g(100mlあたり)
・(昼~夜)爽健美茶

令和2年2月 386,986歩(AV13,344歩)
29日(土) 歩数15,971歩
<管理人>とことこウォーキングの途中、掛かりつけのクリニックにて診察。お医者さんから、「ひろさくさんも一度、CT検査を受けられてはどうですか?」とのお誘いがそこでありました。いつも人間ドックでお世話になっていますが、ドックでも盲点がやはりあるそうで、CT検査は補完的な意味があるようにお話しを聞いて感じましたので、人生初となる(造影)CT検査をお願いしました。
なにごとも経験するとは大事ですので。
26日(火) 歩数14,509歩
<オヤジ>担当の医師から現状をお聞きするため、午後、オフクロと介護施設を訪問。危急を要する状況にはないものの、高齢ということもあり、心臓が弱っている(クルマのエンジンに例えるなら、点火プラグの劣化とシリンダーのパワーの弱さ)という内容のお話がありました。このまま老衰ということで人生を終えることになるのでしょうか。
24日(日) 歩数22,852歩
<管理人>《駅ハイ》映画のワンシーンに出会えるまち、「屋根のないスタジオといわれる町」上田を歩くに参加するため、しなの鉄道を利用して上田市へ。
15日(土) 歩数13,879歩
<オヤジ>介護施設より携帯電話に連絡あり。不整脈により脈が取りづらくなっていること、また、無呼吸の間隔が広がっており、職員さんの問いかけにもなかなか応じる気配がないとのことでした。もし時間があれば、明日にでもオフクロを連れて、施設に来てみてはどうか、との話もありましたので、急遽、訪問することとしました。
会話はやんわりでしたが、そろそろオヤジも難しい状況になってきたのかな…というのが率直な感想。できるだけ、家族と面談しておいたほうが良いのでは…という、職員さんの気遣いを感じたのでありました。
11日(火) 歩数11,740歩
<管理人>長野市内は朝から雪降り。午後晴れ。
9日(日) 歩数12,907歩
<管理人>長野市内は朝から雪降り。
8日(土) 歩数22,331歩
<管理人>駅からハイキング「善光寺七福神めぐり」に参加。
2日(日) 歩数16,458歩
<オヤジ>介護施設にて本人に面会。顔色も良く、問いかけにも返答あり。
1日(土) 歩数10,770歩
<オヤジ>午後5時頃、介護施設の職員さんから、早朝、脈が取れない(顔面蒼白・大量の脱糞)状況が続いていた、との連絡がありました。話によれば、過去に受けた検査で、本人には「心室性期外収縮」という不整脈の持病が指摘されており、今回の症状もこれによるものではないか、とのことでした。
元気だったオヤジも既に90歳。年齢を考えれば、丈夫かと思っていたオヤジの心臓も弱ってきているのかもしれません。

令和2年1月 365,020歩(AV 11,744歩)
25日(土) 歩数14,264歩
<オヤジ>介護施設訪問。インフルエンザ対策のため、面会せずに、受付にて職員さんから近況をお聞きする。
6日(月)
<管理人>営業開始。午後、同僚と善光寺に初詣。


ランキングに参加しました。
Click >>> にほんブログ村 長野情報
Click >>> 人気ブログランキングへ
管理人ホームページ Click >>> 日本列島夢紀行 信州からあなたへ

拍手[0回]

PR



《駅ハイ》映画のワンシーンに出会えるまち、
「屋根のないスタジオといわれる町」上田を歩く
※新型コロナウィルス感染拡大を考慮して中止
開催日時:
令和2年1月7日(火)~3月31日(火)
集合場所:
北陸新幹線上田駅・上田駅観光案内所(上田市)
集合時間:
午前9時30分~午前11時
歩行距離:約8km
所要時間:約3時間30分
参考HP:
駅からハイキング&ウォーキング
https://www.jreast.co.jp/ekihai/
信州うえだ ロケ地探訪マップ
https://map.umic.jp/loca_map/director.html

《駅ハイ》映画のワンシーンに出会えるまち、
「屋根のないスタジオといわれる町」上田を歩く
JR北陸新幹線(しなの鉄道)上田駅→上田駅観光案内所→(桝網用水・蚕影町)→常田館(姿三四郎)→(科野大宮社)→上田蚕種株式会社→(毘沙門堂跡・宗吽寺・横町)→上田劇場(青天の霹靂)→海野町(閉鎖病棟-それぞれの朝一-)→袋町(兄消える)→本陽寺(姿三四郎)→柳町(犬神家の一族)→矢出沢川・高橋周辺→(芳泉寺)→上田城跡公園野球場(ラストゲーム最後の早慶戦)→上田城跡公園→(サマーウォーズ)→けやき並木遊歩道(およう、 LOVE SONG)→上田市観光会館→(旧上田市立図書館)→上田駅

新型コロナウィルスの影響で開催中止(令和2年2月28日~3月31日)となる前の24日に参加(No.1219045)しました。
(写真:長野県上田市周辺=令和2年2月24日撮影、640×480拡大可能)

《駅ハイ》映画のワンシーンに出会えるまち、
「屋根のないスタジオといわれる町」上田を歩く
200224_0852_しなの鉄道長野駅(長野市) 200224_1015_しなの鉄道上田駅(上田市)
しなの鉄道 長野駅 しなの鉄道 上田駅

<参考資料> 桝網用水
桝網(ますあみ)用水は、坂城まで続く千曲川右岸で最大の用水です。取水口は、江戸時代中頃には上田城崖下の尼ヶ淵に入る千曲川の分流から取り入れていたようですが、その後上流に移されました。
明治時代には上田駅東方に用水を利用した養鯉池、製糸工場などができ、下流の秋和・塩尻地区では、長い間農業や生活用水として利用されてきました。
(上田まち物語案内板から)

<参考資料> 蚕影町(こかげちょう)の由来
蚕影町の名前は、明治二十一年に完成した「上田停車場」の下に眠る「蚕影神社」に由来したと考えられる。
明治二十二年、上田橋が竣工すると駅前から東方へ道がひらけ、権現坂までを蚕影町と名づけられた。
この周辺は一面の桑畑であったが、同二十三円小県蚕業学校(現上田東高校)が常入に新築移転されると、駅からの通学路として賑わった。また常田館が設立されて機械製糸が主流となり、この町は蚕の道(シルクロード)と呼ばれて蚕都(さんと)の全盛を迎えた。現在は天神一丁目である。
(蚕影町商店会設置の案内板から・平成15年)

200224_1026_旧常田館製糸場(上田市) 200224_1041_科野大宮社(上田市)
旧常田館製糸場施設 科野大宮社

<参考資料>
重要文化財 旧常田館製糸場施設
上田市指定文化財 笠原工業常田館製糸場
笠原工業に残る製糸工場の遺産は、明治・大正期に隆盛を極め、「蚕都」とうたわれた当上田地域の製糸工場に関連する倉庫群や建造物が、セットとして残っていることにその価値が集約されます。近代には全国に偏在し、日本の近代化の原動力となった製糸工場には、直接生産の工場だけでなく、従業員の衣・食・住に加え、文化施設や医療施設までも備えていましたが、戦後の製糸業の衰退の中でこれらの公表は次々と姿を消していきました。
嘉永5年(1852)諏訪郡平野村(現岡谷市)に生まれた笠原房吉は、開通したばかりの信越線上瀧に近いこの地に、明治33年(1900)「常田館製糸場」(屋号は〇ニ)を創業しました。以来110余年、製糸業の隆盛と衰退のなかで、製糸工場建物は増築・取り壊し・焼失・改築・移転等の紆余曲折を経ながら今日に至っています。かつてあった娯楽場や病室は失われてしまっているものの、近代製糸工場の特徴を示す多層式倉庫群(乾燥通風用の窓が多く開けられ、階層も多い倉庫)や建造物がまとまって残っているのは、県内ではここだけとなっています。
製糸場遺構では群馬県の富岡製糸場が有名ですが、富岡製糸場は国営の模範工場としてフランス敷の製糸を行っていたのに対し、この常田館をはじめとする諏訪・岡谷では民営で、イタリー式製糸を行っており、日本の近代製糸業を語り対比する上で欠かすことのできない遺産です。
個々の建物でも、五階繭倉庫などは木造倉庫として国内最高層の貴重な存在となっているほか、大正時代末の鉄筋コンクリート造りの繭倉庫、外観の一階が和風で二階が洋風の事務所兼住宅(常田館)など、稀少な建物も多く遺っています。特に4棟残る繭倉庫は、初期の多窓式多層倉庫から、繭乾燥機が発達した時代の倉庫までの変遷を歴然と残り、学術的にも貴重な近代化遺産として指定されました。
(上田市教育委員会設置の案内板から)

<参考資料>
市指定天然記念物 科野大宮社の社叢
科野大宮社は、大巳貴命(おおなむらのみこと)と事代主命(ことしろぬしのみこと)を祭神とする。延喜式にはないが、それ以前からの古社で、国分寺との関係も考えられ、あるいは信濃国府の総社であったかと思われる。境内は、東西四十九メートル、南北三十八メートル、面積二、一四二平方メートルで、社叢の三十余本のうち主なものは、けやき四本(枯死した神木一本を含む)、すぎ三本、むろ二本、大いちょう一本などがある。
(上田市教育委員会設置の案内板から・昭和47年)

200224_1046_上田蚕種株式会社(上田市) 200224_1054_毘沙門堂(上田市)
上田蚕種株式会社 毘沙門堂跡
200224_1059_日輪寺(上田市) 200224_1105_宗吽寺(上田市)
日輪寺 宗吽寺 石幢

<参考資料>
市指定記念物 活文禅師遺跡一号 毘沙門堂跡
文政七年に龍洞院を辞した禅師は岩門の大日堂に隠居し寺子屋を開いた。文政十二年(一八二九)に、この毘沙門堂へ移り寺子屋をつづけ、ここで生涯を閉じた。
師に教えをうけた人は、佐久間象山をはじめ、一〇〇〇余人に及び幕末から明治維新にかけて、この地方で活躍した者が多い。禅師は禅学は勿論、和漢の学、彫刻、詩歌等にも通じ、蘭学を修め、時勢の動きに通じ、その学識と見識は、まことに髙く深いものがあった。
(上田市教育委員会設置の案内板から・昭和47年)

<参考資料>
上田市有形文化財 宗吽寺石幢
石幢は普通六角形の石灯篭型で、六面に六地蔵を浮彫りにするか、六面に窓をあけて内部に六地蔵を置くのが普通であるが、これは切妻屋根の家型で正面と左右側面に二躰ずつ浮彫りにし、中央の前後に長方形の口をあけた極めて例の少い貴重な遺例である。
しかも裏面の正平二二(※)年丑己(※)七月五日の陰刻銘は、南北朝地代の南朝の年号で紀元一三四九年に当り、北朝年号の多い当地方では、唯一の貴重な歴史資料である。二二年は死に通じる音の四をさけて二を二つ並べたものである。
左右にあけた日月形の窓は石幢の意味を知らない後人の改造であり、台石も後補である。
(上田市教育委員会設置の案内板から・昭和57年)

200224_1109_上田映劇(上田市) 200224_1110_上田映劇(上田市)
上田映劇
200224_1112_海野町商店街・志まんやき(上田市) 200224_1116_香青軒(上田市)
海野町商店街 志まんやき 香青軒
200224_1122_本陽寺(上田市) 200224_1126_浄念寺(上田市)
本陽寺 浄念寺

<参考資料> 横町の由来
城下町のうち海野町が発展するにつれて、旅籠屋・商家職人などが増加し、海野町から南に折れ街道筋にできた横の町であるため横町と呼んだ。この町は北側にも延びて鍛冶町に続いた。横町と鍛冶町は寺が多く、城下町防備のために並べたといわれる。
(案内板から)

<参考HP>
・ 海野町商店街(ブログ)
  http://unnomachi.naganoblog.jp/
・ 上田映劇
  http://www.uedaeigeki.com/

<参考資料> 日蓮宗 妙栄山 本陽寺
本尊・久遠実成本師釈迦牟尼仏
二代目上田藩主となった仙石氏が、元和八年(一六二二年)移封の時小諸から移したお寺。
仁王門をくぐると正面に本堂、右手のお堂は番神堂で三十番神を祀ります。その前に建つのが鬼子母神堂で鬼子母神を祀ってあります。
奥の左ての大きな玄関は上田藩主の館から移築された由緒ある玄関です。
毎年十月十四日・十五日には地域の多くの人々に親しまれている「おばんじんさん」「ざくろまつり」が盛大に執り行われます。
(案内板から)

<参考資料> 浄土宗 七重山 浄念寺
本尊 阿弥陀如来
本堂と観音堂が合築された珍しい様式
創建は永禄二年(室町時代後期一五五九年)
第四次川中島合戦の二年前
現在地 田町には元禄九年(一六九六年)移転
・本尊阿弥陀亥如来の西脇には脇侍として観音菩薩と勢至菩薩が立ち、本堂奥手に焔魔堂が配されています黒光りした十王像があり時代を感じさせます
・聖観音像は治承年間(一一七七年)海野弥平四郎幸広(木曽義仲の臣)の守り本尊であったものを聖誉上人が観音堂を造って安置したと伝えられます
・縁切り地蔵は市内でも一、二誇る巨大なお地蔵様 悪縁を切ることに神通を発揮すると伝わることから最近は不景気も切ってくれると親しまれている
(案内板から)

200224_1134_旧北国街道・岡崎酒造(上田市) 200224_1136_旧北国街道・柳町(上田市)
柳町 岡崎酒造 保命水
200224_1137_旧北国街道・武田味噌(上田市) 200224_1140_旧北国街道・柳町(上田市)
柳町 武田味噌
200224_1152_矢出沢川(上田市) 200224_1200_旧北国街道道標(上田市)
矢出沢川 高橋近くにある道標

<参考資料> 旧北国街道 柳町
柳町のご案内
真田昌幸(幸村の父)は上田城を築き、約15年後の慶長3年(1598)、上田城下に北国街道が通ります。
この北国街道は参勤交代の大名(加賀百万石など)や佐渡金山の金の通路として、また庶民の善光寺参りの参道として賑わいました。柳町が面する通りが北国街道です。
柳町の見どころ
①軒高が揃った美しさ
北国街道沿いの町並みを色濃く残す柳町。江戸末から明治にかけての2階建て平入りの町屋が並びます。軒や屋根の高低差が少なく、整然と揃った美しさを感じさせます。
②親付き切り子格子
2階に取り付けられた格子を注意深く見てください。長いもの(親)と短いもの(子)があり、それぞれの本数も家によって異なっています。親付き切り子格子といい、これほど集中して見ることのできるのは上田の中心地では柳町だけです。
③うだつが上がる!
所々に袖うだつが見られ、町並み景観に軽快なリズム感を与えています。うだつには鶴や亀がいたり、文字が描かれているものもあります。
④川辺のなまこ壁
北に約200メートル行くと三叉路があり、左に路を採ると緑橋に出ます。橋から左を見る蛭沢川(ひるさわがわ)に面して土蔵が並び、表の町並みとは異なった趣が展開します。右を見ると蛭沢川が矢出沢川に合流し、時折鴨が数羽泳いでいるのに出会います。また、上田では数少ないなまこ壁の土蔵を見ることができます。
(案内板から)

<参考HP>
・ 岡崎酒造株式会社
  http://www.ueda.ne.jp/~okazaki/
・ 武田味噌醸造株式会社
  https://www.takedamiso.jp/

保命水について
この井戸は保命水といいます。明治十四年(一八八一年)に柳町の先人達が、新田の海善寺の境内に湧きでる清水を木管で引き、その後、町の北と南に四角な石の井を造り、その中間二ヶ所に蛇口管を立てて、町中の人達の生活用水とし、また非常用水としましたが、これは北国街道の往来の人々にも喜ばれ、多くの人に利用されてきました。
大正十二年(一九二二年)上田市に上水道が開設されるまで、市内に良質の飲料水が少なかったので、この保命水は町民の負担でたびたび修理をし、また改修をして維持されてきました。昭和二十四年(一九四九年)夏、上田市に水道事故があり、全市が断水した時には全市の水源として、大きな功績をあげました。しかし上田市に上水道が敷かれてからは、保命水の利用も次第に少なくなり、また水源の水圧も減ったため、今ではこの井だけになりました。
上田市の水道史上特に重要な存在なので昭和四十二年(一九六七年)に明治百年を記念して、区民の総意により、また市当局の補助金を得て大改修が行われました。
先人の偉業に感謝し、保命水の重要性、公共性とその由来を記し長く保存したいものであります。
(柳町自治会設置の案内板から・昭和53年)

<参考資料> 諏訪部(すわべ)の由来
諏訪部は古代には須波郷(すわのごう)に含まれていた古い由緒をもつ地名である。千曲川をへだてて諏訪形のあることなどから、古代において、諏訪氏に関係があったと考えられ、鎌倉時代に勢力をのばした諏訪部氏の本拠地があったところと伝えられている。

200224_1229_芳泉寺(上田市) 200224_1223_芳泉寺・小松姫の墓(上田市)
芳泉寺 小松姫の墓
200224_1240_上田城跡公園野球場(上田市) 200224_1300_上田城跡公園・けやき並木遊歩道(上田市)
上田城跡公園野球場 けやき並木遊歩道
200224_1311_旧上田市立図書館(上田市) 200224_1316_上田高校・旧藩主居館跡(上田市)
旧上田市立図書館 旧上田藩主居館跡

<参考資料>
浄土宗 総本山知恩院直末(じきまつ)
松翁山 圓覚院 芳泉寺
第二十四代徹誉水阿 遊宝真純
薫香 拝識 和南
上田城を日へ徒歩五分千曲川の旧跡「古舟の渡」を越え、北に向かう善光寺道の故地(こち)常福寺坂の上。往古、当山は左岸の三楽寺(安楽 常楽 長楽)と右岸の三福寺(大福 常福 眞福)の一山常福寺として『ふくらくおうげん福楽往還』の徴憑(ちょうひょう)。
慶長五年(一六〇〇年)、上田藩祖真田信之公(上田城主昌幸の嫡男、幸村の兄)は、その常福寺(現芳泉寺)に下之条村の全称庵主含霊(ぜんしょうあんしゅがんれい)様を迎えて菩提寺と定めた。そして九度山に蟄居する父と弟のもとへ『年々 信州の 四季の物』等が届いたのは公の正室小松姫様(本田忠勝娘、家康の養女)の心ばえであったという。昭和・平成の今日、北は秋田から南は鹿児島に及ぶ『真田六文会』の続柄不断(ぞくへいふだん)の基礎者として、お姫様の中核的存在感は重い。
元和六年(一六二〇年)二月二十四日、公はお姫様(大蓮院殿様)のご逝去に『ああ、わが家のともしび消えたり』と嘆き、たもうとぞ。当山とお姫様の密葬の大導師不残上人(ふざんしょうにん)御住持の勝願寺様(埼玉県鴻巣市)と真田氏ゆかりの正覚寺様(群馬県沼田市)の三ヶ寺に宝篋印塔(ほうきょういんとう)を建立して分骨、更に当山には、お霊屋(たまや)をも造立(ぞうりゅう)。その霊屋は信之公と倶(とも)に松代(皓月院 大英寺様)へ遷る。当山本堂南の弁天池は名残りの史跡。
元和八年(一六二二年)上田城主信之公(大鋒院殿様)は、長野市松代へ移封。十一月小諸城主仙石忠政公(法光院殿様)が入部。霊地常福寺を修営。翌春正月小諸市の松井山歓喜院 宝芳寺(しょうせいざんかんぎいん ほうせんじ)から父秀久公(円覚院殿様)の遺骸を、小松姫様墓北隣へ改葬。円覚院芳泉寺と尊称、香華院(こうげいん)と定めた。秀吉の小田原征伐の武勲者仙石氏の中興秀久公は伏見城中で大泥棒石川五右衛門を生け捕るなど<※まるむ>の権兵衛さんで通る剛の者、秀吉は名品「千鳥之香炉(ちどりのこうろ)」を褒美とした。仙石氏後裔は《率土の物品に非ず》と明治天皇の献上。
上田城主政俊公(直政)(松翁院殿様)は年少にして父忠政公を喪い、仙石氏の家宝たる<※まるむ>の旗印と共に水利土木に励み、灌漑用の<俗に塩田四十七池>A六ヶ村堰・B桝網用水・C網掛用水など。そして仙石氏のお霊屋には重臣たちの奉献する『十八基の石灯籠』に公の篤信愛民(とくしんあいみん)の功業を仰ぎ見ることが出来る。
当山本堂内陣の城主のお位牌壇には やがて、
出水(いずし)藩からお国替の藤井松平氏の五三桐紋付「御城主代々神儀」の古霊牌(これいはい)を奉祀して今日に至る。
境内に化儀(けぎ)と四季星降る松の美しい、それは夏空に爽やかな木槿(むくげ)の花が、そして涼風に涼風に波打つ白萩、小松姫様や武人を偲ぶ雪明り花明かりにも、趣きの深い城主の菩提寺。
A六ヶ村堰
①小牧②諏訪形③御所④中之条⑤上田原⑥神畑
B桝網用水
①小牧②国分③踏入④天神⑤常磐城⑥秋和⑦上塩尻
C網掛用水
①網掛②上平③上五明④力石⑤新山⑥上山田
(芳泉寺に設置されている案内板から・平成21年)

<参考資料>
市指定史跡
 小松姫の墓(真田信之夫人大蓮院殿の墓)
上田城及びその城下の創始にあたった真田信之の正妻で、真田家存亡の際、影の功を果たした小松姫の墓である。
小松姫は、徳川家康の養女(本田忠勝の娘)として天正十四年(一五八六)信之に嫁いだ。たいへん賢く、女丈夫として数々の逸話を残している。元和六年(一六二〇)二月二十四日、四十八歳で埼玉県鴻巣市にて歿(勝願寺で密葬)した。
元和八年信之が松代に移封されたとき、姫の御霊屋は松代に遷されたが、この石垣積み基壇上の高さ二.八八メートルの二重塔身宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、その銘文より、信之が小松姫(法名 大蓮院殿英誉皓月大禅定尼)の一周忌に建てたものであることがわかる。
基壇北の石灯籠は、真田信吉寄進のものである。
(上田市教育委員会設置の案内板から・昭和47年)

小松姫のエピソード
姫の婿選びのため、家康公に呼ばれて平服している諸大名の髷を、姫が掴んで顔を見た。その態度に立腹し、鉄扇で手を打ち据えた大名が信之公であった。姫はこれに怒るどころか、他の大名のだらしなさを軽蔑し、彼の正室となり上田へ嫁いで来た。やがて不幸なことに、信之と昌幸(父)幸村(弟)が敵・味方となって戦うようになった時(一六〇〇)に、最後に孫の顔が見たいと訪ねる昌幸に対し、姫は侍女達にも武装させ城門を警護し昌幸を追い払ったという。しかし関ケ原の合戦に敗れ、九度山に蟄居した昌幸・幸村に上田の食物を送り続けたという。
(案内板から)

<参考資料>
市指定史跡 仙石家霊廟
真田昌幸は上田城の築城にあたり、下之城村の金称庵をこの地に移し、常福寺とした。元和八年(一六二二)真田信之の松代(長野市)、転出後小諸(小諸市)から移封した仙石忠政は、菩提寺の宝仙寺を小諸から移し(常福寺を下之城へ移す)、松井山宝仙寺と改称した。延宝二年(一六七四)忠政の子で二代上田城主政俊の死後、松翁山芳泉寺と改称した。仙石氏の上田在城は宝永三年(一七〇六)三代政明が出石(兵庫県豊岡市)に移封されるまでの八十四年間であった。
仙石家の霊廟(墓とその霊魂を祀るお堂の一体のこと)は、一辺約十二mの瓦葺コンクリート造りの塀に囲まれ、その中に、政俊を中心に、左後方には祖父秀久(小諸城主)と秀久の長子久忠や秀久側室の墓がある。
政俊の墓は総高一八八cmの五輪塔だが、秀久のものは総高二〇二cmの舟形石塔で、ともに瓦葺宝玉造(かわらっぶきほうぎょうづくり)の覆屋に納められている。ともに損傷もなく、市内本陽寺の仙石家墓所(市指定史跡)にある忠俊(政俊の子)の墓碑同様建立当時とあまり変わっていない。また、塀の内側四面には、主だった家臣が献じた名入り石灯籠十八基が整然と立ち並んでいる。
なお初代忠政の墓は東京都港区の東禅寺にある。
(上田市教育委員会設置の案内板から・平成27年)

仙石氏霊廟
石川五右衛門を生け捕りにしたことで知られる仙石秀久(権兵衛)公そして忠政・政俊(直政)三代の霊廟である。
仙石忠政は真田氏に替って上田城主となり、やがて城を修築(今日の上田城)塩田平の灌漑池の造成など藩主として手腕をふるい、松平氏とのお国替えで兵庫県出石に移封されるまでその子政俊と共に城下町の殖産振興につくされた。
(案内板から)

<参考資料>
上田城お勧め見学ルート その3
二の丸西虎口(百間堀と小泉曲輪)
この周辺は二の丸の西の出入口(絵図①)で、「大手門」の反対側、すなわち裏門にあたります。上田城の背後を守る百間堀(②)や捨堀(③)、小泉曲輪(④)があった場所です。
二の丸堀の一部は真田昌幸の時代に矢出沢川の旧河床を改修したものと考えられています。仙石忠政の上田城復興工事の際には、堀は絵図のような配置となりました。百間堀には現在、野球場や陸上競技場があります。昭和3年に昭和天皇即位を記念して造られた施設です。観客席を堀の斜面に造るなど、地形を活かした工夫には目を見張るものがあります。なお、捨堀と呼ばれたところには現在、上田高校第二グラウンドとなっています。
小泉曲輪は真田昌幸の上田築城以前に小泉氏が拠点にしていた場所とされていますが、詳しいことは分かっていません。松平氏が藩主だった頃には、茶屋や馬場が設けられていました。小泉曲輪の南側も尼ヶ淵(あまがふち)のように上田泥流層の断崖となっています。切り立った崖が城の守りを固めた様子をぜひご覧ください。
(案内板から)

<参考資料> 国指定史跡 上田城跡
上田城は天正十一年(一五八三年)真田昌幸によって築かれた平城である。
当時の千曲川分流尼ヶ淵に臨み、太郎山と千曲川・神川に取り囲まれた天然の要害に拠っている。竣工の翌天正十三年昌幸が徳川家康の命に従わなかったため、その怒りに触れ、大久保忠世・鳥居元忠等の率いる信濃・三河の勢八千でこの城を攻めたが遂に陥れることができなかった。
また慶長五年(一六〇〇年)関ケ原の合戦に際し、豊臣方に属した昌幸・幸村父子は、この城にてたて籠り徳川秀忠率いる二万五千の大軍の西上をはばんで、関ケ原の戦いに不参させたことは、上田城を一躍天下の名城と言わしめるに至った。
現在三の丸は市街地に変ってしまったが、本丸と二の丸には土塁・石垣・濠跡がのこり、特に本丸の東西虎口に三基の隅櫓と石垣が昔の姿を留めている。
(文化庁 上田市教育委員会設置の案内板から・平成25年)

お堀の移りかわり
けやき並木のこの場所は上田城二の丸の堀の跡です。二の丸をかぎの手に囲んで、その延長は約646間(1,163m)あり、上田城の堅い守りに役立っていました。その後、昭和3年5月に上田温電北東線が開通し、この地を電車が通っていました。昭和47年2月に電車が廃止され、現在に至っています。
(案内板から)

<参考資料>
上田市指定文化財 旧上田市立図書館
(現石井鶴三美術館)
大正四年(一九一五)、上田男子小学校同窓会は、一般市民の寄付を募り、「明治紀年館」を建設しました。この建物は、図書館機能を備え、大正十二年(一九二三)に上田市に寄付された後も、上田市立図書館として、昭和四十五年(一九七〇)まで利用されていました。
大正時代の近代洋風建築には、明治以来の派手で力強い流れと、優しい表現を主とする二つの流れがあります。この建物は後者の代表例です。凹凸の少ない壁面処理や、浅い軒の出、マンサード屋根(勾配が途中で変化する屋根)など、建物全体が一つの面に包まれているような意匠、壁面の各所にはめられたパネルなど、一九世紀末~二十世紀初頭に世界のデザイン界を席巻した「アールヌーヴォー」の流れを汲む、長野県の代表例です。
近代の上田市は、「蚕都(さんと)」の経済力を背景に、学習・芸術活動が盛んで、革新的・先取的な気風が支配しており、この建物は、そうした時代を伝える文化遺産としてきわめて貴重なものです。
(上田市教育委員会設置の案内板から・平成5年)

<参考資料>
真田対徳川 上田合戦物語
第一次上田合戦(神川合戦)
天正十年(一五八二年)三月、武田氏が滅亡。信濃国を含む旧武田領の分割配分に圧倒的な動きを見せた織田信長に対し、真田昌幸はすかさず臣属の意を表した。しかし、同年六月「本能寺の変」で信長が明智光秀の急襲による討ち死。信濃・上野・甲斐国は、徳川・北条・上杉の争奪地の場と化した。いったんは北条氏直に臣属した昌幸だったが、弟の加津野信昌(かつののぶまさ)らに誘われ徳川家康に臣属。天正十一年三月頃より、上杉に対峙する徳川勢力最前線として、海士ヶ淵城(尼ヶ淵城・伊勢崎城=上田城)築城が開始された。
ところが、天正十二年(一五八四年)中央覇権争いにより羽柴秀吉(後の豊臣)と徳川家康の対立が深まり、「小牧・長久手の戦い」へと発展。これを機に真田昌幸は徳川家康と断絶し、秀吉と和睦していた上杉景勝に属することとなった。
上杉の臣従した昌幸の動きにおさまらぬ家康は、天正十三年(一五八五年)八月、鳥居彦右衛門尉元忠、平岩主計新吉、大久保七郎右衛門尉忠世、大久保平助忠教らに、諏訪頼忠、保科正直、知久頼氏、松平(依田)康国、屋代秀正、小笠原信嶺など信州先方衆を付け、都合七千余人で上田城を攻めさせた。これを迎え撃つ真田方は、騎馬二百余騎、雑兵千五百余人、都合二千余騎に過ぎない。そこで昌幸は二男信繁(幸村、当時十七歳)を上杉景勝に対し人質として差し出すことで、北信の須田満親、清野左衛門左、西条治部少輔、市川信房などの援軍を得ることとなった。
戦いは、神川を中心とした上田平全域に展開され「神川合戦」とも呼ばれる。真田方が、民衆三千人余りに紙旗を持たせ、谷や峰々に潜伏させ、城内の兵の合図とともに一斉に蜂起するなどの攪乱戦法を駆使。領内の百姓子女までを動員し、石つぶてを投げさせるなどの総力戦の結果、徳川の大軍は当初上田城に迫るものの、幾重にも備えられた真田の術策にはまり、神川まで押し戻されて大混乱に陥り、大勢の戦死者を出した。
この戰において、昌幸は、徳川軍を油断させた上で場内(※城内)までおびき寄せ、あらかじめしつらえておいた丸太を徳川勢の頭上に落とす、後退する徳川勢に対し城下に火を放つと言った奇策をこらしたと逸話も残されている。
この間、上杉方の協力により普請が進められていた海士ヶ淵城(尼ヶ淵城・伊勢崎城)は、天正十三年九月末から十月頃に一応の完成を見ることとなり、天正十七年頃に真田昌幸により「上田城」と命名。城と城下町がそっくり川と掘割りで囲まれた堅牢な構えであり、後に再び徳川軍を大いに苦しめることとなった。

秀吉の天下統一から天下分け目の関ケ原へ
天正十四年(一五八六年)秋頃になると秀吉の家康に対する対応が一転、それまで武力による制圧から、秀吉の生母大政所(おおまんどころ)を人質に差し出すほどの懐柔策へと大きく変化した。それに応じ家康は秀吉に対して臣下の礼をとり、豊臣秀吉による天下統一は大きく前進。天正十五年三月、秀吉の命により真田昌幸は徳川家康に臣属。同十七年二月には、嫡男信幸が駿府城に出仕し、父とは個別に家康の家臣になり沼田城主となった。
天下統一の偉業を成し遂げた豊臣秀吉が慶長三年(一五九八年)に亡くなると、真田氏は再び試練に立たされることになる。嫡男秀頼を支える石田三成ら豊臣恩顧の大名たちは、豊臣家を危うくする家康打倒を決意し、反家康連合軍の挙兵計画を進めていた。
慶長五年(一六〇〇年)七月家康が上杉征討のため大坂より関東へ下向したのを機に、石田三成は五奉行とはかり秀頼をたてて兵を挙げ、「関ケ原合戦」の幕がきって落とされた。

犬伏の別れ
七月二十日家康の命に従い下野犬伏(栃木県佐野市)に着陣した昌幸、信繁(幸村)父子の元に長束正家、増田長盛、前田玄以ら三奉行連名の勧誘状が届く。「この度の家康の上杉征討は、秀吉の遺言に背いて秀頼様を見捨てたもので、相談の上、家康を討つべく挙兵した。太閤様のご恩を忘れていないなら、秀頼様に中世を尽くしてくれるように」との内容であった。昌幸はすぐに犬伏の陣所へ信幸を呼び、信繁を交えて密かに対応を協議した。この密談の内容は次の二つのことによるものと推測されている。
一つは、昌幸は秀吉の援助で大名にまでなれたことの恩義、信繁は青年時代秀吉に出仕したことへの恩義、また三成の盟友大谷吉継の娘を娶っていること。
一方信之は二十三歳で家康に出仕、翌年家康の重臣本田忠勝の娘を妻に向かえ、家康の家臣として沼田城主となっていること。
もう一つは、東西いずれか破れても他方は生き残ることで「真田」の加盟の存続をはかる。
結果、昌幸と信繁は豊臣方(西軍)に、信幸は徳川方(東軍)に、父子兄弟が東西陣営にわかれることとなった。
犬伏で信幸と別れた昌幸、信繁は、直線コースの碓氷峠越えで上田へ向かうのではなく、沼田経由の迂回路をとった。その理由は、東軍徳川勢との衝突を避けるとともに、沼田城の孫たちの顔を一目見たいとの昌幸の思いがあったと考えられる。

第二次上田合戦
東海道を西へ上る家康軍とは別に中山道をすすむ秀忠軍は、榊原康政、大久保忠隣ら徳川の重臣および森忠正(川中島)、仙石秀久(小諸)、石川康長(松本)、諏訪頼水、真田信幸ら信濃の諸将を加え総勢三万八千人余で碓氷峠を越え九月二日小諸へ入城。出来れば支障なく通過したいことから説得工作を行うも、昌幸の揺動により激高した秀忠は五日に上田攻めを開始、上田城東二kmの染屋台地に陣を張った。昌幸があっさりと空け渡した砥石城には真田信幸が入るよう、秀忠に命じられた。
九月六日、上田城の東、染屋馬場台に陣を進めた秀忠は、真田の陣営を望見し、時あたかも実りの秋であったため、上田城周辺の刈田(敵地の稲の刈り取り)を命じた。
この刈田の様子を目の当たりにした真田方の襄平は、それを妨害しようと刈田の士卒と衝突。この時、功を焦った徳川方の多数の部隊が、攻撃合図を待たずに大手門まで進撃。真田方城兵との攻防戦に突入した。城兵は矢倉(櫓)の上から弓矢で応戦。ッ門前では敵味方が槍を合わせるなどかなりの激戦となったが、城方の反撃に合った徳川方の死傷はおびただしかった。
また、昌幸は後退する徳川軍に対し信繁率いる鉄砲隊二百余を前夜に染屋台に潜ませ、更に追い討ちをかける。徳川軍が神川まで後退するのを見計らって、あらかじめ上流に堤防を築き密かに塞ぎ止めておいた堰を切ると、多くの人馬が飲み込まれたとの逸話も残されている。
三万八千余の徳川大軍勢を僅か二千五百余の真田軍が九月三日から十一日まで九日間にわたり足止めした結果、秀忠軍が木曽福島の山村良勝の館にようやくたどり着いたのは九月十六日。九月十五日午前八時に火蓋が切って落とされた天下分け目の関ケ原合戦は、午後になって西軍小早川秀秋が寝返ったことにより、午後四時頃には東軍の大勝利で終わっていた。
その後、上田領は徳川方で功績を上げた真田信幸に与えられ、信幸の懇願により処刑を免れた真田昌幸・信繁父子は、高野山へ配流となった。上田合戦において昌幸・信繁父子の活躍により名声を高めた真田家の武勇は、時を経て慶長十九年(一六一四年)大坂冬の陣「真田丸」における真田幸村(信繁)・大助父子の活躍により、再び歴史の表舞台へ登場することとなる。
(「上田市誌歴史編⑨『真田氏と上田城』」・案内板から)


ランキングに参加しました。
Click >>> にほんブログ村 長野情報
Click >>> 人気ブログランキングへ
管理人ホームページ Click >>> 日本列島夢紀行 信州からあなたへ

拍手[0回]




《駅ハイ》
信州・須坂 すざかでさがす蔵のまちと雛まつり

※新型コロナウィルス感染拡大を考慮して中止
開催日時:
令和2年3月1日(日)~3月31日(火)
集合場所:長野電鉄須坂駅(須坂市)
受付場所:須坂市観光協会
集合時間:
午前9時30分~午前10時30分
歩行距離:約7km
所要時間:約3時間15分
参考HP:
駅からハイキング&ウォーキング
https://www.jreast.co.jp/ekihai/

《駅ハイ》
信州・須坂 すざかでさがす蔵のまちと雛まつり

長野電鉄須坂駅→須坂市観光協会→須坂クラシック美術館→蔵のまち観光交流センター→ふれあい館まゆぐら→笠鉾会館→旧小田切家住宅→旧上高井郡役所→田中本家博物館→世界の民俗人形博物館(須坂アートパーク内)→須坂版画美術館(須坂アートパーク内)→臥竜公園→須坂市観光協会→長野電鉄須坂駅


ランキングに参加しました。
Click >>> にほんブログ村 長野情報
Click >>> 人気ブログランキングへ
管理人ホームページ Click >>> 日本列島夢紀行 信州からあなたへ

拍手[0回]




令和2年2月8日(土)に開催されたJR北陸新幹線長野駅(長野県長野市)発着の駅ハイ「JR東海共同開催 善光寺七福神めぐり」(No.1219047)に参加しました。このコースは、長野駅から善光寺表参道沿いにまつられている七福神をめぐり、「福」をいただくというもので、歩行距離は長野駅と善光寺往復の約4km。今冬はほとんど降雪がなかった長野市でしたが、イベント開催の当日は、いつもの冬らしい、雪が舞う寒い一日になりました。
(写真:善光寺表参道沿いにまつられている七福神=令和2年2月8日撮影、640×480拡大可能)

開催日時:令和2年2月8日(土)
集合場所:
北陸新幹線長野駅在来線改札前(長野市)
集合時間:午前9時分~午前12時
歩行距離:約4km
所要時間:約2時間30分
参考HP:
駅からハイキング&ウォーキング
https://www.jreast.co.jp/ekihai/
ながの観光net
https://www.nagano-cvb.or.jp/

《駅ハイ》JR東海共同開催 善光寺七福神めぐり
JR北陸新幹線長野駅→長野市観光情報センター→かるかや山西光寺・寿老人→大国主神社・大黒天→秋葉神社・福禄寿→往生院・弁財天→FUJIYAGOHONJIN(藤屋御本陣)・布袋→西宮神社・恵比寿→世尊院釈迦堂・毘沙門天→善光寺→JR北陸新幹線長野駅


善光寺七福神めぐり
200208_1000_JR北陸新幹線長野駅(長野市) 200208_1001_JR北陸新幹線長野駅(長野市)
ウォーキング受付(JR北陸新幹線長野駅)
200208_1014_かるかや山西光寺・寿老人(長野市) 200208_1021_大国主神社・大黒天(長野市)
かるかや山西光寺 寿老人 大国主神社 大黒天
200208_1029_秋葉神社・福禄寿(長野市) 200208_1033_往生院・弁財天(長野市)
西後町秋葉神社 福禄寿 往生院 弁財天
200208_1042_藤屋御本陣・布袋(長野市) 200208_1045_西宮神社・恵比寿(長野市)
藤屋御本陣 布袋 西宮神社 恵比寿
200208_1050_3_世尊院釈迦堂・毘沙門天(長野市) 200208_1053_2_善光寺本堂(長野市)
世尊院釈迦堂 毘沙門天 善光寺本堂

寿老人(かるかや山西光寺)
寿老人は、長寿を象徴した神で、老子が天に昇って仙人となったとも伝えられています。手に持つ杖の頭にあるのは、長寿を保つ秘訣を示す巻物。長寿、財運、子孫長久の利益があります。

<参考HP>
・ 絵解きの寺 かるかや山西光寺
  http://www.karukayasan.com/

大黒天(大国主神社
大黒天は、三宝を守り、戦闘をつかさどったインドの神。日本では大国主神として習合し、農産と福徳の神として民間の信仰の対象となってきました。

福禄寿(西後町秋葉神社)
南極星の象徴、泰山真君(たいざんしんくん)を人格化した福と高禄(財運)、長寿の三徳をつかさどる神です。秋葉神社ゆかりの三尺坊(天狗といわれた)が福禄寿の神徳につながることにちなんでいます。

弁財天(往生院)
インドの河の女神。音楽をつかさどり、学問と伎芸、雄弁と知恵を授けます。境内の宇賀弁才天社は、権堂の芸能の神として信仰されてきました。

布袋(藤屋御本陣)
弥勒菩薩の化身ともいわれる古代中国の禅僧契此(かいし)のことで、世俗を捨て去ったお姿で人々を助けます。この布袋様は、戦艦大和最後の艦長となった有賀幸作(あるがこうさく)中将の生家に伝わったものです。

<参考HP>
・ 藤屋御本陣(THE FUJIYA GOHONJIN)
  https://www.thefujiyagohonjin.com/

恵比寿(西宮神社)
右手に釣り竿、左手に鯛を抱えた恵比寿様は、商売繁盛・家内安全・五穀豊穣・除災開運など広大な御神徳を称えられる神です。11月に行われる「恵比寿講」は「大煙火大会」と共に名物です。

<参考HP>
・ Nagano Ebisu 西宮神社
  http://www.nagano-ebisu.jp/

毘沙門天(世尊院釈迦堂)
仏の世界の北方を守る守護神。左手に捧げる宝塔は仏様への帰依を、右手にかざす
戟杖(げきじょう)は法の守り手としての清らかな行いを表しています。桧の一木造りの像は、市指定文化財です。
※御本尊釈迦堂涅槃像の左手に安置されているため、本尊特別拝観日(祝日・連休・仏教行事)のみ拝観可能です。


ランキングに参加しました。
Click >>> にほんブログ村 長野情報
Click >>> 人気ブログランキングへ
管理人ホームページ Click >>> 日本列島夢紀行 信州からあなたへ

拍手[2回]




管理人が利用しているウォーキングアプリ「aruku&(あるくと)に紹介されているウォーキングコース・新日本歩く道から「松代藩の名所旧跡をるぐる歴道と寺めぐりルート」を、夏季休暇の一日を利用して歩いてみました。
(写真:長野市松代町周辺=令和元年8月23日撮影、640×480拡大可能)

「aruku&」紹介文
歴史的道すじと真田十万石の城下町「真田家ゆかりの寺巡り」を楽しめる一挙両得のコースです。宝物館や文化財を巡り歴史や文化を知り、後半は、「真田家ゆかりの寺巡り」スタンプラリーが楽しめます。歴史的道すじは、戦国→江戸→幕末→第二次世界大戦と各時代に沿ったポイントがあり、風情ある町並みを存分に味わうことができます、それぞれの趣味思考に応じた新たな発見が期待できます。

《aruku&》新日本歩く道~
松代藩の名所旧跡をるぐる歴道と寺めぐりルート
S:松代城跡(海津城)→真田邸→真田宝物館→※旧樋口家住宅→文武学校→※旧白井家表門→象山神社(※高義亭・佐久間象山生家跡)一山寺常山邸→※竹山随護稲荷神社→恵明寺→象山地下壕→※象山山頂→象山記念館→旧横田家住宅→大英寺→旧金箱住宅(寺町商家)→蓮乗寺→願行寺→長国寺→梅翁院(※魚濫観世音)→松代藩鐘楼→矢澤家表門→G:松代城跡(海津城)
※はスポット指定のないもの


190823_1001_松代城跡(長野市松代町) 190823_1003_松代城跡案内図(長野市松代町)
松代城跡(海津城)
190823_1005_真田邸(長野市松代町) 190823_1007_旧樋口家住宅(長野市松代町)
真田邸 旧樋口家住宅
190823_1009_旧白井家表門(長野市松代町) 190823_1015_象山神社(長野市松代町)
旧白井家住宅表門 象山神社

<参考資料> 松代城(海津城)跡
松代城は、江戸時代には松代藩主・真田家の居城でした。そのはじまりは、戦国時代に築城された海津城です。
海津城の築城年代は不明ですが、海津城の名が文献で確認できるのは永禄三年(一五六〇)ですので、この頃にはすでに築城されていたことがわかります。
戦国時代から江戸時代初期までこの地を支配した武田信玄や上杉景勝などにとって、この城は北信濃を支配する上での軍事・政治的に重要な拠点となっていました。
元和八年(一六二二)に真田信之が上田城から松代城に移り、松代藩政の拠点としました。
その後、江戸時代の半ばには、水害などにより、本丸御殿の機能は城に南西に位置する花の丸御殿に移りました。
(案内板から)

<参考資料>
長野市指定有形文化財 旧白井家表門
この門は、表柴町に建っていたものだが、平成十二年に現在地に移築復元した。建築年代は、松代藩文書などから弘化三年(一八四六)であることがわかっている。
白井家は、松代藩の中級武士であり、真田家家中明細書によると、白井初平が高百石、元方御金奉行、御宮奉行などを務めた。子の平左衛門も文武学校権教授に出仕し、また、佐久間象山との親交も密にしていた。
表門は、三間一戸門形式の長屋門で、門部は、太い槻の角材でつくってある。間口が二十メートル余の長大な門で、背面に三つの居室部を付設し、白井家の陪臣節などが居住したと見られ、門に住宅が続いているのも珍しい例といえる。桟瓦葺の大型長屋門は、松代藩では、天保期から多くなっているが、それ以前には茅葺の門が一般的であった。
旧白井家表門は、長大な間口に対して、茅尾根を低くおさえ、正面は間口の左右に出窓と与力窓のみの単純構造で意匠性に優れている。松代藩中級武士の代表的な表門として、旧松代城下の面影を今に伝える貴重なものである。
(長野市教育委員会設置の案内板から・平成28年)

<参考資料> 
長野市指定有形文化財 高義亭
もと松代藩家老望月主水貫恕の下屋敷にあった建物である。安政元年(一八五四)佐久間象山( Wikipedia )は吉田松陰( Wikipedia )渡航事件に連座し、国元蟄居を命ぜられ望月氏の下屋敷聚遠楼に住んでいたが、来客があるとしばしばこの高義亭の二階七畳半の間で応対し、国家の時勢を論じたという由緒深い建物である。
木造二階建ての寄せ棟造りで、屋根は桟瓦葺(さんかわらぶ)きとする。下屋敷も瓦葺きであるが、一部鉄板を用い、東に切妻屋根を出す。
一階は、玄関(二坪)・取り次ぎの間(六畳)・次の間(九畳)・客間(一〇畳)・茶の間(六畳)・勝手(四畳半)と、西に納戸を造り出す。玄関は土間と式台からなり、次の間は南に明障子、外に縁を付す。客間と次の間は襖で仕切り、外側に明障子を立てて縁を回す。取り次ぎの間から北に通る廊下で客間・茶の間・勝手に通じ、茶の間わきに階段を付して二階の昇り口とする。
二階は、階段を昇ったところに踊り場、南に控えの間、東に六畳間、北に置床つき七畳半の間がある。ここが象山が来客と対応した間である。
明治以降住民が替わり、原型も一部変更した所もあったが、現在地に移築の際、当時の構造に復元したものである。
(長野市教育委員会設置の案内板から・平成7年)

<参考資料> 御祭神 佐久間象山について
幕末の大先駆者である。
松代藩士佐久間一学の長男として文化八年(一八一一)に生まれる。六才の時から父や鎌原桐山・活文禅師などから学問・武術を習い、二十才で詩文・経書・武術等免許される程の秀才であった。
二十三才江戸佐藤一斎の塾に入門、渡辺崋山・藤田東湖等と親交。三年で帰藩し、藩の子弟に経書や漢学を教える。この頃名を修理、号を象山と改める。
二十九才江戸お玉ヶ池に象山書院を開き、多くの門弟を集める。藩主幸貫老中で海防掛の時、海防八策を幕府に上申する。
三十六才帰藩し、湯田中・沓野・佐野(志賀高原)の利用係として開発に努力、又大砲・電信機等の製作・実演をする。
四十一才江戸木挽町に塾を開き、勝海舟・坂本龍馬・吉田松陰・橋本左内など維新の英才を輩出、ペリー来航国論沸騰の再、軍議役として横浜警備に当る。開国論を唱え横浜開港を主張する。松陰密航事件に連座して投獄される。
四十四才から九年間松代に蟄居される。この間、高杉晋作・久坂玄瑞( Wikipedia )・山形半蔵( Wikipedia )・中岡慎太郎・石黒忠悳(ただのり)らが面会に訪れ、時世について激論、象山の学識に感動して去る。
五十四才元治元年(一八六四)幕府の命で京都へ上る。将軍家茂・一橋慶喜・山階宮・中川宮に公武合体開国を説いて活躍中、七月十一日、三条木屋町で尊攘派の凶刃にたおれ、尊皇開国の捨石となって非業の最後を遂げる。
その後四年にして明治維新の世を迎え、象山の尊皇開国という憂国の至情がそのまま具現されたのであった。
大正二年象山殉難五十年祭を契機に、元大審院長横田秀雄博士( Wikipedia )の主唱で、神社建立の計画が進められ、地元をはじめ県下全市町村及び信濃教育会・全学校・全国関係者の協力によって、昭和十三年十一月三日県社として創建された。
(象山神社にある財団法人佐久間象山先生顕彰会設置の案内板から)

<参考資料> 県史跡 佐久間象山宅跡
ここは象山の曽祖父国品以来の佐久間家の宅跡で、象山は文化八年(一八一一)二月十一日この地で生まれた。天保十年(一八三九)の二度目の江戸留学まで二九年間ここに住み、藩の青年たちに学問を教えて後進の指導に努めた。
象山の父は佐久間国善(一学または神渓とも号した)といい、五両五人扶持(七〇石相当)の家だったが、剣は卜(ぼく)伝流の達人であり、また、易学をもって知られた名門であった。
屋敷の指定面積は、八七七・八平方メートルで、南方中程に表門、西方中程に裏門があった。住宅は屋敷東寄り中央に東西五間、南北三間半の茅葺平屋造りのもので、表門西脇に父神渓の槍・剣術場・学問所があり、裏門の北と南に長屋二棟があって、藩中軽輩士分の屋敷構であった。屋敷東北隅には硝石製造原土置場があった。
万治元年(一八六四)三月、徳川幕府の招きで上洛し、開国・公武合体論を主張し大いに画策したが、同年七月十一日京都三条木屋町で刺客の凶刃に倒れた。享年五四歳。佐久間家は断絶になり、屋敷は藩に取り上げられ、後に住宅も破壊された。当時をしのばせるものは、住宅の西北隅にあった井戸のみである。
(長野市教育委員会設置の案内板から)

<参考資料> 茶室 煙雨亭(えんうてい)
佐久間象山は、松代における九年の蟄居の後、元治元年(一八六四)三月幕府の招きに応じて京都に上り、しばらくして三条木屋町の鴨川べりの一戸構えに移った。その家は平屋で広く、茶室までも備わり、鴨川を隔てて東山・八坂の塔なども見える、眺めの良い家であった。象山は雨に煙る情緒豊かな風情を愛で、煙雨楼と名づけた。同年七月十一日、攘夷論者のため悲業の最後を迎える迄に僅か二ヶ月の住居であった。
この茶室は、その煙雨楼内の茶室で、昭和四十年頃解体の折、京都象山会の高岡謙次氏がその資材を譲り受け保管されていた。
昭和五十六年にこの資材をご寄贈いただき、象山の往時を偲び後世に伝えるため煙雨亭と名づけ、象山ゆかりの地に同年移築したものである。
(長野市教育委員会設置の案内板から)


190823_1023_山寺常山邸(長野市松代町) 190823_1025_山寺常山邸(長野市松代町)
山寺常山邸
190823_1031_竹山随護稲荷神社(長野市松代町) 190823_1039_恵明禅寺(長野市松代町)
竹山随護稲荷神社 恵明禅寺

<参考資料> 山寺常山(やまでらじょうざん)邸
山寺家は松代藩で知行160石の中級武士の家格でした。江戸時代の終わりには山寺常山( Wikipedia )を輩出し、鎌原桐山(かんばらとうざん)、佐久間象山とともに松代の三山と称えられました。常山は号で幼名を久道、のちに信龍(しんりゅう)と名のり、通称源太夫(げんだいゆ)といいました。
常山は若かりし頃、江戸に出て儒学者佐藤一斎や中村敬宇(なかむらけいう)らと親交を深めました。八代藩(※松代藩の間違いか?)主真田幸貫の信望も厚く、藩政にも尽力し、寺社奉行、郡奉行を務めたほか、藩士に兵学を教授し、また藩主の側にあってはその政務を補佐しました。
明治になってからは中央政府の招きを固辞し、藩に留まり、晩年は長野に塾を開いて門人の教育につとめました。
現在、山寺常山邸には、江戸時代終わりから明治初期にかけて建てられたと推定される表門と、この表門の南側に大正時代終わりから昭和初期にかけて建てられたと推定される書院(対竹廬:たいちくろ)が残されています。ただし、屋敷内の主屋等は大正時代には失われており、その規模などを知ることはできません。
表門はいわゆる長屋門形式で、その全幅は約22メートルあり、松代城下に残る門のなかでは最大です。また、書院も近代和風建築の秀作であり、背後の山(象山)との調和もよく、時代差を感じさせない優れた意匠性を見ることができます。なお、現在の園池は大正時代に造られたものを再整備したものです。
屋敷内北寄りに建つ山寺常山の頌徳碑は、孫の塩野季彦( Wikipedia )らが、長野城山に建つ碑文の摩耗を憂いて、昭和15年にここに建立したものです。
(長野市設置の案内板から)

<参考資料> 武家屋敷庭園の特徴
松代町の武家屋敷庭園の特徴は、大名庭園とは異なり、武士の日常の暮らしと密着した生活の庭であるということです。鑑賞専用の庭ではないため、巨石、銘木なども少なく岩組みも質素なもので、伝統的な日本庭園の様式を感じさせるものはほとんどありません。泉水(池)には、観賞用だけでなく食用として鯉が飼われ、別に洗い場も作られ洗濯などにも利用されていました。また、庭園の植木は造園樹木だけでなく、カキ、ウメ、アンズなどの食用の果樹も植えられました。多くの庭園には縁起物としてカシワが植えられ、その葉は柏餅など食べ物を包むためにも利用されました。
松代町の武家屋敷庭園のもう一つの特徴として、周辺の山並みを景色として取り込んだ借景式庭園であることがあげられます。この山寺常山邸の庭園も象山を借景としています。
(案内板から)

<参考資料> 泉水路(せんすいろ
松代町の各武家屋敷の泉水(池)は、「泉水路」と呼ばれる水路でつながっています。さらに城下町には、「泉水路」の他にも、住民の誰もが利用できる水路網が張り巡らされていました。この水系システムが貴重な文化遺産として注目されています。
水路はその機能ごとに3つに分類されます。まず、武家屋敷の池から池へ流れる「泉水路」と呼ばれる水路で、泉水(池)の水量を確保しただけでなく、農業用水、防火用水、夏の散水、冬の雪落し、下流での洪水を防ぐ遊水池、養鯉など、極めて多様な機能を果たしていました。次に「カワ」と呼ばれる道路の脇を流れる水路で、周辺の農業用水や選択などの家庭用中水道としての役割も果たしていました。元来は道路の中央を流れていました。さらに、屋敷裏の背割りを流れる「セギ」と呼ばれる水路で、武家屋敷の畑の灌漑用として利用されていました。
この水系システムは、江戸時代から現在まで受け継がれており、松代町の武家屋敷の特徴です。全国的にいても、このような水系システムを有しているのは、この松代町だけといわれています。
(山寺常山邸に設置された案内から)

<参考資料> 
寺号 黄檗宗 象山 恵明禅寺
本尊 釈迦如来
大本山 黄檗山 萬福寺(京都市宇治市)
黄檗開祖 隠元禅師(中国僧一五九二~一六七三)
恵明禅寺は第三代松代藩主真田伊豆守幸道公の開基で、延宝五年六月(一六七奈)の造営であり開祖は黄檗二祖木庵禅師(中国僧一六一一~一六八四)である。文政八年五月(一八二五)本堂から出火、おりからの烈風にあおられ本堂、開山堂、霊屋、庫裡、鐘楼そして木庵禅師伝来の佛像、什物等ことごとく灰燼に帰してしまい、僅かに地蔵堂、不二庵、山門を残したのみであるが、また暫くして不二庵から出火、地蔵堂とともに焼失してしまい、当時から残るは山門のみである。
このようにして再度の災禍によるも、天保四年十月(一八三三)第八代松代藩主真田伊豆守幸貫公により本堂、霊屋、鐘楼、庫裡が再建される。堂内には釈迦三尊をはじめとして、中国佛師による木庵禅師像、幸貫公自作の布袋和尚像、それに享保八年三月(一七二三)第四代松代藩主真田伊豆守信弘公により真田屋敷より遷座された稲荷大明神等が祭り祀られている。また、境内には第三代松代藩主真田伊豆守幸道公の奥方「豊姫」、松代雅楽の祖宮島春松先生、松代文化財愛護功労者長岡助治郎先生、天文学者西澤茂台先生等の墓がある。

寺号の由来 開祖木庵禅師が中国で最後に住持されていた寺が泉州の象山慧明寺であり、これに因み象山恵明禅寺と号す。
(境内に設置された案内板から)

<参考資料> 
第三代松代藩主 真田幸道公の奥方
豊姫の霊屋
豊姫は伊予宇和島藩主伊達宗利公(仙台藩祖伊達政宗公の孫)の息女で、万治二年十二月十日(一六五九年)江戸邸で生まれる。
延宝元年七月二十六日(一六七三年)十五歳にして、幸道公(十七歳)に嫁ぐ。豊姫が実家から「鉢植の杏」を取りよせ愛賞されていたことがあって、これが杏の樹が松代に来た始めであると言われている。
以来、アンズが薬用樹として松代藩の殖産興業の一つとして藩内に広く採植されるに至った。享保十八年七月五日(一七三三年)七十五歳にて卒。
法名 法雲院 殿慈栄元光尼禅師
(案内板から)

<参考資料> 宮島春松
松代雅楽の育成者 松代町竹山町
嘉永元年(一八四八)~明治三十七年(一九〇四)
享年五十七歳 菩提寺・恵明寺

松代藩士宮島嘉織(※)の長男として生まれ、漢学を松木厳八に、雅楽を金井御楯に、英仏語を武田斐三郎に学ぶ。陸軍省翻訳官となり、多くのフランス式兵書を訳した他、「欧州小説 哲烈 禍福譚」等も翻訳。雅楽の造詣が深く、東京本郷で雅楽協会を組織する一方、郷里松代での後継者育成にも心血を注ぎ、自らも「松代雅楽」と称される五十余曲を作曲、日本三代雅楽の一つに育てあげた。
(案内板から)

<参考資料> 長岡助治郎
文武学校の保存・松代雅楽の普及者
明治四年(一八七一)~昭和十四年(一九三九)
享年六十九歳 菩提寺・恵明寺
松代藩士長岡茂一の次男として生まれ、松代小学校音楽教師となる。飯島忠夫らとともに、宮島春松から松代雅楽を学び、春松の衣鉢を継ぎ、雅楽協会松代支部を組織し雅楽普及につとめた。
文武学校の保存・大門踊の復興・松代城模型制作等にも力を尽くし、松代の伝統文化を後世に残す。大正八年、松代町史編纂につとめた。
(案内板から)


190823_1042_松代象山地下壕(長野市松代町) 190823_1043_松代象山地下壕(長野市松代町)
松代象山地下壕入口 地下壕内部
190823_1047_松代象山地下壕(長野市松代町) 190823_1050_松代象山地下壕(長野市松代町)
削岩機ロッド 未完の地下壕
190823_1054_松代象山地下壕(長野市松代町) 190823_1057_松代象山地下壕(長野市松代町)
トロッコ枕木の跡 見学最深部 測点跡

<参考資料> 松代象山地下壕
松代大本営地下壕( Wikipedia )は、舞鶴山(現気象庁松代地震観測所)を中心として、皆神山、象山に基盤の目のように掘り抜かれ、その延長は約十キロメートル余りに及んでいます。
ここは地質学的にも堅い岩盤地帯であるばかりでなく、海岸線からも遠く、川中島合戦の古戦場として知られている要害の地です。
第二次世界大戦の末期、軍部が本土決戦の最後の拠点として、極秘のうちに、大本営、政府各省等をこの地に移すという計画のもとに、昭和十九年十一月十一日から翌二十年八月十五日の終戦の日まで、およそ九箇月の間に建設されたもので、突貫工事をもって、全工程の約八割が完成しました。
この建設には、当時の金額で一億円とも二億円ともいわれる巨費が投じられ、また、労働者として多くの朝鮮や日本の人々が強制的に動員されたと言われています。
なお、このことについては、当時の関係資料が残されていないこともあり、必ずしも全てが強制的ではなかったなど、さまざまな見解があります。
松代象山地下壕は、平和な世界を後世に語り継ぐ上での貴重な戦争遺跡として、多くの方々にこの存在を知っていただくため、平成元年から一部を公開しています。
松代象山地下壕の現況
総延長 五、八五三.六メートル
(うち一三八・七メートルは信州大学宇宙線地下観測室となっている。)
概算堀削工量 五九、六三五立方メートル
床面積 ニ三、四〇四平方メートル
(長野市設置の案内板から)

削岩機ロッド
削岩機はコンプレッサーから送られる圧縮空気を操作する搾手部と、回転する鉄棒のロッド部と、その先端についた岩を砕くビットから成っている。
当時はこの削岩機により岩に穴を開け、そこにダイナマイトを仕掛け破砕した。この時抜けなくなったロッドが壕内に数本ある。
なお、削岩機のロットによる穴跡は壁面に無数に残っている。

トロッコ枕木の跡
壕内で彫った石屑(ズリ)はトロッコに乗せて壕外に搬出された。トロッコは土木工事用の運搬手押し4輪台車で、枕木によって固定されたレール(軌条)上を走行していた。
その枕木の周囲に砂が落ち凹ができた。その凹の跡が当時の作業を如実に物語っている。

測点跡
壕を精巧な網の目状に堀削するにあたり、壕の東西・水平を測量した跡といわれている。
天井に四角い杭がささっており、その先には釘の先端が残されているが、これは測量時におもりをぶら下げたものと考えられている。


190823_1112_象山登山道(長野市松代町) 190823_1122_象山登山道(長野市松代町)
象山登山口 途中の東屋
190823_1130_象山山頂(長野市松代町) 190823_1131_象山山頂(長野市松代町)
象山山頂 山頂からの眺め

今回は、ウォーキングルート(スポット)には指定されていない象山山頂も訪ねてみました。前日の雨降りの影響もあり、登山道には多少の泥濘があったものの、どうにか山頂にたどりつくことができました。


190823_1157_旧横田家住宅(長野市松代町) 190823_1207_寺町商家(長野市松代町)
旧横田家住宅 旧金箱住宅(寺町商家)
190823_1213_蓮乗寺(長野市松代町) 190823_1222_長国寺(長野市松代町)
蓮乗寺 長国寺
190823_1235_梅翁院(長野市松代町) 190823_1243_旧松代藩鐘楼(長野市松代町)
梅翁院(魚濫観世音) 旧松代藩鐘楼

<参考資料> 大英寺の歴史
皓月山大英寺は、松代藩初代の藩主真田信之が、その奥方であった小松姫(大蓮院殿)の菩提を弔うために建立した寺である。
小松姫は徳川家の重臣本田忠勝の娘であり、しかも徳川家康の養女となって嫁いだので、信之を助け大変立派な奥方だったといわれたが、元和六年に小松姫が亡くなると信之は大変に落胆して嘆きもひとしおであった。
小松姫の戒名は、大蓮院殿英誉皓月大禅定尼で、大英寺の名前もこれによる。
小松姫が亡くなったのは、信之がまだ上田城主の頃だったので、上田の常福寺(今の芳泉寺)に葬られて、お墓やお霊屋が建てられたが、元和八年、信之は松城(松代)へ転封になったので、松城に大蓮院殿の寺を移し、これが今の大英寺である。
上田に造ったお霊屋と鐘楼を運んで建てなおした。(このお霊屋が現在の本堂で県宝に指定されている。)その頃の大英寺にはお霊屋や鐘楼のほかに、諸堂が建立され大変立派だったと伝えられている。
完成した大英寺は、常福寺の含霊大和尚によって開山された。
慶安二年には幕府より百石の御朱印を頂戴し、宝永七年に本堂と庫裏、衆寮などを建立した。享保十九年火災を起こして焼失し、寛保元年に再建に着手し同二年完成した。また天明五年お霊屋の大修理等、全て松代藩真田家によって行われた。
明治維新のあとは、真田家の援助も領地もすべて無くなってしまったので、大きな寺の維持は困難になり、いくつかの堂を取り壊し、真田家にお願いして、お霊屋を本堂にし、残りの材で庫裏も造った。
大英寺は、江戸時代初期からの歴史が境内の所々にみられる、浄土宗の由緒ある寺である。
(皓月山大英寺設置の案内板から)

<参考資料> 長野県宝 大英寺本堂及び表門
この本堂及び表門は寛永元年(一六二四)真田信之が、夫人大蓮院殿英譽皓月大禪定院尼(徳川家康の養女、実は本田忠勝の娘、小松姫)の霊屋として建立したもので、萬年堂とも称した。明治初年大英寺の諸堂が取り壊された際に、この霊屋を同時の本堂に代要したものである。外観は円柱に舟肘木(ふなひじき)、一軒で簡素であるが、内部は、内・外陣境に円柱を立てて、中敷居格子の間仕切りを設け(今、格子戸はない)柱上に出組の組物を置き、内陣奥に来迎柱を立て、禪宗様仏壇をおく。但し来迎壁を取り除いて佛像を安置しているのは、寺の本堂にしたときの改造である。
内部の彩色は天明五年(一七八五)修理の再彩色である。柱や組物には、極彩色が施され豪華な建物である。
太い柱で、木割も太く垂木には反りをもち縁束(えんづか)を柱筋に揃えているなど古風な造りで、真田家霊屋中最も古い建物である。
表門も霊屋の正門として同時に建立されたもので、霊屋にふさわしい豪壮な桟瓦葺(さんかわらふ)き四脚門である。
(長野市教育委員会・大英寺設置の案内板から・平成15年)

<参考資料> 松代製糸改良組跡地
明治後期に結成された松代の産業組合製糸。明治42年(1909)の松代町内製糸工場一覧(農商務省工務局工務課編纂)に、松代製糸改良組再繰工場、代表者大里孝、職工数男4人、女15人の記載がある。揚げ返し仕上げの再繰工場だった。
(案内板から)

<参考資料> 松代 魚濫観世音
真田十万石松代藩初代信之公側室
多摩川井豫守女 右京
梅翁院殿正岳妙貞大姉淑霊
寛文十一年辛庚年(一六七二)十一月五日歿

当院開基は極めて聡明なひとにて、信之公に忠義甚だ厚く寵愛を一身にあつめ、公が晩年隠居万治元年入門して一當齋と号されたが、その極老にまで日夜身辺に付き添われた。一當齋は同年十月十七日柴村にて九十三歳薨去(「御遺物雑記」によれば多摩川井豫守女右京は金子千両の配分を受けられた)。
その後は剃髪して妙貞と云い清花院殿と稱された。京都の尼寺に住して日頃信仰の魚濫観世音をまつりて信心を込め専ら信之公の冥福を念じたといわれる。歿後真田家が右京尼とその両親の菩提を弔うため当寺を創立開基として改めて戒名を梅翁院殿正岳妙貞大姉と尊稱した。当院にその墓所がある。開山は長国寺六世稟室大承和尚である。
當山二十世、あるとき感応を蒙り魚濫観世音を勧請し、一心に信仰していたが、はからずも開基右京尼が生前守り本尊として祭祀していたことが口碑に伝わっていることを知り驚き、深く感銘を受ける。
魚濫観世音は水縁深くものを生み、また育てる力を具備し、妙智力を持って善男善女に利益を授けられる菩薩である。憶念の信力により加護を蒙るは必定なり。この祈願殿安座の尊像は江戸中期の作と云われる。
(案内板から)

<参考資料>
本尊  釈迦牟尼仏
観音堂 魚濫観音
松代藩初代藩主真田信之の側室玉川伊豫守女右京(梅翁院)とその両親の菩提を弔うため真田家が創立。開山は長国寺六世稟室大承。
右京は、魚濫観音を篤く信仰。水と縁が深い観音様で、善男善女に多くの利益を授けるとされ、観音縁日や二年参り祈祷祈願法要などには多くの人が参集する。
現本堂は文久元年(一八六一)の再建。天蓋は真田家霊屋から移したもの。曹洞宗参禅道場も併設されている。墓地入口に右京の墓、かわいらしい一つの光背の六地蔵、童謡「見てござる」の歌碑がある。
(案内板から)

<参考資料>
長野市指定有形文化財 旧松代藩鐘楼
旧松代藩鐘楼は真田信之が松代に入封直後に建てられたとされ、当初は火の見櫓の役割を兼ねていた。
昼夜の区別なく一刻(二時間)ごとに時刻を知らせたほか、城下で出火があった際にも鐘を撞いて非常を知らせていた。
その後三度の火災に見舞われ、現在の鐘楼は享和元年(一八〇一)の再建にあたり、鐘楼と火の見櫓を別棟にして造営された。
また鐘は太平洋戦争で供出され、現在のものは平成三年に旧鐘の寸法や重さを摸して取り付けられたものである。
この鐘楼で、江戸の末期に、佐久間象山が電信実験をしたという言い伝えが残されている。
構造は石積みの基壇の上に立つ井楼式高櫓形鐘楼で、高さは約十二メートル、屋根は切妻の瓦葺きである。
屋根まで伸びる四隅の柱を保護するため、支え柱を立て、下見板張りとしている。
内部は三層になっており、土間を除いて床は板張りとし、各階をはしごでつないでいる。
平成二十二年度から、保存修理工事を実施、あわせて周辺を広場として平成二十六年三月まで整備した。
(長野市教育委員会設置の案内板から)


ランキングに参加しました。
Click >>> にほんブログ村 長野情報
Click >>> 人気ブログランキングへ
管理人ホームページ Click >>> 日本列島夢紀行 信州からあなたへ

拍手[0回]

【諏訪市ライブカメラ】
twitter
ブログ内検索
ブログランキング投票
- ランキングに参加中 -
ポチっとクリック!

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 地域生活(街) 中部ブログ 長野県情報へ
にほんブログ村
プロフィール
HN:
管理人ひろさく
性別:
男性
趣味:
里山めぐり
自己紹介:
長野県長野市在住。
カテゴリー
最新コメント
[01/13 管理人ひろさく]
[01/12 たっきー]
[10/25 たっきー]
[08/18 管理人ひろさく]
[08/18 たっきー]
カウンター
現在の訪問者数
アクセス解析
忍者アナライズ

Template By Emile*Emilie / Material by Auto-Alice
忍者ブログ [PR]