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松本市和田境の西善寺では、22日まで寺宝の「涅槃図」を公開しています。
寺に保管されているこの「涅槃図」は、縦4.4m、横5.1mあり、本堂の天井から吊るしてもすべてを公開することができないため、隣接する公民館の一室に広げ展示されています。
描いたのは松本藩の絵師であった笹田養跡・養徳の二人で、釈迦が入滅した際、仏弟子や動物たちが集まり、嘆げ悲しむ様子を色彩豊かに描いています。
西善寺では、春の彼岸に限り、この「涅槃図」を公開しているということです。拝観料300円。 (写真=20日撮影)
<管理人ひとこと>
西善寺では「涅槃図」の公開に併せて、寺宝の「木造阿弥陀如来像及び両脇侍像」や「木造延命地蔵菩薩半跏像」、寄進者の名前が刻まれた新旧百万扁の大数珠、長さが日本第2位といわれる全長6.7mの雨乞い名号軸(弾誓四世空誉上人書)なども見学することができます。
<参考資料> 西善寺
西善寺は、いつ頃誰によって開かれたのかは、はっきりしておりませんが、江戸時代の天和3年(1683)、僧の本明が中興したといわれております。この和田境の地にあって、何百年もの間私達の信仰のよりどころとなってきたお寺でした。西善寺が松本市清水の光明山念来寺(本寺は東叡山寛永寺凌雲院末の浄発願寺天台宗)の組寺(隠居寺)となった時期は記録にはありませんが、明治3年(1870)の廃仏毀釈のおり、念来寺(別称・清水の大仏)の巨大な仏像、絵画書軸などは難を逃れて天領の地の組寺・西善寺に運びこまれました。廃仏毀釈というのはご存知のように、明治政府によって行われた仏教廃止運動です。明治以前は全国のいたるところで寺院と神社は神仏習合しておりました。人々は神と仏を共に信仰しておりましたが、国家神道を推進する政府の徹底した神仏分離政策により地域によっては仏像、経典、伽藍などが焼却されました。この運動の最も激しかった代表的な地域のひとつが松本藩でした。
西善寺の檀徒である私たちの祖先が、念来寺から大仏などを大八車にのせて境村に運んでくる沿道からは、大勢の人々から南無阿弥陀仏と共に、沢山の賽銭(さいせん)が寄せられたと伝えられています。この日から、念来寺の寺宝は西善寺の寺宝となり、四十五戸の村人に守られて今日に至りました。 (案内から)
全長23mある新旧百万扁の大数珠 | 全長6.7mの雨乞い名号軸 |
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