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150921_1757_道の駅すず塩田村から望む夕陽(石川県珠洲市)
道の駅すず塩田村から望む夕陽
(石川県珠洲市)

シルバーウィークを利用して、能登半島最先端の珠洲岬(地図)に行ってきました。
長野市からだと、上信越道・北陸道(金沢森本経由)・能越自動車道を利用した場合の走行距離は約400キロ。能越自動車道の終点・能登空港からは珠洲岬までの一般道を除くと、行程のほどんとがノンストップの高速道として整備されていますが、それでも片道だけで5時間も走ることから、ちょいと気楽に能登半島まで…とはいえない位置にこの珠洲岬はあるのです。
然しながら、この珠洲岬。古から、灯台のある「禄剛崎」であったり、パワースポットとして注目されている「金剛崎」であったり、いやいや、すべての「岬」を含めた総称である、など諸説( Wikipedia )があり、実際のところ何れが珠洲岬なのか定かではありません。
ここでは、管理人・ひろさくが長野から最も遠いと感じた「能登半島最北端」の碑がある「禄剛岬」を珠洲岬として、道中のできごとや見どころを記してみたいと思います。

<参考HP>
・ おもてなし半島能登
  (能登半島広域観光協会)
  http://www.notohantou.com/
・ 能登観光ポータルサイト「のとねっと」
  http://www.notohantou.net/


のと里山空港
150921_1336_のと里山空港(石川県鳳珠郡穴水町) 150921_1332_のと里山空港(石川県鳳珠郡穴水町)
のと里山空港
※写真右奥が道の駅能登空港
150921_1323_のと里山空港(石川県鳳珠郡穴水町) 150921_1331_のと里山空港(石川県鳳珠郡穴水町)
空港2階にはドラマ「まれ」のセットも

のと里山空港(能登空港)
上信越自動車道・北陸自動車道・のと里山海道を延々と走り、走行距離約340km、所要時間約4時間かけて到着したのは、能登半島観光の玄関口ののと里山空港( Wikipedia )。現在、全日空の定期便が毎日2便、東京・羽田を結んでおり、能登半島を訪れる観光客や、関東圏に出かける地域住民の貴重な交通手段として利用されています。また、空港に隣接して、将来のパイロットや航空機関士などを養成する日本航空学園(本部=山梨県甲斐市)輪島校があり、この空港を利用して、生徒さんたちの軽飛行機による訓練もも行われているそうです。
空港内は、搭乗関連のエリアを除き見学自由。さすがに競合相手である北陸新幹線を祝うようなムードはなく、専ら目にしたのは、能登半島が舞台となったNHKの連続テレビ小説「まれ」( Wikipedia )関連のデスプレイでした。なかでも、空港2階にあるレトロ感たっぷりのセットは、「まれ」のファンでなくとも、ついつい引き込まれてしまいそうなほどで、訪れたこの日も大勢の観光客がセットを背景に記念撮影をする姿が見られました。
道の駅が空港内にある全国的にも珍しいのと里山空港。運転に疲れたら、ちょっと立ち寄ってみてはいかがでしょうか。
 
<参考HP>
・ のと里山空港
  http://www.noto-airport.jp/


須須神社
150921_1500_須須神社(石川県珠洲市) 150921_1457_須須神社(石川県珠洲市)
須須神社
※写真右は珍しい親子の狛犬
150921_1453_能登半島の町並み(石川県珠洲市寺家) 150921_1445_能登半島の町並み(石川県珠洲市寺家)
珠洲市寺家の国道沿いにあるポケットパーク
※この地域の想定津波高14.9mを意識した造りの施設にも

須須神社
東京から能登まで、飛行機だとわずか1時間で到着するのに、長野からだと4時間もかかる能登半島。そんな凹む気持ちを奮い立たせ、次に向かった先は、義経・弁慶の伝説が残る須須神社( Wikipedia )。
兄・源頼朝に追われた源義経と弁慶一行は、奥州平泉を目指す途中、この能登半島を訪れ、各地にその足跡を残しています。須須神社は、船で通過する際に地化に遭い、須須神社の神様のご加護もあって無事これを通過。そのお礼に立ち寄ったのが須須神社で、ここには名笛・蝉折れの笛や、弁慶の守刀が奉納されています。また、神社境内にある狛犬のひとつには、子犬と一緒の珍しい狛犬があり、安産や育児にもご利益があると伝えられています。

<参考資料> 須須神社
≪縁起≫
御祭神 高座宮
 天津日高彦穂瓊瓊杵尊(あまつひだかひこほににぎのみこと)
 美穂須須美命(みほすずみのみこと)
御祭神 金分宮
 木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)

当社は高座宮・金分宮の両社にご夫婦の大神様を祀り、須須神社と称し「三崎権現」・「須須大明神」と尊崇され、東北鬼門日本海の守護神として、あまねく信仰され、災難除けの御神徳あらたかな御社であります。
第十代崇神天皇(約二〇〇〇年前)の御代能登半島最東北端の山伏山(鈴ヶ嶽)の頂上に創建され、天平勝宝年間に現在の地に遷座した国史現在社・延喜式内社であります。
古代より縁結びの神として、世に知られており、この「むすび」とは単に男女の仲を結ぶだけでなく生成化育、修理固成という日本民族の根本精神である神業を、みずから妹背(ふうふ)の契を結び子孫繁栄の道を示し教えられた尊い祖神(おやがみ)さあであります。
かように、生業繁栄・五穀豊穣・大漁・交通安全・学業成就・縁結び・安産・育児・病気平癒・槌児祈願・鬼門除け等の大御稜威(おおみいつ)あらたかな日本海の守護神とし、古くから三崎大権現として深く信仰されています。

≪宝物≫
木造男神像五躯(国重要文化財)
鎌倉時代のもので、素朴でいずれも表情を異にし写実美をおびた衣冠束帯の座像です。
社叢(国の特別天然記念物)
蝉折れの笛と守刀(義経の笛と弁慶の守刀)
文治三年(一一八七年)源義経が兄頼朝に追われ奥州平泉へ下向の際、須須岬沖合で地化に会い無事難をのがれた御礼として、平家の名宝とも伝えられる義経愛用の笛と弁慶が寄進した「左」銘入りの守刀です。
義経・弁慶の献詠
「都より波の夜昼うかれきて道遠くして憂目みる哉」義経返歌「憂目をば藻塩と共にかき流し悦びとなる鈴の御岬は」
前田利家公献詠
「ほうくわん殿この笛をこのすずのやしろにささげ給へるとなんありしよのそのあらましをきくからに袖さへぬれてねにそなかるる」
法華経八巻
文明一二年(一四八〇年)蓮如上人の奥方真如院(幼名蓮能)が一六歳の時、父の七回忌を祈念し納経されたものです。
他、翁面(古珠洲焼)、隠切支丹崇拝像、古文書(県指定有形文化財)七〇余通があります。
(案内板から)

<参考資料> 源義経を護った須須神社
150921_1507_須須神社(石川県珠洲市)
蝉折の笛(上)
弁慶寄進の守刀(下)
天仁三年(一一一〇)、鳥羽天皇が宋朝へ万金を贈った返しとして、生きた蝉のような節の付いた笛が送られてきた。特別な笛として大切に守られていたが、ある時、高松中納言がこの笛を吹き、つい普通の笛と同じように膝下に置いたところ、それを咎めた笛は、蝉の節のところで折れてしまった。それ以来、「蝉折(せみおれ)の笛(ふえ)」と名づけられた。この笛はその後、平家から源義経の手に渡った。
文治三年(一一八七)、兄の源頼朝との不仲から追われる身となった義経は奥州へ落ちのびる際、大野(金沢市)から珠洲岬へと向かう船に乗りこむことができた。その日の昼すぎ、岬の手前で難風に遭い、三崎権現(須須神社)に無事を祈願した。まもなく風が静まり、お礼をとげるために岬に船を寄せた。
その時、弁慶がさざえに藻がついたものを拾い、義経に供えながら、
「都より 波の夜(寄る)昼 うかれきて
  道遠くして
   うきめ(憂きめ・浮き芽)みるかな」
と詠んだ。義経は、
「うきめをば
  藻塩と共に かきながし
   悦びとなる 鈴(珠洲)の御岬は」
と返し、一行をねぎらいながら、難を逃れたお礼として「蝉折の笛」を奉納したのである。それ以来、須須神社の宝物として、大切に守られている。
(「須須神社社伝縁起」より)


話題のパワースポット 聖域の岬
150921_1549_聖域の岬(石川県珠洲市・金剛崎) 150921_1547_聖域の岬(石川県珠洲市・金剛崎)
ランプの宿 聖域の岬・金剛崎
150921_1533_聖域の岬(石川県珠洲市・金剛崎) 150921_1538_聖域の岬(石川県珠洲市・金剛崎)
駐車場から海に下った先にある「青の洞窟」

話題のパワースポット・金剛崎
日本全国、パワースポットと呼ばれる地域は多数あれど、なかでも日本三大パワースポットとして挙げられているのが、霊峰・富士山、分杭峠(長野県伊那市長谷と下伊那郡大鹿村境)、そしてここ能登半島の先端にある聖域の岬(金剛崎)。
これらの地域が、何故にパワースポットとして特別な地域なのか、詳しくは Find Travel ( http://find-travel.jp/article/20065 )をご覧頂きたいのですが、今回の旅では、ここがいわゆるパワースポットだとは露知らず、何やらわんさか集まる人だかりにつられて出かけてしまった…というのが本音。既に日は西に傾き、心細さも募るなか、何故かここだけはそのようなことはお構いなしに、後から後から県外ナンバーの車が駐車場に入るため列を作り、独特な雰囲気を醸し出していました。それもそのはず、ここは日本三大パワースポットのひとつなのだから。人を導く何かがやはりあるのかもしれません。
聖域の岬・金剛崎には、岩窪にある石が波に洗われ、長い年月をかけて成形した「穴」(パワーホール)や、義経と弁慶一行が舟を隠したと伝わる「青の洞窟」、断崖に寄り添うように建つ「ランプの宿」を見下ろすように突き出た「空中展望台」など見どころはたくさん。料金はちょいと高めの大人1500円。躊躇してしまいそうなお値段ですが、なかなか経験できる場所じゃないなぁ…と感じたら、迷わず、一度は訪ねてみても良いかもしれません。

<参考HP> 
・ ランプの宿
  http://www.lampnoyado.co.jp/

150921_1553_聖域の岬(石川県珠洲市・金剛崎)
中日新聞記事
借用したヘルメットを返却しにガイドセンターに行く途中、ウィンドウに一枚の新聞記事が張ってありました。題名は”珠洲市沖に眠る「僚艦」”(中日新聞)。
昭和20年6月10日、海軍潜水学校七尾分校に練習艦として瀬戸内海から七尾港に浮上航行中だった伊号122( Wikipedia )が、米潜水艦・スケートの攻撃を受け、石川県珠洲市の禄剛岬沖10キロの地点で沈没。僚艦の伊号121は前日9日に七尾港に到着しましたが、沈んだ伊号122は京都・舞鶴港での修理により伊号121より1日遅れたためこの惨事に遭遇しました。
当時、アメリカ軍は機雷が敷設された対馬海峡を突破し、日本海における制海圏を構築する目的( Wikipedia )で、何隻かの潜水艦が侵入していました。伊号122を攻撃したスケートもそのうちのひとつで、伊号121が石川県沖を通過した9日は攻撃前の休息日だったため攻撃を受けずに済み、京都・舞鶴港での修理のため遅れ、攻撃を受けた伊号122とは、まさに1日の差で生死を分ける結果となったのでした。
 記事は伊号121の乗務員だった男性への取材が主体で、戦後、広島県呉市の海軍墓地内に慰霊碑を建て、命日には毎年、亡くなった犠牲者の遺族や生き残った元乗組員が集い供養されていたそうです。しかし、時が経過するなかでこうした惨事が次第に風化し、今では地元の珠洲市でも、沈没した潜水艦のことを知る人が少なくなっているということでした。
 
道の駅狼煙と禄剛崎
150921_1621_能登半島最北端・禄剛崎(石川県珠洲市)
禄剛埼灯台
聖域の岬から北へ、県道28号線を進み、狼煙漁港を左折したところにあるのが道の駅狼煙(のろし)。のと里山海道能登空港ICから約1時間30分。今回の旅の目的地・禄剛(ろっこう)崎灯台は、道の駅から10分ほど急な坂を歩いた小高い丘の上にありました。

<参考HP>
・ 道の駅狼煙
  http://noroshi.co.jp/

<参考資料> 禄剛崎
ここは能登半島の最北端で、ちょうど外浦と内浦との接点にあたるところです。「海から昇る朝日」と「海に沈む夕日」が同じ場所から眺められることができることで有名です。また、晴れた日には、立山連峰や佐渡が島が見渡せます。この高台に立つ灯台は、明治16年にイギリス人技師が設計したものです。現在も禄剛崎のランドマークとして、この地の壮大なロマンを感じさせてくれます。
(環境庁・石川県設置の案内板から)

<参考資料> 禄剛崎灯台
この灯台は明治16年(1883年)、日本に技術指導にきていたイギリス人の設計により建設されたものです。当時は灯油で発光していましたが、昭和15年に電化され、その光は海上34kmまで達します。
古来この地は日本海を航海する人にとって重要な目印で、江戸時代にはこの間近にある山伏山の山腹に九尺四方の行燈を設け、毎夜灯火して夜間公開の目印としていました。天保7年(1836年)には海上警備のため、現在の灯台付近に砲台が築かれていました。
なおこの灯台は昭和38年まで灯台守が常駐していましたが、現在は無人灯台になっています。
(案内板から)


道の駅すず塩田村
150921_1738_道の駅すず塩田村(石川県珠洲市) 150921_1732_道の駅すず塩田村(石川県珠洲市)
塩田
※中央にある四角の桝は、かん水を溜める「沼井(ぬい)」
150921_1739_2_道の駅すず塩田村(石川県珠洲市) 150921_1739_1_道の駅すず塩田村(石川県珠洲市)
海水を運ぶ 荒塩桶 汲んだ海水を溜めておく 引桶
 
道の駅すず塩田村
150921_1733_道の駅すず塩田村(石川県珠洲市)
道の駅すず塩田村
日本海に沈む夕日を眺めながら走る快適なドライブウェイを輪島へ。長野までの道のりを考えつつ国道を急ぐと、やがて右手の海浜に能登名物「揚げ浜塩田」が見えてきました。
能登半島の製塩の歴史は古く、江戸時代以前から行われていたと伝えられています。汲み揚げた海水を塩田にまき乾燥させ、より塩分濃度の高い「かん水」を作った後に平釜で煮詰める作業は「揚げ浜式製塩法」と呼ばれ、熟練を要する作業であることはもちろん、天候に左右されることも多いことから、「揚げ浜塩」は生産量の少ない、希少な塩として珍重されています。
道の駅では、その「揚げ浜式製塩法」による作業の様子が見学できるほか、実際に塩作りの体験(期間:5月1日~9月30日要予約)も可能とのこと。詳しくは「道の駅すす塩田村」のHPをご覧ください。

<参考HP>
・ 道の駅すず塩田村
  http://enden.jp/
・ あすかりんの恋味敬食(ブログ)
  http://ameblo.jp/shanti-sky/entry-11918902013.html
 
<参考資料> 塩釜の説明
150921_1731_道の駅すず塩田村(石川県珠洲市)
塩釜
・この塩釜は、塩田の聖地・仁江海岸の釜屋で約七十年の間、使われてきたものです。
・塩釜のサイズは、直径百八十五センチ、深さ三十一センチ、重量九百八十キロです。
・一夜に、塩田で採るカン水(塩分濃度の濃い海水)を六百リットル煮詰めると、塩が百キロできます。
・釜焚きの時間は二十二時間かかり、一回の釜焚きでトラック一台分の塩木(薪)を使います。
(案内板から)

<能登・揚げ浜式製塩>
道の駅すず塩田村に到着した時間が閉館間際だったこともあり、今回の旅では塩作りの体験ができませんでした。ここでは、当地にて昭和初期頃まで行われていた「揚げ浜式製塩」の手順を、施設内の資料を参考に記してみたいと思います。
 
その壱:「塩田」の整地
下層から「岩石」「小石」「粘土」「撒(まき)砂」の順に敷かれた「塩田」を、「刎(はね)」で砂を敷き、グランド整備に使うようなT字型をした「柄振(えぶり)」で平らにした後に、「盤突(ばんつき)」で突きながら砂を固めます。
その弐:「塩田」に海水を播く
「荒塩桶」に海水を汲み、「引桶(しこおけ)」に集めます。「荒塩桶」は2斗入(36リットル)で、1回(1荷)で4斗(72リットル)を汲みあげます。「引桶」には2斗入「荒塩桶」で12杯分(432リットル)入るので、これを満たすには海水を最低6回は汲みあげることになります。想像するだけでかなりの重労働…。
「引桶」に溜められた海水は、「打桶(うちおけ)」を使い、弧を描くように霧状に塩田に播きます。塩田1区画50坪とした場合、春は270リットル、夏は630リットル、秋は180リットルの海水を播くが目安。熟練の職人でないとできない作業のひとつ。
その参:「かん砂」を沼井へ
「駒渫(おこしこま)」でかん砂(海水のついた砂)をかき、地盤からゆるめ、沼井(ぬい)を中心にかん砂を集めます。集めたかん砂は、ムシロ(※下部透過用)を敷いた沼井の中に入れ、いっぱいになったかん砂の上に更にムシロ(※上部透過用)を敷きます。
その四:「かん水」を抽出
続いて、前日の浸出液(藻垂)をかけ、更に「荒塩桶」で汲みあげた海水をムシロ(※上部透過用)の上から流しこむと、「かん砂」を透過した海水が、下に敷いたムシロ(※下部透過用)から浸み出した「かん水」が沼井の下に溜まります。これを「胴桶(どうおけ)」で汲み上げ、濃度毎に1~4番および5番に分け、1~4番までは製塩にまわし、5番は「藻垂」とします。
その五:平釜で煮焚きして塩を精製
抽出された1~4番の「かん水」を釜屋のかん水桶に入れ、ここから約3石(540リットル)を釜に移して6時間ほど荒焚きをします。荒焚きした「かん水」は再度、かん水桶に戻し、その後に「こし桶」に入れ、ゴミや不純物を取り除いた後釜に入れ約12時間焚きます。
この作業で取れる塩は約90キログラム。塩は「居出場(いでば)」へ移し、3日ほど放置して「苦汁(にがり)」を切り、カマスに詰めて運び出します。
現在、道の駅すず塩田村では1000リットルの「かん水」を17時間、釜で焚き続けるそうです。


道の駅すず塩田村の見学を終えたのは午後5時半過ぎ。ここから、北陸道・上信越道を経て長野まで帰るのにどのくらいかかるのだろう…と気も重くなりがちだった管理人の気持ちを救ってくれたのは、今まさに日本海に沈もうとしている夕陽でした。
山国・信州ではこうした風景を見たくても見ることができません。稜線を赤く染めながら沈む夕陽も綺麗ですが、海に沈む夕陽は山とは違う趣があって、とても感動しました。
また何時か、この夕陽を温泉にでも浸かりながら、眺めてみたいなぁ…と思っています。





emoji 食祭物語emoji 能登食祭市場
石川県七尾市にある七尾フィッシャーマンズ・ワーフ「能登食祭市場」のパンフに能登半島の秋の味が紹介されていました。ここでは、市場で購入した新鮮な魚介類をその場で焼いて味わう「浜焼きコーナー」も設けられているそうです。能登を訪ねたら、美味しい海の幸を味わうことも忘れずに…。

鯖(さば)
日本近海にはマサバやゴマサバなどがいます。石川県で漁獲されるほとんどがマサバで、まき網や定置網で漁獲され産卵期の5~6月と、脂がのり「秋サバ」といわれる9月~10月が最盛期です。価格も比較的低価格な上に、イワシと並んで料理法も多く、しめ鯖や味噌だきなど私たちの食卓にはお馴染みの魚です。石川県では塩や糠を浸かって漬け込んだ「サバのこんか漬け」という輔遜色が有名です。

甘海老(あまえび)
能登を代表する美味しい魚介の一つである甘海老は、底引網漁が盛んな秋から冬が旬です。頭のミソ、腹にたっぷりかかえた灰緑色の卵、とろりと口の中でとろける濃厚な甘みはたまりません。獲れたてを、お刺身で食べると最高に美味しく、寿司ネタとしても大人気で、この時期に味わいたい逸品です。また生ゆえに柔らかくとろける食感と舌に広がる強い甘みは、他の海老では味わえないものです。
(「食祭秋物語」パンフから引用)


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おはようございます
明けましておめでとうございます
本年も宜しくお願いいたします

ひろさくさんの文中の「東京から能登まで、飛行機だとわずか1時間で到着するのに、長野からだと4時間もかかる能登半島」

長野がどうのって云うよりも、東京からの便がものすごく良いって事なのかと思います・・・

日本海から塩の道を通って運ばれた日本海の塩が最後に行き着く所が塩尻で、その先の伊那谷には直接届かなかったんだとか・・・

お年取り料理を食べながら、そんな塩尻の話しが出た我が家です・・・

タッキー URL 2016.01.02.Sat 06:54 編集
今年も宜しくお願い致します
明けましておめでとうございます。
今年もどうぞ宜しくお願い致します。

昨年9月のネタを今頃UPしている状況で、こうしたちょっと長い休みがないとなかなか旅日記をまとめることができません。ただ、改めて振り返ると、結構、勉強になることも多くて、備忘録な感じで記しています。

しかし能登半島は遠かった…です。新幹線と富山や金沢から出発している直通バスを利用すれば時間短縮できるのでしょうけど、現地での交通手段にまた困ってしまいますので、やはりクルマで出かけるしかないのかもなぁ…と思っています。

その遠い能登半島の旅のなかで、個人的にとても関心があったのは、やはり製塩についてだったでしょうか。日本海の塩(北塩)は名前の如く塩尻(小野)までだったようですね。伊那谷は南塩だったと聞いています。
我が家のご先祖さまたちは、北塩の恩恵を受けていたのかもしれませんね。
管理人ひろさく 2016.01.02.Sat 07:53 編集
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