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新府城 想定復元図 |
天正10年(1582)3月、木曾義昌の謀反及び高遠城の落城により、勝頼は小山田信茂の岩殿城に移るため、完成したばかりの新府城に火を放ち撤退。
同年6月、本能寺の変の後に起きた武田旧領を巡る徳川氏と北条氏との争い(天正壬午の乱)において、甲斐へ軍を進める北条氏に対し、徳川家康が新府城に本陣を移し実戦に備える動きもありましたが、徳川氏と北条氏の和睦の後は実戦に利用された記録はなく、豊臣秀吉の小田原征伐による北条氏の滅亡後は廃城になったと伝えられています。
(写真:新府城跡=4月29日午前撮影、640×480拡大可能)
<管理人ひとこと>
新府城は、武田家の支配下にあった甲斐(山梨県)・信濃(長野県)の各地で見られる甲州流築城術が集約された代表的な城郭で、現在は草木が繁る遺構の至るところにその特徴を見ることができます。
<今回の見学順路>
北:専用駐車場→東出構→西出構→
西~東:搦手→井戸跡→二の丸→本丸→
南:大手桝形→丸馬出→三日月堀→首洗池→旧甲州街道→専用駐車場
※遺構の説明については案内板を参考
<参考HP>
・ 韮崎市観光協会
http://www.nirasaki-kankou.jp/
新府城跡(北) | |
東出構 | 西出構 |
出構の位置(案内図) | 西堀 |
<参考資料> 新府城跡出構
出構(でがまえ)は城の外郭の一部を長方形に堀の中へ突出させた大型の土盛構造である。東西に約百メートルへだてて平行に二本(東出構・西出構)が築かれている。城の裾に沿って彫られた堀は幅約七メートル、深さ約二.五メートルの断面逆台形をした箱堀で、その外側には湿地帯が広がり、深い堀と湿地帯を含め防御施設となっている。出構は新府城跡のみにみられる施設で、鉄砲陣地とも堀の水位を調整するためのダム的な施設ともいわれるが、その機能は解明されていない。
(韮崎市教育委員会設置の案内板から・平成26年)
<参考資料>
天正9年に武田氏の党首武田勝頼が新たに府中の中核として築造した新府城は、韮崎市を貫通する釜無川と塩川の2大河川の開削によって形作られた七里岩(しちりいわ)台地上にあり、その西崖を活かした要害の地に築城されている。
主郭(本丸)からは、富士山・甲府盆地・八ヶ岳が一望でき、諏訪・佐久・駿河等への交通網を掌握しやすい立地にある。また、本城の北側には能見城があり、北の守りの要となっている。釜無川をはさんだ対岸には、甲斐武田氏の初代にあたる武田信義が治めた地域が広がり、その歴史を示す願成(がんしょう)寺の木造阿弥陀如来及び両脇侍像(りょうわきじぞう)、武田八幡宮、白山城跡や武田信義館跡などの文化遺産が点在している。新府城を中心とした新たな府中の様子は未解明な点が多いが、家臣団の屋敷位置に描かれた絵図の存在や屋敷地の伝承を持つ土塁跡などの遺跡が確認されている。新府城跡とその周辺には、本城が交通・軍事・政治・経済などの様々な条件のもとに築造された経緯を知り得る良好な歴史的景観が保たれている。
能見(のうけん)城跡
能見城址 |
隠岐殿(おきどの)遺跡
戦国時代の終わり頃に築造された礎石建物跡や様々な道具が発見された遺跡である。新府城と深い関わりがあると考えられる。
新府城跡の位置づけ
新府城跡の本丸と二の丸の空間構成は、武田氏館(躑躅ヶ崎館)跡の方形の堀と土塁で囲まれた主郭と西曲輪の配置に類似した形態をなしており、新府城は武田氏の守護館を踏襲して造営されたと考えられる。当時の文献史料においても、「新御館」「新館」「御館韮崎」「館」と記されており、軍事的施設という認識以上に、館を意識した城郭であったことが窺える。
館は領国支配の中心的な役割を果たし、政権を執行するための重要かつ公的な場所である。新府城は、単に軍事的目的のためだけに築城されたものではなく、甲斐を中心に信濃・駿河・遠江(とおとうみ)・三河・西上野(にしこうずけ)・美濃・飛騨に広がる武田領国を統治する政庁=館としてつくられたものである。
(文化庁・山梨県教育委員会・韮崎市教育委員会設置の案内板から・平成24年)
<参考資料> 新府城跡北側の堀
新府城跡の北側山裾には外側に向かって帯廓・土塁・出構・堀などの諸施設が設けられているが、西堀(水堀)意外の堀跡は、周辺の湧水を水源とした水田が開かれるなど、廃城後の土地利用による改変で旧状は不明であった。
環境整備事業にともなう発掘調査により、中堀では、山際から埋もれていた深い堀跡が確認された。この発見された堀は、断面が逆台形状となる箱掘(はこぼり)と推定され、西堀の東端から始まり、堀幅は6~7m、深さは2.5m前後で、西出構の手前で閉じている。また堀の北側には堀と平行する低い土手状の高まりが見られる。堀は直線ではなく2箇所に折れ(※堀・土塁などを屈曲あるいは折り曲げた構造で、側面から敵への攻撃を可能にする。「横矢」ともいう。)をもった構造で、城側の土塁も同じ箇所で折れをもつ。この堀は、西出構の東側と東出構の西側の両方で閉じている。東出構の東側では深い堀は確認できていない。今回の調査によって、築城時には中堀・東堀の山際は幅約6~7m、深さ2.5mの深い堀と、その北側は幅30m前後の湿地帯がセットになって城の北側を防御していたことが明らかとなった。そのため整備では深い堀跡と浅い湿地帯の形状を復元し、新府城の使用時の状況を伝えることを主眼とした。西堀(水堀)は、発掘調査を実施せずに現状のまま樹木の間伐と植栽などの修景を行った。
(文化庁・山梨県教育委員会・韮崎市教育委員会設置の案内板から・平成23年)
新府城跡(西~東) | |
搦手・桝形虎口 | |
擂鉢状の井戸跡 | 二の丸 |
蔀(しとみ)の構 | 本丸:武田勝頼公霊社 |
<参考資料> 新府城跡
新府城は、天正9(1581)年に武田勝頼によって築城された。城は未完成であったが、同年の9月頃には友好諸国に築城が報じられ、12月24日に躑躅ヶ崎館(武田氏館跡 山梨県甲府市)からの移転が行われた。しかし、天正10年3月3日、勝頼は織田軍侵攻を目前にして自ら城に火を放ち退却し、3月11日に田野(山梨県甲州市)において、夫人と息子信勝ともに自害し、武田氏は滅亡した。その後、同年に徳川氏と北条氏による甲斐国争奪をめぐる天正壬午の戦いがおこり、徳川家康は新府城を本陣として再利用した。
新府城が立地する七里岩(しちりいわ)は、八ヶ岳の山体崩壊にともなう岩屑流が、西と東側を流れる釜無川と塩川の侵食によって形成された台地で、西側の断崖絶壁は韮崎から長野県の蔦木(諏訪郡富士見町)まで約30km続き、奇観を呈している。台地上には、100を越す「流れ山」と呼ばれる小高い丘・小山があり、新府城は七里岩台地南端の標高約524mの「西の森」と呼ばれた小山に築かれ、西側は釜無川をのぞむ急崖となっている。
城の土の切り盛りによって造成が行われ、山頂の本丸を中心に、西に二の丸、南に西三の丸・東三の丸の大きな廓が配され、北から東にかけての山裾には堀と土塁で防御された帯廓がめぐり、南端には大手桝形・丸馬出・三日月堀、北西端には搦手(からめて)があり、全山にわたって諸施設が配置されている。搦手の廓は東西100m、南北25mの東西方向に細長い長方形をしており北側には水堀と土塁、東から南側にかけては空堀、西側は比高差90m程の七里岩の断崖となっている。城の北西隅につくられている乾門は、西側は七里岩の崖、東側が水堀でこの間を土橋でわたる構造で、大手と同様に内側が大きく、外側が小さい土塁によって囲まれたやや変則的な門の桝形虎口で、桝形内部空間は東西約13m、南北約12mの広さがあり、外側門(一の門)は北西角、内側門(二の門)は南東隅寄りに設けられている。
(文化庁・山梨県教育委員会・韮崎市教育委員会設置の案内板から・平成19年)
<参考資料> 井戸跡
本遺構は、調査前の上端の直径が32mある擂鉢状の大きな窪地で、発掘では現状の地表面から4mの深さになっても底に到達しなかった。七里岩台地の堅い地盤を堀りくぼめ、浸み出した水や雨水を集める構造であったと思われる。井戸底まで螺旋状の通路が設けられる巻巻(まいまい)井戸の可能性もあったが、その遺構を確認できていない。整備では、検出した井戸内側斜面を保護するため植栽(リュウノヒゲ等)し、見学通路として井戸の中に至る戒壇を北側に設けた。
なお、北西100mの帯廓にも井戸跡とみられる同様の形状の窪地がある。
(文化庁・山梨県教育委員会・韮崎市教育委員会設置の案内板から・平成23年)
<参考資料> 史跡 新府城跡
新府城は武田勝頼によって天正九年(一五八一年)二月に築城着手され、その完成したのは同年十二月であった。それまで甲府躑躅崎の館城になった勝頼は四囲の情勢から考えてこの天険を利用する以外に方策がなかったのである。しかし時すでに遅く天正十年三月三日織田軍の侵攻を前に自ら城を焼いて東方、郡内領岩殿城を指して落ちた悲劇の城跡である。本郭は南北六〇〇米、東西五五丸米、外堀の水準と本丸の標高差八〇米、型式は平山城で、石垣は用いない。最高所は本丸で、東西九〇米、南北一二〇米、本丸の西に「シトミの構え」を隔てて二之丸があり大手に続く。堀は北西から北、北東へ巡り、北方の高地からの敵襲に備えて、十字砲火を浴びせるための堅固な二ヶ所の「出構え」が築かれている。「シトミの構え」、「出構え」は新府城の特色で防御のために工夫されたもので特に「出構え」が鉄砲のような新鋭兵器を持って敵の攻撃に対抗するために工夫された構えといわれている。
武田氏の系図
甲斐源氏の祖、源義光の第三子義清は市河荘司として甲斐に土着した。その子清光は八ヶ岳山麓の大八幡・熱那・多摩の三荘を掌握し、逸見一帯を甲斐源氏の本拠とした。その子太郎信義は武田の荘(韮崎市神山町武田)にあって、初めて武田を名乗り、武田の氏祖となる。
清和天皇-貞純親王-源経基-満仲-頼信-頼義-(義家・義光)
義家(八幡太郎)
義光(新羅三郎)-義清-清光-信義(武田の氏祖)-信光-信政-信時-時綱-信宗-信武-(信成・氏信)
信成(甲斐源氏)-信春-信満-信重-信守-信昌-信縄-信虎-
氏信(安芸源氏)
晴信(信玄)-勝頼-信勝
天正十年三月(一五八二)、信玄の第四子武田勝頼、信勝の父子は天目山に滝川一益と戦い、父子自殺し武田の歴史が終わる。
(案内板から)
<参考資料> 史跡 新府城跡
新府城は、天正十年三月織田軍の侵攻を前に、武田勝頼が自ら火を放って東方郡内領岩殿城を指して落ちていった武田氏滅亡の歴史を伝える悲劇の城跡である。
本城は南北六〇〇メートル、東西五五〇メートル、外堀の水準と本丸の標高差八〇メートル。型式は平山城で、近世城郭のような石垣は用いず、高さ約二・五メートルの土塁を巡らしている。
最高所は本丸で、東西九〇メートル、南北一二〇メートル、本丸の西に蔀の構えを隔てて二の丸があり馬出しに続く。本丸の東に稲荷曲輪(いなりくるわ)、二の丸を北方に下れば横矢掛りの防塁があり、その外側に堀を巡らしている。堀は北西から北、北東へと巡り、北方の高地からの敵襲に備えて十字砲火を浴びせるための堅固な二ヶ所の出構が築かれている。三の丸の南方には大手が開け望楼があり、三日月形の堀とその外側に馬出しの土塁が設けてある。本丸と東西三の丸、三の丸と大手等の間には、帯曲輪、腰曲輪がある。搦手にも望楼がある、蔀の構、出構は新府城の特色で防御のために工夫されたもので、特に出構は鉄砲のような新鋭兵器を持って敵の攻撃に対抗するために工夫された構えといわれている。
(文化庁・山梨県教育委員会・韮崎市教育委員会設置の案内板から・昭和60年)
<参考資料> 石祠・武田勝頼公霊社
勝頼公霊社は、武田氏滅亡後当地方民が国主の恩徳を追慕し新府城守護神・藤武神社の北西の地を相して石祠を建立し、勝頼公の心霊を納め之を祀り勝頼神社と称し 毎年卒去の当日は慰霊祭を執り行い「お新府さん」と呼び藤武神社とともに地元民から親しまれてきた。
勝頼神社建立の時期は、貞享、元禄(一六八四年)の頃と言い伝えられている。
(新府藤武神社氏子総代設置の案内板から)
新府城跡(南) | |
南大手門桝形虎口跡 | |
大手門虎口跡 | 三日月堀跡 |
<参考資料> 国史跡 新府城跡
新府城は、正式には新府中韮崎城といい、天正九年(一五八一)春、武田勝頼が甲斐府中ろして、城地を七里岩南端韮崎の要害に相し、武将真田昌幸に命じて築かせた平山城である。勝頼がこの地に築城を決意したのは、織田信長の甲斐侵攻に備え、韮崎に広大な新式の城郭を構えて府中を移し、これに拠って強敵を撃退し、退勢の挽回を期した結果であろう。築城工事は昼夜兼行で行われ、着工後八ヶ月余りで竣工した。ついで城下町も整ったので、新府韮崎城と名づけ、同年十二月、甲府からここに移り、新体制を布いたのであった。しかし戦局は日に悪化して翌年三月、勝頼は織田軍の侵入を待たず、みずからこの城に火を放って退去するのやむなきに至り、天目山田野の里に滅亡の日を迎えたのであった。廃墟と化したこの城も、同年六月本能寺の変で織田信長が亡び、徳川・北条両氏が甲州の覇権を争うと、家康はこの城跡を修復して本陣とし、われに五倍する兵を率いて若神子に布陣する北条氏直を翻弄して有利に導き名城新府の真価を発揮したのである。この城は八ヶ岳火山の泥流による七里岩の上にあり、その地形をよく生かして築かれたその城地の特色は城外から俯瞰されないことで縄張りの特徴は北方に東西二基の出構を築き、鉄砲陣地とした点で、従来の城郭は、頂上の本丸を中心に西に二の丸、南の三の丸、大手、三日月堀、馬出、北に出構、搦手口、東に稲荷曲輪、帯曲輪があり北から東に堀が繞らされている。史跡指定区域は約二〇ヘクタールに及ぶ広大なものであるが、この外側には部将らに屋敷跡と伝えられる遺構・遺跡が散在している。
(文化庁・山梨県教育委員会・韮崎市・韮崎市教育委員会・韮崎市観光協会設置の案内板から・昭和59年)
能見城と周辺について
<参考資料>
守屋一族発祥の地
往時此ノ附近ハ武田信玄之家臣守屋親兵衛尉定知ノ守護シ来リシ地域也
此ノ風光明媚ナル勝地ハ萬民等シク賞嘆シ垂涎措ク能ハサリシ處咬龍ハ永ク池中ノ者タラス茲ニ特機到来シ萬民ノ福祉高揚ノ為吾等氏子相謀テ神域開放ノ擧ニ贊スルニ至ル
希ハ神霊此挙ヲ嘉納シ守護神トシテ本土ノ繁栄ニ未来永劫ニ神徳灼方ニ萬劫ノ鎮護ノ御手ヲ垂レ給フコトヲ茲ニ能見城氏神域変革ノ経緯ヲ記シ本碑ヲ建立ス
(氏代表 守屋逸男氏による碑文から・昭和卅五年)
<参考資料>
中世の豪族 穴山氏紹介
武田氏と穴山氏の系図
清和天皇-貞純親王-源経基-満仲-頼信-頼義-(義家・義光)
義家(八幡太郎)
義光(新羅三郎)-義清-清光-信義(武田の氏祖)-信光-信政-信時-時綱-信宗-信武-(信成・氏信・義武)
<武田家>信成(甲斐源氏)-信春-信満-信重-信守-信昌-信縄-信虎-晴信(信玄)-勝頼-信勝
氏信(安芸源氏)
<穴山家>義武(1代)-満春(2代・武田家13代信満と兄弟)-信介(3代・武田家15代信守と兄弟)-信懸(4代)-信綱(5代)-信友(6代)-信君(7代梅雪・信友と晴信の姉である南松院との子供)-勝千代(8代・梅雪と晴信の娘である見性院の子供)
※穴山信君(梅雪)は武田晴信(信玄)の甥、勝頼とは従兄弟の関係
系図解説
穴山氏初代、二代は穴山に居館を置き峡北地方一帯に版図を拡大す。
三代から河内(南巨摩郡)に移る。六代信友の妻は、晴信(武田信玄)の姉、七代信君(穴山梅雪)の妻は、晴信の娘で、武田氏と婚姻関係にあり、本姓 武田、在名 穴山と称す。
穴山氏の史蹟
居館(穴山氏の宅地)
甲斐国誌に「次第 窪、重久ノ間、敷場ト言処ニ東西四町、南北三町ノ地」
氏神(若宮八幡 源氏の守神)
甲斐国誌に「穴山村重久組ニアリ 除地百三拾ニ坪、旅所、桟敷ノ地名アリ」
穴山氏の墓(穴山町久保区)
大竜山 満福寺の境内にあり、昭和五十四年 韮崎市より文化財に指定
詰城
記録には明らかでないが能見城と言われている。
(ふる里創生事業実行委員会設置の案内板から・平成5年)
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