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140720_0954_春日山城跡・上杉謙信銅像(新潟県上越市)
上杉謙信公銅像

新潟県上越市春日山(地図)に、南北朝時代、越後国守護の上杉氏が築いたとされる山城( Wikipedia )。国指定史跡・日本百名城。
永正4年(1507)に起きた永正の乱で越後守護だった上杉房能( Wikipedia )を追放した後は、守護代の長尾為景が城主となりました。
永正の乱の後、関東管領であった上杉顕定が越後へ入り、長尾為景と上杉定実を追放させ国内の安定を図りますが、勢いを盛り返した為景・定実の軍により永正7年(1510)、長森原の戦い( Wikipedia )で敗死。戦後、為景と不和となった定実は春日山城を占拠し抵抗を続け守護としての権威維持を目指すものの失敗し、後は為景隠居後に跡を継いだ長尾晴景の弟・景虎(上杉謙信)に協力することになります。
天文17年(1548)、長尾景虎が兄の長尾晴景から家督を継いだ入城。天正6年に謙信が急死した後に発生した御館の乱( Wikipedia )において、上杉景虎( Wikipedia )を制した上杉景勝( Wikipedia )が入城し、群雄割拠する戦国時代を乗り切りますが、慶長3年(1598)、豊臣秀吉の命により会津へ転封。春日山城には越前北ノ庄から移ってきた堀秀治( Wikipedia )が入城します。
秀治は城内の普請や領地経営に努めますが、山城であった春日山城では不便であったことから新たに福嶋城の築城を計画。慶長12年(1607)、秀治の跡を継いだ忠俊( Wikipedia )が居城を福嶋城に移し、春日山城は廃城となりました。
(写真:新潟県上越市の春日山城跡=平成26年7月20日午前撮影、640×480拡大可能)

<管理人ひとこと>
140720_0957_春日山城跡・案内図(新潟県上越市)
春日山城 案内図
春日山城の見学は謙信公銅像前または春日山神社から本丸(天守台・大井戸)を巡り、二の丸・三の丸(米蔵・三郎景虎屋敷)を経て、出発地点の謙信公銅像に戻るコースが標準のようです。(参考:上越市HP
それぞれの郭をめぐる遊歩道が整備されていますが、山城特有の勾配もあり、夏ならば汗をかきかき、ぐるり歩いて所要時間は2~3時間程度といったところでしょうか。
春日山神社前の駐車場に車を停め、境内に続く石段を上がっても見学コースと合流しますので、春日山城へのお出かけにはこちらの利用をおススメします。

<参考HP>
・ 上越市ホームページ
  http://www.city.joetsu.niigata.jp/
・ 越後上越 上杉おもてなし武将隊
  http://www.uesugi-busyotai.com/


春日山城跡
140720_0858_春日山神社(新潟県上越市) 140720_0909_春日山城跡・お屋敷跡(新潟県上越市)
春日山神社 お屋敷址
140720_0911_春日山城跡(新潟県上越市) 140720_0914_春日山城跡・千貫門跡(新潟県上越市)
遊歩道 千貫門址
140720_0914_春日山城跡・上杉少弼入道宅址(新潟県上越市) 140720_0917_春日山城跡・虎口跡(新潟県上越市)
上杉少弼入道宅址 春日山城 虎口跡
140720_0919_春日山城跡・直江山城守宅址(新潟県上越市) 140720_0922_春日山城跡・毘沙門堂(新潟県上越市)
直江山城守宅址 毘沙門堂
140720_0932_春日山城跡・本丸跡(新潟県上越市) 140720_0933_春日山城跡・天守閣跡(新潟県上越市)
春日山城 本丸跡 天守閣址
140720_0941_春日山城跡・井戸曲輪跡(新潟県上越市) 140720_0940_春日山城跡・井戸曲輪にある「油流し」跡(新潟県上越市)
井戸曲輪跡 井戸曲輪の「油流し」
140720_0944_春日山城跡・二ノ丸跡(新潟県上越市) 140720_0932_春日山城跡・本丸跡から二ノ丸跡を望む(新潟県上越市)
春日山城 二の丸跡 本丸から二の丸を望む
140720_0946_春日山城跡・米蔵跡(新潟県上越市) 140720_0948_春日山城跡・上杉三郎宅址(新潟県上越市)
米蔵跡に残る土塁 上杉三郎宅址

<参考資料> 春日山城
上杉謙信公の居城として知られる春日山城は、今から約六百年程前の南北朝時代に築かれ、越後府中を守る拠点であった。
その後、謙信公の父為景公・謙信公・景勝公の三代にわたり普請に努め、現在見られるような大城郭になったと考えられている。
春日山城の特徴は、山頂の本丸跡から山裾まで連続する屋敷跡群と、裾野に巡らされた総延長千二百メートルの総構え(通称監物堀)である。
関東管領として、関東・北陸に覇を唱えた戦国大名の居城にふさわしい大城郭といえる。なお、この辺り(※上杉謙信公銅像周辺)は、かつて空堀が掘られていた。

<参考資料> 千貫門(せんかんもん)跡
春日山城の古地図に必ず描かれている門が千貫門である。それは、この門が古くから知られていたことを物語っている。
今でも門が建っていたと考えられる部分のみ、土塁が分断されていて、春日神社側からクランク状の道がここに通じている。
三方が土塁と土手に囲まれ、左に二本、一見道と思われる切通しがある。じつは、これは空掘の底で、侵入者を空掘から急峻な崖下に落そうとしたものであろう。
周到に計画された普請は、本丸と千貫門の外とを区画する重要な拠点であったことをうかがわせる。

<参考資料> 空掘
ここは通称搦手(からめて)、あるいは附内口で、春日山神社の郭をへて謙信の銅像の裏から登る道がここに通じています。それをたち切るのがこの空掘で、平素は橋がかかっていました。

<参考資料> 虎口(こぐち)
城に入る玄関にあたる所を「虎口」といいます。この虎口は、敵が城内に直進できなくするため、食違いになるよう工夫されています。春日山城は、謙信の頃に拡大され、壮大な城郭になったと考えられていますが、かつてここまでが城の範囲であったと推測されます。

<参考資料> 直江屋敷
上杉家の重臣直江家の屋敷跡と伝えられ、お花畑から千貫門までの間に上下三段の郭が造られています。現在は遊歩道があって使われなくなっていますが、郭と郭をつなぐ古道も残っています。
直江家は上杉謙信の父為景の代から重臣として仕え、山城守兼続は謙信の跡目を継いだ景勝の家老として活躍したことがよく知られています。景勝が会津へ国替えになったときに同行し、米沢藩三〇万石の城主となったことでもその活躍がしのばれます。

<参考資料> 毘沙門堂
この御堂には謙信公の信仰された毘沙門天の尊像(青銅製、約五〇センチ)が安置されています。尊像は景勝公のとき会津を経て米沢に移りましたが、嘉永二年の火災で傷みました。昭和三年に第十五代上杉憲章氏が東京美術学校に修理を依頼され、名匠高村光雲先生が一年余を費して修理いたしました。
そのさい先生は御分身をつくり、尊像の欠け損じたのをおなかに入れて同五年三月に完成し、当市(当時春日村)に寄進されました。
翌六年十一月んい、昔の堂跡にこの祠堂を建て奉安したのであります。
毘沙門天は悪魔を降ろす神です。謙信公は自らの軍を降魔の軍とみなし、毘の字の旗を陣頭にかざし、また事あるときはこの堂前で諸将に誓を立てさせました。毘沙門天は四天王のうち、北方を守る多聞天でもありました。
この尊像は多聞天のお姿です。公は王城の北方を守る意気をもっていたものと思われます。

<参考資料> 護摩堂
謙信が出陣前に毘沙門堂に籠ったことはよく知られていますが、戦勝や息災を祈祷したのが護摩堂です。護摩の修法(すほう)は、毘沙門天の信仰とともに謙信が真言密教を深く信仰していたことを如実に物語っています。

<参考資料> 本丸
南隣の天守台とともに春日山城の「お天上」と呼ばれた所です。標高一八〇mの本丸からは、かつて越後府中(直江津)と周辺の山々の支城跡や日本海が一望できます。
関川右岸に広がる、林に囲まれた村落が点在する風景は、慶長二年(一五九七)の「越後国絵図」に描かれた中世の景観とほとんど変わりません。関川の手前を手でかくして見てください。

<参考資料> 井戸曲輪
廃城後四百年の星霜を経て、今なお満々と水をたたえる大井戸は、春日山城が山城として最適の地に造られていることを教えてくれる。城の古地図にもここだけが井(※○に井)と、井戸があることを示しており、古くから注目されていたことがわかる。
どのようにして、水が湧く地点を調べたか定かではないが、地質学的には、西方の山々と礫層でつながっていて、サイフォンの原理が仂いて、水が湧くとのことである。
なお、数十年前に井戸さらいが行われ、滑車や杓などがみつかっている。

<参考資料> 油流し
本丸の西斜面は人の侵入を拒んでいるような急斜面となっていて「油流し」と呼ばれています。あまりの急斜面で滑ってしまうことから、油を流した時のように滑りやすい斜面の意味で名付けられたのかもしれません。

<参考資料> 二の丸屋敷
本丸から毘沙門堂を経てお花畑に至る実城と呼ばれる郭群の東裾を取り巻くように造られた郭で、実城とともに春日山城の中心地区を成しています。本丸の直下にあって、本丸を帯状に囲っている様子は、まさに本丸の警護として造作されたことを示すものと考えられます。
古地図には、「御二階」「台所」と記されたものもあり、現在も笹井戸といわれる井戸跡が残っていることも、当時の二の丸における生活を知る手掛かりとなっています。

<参考資料> 土塁
春日山城内で最も良好に残っている土塁跡です。郭を普請する際、削平したときに出た土を盛り堅め、防御の役割を果たしました。当時は、各郭にこのような土塁が築かれ、春日山城の守備をいっそう強固にしていたと想像されます。(米蔵址)

<参考資料> 三の丸屋敷跡
春日山では最も良好な状態で土塁が残る「米蔵跡」、謙信公が自らの名を与え住まわせた養子「三郎景虎屋敷跡」などを総称して「三の丸屋敷跡」と呼ぶ。それぞれの屋敷は段違いに造られて区分され、「景虎屋敷跡」の東端に入口が設けられ、今も道が残っている。
「米蔵跡」の名が示すように、城機能の中核施設が置かれた場所と考えられている。
三郎景虎公は、謙信公の死後に起こった「御館の乱」で敗れ、悲運の死を遂げた。公を慕って屋敷跡を訪れる人も多く、今、春日山城の中で最も注目を集めている所である。

<参考資料> 上杉三郎景虎屋敷
上杉謙信の死後、跡目を争った「御館の乱」で破れた悲劇の武将三郎景虎。小田原城主北条氏康の子で、人質として春日山城に来ました。謙信から景虎の名を与えられたことでも、人質としては破格の待遇であったことがわかります。また、美男として伝えられています。
跡目争いでは越後国外からの人質であったためか次第に援助の武将も離れ、最後は自害して一生を終えました。小説「炎の蜃気楼」で現代に蘇った景虎が美しい男性として描かれ人気を博しています。近年、春日山城で最も賑わいを見せている郭の一つです。





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